2025年2月2日 主日礼拝説教「十字架につけられた王」 東野尚志牧師
イザヤ書 第9章5~6節
ヨハネによる福音書 第19章16b~22節
先週の金曜日、同じ北支区内にある石神井教会を訪ねました。東京神学大学の働きを支える、東京北地区後援会の委員会に出席するためでした。池袋から西部池袋線に乗って石神井公園駅で降りました。急行に乗れば、池袋から10分ほどの便利なところです。駅を中心にいろんな商業施設が集まっていて、近くの商店街も賑わっていました。天気の良い日で、少し回り道をして石神井公園の中を散歩しました。細長い池に沿った遊歩道を、家族連れや年配のご夫婦、子どもたちが散歩していて、とても活気がありました。教会はバス通りに面していて、人通りもあり、入りやすい開かれた雰囲気の建物でした。駅から歩いても10分ちょっと、とても良い場所に教会があり、その場所に教会を建てた先人の伝道の意欲を感じました。
東京北地区後援会は、東京教区の北支区全体をカバーしています。北支区は、練馬区、板橋区、北区、豊島区、文京区、新宿区、中野区の一部にある48の教会・伝道所からなります。東京北地区後援会と言っても、委員は私を入れて3人です。10月第2主日の「神学校日のつどい」の計画を中心にして、同じ北支区内にある教会をお訪ねしながら、神学校を支える交わりを広げて行こうとしているのです。石神井教会の牧師は、まだ50代半ばですけれども、私たち夫婦が鎌倉雪ノ下教会にいた頃、同じ神奈川教区の藤沢教会にやはり夫婦で仕えていた人で、当時はほとんど接点がなかったのですけれど、同じ神奈川教区にいたことで、共通の話題も多く、話がよく通じます。
そんな中で、教会から神学校に送り出した献身者の話になりました。教会にとって、受洗者が与えられることは何よりも大きな喜びですけれども、伝道者になる志を与えられ、神学校に行く人が生まれることもまた大きな喜びです。ただし、その人はやがて神学校を卒業したら、どこかの教会へ遣わされて行くわけです。教会としては、大事な働き人を送り出すことになります。それは、うれしいことであると同時にさびしさを覚える時でもある。教会から伝道者を送り出すとき、一番に願うことは、その人が神さまの召しに応えて、生涯、キリストと教会に仕える献身者としての歩みを続けてくれることです。福音を宣べ伝え、教会を造り上げていく働きに力を尽くして欲しい、そう願って祈りをもって送り出すのです。
この話題の中で、石神井教会の牧師は、こんなことを言いました。もちろん、遣わされた教会を愛し、教会員を愛して、しっかり教会に仕えてもらいたい。そう祈って送り出す。けれども、もしも、何か大きなつまずきがあって、もうどうしても、牧師の働きを続けられないとなったら、迷わず帰って来なさい。居場所がないと思ったら、この教会に帰って来なさい、あなた送り出すこの教会は、あなたがいつでも戻って来られる場所なんだ、そう言って送り出した、というのです。私はそれを聞いて、心打たれました。その教師、藤沢教会にいた頃は、まだ30代、40代であったと思います。その若さで、何と深い思いやりに満ちた言葉を語るのか、と思って、感銘を受けたのです。それは親心と言ってよいと思います。
私たちは、励ましの言葉はよく口にします。けれども、過ちを犯したり、挫折を味わったりしたとき、そういう励ましの言葉がかえって重荷に思えてしまうかもしれません。祈って送り出してくれた教会に、もう顔向けできないと思ってしまうのです。合わせる顔がないと思う。行く場所も帰る場所もなくなって、消えてしまう人が少なくありません。キリスト教界からいなくなり、信仰を無くしてしまうこともある。これから伝道者としての歩みを始めようとする人に、つまずいたときのことを話すなんて、縁起でもないと思う人がいるかもしれません。けれども、それは、伝道者のことだけではないのだと思います。私たち信仰者にとって、いつでも帰ることのできる場所があるというのは本当に幸せなことではないでしょうか。何があっても受け入れてくれる交わりがあるというのは、心強いことではないでしょうか。いつも身構えて、弱みを見せないように、余所行きの顔で過ごさなければならないとしたら疲れてしまいます。もちろん、甘えて良いということではありません。けれども、教会には赦しがあるということを忘れてはならないのだと思います。赦しがあるからこそ、自分の弱さや罪を認めて、立ち帰ることができるのです。
教会には赦しがあります。教会の主は、十字架の主だからです。主イエスは、私たちの弱さも、罪もすべて引き受けて、十字架にかかってくださいました。すべてをご存じの上で、全く無条件で、あるがままの私たちを受け入れてくださり、赦してくださったのです。だからこそ、3度も主を知らないと言って、主との関わりを自分の方から否定してしまったペトロでさえも赦され、立ち直ることができました。教会が、本当に、十字架のキリストのもとに立っているならば、お互いに裁き合い、非難し合い、傷つけ合ったままでいることはできないはずです。そんな居心地の悪いことはありません。主の赦しにあずかり、赦された者として生きるとき、私たちは、お互いにも赦し合い、受け入れ合い、認め合い、キリストの十字架のもとで和解することができるようになるのです。本心を隠して、上辺だけ良い顔をするのではなくて、心から赦し合うことのできる場所、それが十字架のもとにある教会です。妬みや恨みや憎しみもすべて十字架にかけて、キリストの愛と赦しによって結び合わされるのです。
この後で歌う讃美歌第2編の185番の歌詞にはこうあります。「カルバリ山の 十字架につき、イエスはとうとき 血しおを流し、すくいのみちを ひらきたまえり、主イエスの十字架 わがためなり」、そして、繰り返します。「十字架、十字架、主イエスの十字架、わがためなり」。主イエスの十字架、わがためなり。主イエスの十字架の死は、私の赦しのためであった。そのことを深く味わい知った人は、もうひとつの言葉を合わせて心に刻むことができます。使徒パウロは言いました。「このきょうだいのためにも、キリストは死んでくださったのです」(1コリント8章11節)。私のために十字架にかかってくださった主イエスは、この兄弟、この姉妹のためにも十字架にかかって死んでくださったのだ。十字架の主によって、自分自身が赦され、受け入れられているからこそ、十字架の主のもとで、どのような対立や恨みがあったとしても、互いに赦し合い、受け入れ合い、和解することができる。もしも、赦すことができないとしたら、和解することができないとしたら、そこには十字架がない、十字架の主が本当には仰がれていない、ということではないかと思います。まず何よりも、十字架の主のもとに立ち帰ることから始める必要があるのです。
福音書記者ヨハネは、主イエスが十字架にかけられる場面を、淡々と描いていきます。それだけに、主の十字架の意味を深く思うことができるのかもしれません。鞭打たれ、傷ついた主のお姿をあまりにもリアルに描くことで、私たちが主のおいたわしさに心を奪われてしまって、十字架の意味を捉え損なうことのないようにしているのです。実は、ヨハネによる福音書全体の中で、「十字架」という言葉は17回出てくるのですけれども、それはすべて、この第19章にあります。主イエスは、ユダヤの掟に従って石打ちの刑にされたのではなくて、ローマの裁きによって十字架刑に処せられました。19章に至るまでは、「上げられる」という言葉で、十字架に上げられることと、復活して天に上げられることを重ね合わせるように描いてきました。しかし、第19章においては、はっきり「十字架」という言葉を用いて、私たちの罪を赦すために、贖いの死を遂げられた主のお姿を描くのです。
「こうして、人々はイエスを引き取った」。今日の箇所は、この言葉から始まります。段落で区切られてはいますけれど、16節の前半から続いています。「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを人々に引き渡した。こうして、人々はイエスを引き取った」。ここには、主イエスを引き渡されて、主イエスを引き取った人々が登場します。いったい、この「人々」というのは誰を指しているのでしょうか。話の流れからすれば、主イエスを訴え出た祭司長たちということになります。ピラトは主イエスに十字架刑を言い渡して、祭司長たちに引き渡し、祭司長たちは主イエスを引き取ったのです。ユダヤ人たちは、ここまで、自分たちの手で主イエスを裁くために引き取ることは拒み続けて来ました。ローマの支配下にある自分たちには、人を死刑にする権限がないというのが表向きの理由です。でも本当のところは、自分たちの手を汚したくないという思いがあったのではないでしょうか。主イエスに好意を寄せている民衆の恨みを買いたくなかったのです。だから、ピラトが十字架刑を言い渡してくれたら、あっさりと主イエスを引き取ります。十字架に引き渡すために引き取ったのです。
引き渡すとか引き取るというと、まるで荷物の受け渡しをしているような言葉づかいです。実際、死刑の宣告をされた者は、刑を執行する者たちに引き渡され、処刑場に連れて行かれることになります。自分の意志で行くわけではありません。むしろ、本人の意志に反して、無理矢理連れて行かれるのです。ところが、ヨハネの福音書においては、引き渡す、引き取るという言葉を用いながらも、そこに、はっきりと主イエスの意志があったことを証ししています。17節をご覧ください。「イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」。「されこうべ」というのは、頭蓋骨のことです。ヘブライ語では「ゴルゴタ」というとありますが、後にローマの教会で用いられるようになるラテン語では頭蓋骨を意味する「カルヴァリア」という言葉で訳されています。それが英語の「カルヴァリー(カルバリ)」という言葉になりました。小高い丘の形が頭蓋骨に似ていたとも言われますし、処刑場として用いられたので、そういう呼び名になったのかもしれません。いずれにしても、ここで、主イエスは、ご自身が十字架につけられる処刑場に向かって、「自ら」十字架を背負って行かれたというのです。ヨハネは、わざわざ「自ら」という言葉を付け加えて、主イエスがご自分の意志で、十字架を背負って行かれたと記すのです。
昔の映画を見ると、主イエスが、十字の形に組まれた木の十字架を背負って、引きずるように処刑場へと追い立てられるような描き方をしたものが多かったと思います。けれども、最近の映画では、いろいろな資料を確かめのことだと思いますが、十字架の横木だけを担いだように描かれるものが多くなりました。十字架の縦の棒は既に処刑場に立ててあって、受刑者は横木だけを背負わされて、都のすぐ近くの処刑場まで歩かされるのです。マタイやマルコ、ルカの福音書を見ると、十字架刑を言い渡された後、鞭で打たれて傷だらけになり、ふらふらになった主イエスが十字架を引きずるように進みながら、ついその重みに耐えかねて、途中で倒れてしまわれように描かれています。すると、たまたま田舎から出て来ていたキレネ人のシモンが、主イエスに代わって十字架を背負わされた、と記すのです。ところが、ヨハネは、そのよく知られたエピソードを知っていたはずですけれども、自分の福音書には記しません。主イエスが、自ら、ご自分で十字架を背負って歩まれ、ゴルゴタと呼ばれる処刑場へ向かわれたと語ります。主イエスは、十字架の苦しみのすべてをご自身で引き受けてくださった、そのように描くのです。十字架の重みは罪の重みです。主はその重みをすべて担ってくださいました。主イエスは、私たちの救いのために、自ら十字架を背負い、その命を献げてくださいます。ヨハネは、「世の罪を贖う取り除く神の小羊」として、主の十字架のお姿を仰がせようとするのです。
処刑場のゴルゴタにたどり着いた後のことも、ヨハネは淡々と記します。18節「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人を、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた」。ここで「彼ら」と呼ばれているのは、兵士たちを指すのだと思います。けれども、用いられているのは、16節で「人々」と訳されていたのと同じ代名詞です。確かに、実際に、主イエスを真ん中にして、二人の犯罪人も一緒に十字架につけたのはローマの兵士たちです。けれども、主イエスを十字架につけることを望み、総督ピラトを脅迫するようにして、十字架刑を決めさせたのは祭司長たち、ユダヤ人たちでした。特定の主語を記さないで、代名詞を用いたのは、誰でも、ここに当てはまると考えたからかもしれません。私たちは関係ない、ローマの兵士がやった、ユダヤ人がやった、というのではありません。私たちの罪が、主イエスを十字架につけたのです。私たちも、主イエスを十字架につける側にいたかもしれない。いやそこにいたのです。
ピラトは、主イエスの十字架に罪状書きを掲げます。19節「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった」。ピラトは、ローマの権力をも恐れない、主イエスの毅然とした態度に、逆に恐れを抱いたのだと思います。それを打ち消すために、徹底的に主イエスを蔑むのです。鞭打たれ、嘲られ、茨の冠をかぶせられ、十字架にかけられた男を「ユダヤ人の王」と呼んだのです。「罪状書き」と訳されているのは、「ティトゥロス」というギリシア語で、これが英語の「タイトル」の語源になりました。タイトル、つまり、称号です。さんざん痛めつけられて十字架にかけられた、こんな惨めな男が「ユダヤ人の王」だと言ったのです。普段から鼻持ちならないユダヤ人を蔑む思いもあったのでしょう。ピラトの精一杯の皮肉です。それを見たユダヤ人たちが、いやいや、こんなのは本当の「ユダヤ人の王」ではない、自分でそう言っていただけだと言って、「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」というふうにタイトルを書き換えるように求めました。けれども、ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と言って、ユダヤ人たちの言いなりになることを拒みました。ぎりぎりのところで、自分の権威を守ろうとしたのです。
「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」。そこには、いろんな思いが絡みついていたかもしれません。けれども、はからずも、主イエスの真実を証しすることになりました。ユダヤ人の王としてお生まれになった方、ユダヤ人の王である方が、全世界の救い主として十字架に上げられるのです。しかも、このタイトルは、すべての人に読めるように3つの言葉で記されたと言います。ヘブライ語はユダヤ人の言語です。ラテン語はローマの言葉です。そして、ギリシア語は当時の地中海世界の公用語です。つまり、全世界に向けて、ナザレ出身のイエスという男がユダヤ人の王であると宣言したのです。十字架刑というのは、ローマの権力に逆らった者に対する見せしめの厳しい刑罰でした。それゆえ、都の近くの人通りの多い場所にさらされたのだと言われます。その場を通りがかった人たちは、それぞれ自分たちの言葉で、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれたタイトルを読んだのです。このお方こそ、私たちのまことの王、私たちを罪の支配から解放して、赦しと命にあずからせるため、ご自身の命を捨ててくださった救い主。私たちは、この王の前に集い、この王にひれ伏し、この王のもとで和解と平和を実現させていただくのです。
いにしえの預言者は、告げました。「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。主権がその肩にあり、その名は『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し、平和には終わりがない。ダビデの王座とその王国は 公正と正義によって立てられ、支えられる 今より、とこしえに。万軍の主の熱情がこれを成し遂げる」(イザヤ9章5~6節)。ここにも、救い主のタイトルが掲げられています。イザヤの預言は、「ユダヤ人の王」としてお生まれになったお方によって実現しました。ダビデの子孫としてお生まれになり、まことの王として神の支配を貫いてくださるお方によって、地に和解と平和が実現されるのです。
十字架において、和解と平和が成し遂げられました。十字架には赦しがあります。だからこそ、私たちはいつでも、十字架のもとに立ち帰ることができるのです。大きな挫折を味わい、自分自身の罪の重荷に耐えかねるときも、十字架のもとですべての重荷を下ろすことができます。私たちが、いつでも立ち帰ることのできる場所、何があっても、私たちから奪われることのない居場所、赦しと慰めと癒やしの備えられた十字架のもとで、真実の安らぎを得るのです。ひとの目を恐れる必要はありません。主が赦してくださり、受け入れてくださる。自らのこととしてその恵みを味わわせていただいた者は、主にある赦しと和解の力にあずかります。この世界に和解と平和を造り出すために、祈り、仕える者とされるのです。