2025年2月16日 主日礼拝説教「実現する神の言葉」 東野尚志牧師

詩編 第22編1~19節
ヨハネによる福音書 第19章16b~27節

 先週の日曜日は、同じ北支区内にある王子教会に出かけて、教会を留守にしました。北支区の教師部が作成した組み合わせに従って、講壇交換を行ったのです。私は王子教会の講壇に立ち、この場所には、王子教会の牧師がお立ちになりました。礼拝は、一回抜けると2週間ぶりということになります。半月過ぎてしまうことになるわけです。今朝、ここに立つのもずいぶん久しぶりのような気がしました。司式の手順を間違えないか、気になって緊張しました。けれども、講壇に立って、親しい顔ぶれがいつもと同じ場所に見えると、何となくホッとします。滝野川教会に帰ってきた、という思いを抱きます。自分の教会と呼べる教会があり、たとえ一時的に離れても、帰るべき場所があるのは、さいわいなことだと感じています。
 この朝、共に礼拝に連なる皆さまお一人お一人にとって、この教会が自分の帰るべき場所、帰るべき家として覚えられているならば、本当にさいわいなことと思います。七日ごとに、礼拝へと帰ってくることで、日常生活のリズムが整えられるようにと願います。主の日から主の日へ、礼拝から礼拝へと導かれる中で、私たちの日々の生活は、天からつながれた信仰生活になります。教会生活というのは、日曜日だけの生活を指しているのではありません。教会を通して、主イエス・キリストにしっかりと結ばれた者として、天に国籍を持つ者として、この地上で生きていくのです。その生活のすべてが教会につながる生活、つまり教会生活です。やがて主のもとに召される日まで、皆さまお一人びとり、キリストの体である教会の部分、ひと肢として、教会につながり続けていていただきたいと願っています。さまざまな事情で、一時的に教会から離れることがあったとしても、ここが自分の家であり、帰るべき場所であることを、心に体に、しっかりと刻んでいただきたいのです。

 私がここに立つときには、ヨハネによる福音書を読み続けています。特に、ここのところは、主イエスの受難の物語、十字架の場面を読んでいます。先週の講壇交換の礼拝をはさんで、2週前の礼拝においては、第19章16節後半から22節までを読みました。ローマの総督ポンティオ・ピラトの裁きによって、十字架刑を宣告された主イエスは、十字架につけられるため、人々に引き渡されました。人々は主イエスを十字架につけるために引き取ったのです。けれども、ヨハネによる福音書は、主イエスが無理矢理、強制されて、というのではなくて、むしろ、自らの意志で十字架を背負って、されこうべの場所、すなわち、処刑場として知られるゴルゴタの丘に向かって行かれたように描いています。主イエスは、「世の罪を取り除く神の小羊」として、ご自分の命を犠牲にして、罪の贖いを成し遂げようとされたのです。
 ゴルゴタの丘に着くと、そこで人々は、主イエスを十字架につけました。主イエスを真ん中にして2人の犯罪人も一緒に十字架につけました。ゴルゴタの丘に3本の十字架が立ったのです。その真ん中、主イエスの十字架には、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられました。それは、ユダヤ人の言いなりになって、十字架刑を言い渡さざるを得なくされたピラトのせめてもの皮肉であったかもしれません。ユダヤ人たちが、自分たちの王はローマの皇帝だけだと言って、ユダヤ人の王と自称したというふうに書き換えることを迫ったのに対して、ピラトはその求めを退けました。主イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだと言われます。しかも、ピラトはそれを、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書いたのです。言わば、全世界の民に向けて、十字架につけられたナザレのイエスこそは、ユダヤ人の王であると告知する役割を果たすことになりました。ピラト自身の思いを超えて、このお方こそは、待ち望まれた救い主、メシアであることが全世界に宣言されたのです。

 2週前の礼拝においては、ここまで読みました。今日は、ここまでの流れを踏まえた上で、23節以下を続けて味わっていきたいと思います。ヨハネは、主イエスが十字架につけられたその足元で、何が起こっていたかを記しています。「兵士たちはイエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした」。ここには、「イエスを十字架につけてから」とだけ記されていて、それが具体的にどのような仕方でなされたのは、記されていません。実は、どの福音書にも記載されてはいないのです。けれども、ヨハネによる福音書は、第20章において、復活された主イエスが、疑うトマスに対して手の釘跡を示されたと記しています。そこから、十字架の木に、釘で打ち付けられたことが分かります。映画やドラマで十字架の場面が描かれる際には、大きな釘で、主イエスの手と足が十字架に打ち付けられます。囚人を十字架の木に釘付けする、実に残酷な場面です。いつの時代も処刑人というのは、できれば誰もやりたがらない仕事でした。だから、役得が付くのです。処刑に携わった兵士たちは、自分たちが殺す相手の身に着けていたものを自分のものにすることができたといわれています。
 主イエスを十字架に釘づけした兵士たちは、十字架の足元で、主イエスが着ておられた服を奪い合いました。服を4つに分けたのは、主イエスの処刑に携わった兵士が4人いたからです。主イエスを取り囲むようにして処刑の場所まで連れて行って、主を十字架につけた兵士は4人でした。3人の受刑囚に4人ずつの兵士、そしてそれを警護する部隊が、1人の百人隊長に率いられていたのです。直接、手を下した4人の兵士たちが、主イエスの上着を4つに分けて、それぞれの取り分としました。続いて「下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった」とあります。恐らく、母マリアが、最後のときを迎える息子のために、心を込めて織り上げたのだと思われます。兵士たちはそれを容赦なく剥ぎ取って、主イエスを裸にしたのです。縫い目がないので分けようがなく、「これは裂かないで、誰のものになるか、くじを引こう」と話し合ったといいます。こういうとき、人間は我を忘れて興奮するものです。服を剥ぎ取られ、下着までも取られて腰布一つ、裸で十字架にかけられている主イエスの足元で、しかも、頭には茨で編んだ冠をかぶせられ、鞭打たれた傷で血まみれになって苦しんでおられる主の足元で、くじを引いている。誰に当たるかハラハラドキドキしながら興じているのです。それは何と罪深い姿であろうかと思います。

 兵士たちは、ただ自分たちの取り分に夢中になって、くじ引きに興じていただけかもしれません。けれども、ヨハネは、そこでも実は、聖書の言葉が実現したのだと告げています。あの兵士たちの言葉に続けて記すのです。「そこで、『これは裂かないで、誰のものになるか、くじを引こう』と話し合った。それは、『彼らは私の服を分け合い 衣をめぐってくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである」(24節)。ここで引用されているのは、先ほど、福音書の言葉と合わせて朗読した旧約聖書、詩編第22編の言葉です。第22編19節に「私の服を分け合い 衣をめぐってくじを引く」とありました。直接の引用箇所である19節だけではなくて、第22編を最初から読みました。なぜ、最初から読んだのか、お気づきになった方が多いと思います。この詩編の冒頭の言葉は、主イエスが十字架の上で叫ばれた言葉として覚えられているのです。マルコによる福音書第15章33節と34節に記されます。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。
 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。これは、マルコによる福音書とマタイによる福音書が記している、十字架上の主イエスの叫びです。ヨハネによる福音書の中には記されていません。しかしながら、ヨハネもまた、兵士たちの行動において、聖書の言葉が実現したと記すとき、詩編第22編に記された絶望の叫びをも思い起こしていたに違いありません。さらには、同じ詩編22編の7節から9節には、こうあります。「だが私は虫けら。人とは言えない。人のそしりの的、民の蔑みの的。私を見る者は皆、嘲り 唇を突き出し、頭を振る。『主に任せて救ってもらうがよい。主が助け出してくれるだろう。主のお気に入りなのだから』と」。そうやって、人々に嘲られ、捨てられ、裸にされ、さらには、さらしものにされ、神からも見捨てられる絶望を、十字架の主のお姿に重ね合わせて見ていたに違いないのです。主イエスは、私たちすべての身代わりとなって、私たちが味わうべき罪の惨めさと罪に対する裁きをすべて引き受けてくださいました。そんなことはつゆ知らず、主イエスを十字架につけて、主の衣を分け合っている兵士たちの罪をも、主はすべて担ってくださったのです。

 さて、十字架につけられた主イエスの足元には、4人の兵士たちのほかに、4人の女性たちがいました。他にも大勢の人たちがいたはずです。けれども、ヨハネは、主イエスの衣服を分け合っている4人の兵士たちと対比するかのように、十字架のもとに、ずっと主イエスに従ってきた4人の女性たちが立っていたことを記します。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」。「その母」というのは、主イエスの母マリアのことです。主イエスの母マリアの姉妹が、どういう名前であったのかは分かりません。4人の女性たちのうちの3人までが、マリアという名であったというのも印象深いことです。他の福音書では、大勢の女性たちが主イエスの十字架を遠くから見守っていたと記されています。しかし、ヨハネだけは、十字架の真下に、この4人の女性たちがいたと記します。さらに、主イエスの「愛する弟子」がそこにいたと語るのもヨハネの福音書だけです。この「愛する弟子」と呼ばれる人は、名前が記されておらず、誰であるのかは不明です。けれども、最後の晩餐の場面にも登場しており、ヨハネの福音書ではとても重要な役割を果たす人物なのです。
 主イエスの直弟子たちは、皆、主イエスを見捨てて逃げていました。十字架のもとには、十二人の弟子たちはひとりも居合わせていません。主イエスは、ローマ帝国に対する反逆の罪で処刑されるのですから、その処刑の場所に、男性の弟子たちが居合わせることは、大きな危険を伴うことであったとも考えられます。反逆者の仲間として捕らえられる恐れがありました。そんな中で、女性たちの間に、ひとりだけ主イエスの愛する弟子が立ち会えたのは、恐らく、この弟子はまだ十代半ばの少年であり、女性たちの中に交じって付いて来ることができたのではないかと考えられます。名前が記されていないというところから、理想化された弟子の象徴的な姿として描かれていると見る人もあります。しかし、後に主イエスについての証しを通して信じる者の群れを導き、この福音書を生み出す原動力となった人物と見ることもできるのではないかと思います。

 ヨハネは、十字架につけられた主イエスが、母マリアと愛する弟子に向かって語りかけられたと記しています。このやり取りも、ヨハネ福音書だけが伝えている出来事です。第19章の26節と27節を読みます。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『女よ、見なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」。ここで用いられている言葉は、養子縁組をするときの決まり文句なのだそうです。そうだとすると、主イエスは、先立つ不孝を噛みしめながら、後に遺していく母と、愛する弟子の間に養子縁組をしたということになります。十字架の死を目前にした主イエスが、後に遺していくことになる自分の母に向かって、「これからは、この弟子をあなたの息子だと思って頼りなさい」と言われた。その弟子に対しては、「これからは私の母をあなたの母として面倒を見て欲しい」、そう言って母を託したのです。他の弟子たちは、これから主イエスの仲間として追われる立場になり、危険な道を歩むことになります。それは主イエスの弟たちも同じでした。それに比べて、この「愛する弟子」は、大祭司の知り合いの家の者であり、主イエスの母を安全にかくまうのには最適の人物であったと考えられます。主イエスは将来を見通して、この年若い弟子にご自分の母を委ねられたのです。
 しかしまた、ある人は、このやり取りに象徴的な意味が込められているといいます。ここに登場する「母」と「愛する弟子」は、ヨハネの時代の2つの教会を表していると説明するのです。「母」というのは、ユダヤ人の教会です。すべての教会は、最初にエルサレムに誕生したユダヤ人の教会から生まれました。ユダヤ人の教会はいわば、母なる教会です。それに対して、ヨハネによる福音書が書かれた頃、大きく成長を続けていたのは異邦人の教会でした。異邦人教会は、言ってみれば、子なる教会です。ユダヤ人の教会と異邦人の教会の間には、しばしば、緊張と対立が生じました。そういう中で、異邦人教会に対しては、「母なるユダヤ人教会を尊敬して、受け入れなさい」と勧めておられる。また母なるユダヤ人教会に対しては、「主イエスの十字架の福音によって生まれた異邦人教会を子なる教会として認め、受け入れるように」求められた。そのようにして、主イエスは、2つの教会の関係を取り持ち、結び合わせておられるというのです。なかなか興味深い読み方だと思います。十字架のもとで、ふたつのものがひとつに結ばれるのです。

 もちろん、文字どおり、書かれたとおりに受け取ることも大事なのだと思います。主イエスの十字架のもとで、主イエスによって執り成されて、新たな親子の関係が結ばれ、神の家族としての交わりが生まれます。それこそまさに、神の家族としての教会を指し示していると言ってよいのではないかと思います。十字架のもとで、私たちも今、神の家族として、兄弟姉妹としての新たな絆に結ばれているのです。「その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」と記されていました。「家」と訳されている言葉は、直訳すると「自分のところ」と書かれています。自分のところ、自分の帰るべきところに戻って来た、と読むこともできます。主イエスは、十字架の御業を通して、それまで全く赤の他人であった私たちをひとつに結び合わせて、私たちの帰るべき場所を備えてくださいました。私たちは、母なる教会のもとへと迎え入れられ、主イエスを長子とする兄弟姉妹として、神を父と呼ぶ祈りの交わりの中に置かれているのです。
 家族ですから、ときにはぶつかることもあり、仲違いをすることがあるかもしれません。ときには、ひとりで飛び出してしまうことがあるかもしれません。けれども、ただひとりの父なる神のもと、いつでも母なる教会に帰ってくることができる。私たちのために十字架にかかってくださった主イエスが、私たちをひとつに結び合わせていてくださるからです。主イエスの十字架において表された神の愛が、私たちを捕らえていてくださいます。私たちは今、主イエスの救いの御業を通して、母なる教会に迎えられ、ただひとりの父なる神のもと、神の子たちとして神の家族の交わりに加えられているのです。主イエスの十字架の愛が、私たちをひとつに結んでくださいました。主の十字架の愛によって結ばれた絆を、喜び、感謝したいと思います。