2025年1月26日 主日礼拝説教「この人を見よ!」 東野尚志牧師

イザヤ書 第53章1~12節
ヨハネによる福音書 第19章1~16a節

 主日の礼拝において、ヨハネによる福音書を読み続けて参りまして、今日から第19章に入ります。第1章の冒頭の言葉を読んだのは、まだコロナ禍に悩まされていた2021年9月の初めのことでした。4年前の9月5日、振起日の礼拝から、ヨハネによる福音書を読み始めたのです。残すところ、19章、20章、21章。十字架と復活、主イエスの地上のご生涯のクライマックスです。順調に行けば、あと4ヶ月、5月の末には、この福音書を読み終えることになります。
 4年前、当時の役員会の中で、聖書のどこを読んで行くか、役員の方たちに意見を求めました。ある役員の方が、ぜひ、ヨハネによる福音書の説き証しを聞きたいと望まれました。とても難解で、ひとりで読んでいても、よく分からない。ぜひ、礼拝で説いて欲しい。そう言われたのです。私自身も、全部で4つある福音書の中で、まだヨハネの福音書だけは、その全体を説いたことがありませんでした。それで、心を定めて読み始めました。ところが、この福音書の説教を聞きたいと、誰よりも熱心に望んでおられた方が、その後、体調を崩されて、教会に来ることができなくなりました。入退院を繰り返しながら、今はホームで生活をしておられます。気持ちも弱っておられる。なんとかして、その方に、ヨハネによる福音書の御言葉を通して、生ける主と出会って欲しい。そう願いながら、また祈りながら、御言葉を説いてきました。そして、ついに、主イエスが裁かれ、鞭打たれ、十字架に引き渡されるところまで、読み進めてきたのです。
 鞭打たれ、嘲られても、なお神としての権威をもって、主イエスは、ご自分を裁く者たちの前にお立ちになります。裁いている側の者たちが、むしろ、主イエスの前で裁かれていると言ってもよいのです。そのようにして、私たちの罪を贖うための犠牲として、十字架に上げられ、ご自身の命を献げてくださったお方を、共々に仰ぎ見て、礼拝を献げたいと思います。

 「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた」。第19章はそのように始まります。まだ裁きは下されていません。いやむしろ、裁きを求められた総督ピラトは、主イエスを尋問して取り調べた結果、死刑にしなければならないような罪は認められないと思いました。第18章の最後のところでは、ピラトが、主イエスを訴え出たユダヤ人たちに、過越祭には囚人のひとりを釈放する慣例があるから、主イエスを釈放することにしてはどうかと持ちかけたのです。ところが、それを聞いたユダヤ人たちは叫んで、「その男ではない。バラバだ」と言いました。主イエスではなくて、強盗の罪で捕らえられていたバラバの方を釈放するように求めたのです。そこから、今日のところにつながります。
 本来ならば、まだ刑が確定しないうちに、鞭で打たせるというのは異例であったようです。というのも、ここで用いられている鞭は、ただちょっと懲らしめるというのでは済まないような代物であったからです。もう20年も前の映画になりますが、主イエスの受難を描いた『パッション』という映画の場面を思い起こす方もあるでしょう。動物の皮で作った鞭の先に、動物の骨や貝殻を埋め込んだような特別な鞭が用いられて、その鞭で背中をひと打ちすれば、たちまち皮膚が裂けて肉片と血が飛び散ります。鞭打ちだけで死んでしまう人が出るほどのむごい刑罰であったようです。そうやって体を痛めつけてから十字架にかければ、その日のうちに息絶えてしまう。死を早めるための刑でもあったと言われます。だから通常は、十字架刑が宣告されてから、鞭打ちが行われたのです。ヨハネ以外のマタイ、マルコ、ルカの福音書では、慣例通り、十字架刑が言い渡された後で、鞭打ちが行われています。ヨハネだけは、刑が確定するより先に鞭で打たれたと記します。恐らく、そこに、ピラトの思惑を見たからだと思います。

 まだ裁きが下される前に鞭で打たせた後、傷だらけ、血まみれになった主イエスを兵士たちが嘲ったと、ヨハネは記します。「兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の衣をまとわせ、そばにやって来ては、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った」というのです。「茨で冠を編んでイエスの頭に載せ」とあります。載せたと言っても、ポンと置いただけではありません。茨のトゲが頭に食い込むように、無理矢理はめ込んだのです。額からも血が流れます。「紫の衣」は、王さまが身にまとう高貴な色の衣ということになります。しかしもちろん、ここでは、それと似た色の着古したボロ布を体にかけたのでしょう。そうやって、兵士たちは、主イエスのことを王さまに見立てて嘲ったのです。ふざけた仕草で「ユダヤ人の王、万歳」と言って、敬礼する代わりに、平手で打ったといいます。散々侮辱したあげく、ピラトは主イエスを官邸の中から外へ連れ出して、ユダヤ人たちの前に立たせるのです。
 そこに、ピラトの目論見が記されています。4節、「ピラトはまた出て来て、言った。『聞くがよい。私はあの男をあなたがたのところに引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪も見いだせない訳が分かるだろう。』」。鞭で打たれて血まみれ、茨の冠をかぶせられ、嘲られて、惨めなみすぼらしい姿をさらせば、ユダヤ人たちも、それで満足するのではないか、気が済むのではないか、そんなふうに考えたのだと思われます。こんなに痛めつけられ、惨めで無力な人間が、自分を王として、ローマ帝国に刃向かうことなど、到底考えられない。そう言って、ユダヤ人たちの訴えを収めようとしたのです。判決が下される前に、鞭で打ったり、嘲ったりしたのは、主イエスに死刑の判決を下さずに済むように、主イエスを助けようとする意図があった。ヨハネはそのように描いているのだと思います。

 ピラトは、この裁きの流れの中で、3度にわたって、主イエスに「罪を見いだせない」と語ることになります。それはもちろん、そんな大それたことをしでかすような男には見えない、ということだと思います。決して、主イエスが誰であるか、ということを正しく捕らえていたわけではありません。むしろ、兵士たちと同じように、ピラトにも、主イエスを嘲る思いがあったに違いないのです。けれども、ローマの権威を代表するピラトが、主イエスに何の罪も見出さなかったということは、大きな意味を持っています。それは、ローマ帝国は主イエスが無罪であることを知っていたということです。ユダヤ人たちがどうしても納得せず、騒ぎが起こりそうになり、さらには、ピラトの立場を危うくするような言葉を突きつけられて、最終的には、十字架刑を言い渡すことになるとしても、ローマが積極的に主イエスの命を奪おうとしたのではないということを証ししています。それは、この福音書を手にしたヨハネの教会の信徒たちにとって、ローマが無実だと認めた方を信じているのだという、ローマ社会に対する弁明的な意図があったと思われるのです。
 さらに言えば、ピラトが主イエスに何の罪も見いだせないと3度も繰り返したことは、ピラト自身の思いを超えて、主イエスの死の意味を証しすることになります。ピラト自身はそんなことを思いもしなかったでしょう。けれども、罪のないお方が十字架におかかりになることに、大事な意味がありました。罪のないお方の死であるからこそ、罪人の罪を贖うことができる。罪のない方が罪とされることで、罪ある者たちの罪が赦されるのです。ただひとり、罪のないお方である主イエスが、私たちの身代わりとして、私たちの罪をすべてその身に背負って、十字架にかかって死んでくださいました。神さまは、罪のない方の命を犠牲にして、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったのです。

 茨の冠をかぶせられ、紫の衣をまとった姿で、主イエスが官邸から連れて来られると、ピラトは外にいたユダヤ人たちに言いました。「見よ、この人だ」。ピラトは、鞭で打たれ、傷つき、立っているのもやっとのような惨めな姿の主イエスを指さして、「見よ、この人だ」、「この人を見よ」と言ったのです。良く見てみよ。これが本当に、ローマ帝国への反逆を企んだユダヤ人の王だというのか。とても国家を揺るがすような者であるはずがない。よく見なさい。ピラトは、そう言いたかったのだと思います。けれども、ユダヤ人たちには通じませんでした。むしろ、祭司長や下役たちは、主イエスを見て「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。主イエスを赦そうとするピラトの目論見に逆らっただけではありません。このお方を、メシアとして信じ受け入れようとしませんでした。それによって、旧約聖書の預言者の言葉が成就したのです。
 今日、福音書に合わせて朗読したイザヤ書53章に記されています。「私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。主の腕は、誰に示されただろうか。この人は主の前で若枝のように 乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく 望ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され 私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53章1~3節)。これが、「この人を見よ」と言って人々の目にさらされた主イエスのお姿でした。預言者はさらに続けて語ります。「彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて 苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ 私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた」(同4~5節)。この後、主イエスは、十字架刑を宣告され、十字架の上で命を落とされます。ただひとり、罪のないお方であった神の御子の命が、動物の犠牲では完全に成し遂げられなかった罪の赦しを与えるのです。この福音書の冒頭で告げられた言葉が成就します。洗礼者ヨハネは、近づいて来られる主イエスを指さして言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1章29節)。洗礼者の言葉と重なり合うように、ローマの総督ピラトの口を通して、神さまは私たちに告げられます。「見よ、この人だ」。「この人を見よ」。

 「私はこの男に罪を見いだせない」。そのように告げたピラトに対して、ユダヤ人たちは答えて言いました。「私たちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」。これを聞くと、ピラトはますます恐ろしくなって、再び官邸の中に主イエスを連れて入り、尋ねました。「お前はどこから来たのか」。出身地を尋ねた訳ではありません。主イエスの権威の由来を問うたのです。「お前は自分が神の子だと言ったそうだが、いったい、何の権威をもってそう言うのか。その資格を与えたのは誰か」。主イエスはピラトの問いに何もお答えになりませんでした。焦れたようにピラトが言います。「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか」。「権限」と訳されているのは、「権威」や「権力」を意味する言葉です。ローマ皇帝から与えられている権威を全く恐れない主イエスに、少々苛立ちを覚えたのでしょう。自分の権力を振りかざして恐れさせようとしたのです。すると、主イエスは口を開いて答えられました。「神から与えられているのでなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」。
 最近、この権力とか権限という言葉を意識させられる出来事が続いて起こりました。お隣の韓国では、大統領が、大統領としての権限によって、突然、戒厳令を宣言しました。軍隊や警察もあまり本気にしていなかったようですが、大統領の命令ですから従います。しかし、野党の激しい反発を受けて、ほんの数時間で解除要求が決議され、それどころか、大統領が弾劾訴追される事態になりました。職務が停止され、あらゆる権限を失った大統領が内乱罪で逮捕されました。一体、大統領の権限とは何なのか、と考えさせられてしまいました。そうかと思えば、海の向こうアメリカでは、新しい大統領が就任したとたん、議会の決議を経ないで即日効力を発する大統領令なるものを乱発しました。マイノリティや移民に対する非常に激しい差別的な言葉が世界を驚かせました。就任の翌日、ワシントンの大聖堂で行われた礼拝において、聖公会の主教が説教の中で、不法移民や性的少数者に対する「慈悲」を求めるという、これまた異例の展開になりました。大統領は後で、「良い礼拝ではなかった」と不快感を顕わにしていたそうです。この世の権力や権威というのは、その立場や地位に対して与えられたものに過ぎません。それを自分の意を通すために乱用するというのは実に罪深いことであると言わざるを得ません。それは、すべての権威の源である神に対する大きな罪です。大きな権限を託された者は、大きな責任を負っているのだということを、忘れてはならないのだと思います。

 ピラトが主イエスを裁く権力を持っていたのは、もともと自分が持っていた権威ではありません。ローマ皇帝から与えられたものでした。ローマ帝国の総督という地位にあるということで、持たされていた権威です。与えられた権力は、また奪われることもあります。ピラトが、主イエスは無罪であると思い、釈放しようと努めたにもかかわらず、結局、十字架刑を言い渡すことになったのは、総督の地位を失うことを恐れたからです。ユダヤ人たちは叫んで言いました。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」。このユダヤ人たちの訴えや、主イエスを巡る混乱が、もしローマ皇帝のもとに報告されたら、自分の地位が危うくなります。ピラトは保身のために、主イエスの処刑をのむのです。権限があると言いながら、少しも自由ではありません。皇帝から与えられた権限を守るために、自分の思うままに権力を振るうことができないという、実に滑稽なことが起こっているのです。確かに、ピラトに主イエスを裁く権力を与えているのはローマ皇帝です。けれども、神が許しておられるから、その地位と権力に留まることができているのだとも言えます。だからこそ、ピラトは、自分の思いどおりに権力を振るうことができない中で、主イエスに十字架刑を言い渡すという仕方で、神の御心を行うことになるのです。
 ピラトは、追い詰められるようにして、裁判の席に着きます。ところが、御言葉は次のように記しています。13節「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた」。恐らく、総督官邸の中庭でしょう、敷石が敷き詰められた場所で、裁きが始まります。「裁判の席」と訳されている言葉は、本来、裁判官の座る席を意味します。被告席ではありません。だいたい、被告には席はなくて、立ったままでいたと思われます。ピラトがその席に着いたというなら分かりますが、主イエスをその席に着かせた、というのはどういうことでしょうか。ここでも、裁く者が裁かれる、まことの裁き主は、人間の法廷で裁かれている主イエスの方だと言うことを表しているのだと思います。「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」と記されています。その日の午後、過越祭の犠牲の小羊がほふられることになります。ちょうどその頃、主イエスは十字架にかけられる。それによって、ピラトが下した裁きが執行されることになります。しかし、ピラトはそれによって、主イエスに十字架刑を宣告した者として、使徒信条の中に永遠に名を残すことになります。それが、ピラトの受けた裁きだと言えるかもしれません。

 さて、ピラトはせめてもの強がりでしょうか。ユダヤ人たちを揶揄するようにして言います。「見よ、あなたがたの王だ」。早く連れ出して、十字架にかけろと叫ぶユダヤ人たちに、ピラトが「あなたがたの王を私が十字架にかけるのか」と、捨て台詞のようにつぶやくと、祭司長たちが言いました。「私たちには、皇帝のほかに王はありません」。本来ならば、ユダヤ人たちが王として崇めるべきは、主なる神おひとりであるはずです。それなのに、イスラエルの民の指導者であるべき人たちが、自分たちの権威を揺るがす存在を葬りたい一心で、ローマの皇帝に魂を売り渡してしまいました。そしてついに、ピラトは判決を下します。16節「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを人々に引き渡した」。
 自分が与えられている権威を失うまいと、権力にすがりつき、権力に縛られたピラトとユダヤ人たちが、主イエスを十字架に追いやりました。そこに、人間の罪が極まったと言ってよいと思います。しかしながら、あらゆる権威の源である神が、そのような人間の悪しき権威主義や権力の乱用をも用いて、十字架による罪の赦しの道を開いてくださったのです。「見よ、この人だ」、「この人を見よ」とピラトはユダヤ人たちに言いました。しかしそれは、ピラトの口を通して、神が私たち一人ひとりに告げてくださっている言葉なのだと思います。

 この後、ご一緒に讃美歌121番を歌います。日本人の作詞・作曲による讃美歌です。主イエスのご生涯をたどるように歌いながら、「この人を見よ」、「この人を見よ」と繰り返して、最後の4節で歌います。「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる。この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ」。神の独り子であり、まことの神である主イエスが、まことの人となってこの世に来てくださいました。そして、私たちを救うために十字架の苦しみと死を引き受けてくださいました。この主イエスにおいて、私たちに対する神の愛があらわれています。ヨハネは言いました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)。御言葉と聖餐の恵みを通して、共に、活ける主のお姿を仰ぎ見ることができますように。私たちに対する神の大いなる愛を、しっかりと受けとめ、味わいたいと願います。