2025年1月19日 主日礼拝説教「私たちはどのようになるのか」 東野ひかり牧師

創世記 第1章26~27節
ヨハネの手紙一 第3章1~3節

 2025年も早半月以上が過ぎましたが、新しい年を迎えますと私にはいつも思い起こす祈りがあります。20年程前、私どもがまだ鎌倉の教会におりましたときのことですが、その年最初の主日礼拝・新年礼拝の献金のときの祈りで長老が祈られた祈りです。きちんと準備されたその長老の祈りは、こういう祈りでした。「……この年、わたしたちに教会に生きるいのちをお与えください。この年、あなたがわたしたちをお召しになるかもしれません。どうぞこの新しい年、わたしたちが、わたしたち自身のものではなく、からだも魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることができますように、祈ります。」
 「この年、あなたがわたしたちをお召しになるかもしれません」とは、言うまでもなく、「この年のうちに私たちは死ぬかもしれません」ということです。新年礼拝でのそのような祈りに、私は少し驚きました。新年早々そういうことを言うものではないというような、この世的な感覚になっていたからだろうと思います。少し驚いたのですけれども、とても心を打たれました。私たちが新しい年を迎えてまず祈り願うことは、「この年も健康で平穏に過ごせますように、自分も家族も皆が無事に過ごせますように」というようなことでしょう。けれどこの長老はそういう祈りはなさらなかったのです。『ハイデルベルク信仰問答』の冒頭の言葉を引用しながら、「たとえこの年のうちに私たちが死ぬことになるとしても、どうぞこの新しい年、私たちが私たち自身のものではなく、身体も魂も、私たちが生きるにも死ぬにも、〈わたしの真実なる救い主イエス・キリストのもの〉であることができるように祈ります」という祈りをなさったのです。新しい年を迎えるとき、私はいつも、白髪の老紳士だったこの長老の祈りを思い出します。

 先週17日は、阪神淡路大震災から30年を覚えました。地震をはじめとする災害の多いこの日本に生きる私たちです。次の瞬間にも大地震が襲い来るかもしれないということは、大人だけでなく子どもたちも知らされています。平穏な日常が突然断ち切られることが起こり得る、そのことを、私たちは昨年の元旦にも思い知りました。もしかしたら今日この日に、この次の瞬間に、神さまは私たちの命をお召しになるかもしれない、「この年、あなたがわたしたちをお召しになるかもしれない」 というだけではなく、「今日この日、あなたはわたしたちのいのちをお召しになるかもしれない。」このことを、私たちは皆、年齢を重ねた者だけではなく若い者たちも皆が、自分ごととして思うのではないかと思います。あの長老の祈りの言葉を、私たちは誰もが、厳粛な思いで、そしてまた切実に、受け止めざるを得ないのです。今ここにいる私たち全ての者にとって、年齢に関係なく、今日のこの礼拝が地上での最後の礼拝になるかもしれないということは十分にあり得るのです。それだけに、1回1回の礼拝を一期一会のかけがえのない礼拝として大切にしなければと、襟を糺す思いになります。そして、私たちは皆、新しい年の始まりのときだけでなく、また新しい週の始まりの日曜日だけでもなく、毎朝目覚める度ごとに、「今日、あなたはわたしをお召しになるかもしれない」、そう祈らされる者たちなのです。
 そのような祈りをいたしますときの私たち信仰者というのは、いのちのはかなさや脆さ、人間の無力さを思い、諦めの境地でそう祈るというわけではありません。あるいは死という得体のしれない闇をじっと見つめて、恐れと不安のなかで、絶望的な気持ちで、神さまはむごいお方だと心のどこかでつぶやきながら、「今日、あなたはわたしをお召しになるかもしれない」と口にするのでもありません。あの長老が「この年、あなたはわたしたちをお召しになるかもしれない」と祈りながらじっと見つめていたのは、死の暗闇でも、恐れや不安でも、神のむごさでもなく、「わたしの真実なる救い主イエス・キリスト」です。同時に、この真実なる救い主キリストのものとされている私たち自身、キリストにしっかりとつながり結ばれている「私たち」、教会に生きる私たちの姿を見つめていたと思います。救い主キリストを見つめ、キリストにつながり結ばれている私たち自身の姿をじっと見つめて、どうか私たちをこのキリストのものとしてこの年も生かしてください、キリストにつながっているものとしてキリストの体である教会に生きるいのちを与えてください、そう祈ったのです。そしてもし、この年あなたが私たちのいのちをお召しになるのであれば、どうかキリストのものとして死なせてくださいと祈ったのです。

 私たちのいのちは、確かに、明日をも知れぬいのちです。はかなくもろいいのちです。その現実を私たちは厳粛に見つめさせられます。けれどそのように自分の死、自分たちの死を見つめながら、私たちキリスト者が、確かに見ることのできる信仰の現実があります。神の恵みの現実があります。私たちは、私たちの真実なる救い主イエス・キリストのものとされている、という恵みの現実です。きりすとのもの、すなわちキリストにつながり結ばれているものであるがゆえに、「神の子ども」と呼ばれ、「事実、神の子どもである」という、この恵みの現実です。
 今朝与えられましたヨハネの手紙Ⅰは、そのような私たちに与えられている恵みの現実をしっかり見なさい、よく見てその恵みの中身をしっかり考えなさいと語りかけます。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。」「考えてみなさい」と訳された言葉は、原語の語順ではギリシャ語では文の冒頭にあります。元の言葉の意味は、既にそう申しましたが「見なさい」です。具体的な、目で見て手で触れることができるようなものを「見る」という言い方です。ここで「見なさい」と言われているのは、私たちに与えられた御父の愛がどれほどのものか、ということです。そしてそれは、具体的な、目で見て手で触れることのできる愛だというのです。この手紙の冒頭では、「命の言」そのものであるお方、私たちの真実なる救い主イエス・キリストそのお方を指し示しながら、その「命の言」は「私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」と告げられていました。この「命の言」である御子主イエスにおいて現された父なる神の愛、それがあなたがたに与えられている、その愛を、御父の愛そのものである御子イエス・キリストを「よく見なさい、しっかり見なさい」そう言っているのです。この神の御子イエス・キリストに結ばれて、御子キリストのものとされて、私たちは神の子どもとされている、私たちも神の子と呼ばれるものとされている、「事実、私たちは神の子ども」このまことに惜しみない神の愛をしっかりと見なさい、そう言われているのです。

 今日合わせて読みました旧約聖書の創世記1:26-27は、私たち人間は本来神に似たもの、「神のかたち」に造られたと告げています。それは、神に似た「神の子ども」のかたちに造られた、ということであるとも言えます。しかし私たち人間はその本来の神の似姿・神のかたちを失いました。神に背き、神に背を向けて神から離れ、自分勝手に生き始めました。人は、神の似姿・神のかたちを与えられ、神に向けて造られ、神の呼びかけにまっすぐに応答する神の子ども、祝福された良きものとして造られたにもかかわらず、私たちは神に背を向け、神から離れ、罪と悪の中に歩き始めてしまいました。神の子どもとしてのいのちを失ったのです。そのような私たちが、本来の造られたままの、祝福された子どもの姿へと回復されるために、神は大切な御子、独り子主イエスを、私たちの神に背いた罪を償わせるため、十字架につけなければなりませんでした。神はその独り子のいのちを私たちの罪を贖うための犠牲とするほどに、私たちを愛してくださった。私たちは、洗礼を受け、御子のいのちに結ばれ、御子のいのちを注ぎ込まれて新しく生まれることによって、本来の、造られたままの神の子どものすがたを回復していただいたのです。
 ヨハネの手紙Ⅰは、第4章9~10節でこのように告げます。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちのうちに現わされました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ヨハネの手紙は、この父なる神の愛をしっかりと見なさいと言うのです。目で見て手で触れるほどにしっかり見なさいと言うのです。それは、私たちがどれほど神から愛されているか、どれほど値高い存在であるか、かけがえのない存在であるかをよく知りなさい、ということです。それは私たちのために神の御子が命を捨てて、私たちを神の子どもとしてくださったほどのこと。そして事実、今すでに私たちは神の子どもたち。今ここにいる私たち、この私たち自身が、御子主イエスのいのちをいただいて、神の子どもたち。
 どんなに私たちの周りの「世」の人々が、「あなたのどこが神の子だというのか」と責めたてるとしても、また私たち自身の心の中に「世」が入り込んで「お前はちっとも神の子らしくないではないか」と自分で自分を責めたてるとしても、「私たちは今すでに神の子」、神に愛されている神の子。この恵みの事実から目をそらすなと、この手紙の著者は私たちに告げているのです。私たちは、自分が何者であるのか、誰であるのか、どういう存在であるのかを、よく見なければなりません。「私たちは、今すでに神の子、神に愛され、キリストに結ばれて神の子」なのです。そのような者として生かされている、そしてそのような者として、死なせていただけるのです。

 しかしこの手紙はそこで終わらない。さらにその先をも見ています。死の先にも続く恵みを、死の先にある希望を見つめて、私たちに指し示してくれています。「愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。
 ここに語られていますのは、私たちの死のその先のことです。「私たちがどのようになるのか」、これは、私たちが死んだらどのようになるのか、ということです。それはまだはっきり分からない、まずそう言われています。しかしはっきり分かっていることがある、というのです。私たちは、死んだら「神に似たものとなる」と言うのです。ここで「神に似た者」と訳されています言葉は、元の言葉では「彼に似た者」となっています。また「神をありのままに見る」というのも、元の言葉では「彼をありのままに見る」です。新共同訳聖書はこの「彼」を、すべて「御子」と訳していました。新共同訳聖書では、第3章2節はこう訳されています。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」これはどういうことを言っているのでしょう。ある注解者はこんなふうに説明します。少し私なりにアレンジした言い方をいたしますと、〈神の御子主イエス・キリストに結ばれて神の子である者は、今神の子、死んでも神の子、死んだ後も神の子、そしてますます御子に似て、どんどん神の子になっていく。〉そういうことがここで言われているのです。
 あまりふさわしいたとえではないかもしれませんが、私たちは歳をとるとだんだんますます親に似てくる、ということがあります。ガラス窓に映った自分の姿がふと目に入ったとき、「あんまり親に似ていてびっくり(がっかり)」というような経験をしたことのある方もおられるのではないでしょうか。顔つきだけではなく体つきや姿勢まで親に似てきます。私たちは、今すでに御子イエスさまに似た神さまの子どもであるなら、死んでも神さまの子ども、ますますイエスさまに似ていく。そしてどんどん父なる神さまに似ていく。ここでの「似る」という字は「同じ」という意味の言葉です。ですからイエスさまと同じになっていく、ということです。神さまの御子イエスさまと同じになる、それはすなわち、父である神さまに似たものになっていくということであるのです。私たちはどうなるのか、イエスさまに似た者になる、父なる神さまに似たものさえとなっていく。これが、私たちに与えられている望み・希望だと告げられているのです。

 私たちは死んだら先に召されたあの人この人に会える、会ってこんなことを言いたい話したい、とひそかに楽しみにしている、ということがあるでしょう。カール・バルトという人が「死んだら会いたい人にだけ会えるわけではない、会いたくない人にだって会うことになる」と言った、というのは有名な話ですけれど、そういうようなことに勝って、死んだあとの私たちのいちばんの楽しみ、と言いますか「希望」は、イエスさまに会えるということ、神さまに会えるということです。「神を(御子を)ありのままに見る」ということです。ある人は「こんなに楽しみなことはない」と言いましたけれど、死ぬのが楽しみになる、とまでは言えないとしても、将来を不安に思うことから、死を恐れ不安に思うことから、解放される思いがいたします。
 しかしそうであればこそ、この楽しい希望を抱く者は、今このとき、「御子が清いように自分を清くする」というように、今を「清く」生きるのです。御子主イエスに倣って生きるということです。「神の子ども」らしく生きるということです。解放されたと思ったら急に窮屈な話になった、と思われるかもしれません。この「清くする」という言葉は、礼拝に備えて身を清める、というときに用いられる言葉だそうです。皆さまの中にも、日曜日に備え、前の日から礼拝に来ていく服をハンガーにつるしたり、持って行く物を整えたりして、礼拝に備える方がおられると思います。ある方は、前の日よりもっと前から、自分は礼拝への準備をする、というようなことをおっしゃいました。そんなふうに、礼拝を生活の中心に置いて生活を整える、というようなことも、「御子が清いように自分を清くする」という生き方、神の子らしい生き方と言えるのではないかと思います。
 先週の月曜日は、聖餐を携えて湯河原をお訪ねしました。お訪ねしたご夫妻から、帰宅後届いたメールにこのように書かれていました。〈今日は、なにものにも変え難い恵みのひとときを過ごすことができました。礼拝と聖餐に与り、とてもとても感謝しております。〉教会からの訪問を、体調整え、場所を整えて、待っていてくださったご夫妻です。礼拝と聖餐に与ることは何ものにも代えがたい恵みのひととき、そう書いてきてくださいました。ここにも、まことに神の子どもらしく、御子の清さに倣って自分を清くしながら生きているひとの姿があると思います。礼拝を慕い、礼拝に備え、礼拝を喜ぶ。それが「事実、今すでに神の子ども」であるひとのすがたです。身も魂も、生きるにも死ぬにも、キリストのものであるひとのすがたです。今ここですでに、キリストに似た神の子どもとして生かされ、死を貫き、死を超えて、キリストのもの・神の子としてますます御子主イエスに似ていく、そして御父に似ていく、その希望に生かされるひとのすがたです。

 〈この年、この週、この日、あなたがわたしたちをお召しになるかもしれません。けれどどうか、わたしたちが、わたしたち自身のものではなく、からだも魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものである、神の子どもである、その恵みの現実をしっかりと見つめ、御子に、神にさえ似た者になっていく望みに生き、死ぬことができますように。〉
 このように祈りながら、この年も共に歩んで参りたいと願います。