2025年1月12日 主日礼拝説教「真理はあなたの目の前に」 東野尚志牧師

詩編 第62編1~13節
ヨハネによる福音書 第18章28~40節

 主の年2025年、2回目の主日礼拝となります。先月からクリスマス・新年と特別な礼拝が続きました。今日は久しぶりにヨハネによる福音書に戻って参りました。前回、第18章の12節から27節の御言葉を読んだのは、昨年の11月24日のことですから、七週間ぶりにヨハネによる福音書に戻ってきたことになります。主イエスのご生涯のクライマックス、受難の物語に入っています。主イエスは、捕らえられ、審かれ、十字架に引き渡されて行くことになるのです。
 それはある意味で、私たちのよく知っている物語であると思います。主イエスが受けられた裁き、また十字架刑については、繰り返し礼拝において読まれ、説かれてきました。そうであるがゆえに、私たちはどこか、分かった気になって安心して聞いてしまうところがあるのかもしれません。この先のどうなるのか、もうすでによく知っているからです。十字架の先に復活があるということも知っているのです。けれども、そこでこそ、私たちは気をつけなければいけないと思います。十字架へと向かう主イエスのご受難の物語を、もう分かっている出来事のように語り、もう分かっている出来事のように聞いてしまうことがあってはならないということです。
 もしも私たちが、十字架の話はもう聞き飽きた。もっと別の話、もっと新しい心に響く話を聞きたいと思うとしたら、そこでこそ大きな罪を犯すことになります。私たちは、自分がすでに知っていることは、あまり重んじようとしなくなる傾向があります。お互いの人間関係においてもそうです。初めて会うときには、お互いに緊張しています。相手のことを知ろうと関心を向けます。でも、慣れ親しんで行くと、だんだん馴れ馴れしくなってしまう。関心も失います。しかし、私たちは、主イエスについて、主イエスの十字架について、もう何度も聞いて慣れ親しんだ話として、馴れ馴れしく扱うとしたら、実は、主イエスのことも十字架のことも、本当は何も分かっていないということになるのではないでしょうか。頭の中の知識として知っているだけでは救いにはなりません。主イエスのことも、十字架のことも、知識として片付けてしまう、そこにこそ、私たちの罪が顕わになります。そのような私たちの罪のために、主イエスは十字架におかかりになったのです。主イエスは、御言葉を通して、いつでも新しく私たちと出会おうとしておられます。この年も主の日ごとに、主の前に立ち帰り、主にひれ伏し、霊とまことをもって、礼拝をささげたいと願います。

 今日は、ヨハネによる福音書の第18章28節以下のところを読んで行きます。十二弟子のひとりであるユダに裏切られ、オリーブ山にある園で逮捕された主イエスは、まず、前の大祭司であったアンナスのところに連行されて、予備審問を受けられました。その後、縛られたままで大祭司カイアファのもとに送られたと記されていました。恐らく、カイアファのもとで最高法院が招集されて、裁きが行われたと考えられます。けれども、ヨハネは最高法院の議事には全く触れないで、その後、主イエスはカイアファのところから総督官邸に連れて行かれたと記しています。ユダヤ地方を統治するローマの総督の官邸は、地中海に面したカイサリアに置かれていました。けれども、過越祭のように、全国のユダヤ人たちがエルサレムに集まる時は、都の治安を維持するために、総督はエルサレムに滞在したようです。エルサレム滞在中は、神殿の北西の角にある砦で執務していました。ここでは、その場所が「総督官邸」と呼ばれているのです。
 主イエスを総督官邸に連れて行ったのは、最高法院の審きに連なっていたユダヤ人たちであったと思われます。すでに明け方になっていました。ヨハネによれば、その日は過越の小羊が屠られる日であったとされています。その日の夜に、過越の食事がなされるのです。主イエスを総督官邸に連れて行ったユダヤ人たちは、官邸の中に入ろうとはしませんでした。ユダヤの掟によれば、異邦人である総督の家に足を踏み入れると汚れを受けることになったからです。汚れを受けると、過越の食事をする前に、汚れを清めるための特別な儀式を行わなくてはならなくなります。大事な食事に間に合わなくなる。それで、汚れを受けずに過越の食事ができるように、官邸に入ろうとしなかったというのです。

 聖書をよく読んでおられる方は、共観福音書の描き方との間に、日付のズレがあるのに気づかれたかもしれません。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書では、主イエスが前の晩に弟子たちと一緒に食事をされた、いわゆる最後の晩餐が、過越の食事として祝われたと記しています。つまり、弟子たちと一緒に過越の食事をした後で、主イエスは捕らえられ、審かれ、十字架にかけられたことになります。主イエスが十字架にかけられたのは、過越の食事の翌日ということになるのです。ところが、ヨハネの福音書においては、主イエスが捕らえられ、審かれ、十字架にかけられたその日に、過越の食事が行われる手はずになっていたことになります。だからこそ、主イエスを訴え出たユダヤ人たちは、汚れを受けずに過越の食事ができるように、総督官邸に入ろうとしなかったというのです。共観福音書とヨハネ福音書の間の一日の食い違いは、調整することができません。どちらが本当なのかと詮索しても、あまり意味はないと思います。ただし、ヨハネには、はっきりとした神学的な意図があったと考えられます。
 ヨハネによる福音書は、第1章のプロローグに続けて、主イエスと出会った洗礼者ヨハネが、主イエスについて証しした言葉を印象深く記しています。洗礼者ヨハネは主イエスが来られるのを見て、自分の弟子たちに言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。福音書記者ヨハネは、主イエスの十字架において、洗礼者の言葉が実現したことを示します。主イエスの十字架の死を、過越祭において、犠牲として屠られる小羊の死に重ね合わせたのです。かつて、エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民は、犠牲として屠られた小羊の血を家の戸口に塗ることで、死の使いから逃れることができました。そして、エジプトから解放されて自由を得たのです。同じように、主イエスが十字架にかかって、ご自身の命を犠牲として、血を流してくださったことによって、私たちの罪は赦され、罪から解放されて自由を得る。主イエスが十字架にかけられたのは、過越祭の中で、犠牲の小羊が屠られるその時刻であったと証しするのです。

 さて、ユダヤ人たちは、汚れを受けずに過越の食事をするために、ピラトの官邸に入ろうとしませんでした。それで仕方なく、総督であるピラトの方が、外へ出て来てユダヤ人たちに話をしたというのです。ずいぶん勝手な話です。ユダヤ人たちは、縛ったままの主イエスだけを官邸の中に押し込んで、自分たちは外にいて、汚れないようにしたというのです。本来ならば、その場で一番権威を持っているはずのピラトの、なんと情けない、また滑稽な姿であろうかと思います。ユダヤ人たちの訴えを聞くために外へ出て来て、その後また、中に入って主イエスに確かめるというふうに、この後19章で判決が出るまで、ピラトは何度も官邸から出たり入ったり、ユダヤ人たちと主イエスの間を行ったり来たりしながら、まるで御用聞きのように、やり取りをしていくことになるのです。
 まず、外に出て来たピラトは、ユダヤ人たちに訴えの内容を問いただします。「この男に対してどんな訴えを起こすのか」。ユダヤ人たちは、その問いには直接答えずに言いました。「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」。これを聞いて、恐らくピラトはムッとしたのでしょう。突き放すように言います。「あなたがたが引き取って、自分たちの律法に従って裁くがよい」。ピラトは、訴えの中身が、ユダヤ人の信仰に関わる問題だということが分かっていたようです。宗教的な事柄に関するユダヤ人同士の内輪もめに関わりたくないと思ったのでしょう。口出しをするつもりはないから、自分たちの律法で勝手に裁けばよいと言って、突っ返そうとしたのです。ところが、ユダヤ人たちは食い下がります。「私たちには、人を死刑にする権限がありません」。ローマ帝国のもとにあって、死刑の判決は下したとしても、実際に死刑を執行する権限は与えられていない、というのです。

 これについては、いろいろと議論があります。そうは言うけれども、たとえば、使徒言行録の第7章には、初代教会の中で七人の奉仕者のひとりに選ばれたステファノが、ユダヤの最高法院の裁きによって、石打ちの刑にされたことが記されています。また同じ使徒言行録の第12章には、十二弟子のひとりであったヤコブが、ヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ一世によって剣で殺されたことが記されています。つまり、相手がユダヤ人であれば、死刑にしたり、権力にものを言わせて命を奪ったりすることができたのです。それに対して、ローマの側から咎めを受けることはありませんでした。けれども、ユダヤの宗教的な指導者たちは、自分たちの手で主イエスを処刑することには躊躇したのではないかと思います。主イエスの言葉と存在に、自分たちとは異なる権威を感じて、恐れを抱いていました。群衆が喜んで主イエスの話を聞いていたので、群衆の怒りの矛先が自分たちに向けられることを恐れたのかもしれません。ローマ帝国の権威で処刑させて、責任を回避しようとしたのです。
 しかし、福音書記者は、そこに、大事な意味づけを見出しています。注を付けるのです。32節、「それは、ご自分がどのような死を遂げることになるのかを示して語られた、イエスの言葉が実現するためであった」。主イエスは以前、12章において、弟子たちに語っておられました。「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(12章32節)。そこにも、福音書記者は注を付けています。「イエスは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」(同33節)。主イエスは、ご自分がこの地上から「上げられる」という仕方で死ぬと言われました。それによって、すべての人をご自分のもとに引き寄せると言われました。主イエスが「上げられる」というとき、それは、十字架に上げられることと、天に上げられることの二重の意味が重なります。ここでは、明らかに、十字架を指していると考えられます。ユダヤ人の裁きによる死刑は石打ちでした。それに対して、ローマの処刑方法で最も残酷な刑罰が十字架です。ユダヤ人たちは、自分たちの身の安全を守るため、責任をローマに負わせようとしたと思われますけれども、そのことを通して、主イエスが石打ちの刑ではなく、十字架にかけられて殺されるという言葉が成就することになりました。主イエスは、木にかけられ、神に呪われたものとなって、私たちが受けるべき呪いをすべて、その身に引き受けてくださったのです。

 ローマの手で、イエスを処刑させようというユダヤ人たちの訴えを受けて、ピラトはもう一度官邸の中に入って、主イエスを呼び出して尋ねます。18章の33節以下は、主イエスとピラトの問答が展開されていくことになります。ピラトは主イエスに尋ねました。「お前はユダヤ人の王なのか」。ユダヤ人たちは、自分たちの裁きにおいては、神を冒瀆する律法違反の罪で死刑判決を下したにもかかわらず、ローマ総督に対しては、政治的な反逆者として訴えたのでしょう。ピラトにしても、律法違反などには全く関心がなくても、自分が王だというなら、やはり聞き捨てならないということでしょう。それに対して、主は答えて言われました。34節、「あなたは自分の考えで、そう言うのか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのか」。問いに対して問いで応じられたので、ピラトはムッとしたのかもしません。答えて言いました。「私はユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。一体、何をしたのか」。ピラトにしてみれば、自分はユダヤ人ではないのだから、主イエスがユダヤ人の王であるなどと言うはずもない。主イエスの同胞であるユダヤ人たち、祭司長たちが訴え出たから、仕方なく裁いているというわけです。いずれにしても、訴えられたからには、それ相応のことをしたのだろう。一体、何をしたのか、と問いただすのです。
 ピラトには通じませんでしたけれど、主イエスの問いは、とても大事なところを突いています。主イエスが王であるということは、誰かがそう言っているという問題ではなくて、自分自身が主イエスのことをどう思うかが問われるのです。共観福音書は、主イエスが弟子たちに、私を何者だと言うのかと問われた記事を記しています。最初は、人々が主イエスのことを何者だと言っているか、とお尋ねになりました。洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、エリヤだと言う人、エレミヤだとか、預言者の一人だと言う人もいる、と答えます。そこから、さらに突っ込んで、主イエスは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われました。それに対しては、ペトロが弟子たちを代表して「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのです。人々が主イエスについて、どう言っているかというのは入口に過ぎません。主イエスは問われます。「あなたがたは私を何者だと言うのか」。私たちは、この問いに迫られているのです。他の人たちが何と言おうと、あなたは、あなた自身は、主イエスを何者だと言うのか。その問いに対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、主の弟子となるために、洗礼を受けるようにと招かれているのです。

 しかし、ピラトにとっては、他人事でしかありませんでした。そのピラトに対して、ピラトをも招こうとされるかのように、主はご自分の国について、お語りになります。「私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない」(36節)。主イエスは「私の国」と言われました。言い換えれば「私が王である国」ということです。主イエスが王として支配される国は、この世のものではない。この世に属するものではない、と言われます。この世の力やこの世の権力によって成り立っている国ではありません。ローマ帝国のように、地上の世界に領土を持っているわけではありません。だから、直接的に、ローマの支配とぶつかるものではないのです。けれども、決して、私たちが生きているこの世と関わりなく存在しているわけではありません。主イエスは、神から遣わされてこの世に来られました。そして、この世のただ中で、しかも、この世を超えた御国の王として働かれます。主イエスが王である国と、私たちはどのように関わるのか、ということが問われるのです。あなたは、主イエスをまことの王として崇め、主イエスの国に属する者として生きるのか、それとも、主イエスの国と、また王である主イエスご自身と、何の関わりもない者として生きるのかが問われるのです。
 ピラトは、主イエスの言葉の深い意味を理解することはできません。けれども、「私の国」と言われたことを捉えて、「それでは、やはり王なのか」と問いました。それに対する主イエスの答えは、「私が王だとは、あなたが言っていることだ」です。ここでも、私たちがどう言うのか、私たちがどう信じるのかが問われているのです。主イエスは続けて言われました。「私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く」。主イエスが来られたのは、ローマ帝国と対立するような、この世の国、この世の支配を立てるためではありません。そうではなくて、真理について証しをするために来られたというのです。だから、真理から出た者、真理に属する者は、主イエスの声に耳を傾けるけれども、真理に属さない人、真理と関わりのない人は、主イエスの声を聞こうとしないし、聞くこともできないのです。
 ピラトは、「真理とは何か」と尋ねました。けれども、主イエスの答えを求めたわけではないと思います。いわばピラトの独り言です。そして、もはや主イエスの言葉には関心を失ってしまったかのように、主イエスの前を去り、また外にいるユダヤ人たちの所に出て行きました。ピラトは主イエスを訴え出たユダヤ人たちに言います。「私はあの男に何の罪も見いだせない」。そして、過越祭の時には、誰か囚人を一人釈放する慣例があるから、主イエスを釈放しようと持ちかけます。しかしユダヤ人たちは、主イエスではなくて、強盗として捕らえられていたバラバを釈放するように叫んだのです。何と言うことでしょうか。

 「真理とは何か」。この言葉を読むとき、いつも思い出すことがあります。オットー・フリードリッヒ・ボルノーというドイツの教育哲学者が、このピラトの問いを取り上げながら、『真理の二重の顔』という書物を著しました。ボルノーは、大阪大学時代の私の先生の先生にあたる人で、直接教えを受けたわけではありませんが、その書物には多くを学びました。ボルノーは言います。真理には二重の顔がある。そのひとつの顔は、ギリシア的な伝統の中で重要な役割を果たして来た真理概念です。つまり、物事が正しいか間違っているかを判定する基準になるような真理。これはその後の西洋の学問の発展にとって、基礎になった真理概念です。この真理をたとえて、「鏡のような真理」と呼びます。つまり、そこに映し出すことによって、その真理に合うかどうかが判断され、認識される。しかし、真理の伝統はそれだけではなかった、とボルノーは言います。もうひとつの顔がある。ユダヤ的な、ヘブライ的な真理です。それは、物事が正しいか間違っているかを映し出す「鏡のような真理」ではなくて、むしろその物事自身、存在自体を支えるような真理。これを、「巌のような真理」、岩のような真理、と呼ぶのです。この真理は、頼りになります。真実なのです。決して私たちを裏切ることがない。
 旧約聖書の中には、神を岩と呼ぶ信仰の歌がたくさんあります。先ほど福音書に合わせて朗読した詩編62編を、ぜひ、読み返してみてください。「私の魂はただ神に向かって沈黙する。私の救いは神から。神こそわが大岩、わが救い、わが砦。私は決して揺らぐことがない」(2~3節)。不確かな時代のただ中で、うっかりすると自分の足元さえ危なくなります。泥沼の中にずぶずぶと沈みこんでいくような気がする。しかし、そのとき、私たちの足が、固い岩盤の上に突き当たる。私たちの存在を下から支えるような、確かな真理と出会うのです。聖書の言葉を通して証しされている、主イエス・キリストと出会うのです。それは出会いです。離れたところに立って、遠くから鏡を眺めているのとは違います。私たちは、聖書を通して、生ける神であるイエス・キリストとの出会いへと招かれているのです。

 この同じ福音書の中で、主イエスが「真理」について語られた言葉を思い起こします。主は言われました。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(8章31~32節)。また言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(14章6節)。主イエスにおいて、神の真理、神の真実が現されました。主イエスの十字架を仰ぎ見るようにして、福音書は証しします。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)。主イエスの十字架において、決して揺らぐことのない神の愛の真理が現されました。この真理を、離れた所から他人事にように眺めていてはなりません。この真理に立ち帰り、主の真実に支えられて、私たちも真実に、主の声を聞き、主に従い行く者となる。そのように、この一週の歩みを始めたいと願います。