2024年9月8日 主日礼拝説教「私たちの幸せ」 東野ひかり牧師

詩編 第32編1~11節
ローマの信徒への手紙 第8章1~3節

 本日は礼拝後に、青年会主催による「敬老の集い」が行われます。敬老の日は教会発祥の行事ではありませんけれども、この9月は、多くの教会で、礼拝の中で高齢の方たちを覚える祈りがささげられ、私たちの教会のように愛餐会が行われる、そういう月でありましょう。
 私の母は4年前80歳になりましたが、その年の9月、新しく80歳になった人として礼拝で覚えられ、お祝いをしていただいたそうです。母が通っています教会(私の母教会)では、毎年9月の第二主日の礼拝を、「敬老の日礼拝」としておささげしているそうです。ただしその際の「敬老」という字は、普通に「敬老」と書くのではなくて、「恵みに老いる」と書いて「恵老の日礼拝」と呼んでいるのだそうです。4年前の母教会の教会報にはこのように説明されていました。〈恵老の日礼拝は、「老い」を神さまの「恵み」として受けとめ、主にある望みを分かち合う礼拝としておささげする礼拝です。〉 なかなかすてきなネーミングねと、母と話したことを思い出します。

 けれどちょっと考えますと、〈老いを神さまの恵みとして受けとめる〉ということは、そう簡単ではないとも思わされます。私などが改めて言うまでもないことですけれども、年を重ねること、老いること、それは大変厳しいことです。〈老いを恵みとして受けとめる〉、また、今日の説教の題に合わせて言うならば、老いるということも「幸い」「幸せ」とうけとめる、とも言い換えられるかもしれませんが、それは信仰的なすばらしい受けとめ方だと思いますけれど、心からそのように言うのはそう簡単ではないと思います。
 私自身、「まだそんな歳ではない」と言ってはいただけますけれども、このところ自分でも情けなくなるようなミスを度重なってしておりまして、少々落ち込むことが続きました。私たちが年齢を感じさせられ、「老い」を感じさせられるときに思いますのは、「こんなことをしてしまうなんて」ということや、あるいは「こんなことができなくなるなんて」ということでありましょう。そういうことが度重なりますと、自分で自分にがっかりしてしまう、落ち込んでしまいます。お見舞いや聖餐訪問で、教会の方をお訪ねいたしますとき、しばしば耳にしますのは、「こんなになってしまって情けない、自分が情けない」という言葉です。そういう言葉を聞きますたびに、胸が締めつけられます。
 私たちは、老いるということを「恵み」ととらえる、あるいは老いるという現実の中にも「幸い」や「祝福」を思う、感じとる、ということももちろんあると思います。けれどその一方で、惨めさや辛さ、情けなさや苦しさ、そして悲しみを感じる、そういうこともあり、どちらかと言えばそのほうが多いかもしれないと、思わされます。そして、言うまでもないことですけれども、そのような厳しい老いの現実の先に待っているのは、「死」なのです。

 しかしそう言いながらも、やはり思うのです。教会というところは「敬老の日」を「恵みに老いる」と書いて「恵老の日」なんて呼ぶことができる、ただの言葉遊びではなくて、「老い」を神の恵みととらえることができる、そのようなところなのだと、そう思うのです。教会に生きる者たちは、老いるということにおいてさえも神の恵みを見ることができる、神の恵みの中で老いる、ということを知っている、恵みを数えながら老いることができるのです。老いという厳しい現実の中でも、「望み」を失わないで生きられる。老いていく厳しさの中でも「幸い、幸せ」をさえ見ることができるのです。教会というところは、「恵みの老い」「恵みの老の恵老」を知る人たちの群れだと、そう言えるのだと思うのです。
 先ほどは、聖歌隊の賛美「苦しみわれを囲むとも」を共に聴きました。「苦しみわれを囲むとも わざわいわれにせまれども 新しきうたを主に歌い よろこびのうた 主に歌え……」そのように歌われました。苦しみやわざわいに囲まれても、そしてたとえ、老いがもたらす苦しみ悲しみ、またわざわいが迫りくる、そういうなかでも、主が私たちの口に、こころに、新しい歌を与えてくださって、喜びの歌を歌うことができる、それが信仰者であり、教会なのだと、そのように思います。

 今朝は、詩編第32編を読みました。この詩編は、ひとつの見方をすれば、信仰者・教会は、なぜ老いることをも神の恵み、幸いととらえることができるのか、その根拠を歌っていると言えます。たとえ、苦しみが自分を取り囲んでいるというような状況にあっても、たとえ老いの厳しさの苦しみ悲しみ惨めさが自分を取り囲んでも、さらには「死」の大波が目の前に迫り来る、その恐ろしさに震えることがあるとしても、そこでなお、恵み・幸い・祝福を見ることができる、喜びの歌を歌うことができる、その根拠が何であるのか。この詩編はそのことをはっきり示していると思うのです。
 詩編第32編は、冒頭このように始まります。「幸いな者/背きの罪を赦され、罪を覆われた人/幸いな者/主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人。」この詩編が歌いますのは、「罪を赦された人の幸い」です。「罪を赦された」「罪を赦されている」というその幸い・祝福こそが、教会に生きる信仰者たち・私たちが、どのような苦しみに囲まれても喜びの歌を歌うことのできる根拠です。「罪を赦されている幸い」を知っているというところに、老いることさえ神の恵みだと捉えることのできる根拠、そして、死に臨んでも望みを失わないでいることができる根拠がある、そう言えるのです。罪を赦された幸い。それは、私たち信仰者をどのような苦しみに囲まれるときも、死の恐れが襲い来るときでさえも、神の恵みを思い、喜びの歌を歌うことができる者とする、それほどの「幸い」です。信仰者・キリスト者は、神の御前に、罪を赦された「幸い」に生きている、生かされている者たちです。教会は、罪を赦された「幸い」を知る人たちの集まりです。それゆえに、老いの厳しさの中でも神の恵みを見ることができる、「恵老」を知る者たちの群れだと、そう言えるのです。

 今日の説教の題を「私たちの幸せ」といたしました。しかし私たちは普通、「私の幸せ、私の幸い」と言われて何を思い描くでしょう。普通は、私の幸せ・幸いは「罪が赦されたことです」などとはあまり言わないでしょう。教会に生きている私たちは、「罪の赦し」を信じて洗礼を授けられた者たちですけれど、それでも、自分にそれほどの「罪」があるとは実感できないという方もあるでしょう。罪の赦しは、私にとって、私たちにとって、まことに大きな幸い、幸せだというようにはあまり思わない、思えないかもしれません。「私の幸せ」と聞きますとき、私たちはもっと他のことに「幸せ・幸い」を考え、思い描くのではないかと思います。
 しかしこの詩編は、本当に幸いなのは「罪を赦された人」だと高らかに歌いあげます。6節と7節では、この罪赦された人は、「荒ぶる大洪水」のなかにあっても、神のもとに隠れ、神のもとに逃れ行き、「苦しみ」のなかで守られ、「救いの盾で囲」まれる、と歌われます。罪赦された人とは、神との間に何の隔てもなく、神のもとに逃れ、神のもとに身を隠すことのできる人です。神のふところに抱かれるように守られる人です。6節のはじめにありますとおり、神に「祈る」ことができる人です。神に背いていた「背きの罪」を神が覆ってくださり、赦してくださったがゆえに、何に妨げられることもなく、神に祈ることができる。神のもとに逃れ、そのふところに隠れ、守られる。罪赦された人というのは、そのようにまことに幸いな人だと、この詩編は歌っています。
 「荒ぶる大洪水」という言葉に象徴されるわざわいや苦しみ、困難や試練というものが、その人には一切ふりかからない、起こらない、というのではありません。わざわいや苦しみはふりかかります。それはその人をなお囲みます。老いも死も、それによる惨めさや悲しみもなくなるというのではありません。しかし、わざわいや苦しみがふりかかり、それに囲まれるような中にあっても、しかし、その人は神の救いの恵みの盾によって囲まれ、守られるのです。ちょうど台風の目の中にいるように、周りでどのような嵐が吹き荒れていても、そのただ中で、罪の赦しを与えられた人はそこで救いの盾に囲まれている。恵みに囲まれている。それゆえに、わざわいや苦しみの中にあっても、その人には喜びと平安があるのです。

 8-9節では、神ご自身が、赦された人にその御目を注ぎ、語りかけておられます。赦された人は、その神の言葉を聴いています。「私はあなたに悟りを与え、歩むべき道を示そう。」この「」とは、まずは主なる神さまのことと理解されます。神さまご自身が、「あなたを教え導こう」と語りかけておられると読むことができます。その神の言葉をこの人は聴いているのです。「分別のない馬やらばのよう」に分別なく神に逆らい聴き従わない、というのではなくて、神の言葉を聴き、その言葉に教えられ、学んでいる。赦された人は、神に祈り、救いの盾に囲まれて守られ、神の言葉を聴き、神に従う道を学びます。分別をもって神に従う道を学び、その道を歩む人です。
 10節では、この罪を赦された人・神が教え示す道を生きる人は、「主に信頼する人」と呼ばれ、その人は神さまの「慈しみで囲まれる」と、その確かな幸せ・幸いが、さらに力強く歌われます。神さまの変わることのない確かな愛・慈しみが、その人を囲む、と言うのです。この「信頼する」という言葉は、大地の上に体を大の字にして横たわるさまを表わす言葉だと説明されます。罪赦された人は、神のもとで、大地に大の字に身を投げ出すように、のびのびとしている、神に信頼しすべてを委ねて安心しきって、神に従う道を歩んで行くのです。
 そして11節では、その人は「正しき人」「心のまっすぐな人」と自らに呼びかけ、また、同じように罪を赦された仲間たちに向かっても、呼びかけていきます。もう罪を犯すことのない完璧な人、完全な善人・義人となれたから自分は「正しく」「心がまっすぐ」な者だと胸を張っているというのではなく、神さまがその罪を覆って赦してくださった、その恵みの中でただ神さまを信頼して神さまに祈り、神さまの言葉に聴き従って歩む者として、「正しき人「心のまっすぐな人」と自らを呼んでいるのです。また同じように赦された人に呼びかけているのです。神に罪を赦していただいた人、それゆえに救いの恵みの中にあり、ただ神に信頼するがゆえに忠実である人を、「正しい」「まっすぐ」と呼んでいるのです。そして、そのような人に向かって「主によって喜べ、喜び躍れ、喜び歌え」と、赦された喜びが溢れ出すように、主に感謝と讃美をささげようと呼びかけているのです。

 罪を赦されるということが、どれほどに幸いなことであるか、喜びが溢れ出すようなことであるかを、この詩編は歌います。私たち信仰者の、そしてすべての人にとっての真の幸いはこのようなものだと歌っている、そう思います。そこで改めて3-5節に戻りたいと思うのですが、ここで、この罪赦された人は、自分の「罪」がどのようにして赦されたのか、罪を赦されたというすばらしい幸いと喜びがどのようにして与えられたのかということを言い表しています。
 3-4節「私が沈黙していたときは/一日中呻き、骨も朽ち果てました。 昼も夜も御手は私の上に重く/夏の暑さに気力も衰え果てました。」 この人ははじめ、自分の罪を黙っていた、と言います。神さまのみ前に、自分の罪を隠していた、と言うのです。けれど、そうしていたとき、自分の罪を黙り隠していた、「黙秘」していたときには、骨まで朽ち果てると言うほどに苦しかった、と言われています。そして4節では、—ちょうど今私たちも「夏の暑さに気力も衰え果てる」というようなことを毎日思い知っていますけれど— 夏の厳しい暑さが自分の心身を打ちのめすように気力も体力も衰え果てたと言います。なぜなら、自分の上に神の御手が重く置かれていたからだと、言うのです。
 この詩人は、他の誰にも知られなくても神には知られている、その罪を抱えています。神の目に隠しおおせることができる罪などないことを、この人は知っています。それゆえに、自分のしてきた過去の罪のすべては、自分で自覚している罪も自覚していない罪もすべて、神の目の前にさらされているがゆえに、御手がこの上なく重い、神の御手がこの上なく重く自分の上に置かれている、そう感じているのです。自分は神に裁かれ、断罪され、滅ぼされても当然の者だと、自分の罪にあえぎ苦しみ、神の御手はその罪を裁こうとして置かれているがゆえに「重い」のです。その重さが夏の強い日射しのように自分を焼き、心も体も衰え果てた。そういう罪ゆえの苦しみを味わったと言うのです。

 アダム以来、人間というのは、神さまに対して罪を犯してそれを隠す、ということを繰り返していると思わされます。子どもの頃、これは親に知れたら絶対叱られるというようなことをしますと、それがばれないように何とか隠そうとしました。私たちは、誰に教わらなくても罪を隠すということをします。けれど、そうやって隠して黙っていればいるほど、苦しくなる。親の目が恐ろしくなってくる。食欲も無くなって元気がなくなってくる。それと似て、この詩人は、自分の罪を隠していたときに、神の裁きの御手が罪の自分の上に重くのしかかってくるのを覚えて、心も体も衰え果てた、骨まで朽ち果てたと言うほどの苦しみを味わったと言うのです。
 しかしそのとき、この詩人は、自分の上に重くその手を置いている、その神のほうへと向き直ります。5節「私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。 /私は言いました/「私の背きを主に告白しよう」と。/するとあなたは罪の過ちを/ 赦してくださいました。」なぜ、神の御手は夏の日差しのように自分を打っている、「御手が重い」と苦しんでいたこの詩人が、その神に向き直り、自分の罪を包み隠さず神に告げることができたのか、不思議に思います。しかしここで詩人に起こったのは、この人が自分を裁く「重い御手」と思っていた神の御手、その神の御手が、この詩人を罪の中から引きずり出し、引っ張り上げた、そういうことなのではないかと思うのです。この重たい神の御手、それは、この人の罪を断罪しよう、この人を裁いて滅ぼそうとして置かれていたのではなく、この詩人を罪の苦しみの中から引ずり出し、引っ張り上げて、その罪を赦そうとして置かれていた、そういう「重い神の御手」であったと、そうとらえてもよいのではないでしょうか。詩人は、自分の上に重く置かれている神の御手に引きずり出されるようにして、罪あるままの自分をさらけ出したのです。そのとき、神はその重い御手をもってこの人の罪を裁いたのではなく、その重い御手をもってその罪をすべて覆い、そのすべての罪を赦してくださった、この人を罪の苦しみから引き上げ、罪から解き放たれたのです。
 悔い改めというのは、自分を改めて、良い自分になって神さまの前に出る、ということではないのです。そうではなくて、自分の罪を全部ひっさげて、罪のままで神さまの前に出て、何も隠さない、嘘をつかない、神さまを欺かないで、包み隠さず、罪にまみれた自分の全部を、差し出すということなのです。2節に「幸いな者、主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人」と歌われていました。「その霊に欺きのない人」というのは、自分のすべての罪を隠さない、罪のままで神の前に立つ人、ということでしょう。「重い神の御手」に恐れおののきながらも、しかしその御手にすがるようにして、何も隠すことなく罪の自分を差し出すとき、神さまは、そのすべての背き・罪・過ちを、とがめるのではなく、断罪するのではなく、裁くのではなく、赦してくださるのです。

 自分のことで恐縮ですが、私は中学2年生のときに、大切な友人との関係を自ら壊してしまった、ということがありました。それは私にとって「罪」と言うほかないことでした。当時の私は、そのことを中学生なりに深く悩んでいたのですけれど、誰にも相談することはできませんでした。親にも、学校の先生にも、そして教会の牧師にも言えませんでした。誰にも言えずに抱え込んだということが、その罪意識をよけいに大きくすることになりました。思春期特有の潔癖症的なところもあったと思いますけれど、私は、自分は罪深いと、ずいぶん悩みました。洗礼を受けてからもその罪の悩みを持ち続けていました。今思いますと、どうしてその当時、それを牧師に話さなかったのか、話せなかったのだろうと思いますけれど、話して共に祈ってもらっていたらもっと早く楽になったかもしれないと思います。
 罪の意識を持ち続ける、こころに抱き続けるということは、その罪に囚われるということになります。罪意識に支配されるのです。そして、自分のこれほどの罪は決して赦されるものではない、というようにさえ思ってしまう。自分の罪の周りをずっとぐるぐる回り続けて、ちっとも神さまのほうに向かわない、自分の罪の周りを回っているだけで悔い改めない、強く後悔はしていても、悔い改めてはいない。私はずいぶん長く、神学校に入ってからもそういう状態だった、それを繰り返していたように思います。

 そんな私にとりまして、今朝共に読みました、ローマの信徒への手紙の第8章1節は、実に驚くべきみ言葉でした。「従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。」「キリスト・イエスにある者」文字通りには、「キリスト・イエスの中にいる者」、すなわちキリスト・イエスに結ばれる洗礼を受けた者は、もう罪に定められることはない。キリスト・イエスの中にある者。そこに、自分の姿をもようやく見出すことができたとき、私はほんとうに解き放たれたと思います。
 3節の終わりにはこうあります。「神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」キリスト・イエスは、私たちと同じ肉の姿、人間の姿をとってこの世に来てくださり、そしてその肉の体をもって十字架につけられ、その肉を裂かれ、血を流されました。この主イエスの肉の体において私の肉の罪が処罰された。処断された。そのようにして、私の罪は完全に赦された。主イエスが、その肉を裂き血を流して、私の代わりに処罰されてくださった、神に裁かれて死んでくださった。それゆえにもはや私は自分の罪のゆえに、裁かれ処罰されることはない。罪が赦されるというのはそういうことだと示されましたとき、私はほんとうの意味で悔い改めたのではなかったかと思うのです。「私の罪を、私の背きを、私の過ちを、すべて包み隠さず主に告白しよう」と、ようやくこころから祈ることができるようになった。その悔い改めは、とてもゆっくり、長い時間をかけて起こりました。聖霊なる神が、神の重い御手が、私の中に起こしてくださったことでした。

  「幸いな者/背きの罪を赦され、罪を覆われた人。  幸いな者/主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人。」 アウグスティヌスは、この詩編32を特に愛したと伝えられていますが、死を前にしてその病床の傍らの壁に、この詩を刻ませたのだそうです。この詩編を歌いながら死にたいと思った、死に臨もうとしたということでしょう。罪赦された幸い。それは、私たちがどのようなわざわいや苦しみに囲まれても、死の大波にのみ込まれるそのときでさえも、私たちに神を信頼する者のおおらかな平安を与えるのです。台風の目の中のような平安、それは、キリスト・イエスの中にいる恵みと平安でしょう。罪赦された者は、私たちは老いの悲しみと死の恐れに取り囲まれても、どのような苦しみに囲まれても、その中で救いの盾が自分を囲んでいると喜ぶことができる。大地に大の字になって手足を伸ばす子どものように、すべてを神の慈しみの御手に委ねて、平安に死ぬことができるのです。