2024年9月29日 主日礼拝説教「世から選び出され、世に遣わされる」 東野尚志牧師

イザヤ書 第12章1~6節
ヨハネによる福音書 第17章6~19節

 主なる神の招きを受けて、この朝、主のみ前に集っておられる皆さまお一人びとりの上に、主なる神の祝福をお祈りいたします。
 本来ならば、説教の冒頭で語るべきことではないと思いますけれど、ご心配くださる方もあると思いますので、短くご報告いたします。本日、このような形で、礼拝堂の中に姿を見せず、別室からワイヤレスマイクを用いて御言葉を取り次ぐことになりましたのは、始めに司式者が告げましたように、私がコロナに罹患してしまったためです。先週の木曜日の午後あたりから喉が痛くなり、少し咳も出るようになったために、いつもの風邪だと思い、市販の薬を飲んで休みました。熱が出るわけでもなく、喉の痛みも治まったので、金曜日には予定通り出かけたのですが、夜には、咳をすると胸に響くようになりました。これまで経験したことのないような胸の痛みでしたので、肺炎かと思い、昨日、土曜日の朝、コロナの簡易検査キットで調べたところ、陽性が出た次第です。それで、朝のうちに、病院に電話してから出かけました。
 病院では、もう改めて検査するでもなくコロナ患者として扱われ、通常の解熱剤や咳止め、鎮痛剤に加えて、抗ウイルス薬を処方されて、戻りました。幸い、木曜日以降は、いろんな準備で忙しくて執務室にこもっていたために家族との接触はほとんどありませんでした。それで、そのまま、自分自身を執務室に隔離することにしました。昨年からコロナもインフルエンザ並の扱いになりまして、発症日を0日目として5日間は薬を飲み続けて外出を控え、他人との接触を避けるようにとのことでした。一応、金曜日を0日として、今週の水曜日、10月2日までは、一人執務室に引きこもることにしました。今後どうなるかは分かりませんけれど、幸い、今のところは咳をしたときの胸の痛みと目のかすみだけで済んでいるので、今日は、このような形で、別室から説教だけ担当させていただくことにしました。途中、咳き込んだりして、お聞きになりづらいところがありましたら、ご容赦いただきたいと思います。このたびのコロナ罹患は、私自身の不注意と不運によるものであり、皆さまにはお詫びするほかありません。しかしながら、この経験もまた、コロナのために肩身の狭い思いや不安や不自由を味わう方の痛みを分かち合うために、何か役立つものとなればと思っています。

 さて、今日の礼拝については、昨日の午後、妻ひかりが私の病状を心配して、ラインのやり取りで、説教も交代しようかと申し出てくれました。かなり胸が苦しくて熱もあったために、その申し出に甘えようかとも思いました。けれども、その後、熱が下がってきたので、できれば、自分で御言葉を語りたいと思いました。それは、たまたま今日与えられた聖書箇所、そして、今日の説教題が、「キリストの弟子として生きる―祝福を担う群れ・教会」という創立120周年を祝う滝野川教会の年間主題と重なり合い、響き合うように感じられたからです。「世から選び出され、世に遣わされる」。これこそはまさしく、キリストの弟子として生きる、私たち教会の実存を良く現わしている言葉だと言ってよいのではないでしょうか。キリストの弟子とは、世から選び出された者であり、また世に遣わされた者であるということです。
 私たちは、最初から、この世と違うところにいたわけではありません。明らかに、私たちはこの世に属する、この世の一部であり、この世の抱える罪と闇に連なる者でした。この世のほかの人たちと全く同じところにいたのです。けれども、世から選び出された者として、今、ここにいます。つまり、キリストの弟子とは、世から選び出された者である、ということです。さらに言えば、キリストの弟子として生きるとは、世から選び出された者として生きる、ということになります。主イエスは言われます。「世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現わしました」(17章6節)。父なる神が、この世から私たちを選んで、主イエスに与えてくださいました。これが新たな始まりです。主イエスは、ご自分に与えられた人々、つまり、主の弟子とされた私たちに、御名を現わしたと言われます。御名、というのは、「あなたの名」と書かれています。この場合の名前は単なる記号ではありません。人格と存在の全体を表わします。あなた、すなわち神がどのような方であるか、さらに言えば、神がどれほどに世を愛しておられるかということを現わした、ということです。3章16節の言葉を思い起こしてください。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエスは、父なる神から与えられた者たちに、その独り子の命を与えるほどに世を愛してくださった愛の神を、身をもって現わされたのです。

 6節で、主は続けて言われます。「彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えてくださいました」。確かに、私たちは世から選ばれた者であったとしても、さらに遡れば、もともとは神さまのものであったということを、主ははっきりと分かるようにしてくださったのです。さらに、「彼らはあなたの言葉を守っています」と言われます。神が主イエスを通して与えられた言葉、その内容は、続く7節と8節に記されています。「私に与えてくださったものはみな、あなたから出たものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、私はあなたからいただいた言葉を彼らに与え、彼らはそれを受け入れて、私が御もとから出て来たことを本当に知り、あなたが私をお遣わしになったことを信じたからです」。
 主イエスがここで、一貫して、「彼ら」と呼んでおられるのは、もちろん第一義的には、このとき、主の傍らにあって、主が祈られる言葉を聞いている直弟子たちを指しています。しかしそれは同時に、聖書を通して、今、主イエスの祈りの言葉を聞いている私たちのことでもあります。私たちは、福音書が伝えている主イエスの言葉を聞いて、主イエスが父なる神のもとから来られた方であることを知らされました。そして、父なる神が、私たちに命を与えるために、大切な独り子であるイエスさまを遣わしてくださったということを信じているのです。

 主イエスは、私たちのために祈ってくださいます。9節以下です。「彼らのためにお願いします。世のためではなく、私に与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。私のものはすべてあなたのもの、あなたのものは私のものです。私は彼らによって栄光を受けました。私は、もはや世にはいません。彼らは世におりますが、私は御もとに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです」(9~11節)。主イエスは、十字架の死を前にして、後に残していくことになる、愛する弟子たちのために、心を注ぎ出すように祈っておられます。主イエスのものはすべて父なる神のものであり、父なる神のものはすべて主イエスのものである、そのように言いうるほどに、父なる神と主イエスは一体であるということがよく分かります。後に残される弟子たちも、同じように一つになることを願っておられるのです。
 これまでは、主イエスが一緒にいて、弟子たちのことを守ってこられました。主は続けて言われます。「私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし今、私は御もとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためです」(12~13節)。主イエスが、ここで言われる「滅びの子」というのは、主イエスを裏切ったユダのことを指していると思われます。旧約聖書の中で預言されていたことが実現したのです。けれども、他の弟子たちは立派に信仰を守り抜いたということではありません。主イエスが捕らえられるときには、皆、主を見捨てて逃げてしまいます。ペトロは三度も、主イエスのことを「知らない」と言って、自ら主とのつながりを否定してしまうのです。けれども、そのような弱さや罪を抱えた弟子たちのことを、主が御名によって守り抜いてくださいました。主イエスが神のもとに帰られた後も、この主の赦しの愛に守られていることを思い起こすならば、主イエスの喜びが弟子たちの内に満ち溢れるようになると約束されるのです。

 ここで再び、世とキリストの弟子たちとの関係が描かれます。キリストの弟子は、世から選び出された者たちでした。世から選び出された弟子たちは、世から憎まれることになると言われるのです。14節以下です。主イエスは、世から憎まれることになる弟子たちのために祈られます。「私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではないからです。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではありません。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です」(14~17節)。この世から選び出され、神の真理の光に照らされた者たちは、どうしても、この世と対立することになります。主イエス・キリストが世に憎まれて、十字架にかけられ殺されてしまうのですから、その主イエスを救い主と信じて従って行く弟子たちも、主イエスの仲間と見なされ、この世から憎まれることになります。主イエスの真理に属する者とされることによって、この世の価値観と相容れないところが出てくるのは当然とも言えます。キリストの弟子たちにとって、この世はもはや生きやすい場所ではないのです。
 使徒パウロは言いました。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12章2節)。かつての口語訳聖書は「この世と妥協してはならない」と訳していました。長いものに巻かれず、この世の価値観と妥協せずに生きようとするとき、そこにはどうしても生きにくさが生まれます。だからと言って、主イエスは、ご自身に従う者たちがこの世から隔離されて、自分たちだけの理想郷を造ることを求めてはおられません。むしろ、この世のまっただ中に留まって生きるために、悪い者から守られるように祈ってくださるのです。真理である神の言葉によって、聖なる者、すなわち、神のものとして守ってくださいと祈られるのです。

 なぜ、キリストの弟子とされた者たちは、この世から選び出され、この世から憎まれてもなお、この世に留まり続けるのでしょうか。それは、主イエスによって、この世に遣わされているからです。主は言われます。18節です。「私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました」(18節)。父なる神が独り子である主イエスをこの世にお遣わしになったように、主イエスもまた私たちキリストの弟子とされた者たちを、この世に遣わしておられます。私たちは、この世の中から選び出され、召し出されて、主イエス・キリストのものとされました。そして、神のものとして聖別されて、再び、この世へと遣わされて行きます。キリストの弟子として生きる、ということは、この世に遣わされた者として生きる、ということです。しばしばこの世の価値観とぶつかり、生きにくい思いを味わいながら、なぜ、なおもこの世のまっただ中で生きていくのでしょうか。それは、神が世を愛しておられるからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」からです。そしてすべての民をキリストの弟子とするために、主が私たちを、この世に遣わされるのです。
 主イエスは、私たちを世に遣わすにあたって、はなむけの言葉を告げてくださいます。19節です。「彼らのために、私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです」(19節)。主イエスが、ご自身を聖なる者とするというのはどういうことでしょうか。「聖なる者とする」と訳されている言葉は、「聖別する」「きよめる」と訳される言葉です。神のものとして取り分け、神に献げることを意味します。新共同訳聖書では、次のように訳しました。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」。主イエスは、弟子たちのため、そして私たちのために、ご自身を献げてくださいました。その命までも献げてくださったのです。それは、主の十字架の死によって、私たちのすべての罪が贖われ、神の子としての新たな命をいただくためです。私たちは、神の独り子である主イエスの献身に支えられながら、私たちも、主によって新しく生まれた者として、自分自身を主に献げて生きるように、主は、そのように祈っていてくださるのです。

 主イエス・キリストは、私たちを、世から選び出し、ご自身のもの、神のものとして、改めて、私たちを世に遣わしてくださいます。神の愛を証しするためです。キリストの救いを伝えるためです。主は言われます。「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章19~20節)。「いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださった主は、また私たちのために、今も、父なる神のもとで、執り成しの祈りを祈っていてくださいます。主が共にいてくださり、主が執り成していてくださる。それは、過去の弟子たちの話ではなくて、今、この時代、さまざまな困難に取り囲まれながら、キリストの弟子として召され、遣わされている、私たちのための言葉です。分断された世界のただ中で、私たちが一つとなるために、時にこの世の価値観とぶつかって悩み、自分の小ささに挫けそうになりながらも、主が日毎の必要を満たしてくださり、人を赦す勇気と力を与えてくださり、悪しき者から守ってくださることを信じ祈りつつ、キリストの弟子として生き抜いて行きたいと願います。