2024年9月15日 主日礼拝説教「子なる神イエスの栄光」 東野尚志牧師
イザヤ書 第11章1~9節
ヨハネによる福音書 第17章1~5節
先週の日曜日、9月8日は、私の母教会であります大阪教会の講壇に立たせていただきました。大阪教会は、今年で創立150周年になります。創立記念礼拝は、すでに5月に行われたのですけれども、150周年という節目の年を記念して、その後も毎月、出身教職や関係教職が招かれて、礼拝の奉仕をしているのです。私が大阪教会で洗礼を受けたのは、今から43年前、1981年のイースターでした。大阪教会で教会生活を送ったのはわずか4年間、もう40年も前のことになります。お世話になった方たちの多くは天に移され、礼拝に集まった会衆の中に、当時の私を知る人はほとんどおられませんでした。それでも、母教会というのは、特別な存在だと感じました。献堂されてから100年を超えるレンガ造の会堂が、変わりなく迎えてくれたこともあるかもしれません。ヴォーリズの設計による歴史的な建造物です。土曜日の夕刻、礼拝堂の中に入って、懐かしく思い起こしました。いつもここに座って御言葉を聞いていた。ここで主イエス・キリストの福音と出会い、主イエス・キリストを信じた。あの日、この場所にひざまずいて、市川恭二牧師の手で洗礼を授けられた。私自身の信仰の原点を思い起こしました。
子どもの頃、京都の綾部市にある丹陽教会の日曜学校で、聖書の話を聞き続けていました。確かに、そこで、種は蒔かれていたと思います。けれども、実際に、主イエス・キリストを救い主として受け入れ、キリストのものとして新しい命をいただいたのは、大阪教会においてでした。そして、その4年間の教会生活の中で、献身の志を与えられ、東京神学大学に進んだことで、神学生として滝野川教会と出会いました。伝道者となってからも、教会を変わるたびに、別れと新たな出会いを繰り返してきました。恐らく、皆さんの中でも、信仰者としての歩みを続ける中で、教会を変わるという経験をされた方にはお分かりいただけると思います。礼拝をする場所が変わり、一緒に礼拝する仲間が変わり、礼拝の順序や雰囲気が変わる中で、戸惑いを覚えることも多くあります。けれども、目に見えるものは変わっても、目に見えないお方は変わることがありません。私たちは、礼拝において、同じ神さまの招きを受けて、変わることのない主イエス・キリストの現臨にあずかるのです。教会を変わったら、別の神さまを拝んでいるというのではありません。私たちは、礼拝において、決して変わることのない、永遠なるお方に触れている、いや触れられている。教会は、主の日毎の礼拝において、天とつながっています。今、この礼拝において、私たちの前に天が開けていると言ってもよいのです。
地上に生きている私たちの命は、日々、古びて行きます。40年というのは、確かに、イスラエルの民の荒れ野の40年が示しているように、世代交代の期間でもあります。今回、大阪教会を訪ねてみて、それを痛感しました。私たちは、今年、教会創立120年を祝っています。創立100周年以後の教会の歴史については、125年史としてまとめることになっています。5年後のことになります。そのとき、私たちは皆、今より5歳年を取っていることになります。年を重ねた者たちにとって、この5年は大きいのです。果たして、5年後、125年の祝いの年に自分が健在であるかどうかは、誰にも分かりません。さらに、その25年後、150周年の祝いの時には、礼拝に連なる会衆の顔ぶれは大きく変わっていると思います。私を含めて、この中の半数以上は、天に移されているはずなのです。
幼い頃、若い頃には、日々、成長の喜びに包まれていました。しかし、やがて時の流れは、残酷な現実を突きつけます。私たちの肉体に起こる変化は、ある時期から、もはや成長とは呼ばれず、老化と呼ばれるようになります。体の調子が悪くて医者に行くと、必ず言われるのは、老化現象ですね、のひと言です。そんなひと言で片付けて欲しくないと思いながらも、老化という現実を受け入れるしかありません。そして、人によって遅い早いはあっても、やがては、死の時を迎えます。地上の命は死によって終わります。それは、一人の例外もなしに、すべての人に訪れます。死によって、地上におけるすべてのつながりが断ち切られてしまうように思われて、私たちは死を恐れます。死の恐れの中には、洋の東西を問わず、別れの悲しみと、裁きに対する不安が染みついているのだと思います。生きている間にしたこと、しなかったことによって、最後に裁きを受けることになる。私たち自身の罪の意識と結びついて、死はますます恐ろしいものと感じられるようになります。そして、永遠に対する憧れを抱くようになるのです。
けれども、地上の古びていく命しか知らない私たちには、永遠ということが、なかなか捉えにくいと言いますか、実のところ、よく分からないのではないかと思います。永遠の命というと、いつまでも、死なないで生き続けることのように考えます。けれども、今私たちが生きているこの地上の命が、死によって終わるのではなくて、いつまでも続いていくということは、本当に幸いなことだと言えるでしょうか。この世の辛い現実の中で苦しんでいる人たちや、癒やされることのない痛みに日々さいなまれている人たちにとって、それがいつまでも続くということは、むしろ地獄だと思われるかもしれません。自分の犯した過ちや罪に苦しんでいる人にとって、その苦しみがいつまでも続くことを意味します。つまり、痛みや苦しみが癒やされること、究極的には、罪が赦されるということがなければ、いつまでも生きることは不幸を長引かせることにしかならないのです。私たちが生きるということに突き刺さっている罪というトゲが抜かれない限り、そこには、平安も慰めもありません。私たちの罪が赦されること、そこにこそ、本当の救いがあるのです。
永遠の命とは何か。永遠とは何か。その確かな答えが、今日、私たちに与えられた御言葉の中に、はっきりと示されています。ヨハネによる福音書第17章3節です。主イエスは言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。一度読んで、すんなり分かるということはないかもしれません。けれども、これがとても大事な言葉であるということは感じます。永遠というと、時間を限りなく延ばしていくことのようにしか考えていなかった私たちにとって、驚くべき言葉だと言ってよいかもしれません。永遠と時間は、長さの違いではなくて、むしろ、質的な違いであるということを主イエスが告げておられるのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。この言葉を、何度も思い巡らしながら、しっかり受けとめ、また味わっていくとき、救いとはどういうことかが、よく分かるようになるのではないかと思います。
「永遠の命」について、主イエスがこの大切な言葉を語ってくださったのは、最後の晩餐の席上でした。ヨハネによる福音書は、第13章以下、主イエスが十二人の弟子たちと最後の食卓を囲まれた夜のことを描いています。その翌日には、主イエスは捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられることになります。主イエスの地上の命が絶たれる時が近づいているのです。弟子たちとの別れの時が迫っています。主はそのことを強く意識しながら、食事の席から立ち上がって、弟子たちの足を洗って行かれました。そのようにして、具体的な行動を持って、互いに仕え合い、愛し合うようにと教えられたのです。そして、第14章以下は、主イエスの遺言と呼んでもよいでしょう。弟子たちへの別れの説教を語られました。14章から16章まで、3つの章にわたります。そして、この別れの説教は、主イエスの祈りによって結ばれることになります。今日は、第17章の初めのところだけを読みましたけれども、第17章の全体、初めから終わりまでが、主イエスの祈りの言葉です。
第17章に記されている主イエスの祈りは、「大祭司の祈り」と呼ばれてきました。それは、後に残していく弟子たちのための祈りであり、さらには、弟子たちが宣べ伝える福音の言葉を聞いて信じるようになる者たちのための祈りでもあります。20節にこう記されています。「また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします」。主イエスは、目の前にいる弟子たちのためだけではなくて、弟子たち、すなわち、教会が語る言葉によって、主を信じるようになる者たちのために祈っておられます。今、御言葉を聞いている私たちのためにも、主は祈っていてくださるのです。13章以下16章まで、主イエスは、弟子たちのことを見つめながら、別れの言葉を語り続けてこられました。今、その視線を天へとあげて、父なる神に祈りを献げられます。17章1節はこのように始まります。「イエスはこれらのことを話してから、天を見上げて言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください』」。主イエスは、天を見上げて、父なる神に祈りを献げられます。弟子たちは、主のそば近くにいて、主イエスが天を仰いで父なる神に祈られる、その祈りの言葉を聞いているのです。
主イエスは言われました「父よ、時が来ました」。第13章の物語の初めにも記されていました。「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(13章1節)。「この世から父のもとへ移るご自分の時が来た」というのです。それまでは何度か、主イエスご自身が「私の時はまだ来ていません」と言われ、「イエスの時はまだ来ていなかった」と告げられていました。12章の23節で、主は初めて「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。それに続けて語られました。「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章24節)。主イエスご自身が、一粒の麦として、地に落ちて死ぬ時が来たのです。すなわち、神の独り子である主イエスが十字架にかかって死ぬ時が来たのです。しかも、その十字架の死をはっきりと見据えながら、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。主イエスが、十字架と復活を経て、この世から父なる神のもとに移るというのは、人の子として地上を生きて来られた主イエスが、神の子としての栄光を受けられる時でもあるのです。
主イエスは、父なる神から遣わされて、この世に来られました。そして、この地上において、父から託されたすべての業を成し終えて、すなわち、私たちに罪の赦しをもたらす十字架の贖いの業を成し終えて、天に帰ろうとしておられます。それによって、罪を赦し、死を乗り越えさせる神の力、神の栄光を現わされるのです。だから、主イエスは、十字架を見据えながら、父なる神に祈って言われます。「私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、世が造られる前に、私が御もとで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください」(17章4~5節)。主イエスは、世が造られる前から神と共におられました。皆さん、ご記憶でしょうか、ヨハネは、この福音書の冒頭で歌いました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った」(1章1~3節)。そして、クリスマスの出来事を見つめながら語りました。「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(同14節)。確かに、この地上においては、神の独り子としての栄光は隠されていました。けれども今、十字架と復活において、神から遣わされた神の独り子としての栄光が現わされるのです。
主イエスは、この世を去って父のもとに行く時が来たことを意識しながら、父なる神に呼びかけて祈られました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください」。17章1節の言です。主イエスが十字架にかけられること、すなわち、ご自身が栄光を受けられることによって、主イエスを信じる者たちの罪が贖われ、救いが成し遂げられます。主イエスの十字架によって、私たちに対する父なる神の愛が実を結び、私たちの救いの道が拓かれたのです。だから、復活された主イエスに対して、天地万物を支配する権能が与えられました。続く2節で、主イエスは父なる神に向かって言われます。「あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです」。マタイによる福音書も、28章18節以下に、復活された主の言葉を伝えています。主は言われました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章18~20節)。父なる神から、すべての権能を授けられた主イエスは、弟子たちを遣わして、すべての民に福音を伝え、永遠の命を与えようとしておられるのです。
そして、あの決定的な言葉につながります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17章3節)。永遠の命というのは、地上の命をどこまでも延ばしていく終わりのない命ということではありません。唯一のまことの神であるお方と、神が遣わされたイエス・キリストを知ること、それが、永遠の命だと言われるのです。「知る」という言葉で現わされているのは、抽象的な知識として頭で知ることではありません。聖書において、この「知る」という言葉は、人格的な交わりを通して、相手の真実に触れることを現わしています。「知る」という言葉は「信じる」と置き換えてもよいのです。そして、父なる神を知ることと、主イエス・キリストを知ることは、決して、切り分けることができません。私たちは、主イエス・キリストを通して、主イエス・キリストにおいて、父なる神を知る。父なる神と主イエス・キリストとの交わりの中に招き入れられる、と言って良いかも知れません。その神との交わりを生きることこそが、決して滅びることのない永遠の命なのです。
きょうも、私たちは、御言葉によって導かれながら、聖餐の食卓にあずかります。この聖餐において、私たちは、父なる神が御子イエスにおいて成し遂げてくださった救いの命にあずかります。そのようにして、主イエスの救いを味わい知り、主イエスにおいて、父なる神との交わりに生きる喜びを味わい知るのです。そして、やがて、終わりの日には、主が完全に私たちのことを知っていてくださるように、私たちも完全に主を知るようになります。その約束と望みの中に生きるとき、私たちは今すでに、永遠の命の祝福を生き始めているのです。
私たちの地上の命は古びていきます。けれども、主なる神との交わりに生きる命は、決して古びることはありません。日々、新たにされていきます。主イエスは、今も、私たちのために執り成し祈っていてくださいます。私たちは、主の祈りの中に抱えられるようにして、主イエスと共に、天を仰いで、父なる神に栄光を帰する。罪という隔てが取り除かれて、時を超えて、神との交わりに生きる者とされていることを、感謝したいと思います。