2024年8月4日 主日礼拝説教「真理に導く霊」 東野尚志牧師

イザヤ書 第42章1~4節
ヨハネによる福音書 第16章4b~15節

 新しい月、8月を迎えました。毎月、発行しております行事予定表の8月4日、本日の欄をご覧いただきますと、そこに「平和聖日」と記されています。8月は、日本の国にとって、特別なときです。今から79年前の8月、広島と長崎に、相次いで原子爆弾が投下されて、日本は無条件降伏を受け入れました。敗戦というかたちで、ようやく厳しい戦争が終わりを迎えました。無謀な戦争で大きな犠牲が払われたことを覚えながら、日本は平和国家への歩みを始めました。以来80年近く、戦争を経験することなく過ごしてきたのです。戦後、日本基督教団は、8月の第一主日を「平和聖日」と定めて、特に、平和のために心を合わせ、祈る日としています。
 確かに、戦後79年間、日本が戦場となることはありませんでした。けれども、この地上に、戦争がなくなることはありませんでした。いつも、どこかで紛争が起き、テロが起こり、それをきっかけに新たな戦争が始まります。今も、ウクライナとロシアの間で、また聖書の舞台であるパレスチナの地でも戦闘が続いています。日本国憲法は、その第9条において、国際紛争を解決する手段としては、戦争と武力の行使を永久に放棄するとうたいました。この精神を受け継ぎながら、世界の平和の実現のために、祈りを深くしたいと思います。

 しかしまた同時に、私たちは、「平和」ということについて、わきまえていなければならないことがあります。聖書が「平和」について語るとき、それは単に戦争をしていない状態を指しているのではない、ということです。ご承知の方も多いと思います。聖書が語る「平和」は、ヘブライ語の「シャーローム」という言葉に遡ります。「シャーローム」というのは、何かが欠けたり、損なわれたりしていない状態を指します。人間の営みのあらゆる領域において、満ち足りた状態、完全な調和を意味するのです。それで、「平和」と訳されるだけではなくて、「平安」と訳されたり、「健康」「和睦」「繁栄」といった意味で用いられたりすることもあります。ある人は、ただ戦争が無い状態のことを「消極的平和」と呼び、聖書が告げるシャーロームのような状態を「積極的平和」と呼んでいます。その意味では、たとえ戦争をしていなくても、シャーロームが破られることがあるのです。
 果たして、今、私たちは、本当の平和を得ているでしょうか。連日の猛暑の中で、心も体も萎えてしまいそうになるとき、たちどころに平和は危うくなります。悩みや困難に直面するとき、不安や恐れにさいなまれます。体に痛みを覚えるとき、心は波立ちます。そんなとき、つい家族や友人に、きつい態度をとってしまうこともあります。私たちの平和は、日々、脅かされていると言ってもよいのです。そのようなとき、主は、私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな。私はあなたと共にいる」(イザヤ43章5節)。御言葉を通して、主が私たちを励まし、支えてくださいます。どのようなときにも、主が共にいてくださるなら、不安を乗り越えることができます。心の平安を取り戻すことができます。宗教改革者ルターは言いました。たとえ地獄の炎で焼かれているとしても、主イエスが共にいてくださるなら、そこはパラダイスなのだ。主が共にいてくださる、ということが、シャーロームの鍵だと言ってもよいのです。

 その意味では、先ほど朗読したヨハネによる福音書の第16章の記事において、主イエスの弟子たちは、危機的な状況に置かれていたのだと言えます。なぜなら、主イエスは、弟子たちのもとから去って行こうとしておられたからです。それまで、いつも一緒にいてくださった主イエスが、弟子たちから離れていこうとしておられるのです。ヨハネによる福音書の第13章から17章にかけて記されているのは、いわゆる最後の晩餐の場面です。第13章の初めには、次のように記されていました。「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(13章1節)。そして、主イエスは、夕食の席から立ち上がって、弟子たちの足を洗うという象徴的な行為をもって、弟子たちに対する愛を表わされました。同時にまた、主のお手本にならって、弟子たちが互いに愛し合い、仕え合うことを教えられました。そこから続いて14章から16章にかけて、主が弟子たちに語られた言葉は「告別説教」と呼ばれています。弟子たちに対して、別れの説教を語られた後、17章では後に残していく弟子たちのために、執り成しの祈りを祈っておられます。その後、弟子たちと一緒に園に出て行かれた主は、捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられることになるのです。
 ただし、間違えてはなりません。主イエスが十字架にかけられ、殺されてしまうから、これが主イエスとの今生の別れだということではありません。十字架にかけられ、死んで墓に葬られた主イエスは、三日目に墓の中からよみがえって、弟子たちに現れてくださいます。けれども、復活された主イエスは、父なる神のもとへ帰られるのです。「世の罪を取り除く神の小羊」(1章29節)として、ご自分の命を犠牲にして、罪の贖いを成し遂げてくださった主は、地上における救いの業を成し終えて、父なる神のもとへと帰られます。神から遣わされた御子が、地上でなすべき業を終えて、天に帰られるのです。弟子たちの側では、復活された主が、今度こそは、いつまでも自分たちと一緒にいてくださることを願ったに違いありません。それにもかかわらず、主イエスは、弟子たちに、別れを告げようとされるのです。

 主イエスは言われます。「初めからこれらのことを言わなかったのは、私があなたがたと一緒にいたからである。しかし今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている。それなのに、あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない」(16章4b~5節)。こんなふうに言われると、私たちは、前のことを思い出して疑問を抱くかも知れません。この長い話が始まった最初のところで、ペトロは「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねました(13章36節)。また14章の初めのところでは、トマスが「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう」と、食い下がるようにして尋ねています(14章5節)。そのお陰で、私たちは、あの主イエスの言葉を聞くことができました。主は言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(14章6節)。確かに、弟子たちは主イエスに尋ねました。けれども、主イエスがさらに続けて語られる言葉を聞いているうちに、その深い意味も分からないまま、弟子たちは黙り込んでしまっていたのかもしれません。それくらい、悲しみを深くしていたのです。
 弟子たちが、主イエスの別れの説教をどのように聞いていたのかが、5節から6節にかけて示されています。「しかし今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている。それなのに、あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない。かえって、私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は苦しみで満たされている」。ここで「苦しみ」と訳されている言葉は、ヨハネの福音書では、この16章にしか出て来ません。16章では何度も繰り返されています。それは、主イエスが去って行かれる、主イエスと別れなければならない、という特別な苦しみと嘆き、悲しみを表わしているのだと思います。その苦しみと悲しみに心が覆われてしまって、主イエスが父なる神のもとへ行かれることの積極的な意味を捉えることができなくなっているのです。

 弟子たちは、主イエスによって選ばれ、召し出されてから、わずか3年足らずの間とはいえ、主イエスと一緒に旅をしながら過ごしてきました。私たちのように、日曜日だけ教会に来て、主イエスの話を聞くというのではありません。寝食を共にしながら、まさに四六時中、主イエスと一緒に過ごしたのです。主イエスが語られる言葉を、直接、自分の耳で聴きました。主の息づかいや表情にも間近に触れてきました。主がなさる不思議な業も、自分の目で見たのです。私たちは、時折、主の直弟子たちのことをうらやましく思うことがあります。直接、主イエスを知っているということがどんなに恵みに満ちたことかと思うのです。直接、主イエスの言葉を聞いて、主イエスに尋ねることもできたというのは、なんと幸せなことであろうかと憧れます。もし、今ここに、私たちの目の前に、主イエスが一緒にいてくださったら、どんなに心強いことであろうかとも思います。
 ところが、直弟子たちにとっても、主イエスと共に歩むという特権が、永遠に続くわけではありませんでした。主イエスが、父なる神のもとへと帰ってしまわれたなら、もう主のお姿を見ることはできなくなります。主の声を直接に聞くこともできなくなります。自分たちだけで、いったいどうやって、信仰を守っていけば良いのでしょうか。それまでは、主イエスが一緒にいてくださったから、ユダヤ人たちから責められても、安心していられたのです。これからどうしたらよいのか、途方に暮れたのでしょう。
 すべてはここから始まった、と言ってよいのかもしれません。確かに、主イエスの直弟子たちは、主イエスと一緒に過ごすという特権を得ていました。けれども、主イエスの十字架と復活の後、弟子たちは、主イエスが父なる神のもとへ帰って行かれ、もはや以前のように、自分たちと共にいてくださらない、という現実に直面させられることになります。そこで初めて、主がこの地上にはおられないという、不安と恐れ、もどかしさや寂しさを味わうようになりました。そして、この初代の弟子たち以後、2千年にわたって、代々の教会はいつも、主イエスが、目に見える姿で、この地上にはおられないという現実の中を生きてきたのです。主が再び天から降って来られる世の終わりのときまで、弟子たちから離れて天に昇られた主イエスは、天の父なる神のもとにおられるのです。

 それゆえに、今、主イエスがその告別説教において、弟子たちに告げておられる言葉は、ただ最後の晩餐の席に連なる弟子たちに語られただけではありません。主イエスの十字架と復活、昇天以後を生きている代々のすべての教会に向けて、つまり、私たちに向けて語っておられる言葉だと言ってよいのです。主は言われます。「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(16章7節)。主イエスが、自分たちから離れて去って行かれるというので、打ちひしがれている弟子たちに、また、主が去って行かれた後、主のお姿を見ることもできない私たちに、主は、大いなる祝福を告げてくださいます。主イエスが、この世を去って、父なる神のもとに行かれ、父なる神のもとにおられるのは、実は、私たちのためになることであり、喜ぶべきことであると言われるのです。
 なぜでしょうか。父なる神のもとに帰られた主が、父なる神のもとから、弁護者を送ってくださるからです。この弁護者を送るために、主イエスは父なる神のもとへと帰られたと言ってもよいのです。この弁護者については、すでに、14章と15章でも予告されていました。先週読んだ15章26節で、主は言われました。「私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるであろう」。また14章26節で言われました。「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。同じ14章の16節では「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と語られたのです。主イエスは去って行かれます。しかし、主イエスは父なる神のもとから、ご自分の名代として「もうひとりの弁護者」、「真理の霊」である聖霊を送ってくださるというのです。しかも、そのお方は、霊なる神ですから、いつでも、どこでも、私たちと一緒にいてくださる助け主、慰め主なのです。
 もしも、復活された主イエスが、父なる神のもとへ帰られることなく、この地上に残っておられたら、2千年前の弟子たちも、代々の教会も、私たちも、主イエスのお姿を自分の目で見ることができたはずです。けれども、主イエスが目に見える復活の体をもって地上を歩まれたなら、主がおられるところは、その都度、限定されることになります。主イエスがなおもパレスチナに留まっておられたなら、日本でお会いすることはできません。ローマに移られたら、主イエスにお会いするために、ローマまで行かなければならなくなります。けれども、「真理の霊」である聖霊は、時間や空間の制限を受けることなく、いつでも、どこにでも、だれとでも、同時に、共にいてくださることのできる助け主です。この聖霊において、天におられる主が、いつも私たちと共にいてくださるのです。いつも私たちと共にいられるようになるために、復活された主は天に昇られ、ご自身の霊である聖霊を送ってくださったのです。

 主はさらに、私たちのもとに送られた聖霊の働きについて語ってくださいます。8節です。「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」。聖霊は「真理の霊」と呼ばれました。真理の霊が来てくださるとき、罪と義と裁きについての真実が明らかにされます。そのとき、この世の誤りもまた明らかにされるというのです。
 続く9節で「罪についてとは、彼らが私を信じないこと」と告げられます。聖霊なる神は、主イエスが神の独り子、世の罪を贖う救い主であることを明らかにしてくださいます。それによって、私たちが主イエスを信じることができるようにしてくださるのです。使徒パウロは言いました。「神の霊によって語る人は、誰も『イエスは呪われよ』とは言わず、また、聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」(1コリント12章3節)。私たちが、今、目で見ることもできない主イエスを私の救い主として信じることができるのは、聖霊なる神が私たちに働きかけて、私たちのうちに信仰を形づくってくださるからです。
 そして、この真理の光に照らされることによって、神の独り子である主イエスを信じることをせず、主を十字架につけた世の誤り、その罪がはっきりと示されることになります。神が、その独り子をお与えになったほどに、世を愛され、御子を信じる者に永遠の命を与えようとされたにもかかわらず、この神の愛を受け入れようとせず、主イエスを拒んだところに、世の罪が現れているのです。

 続く10節で、「義についてとは、私が父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること」と言われます。聖書における「義」というのは、道徳的な正しさのことではありません。それはなによりも、神と人との関係が正しくあることを表わします。私たちは、神さまに背いて罪を犯し、神さまとの正しい関係を壊してしまいました。しかし、神さまはなおも私たちを見捨てず、愛して、私たちの罪を赦して、義とするために、独り子イエスを世に遣わしてくださいました。御子イエスが私たちのために死んで、よみがえって父なる神のみもとに帰られたことによって、神の義が現わされたのです。主イエスは今も、父なる神の右に座して、私たちのために執り成しをしてくださっています。御子の贖いと執り成しの業によって、私たちは、神の前に義とされているのです。主は天におられ、私たちは主のお姿を目で見ることはできませんけれども、実は、そのお陰で、私たちは、罪赦され、義とされているのだということを、聖霊なる神が私たちに証ししていてくださるのです。
 さらに、神の義は、御子を受け入れようとしないこの世に裁きをもたらします。主は言われます。「また裁きについてとは、この世の支配者が裁かれたことである」(11節)。主イエスは、裁きということについて、既に第3章で次のように語っておられます。神の愛について、救いについて述べられた続きのところです。16節から続けて読んでみます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(3章16~18節)。信じない者はすでに裁かれているというのです。罪の赦しにより、救いをもたらす神の義が現われたにもかかわらず、それを信じないことがすでに裁きになっているというのです。

 私たちは、裁きという言葉に恐れを抱くかも知れません。けれども、「裁く」という言葉のもともとの意味は、「分ける」ということです。主イエスが来てくださったことによって、信じる者と信じない者が分けられるのです。それは、言い換えれば、私たちに、神の救いを信じるか、信じないか、神の愛を受け入れるか、受け入れないか、その決断が求められているということでもあります。確かに、信仰は、ただ聖書の知識をたくさんもっているということで作られるのはありません。「私は信じる」ということを明確にする必要があります。主を信じることを明確に言い表して、洗礼を受けることが求められているのです。
 けれども、何もないところで、決断を求められているのではありません。十字架と復活によって救いを成し遂げ、父なる神のもとに帰られた主が、私たちに聖霊を送ってくださいました。聖霊が私たちのうちに働いて、神の愛と神の義、神の救いを私たちに証ししてくださいます。私たちが信じる者になるように、信じて神のものとなるように、父なる神と主イエス・キリストと聖霊なる神が、その大いなる救いの働きの中に、私たちを巻き込んでくださいます。私たちを愛してくださる父なる神と罪の贖いを成し遂げてくださった御子イエス・キリストと私たちを真理に導いてくださる聖霊が、一つになって、私たちを救われた命へと招いてくださっているのです。  主は私たちに告げてくださいます。「恐れるな、私はあなたと共にいる」。主が共にいてくださるところに、まことの平和、シャーロームが実現するのです。