2024年8月25日 夏期修養会主日礼拝説教「キリストの弟子として生きる」 東野尚志牧師


夏期修養会(軽井沢追分寮)

創世記 第12章1~3節
マタイによる福音書 第28章16~20節

 2024年度の夏期修養会の最終日、主の日の朝を迎えました。改めて、3日間のプログラムがここまで守られたことを、神さまに感謝いたします。初日の開会礼拝において語られたメッセージ、2人の兄弟姉妹による発題、そして分団1での協議、2日目の早天礼拝で語られたメッセージ、そして午前中の分団2での協議、夜のキャンドルサービスにおける3人の姉妹による証し。私たちは、ここまで、たくさんの心に響く言葉を聞き続けて来ました。その合間、合間、食堂で、それぞれの部屋で、また戸外で散策をしながら、花火を楽しみながら、親しく語り合い、交わりを楽しんで来ました。比較的ゆったりとしたプログラムの中で、しかし中身の濃い3日間を過ごして来ました。そして、いよいよこの最終日の主日礼拝を経て、その後の全体協議と感謝祈祷会をもって3日間のプログラムを終えることになります。
 修養会を開催する前には、いろいろな不安がありました。今年度は、初めての試みとして、この修養会に先立って、教会全体一日修養会を開催しました。宿泊を含めての参加が難しくなる方が多い中、ひとりでも多くの人が修養会の学びと交わりに加わることができるようにと願って、休日を用いた一日修養会をメインの学びの時として位置付けたのです。そして、すでに5月、6月に開催された2度にわたる教会全体研修会の学びの記録と、一日修養会の記録と参加者の感想をすべて盛り込んだ26ページ建ての『椎の樹』329号を発行していただきました。これをテキストにする形で夏期修養会を計画し、参加を呼び掛けたのです。なかなか参加申し込みが増えない中で、もしかしたら、進め方を間違えたかなとも思いました。泊りがけの修養会に参加するのが難しいというだけではなくて、すでにメインの学びは終えたという思いから、夏期修養会への参加意欲がそがれてしまったのではないか、そんな不安も抱きました。けれども、最終的には、21名の参加者が与えられ、しかも、初めて参加する人や久しぶりに参加する人も与えられ、さらには、参加できない教会の仲間たちから多くのメッセージをいただいて大いに励まされました。そして、きょう、最終日の礼拝の時を迎えたのです。

 教会創立120周年、この節目の記念の年を意識して、今年度は、年間を通しての主題を掲げました。近年は、あまりなかったことではないかと思います。「キリストの弟子として生きる―祝福を担う群れ・教会」。この主題と副題に合わせて、復活された主イエス・キリストによる大伝道命令が記された、マタイによる福音書の最後の言葉を主題聖句として掲げました。研修会と修養会で主題についての学びを重ねて来た上で、この夏期修養会最終日の礼拝においても、年間主題をそのまま説教題として掲げました。そして、主題聖句を含むマタイによる福音書の言葉を朗読したのです。
 もしかすると、今年度の初めに、主題と副題、そして主題聖句が提示されたときから、何かスッキリしない感じを抱いて来られた方があったかもしれません。主題と副題はどのようにつながっているのか。主題と聖書の言葉はどのように関わっているのか。必ずしもすんなりつながっているとは思えないところがあるのは事実だからです。「祝福を担う」という言い方に、ひっかかりを覚えた方もありました。「キリストの弟子」であることと「祝福を担う」ということはどのように結びつくのか。感の良い方は、この両者を結びつけるために、「祝福を担う群れ」の後に、中黒の点を挟んで、「教会」と記したのではないかと思われたかもしれません。「弟子」「祝福」「教会」という言葉のつながりに頭を悩ませながら、しかもそれが、復活者キリストによる大伝道命令とどうつながっているのか、スッキリしないモヤモヤを抱えながら、修養会に参加された方もあったのではないかと思います。しかし、これもまた、感の良い方は気づいておられるかもしれませんが、5年前に、私が滝野川教会の主任牧師として着任して以来ずっと、課題として問い続けて来たのは、教会とは何か、ということです。教会とは何か、教会は何によって立つのか、教会は何を託されているのか、教会をめぐる問いを掲げ続けて来たのです。

 実は、今から5年前、私自身が、滝野川教会からの招きを受けたとき、率直に、私に求められたのは、教会再建という大きな課題でした。かつては滝野川教会の最大の強みであった複数教職による牧師会の絆と指導体制が崩壊し、教会内で深刻な分裂を経験して教会が深く傷ついていることを聞かされていましたので、その招きを断ることができませんでした。決して、前任の聖学院教会での務めに不満があったわけではありません。聖学院教会で牧師をしていた10年2か月の間に、神学校の学長を通して、何度か他の大きな教会への移動の打診を受けました。尊敬する先輩牧師から、後を引き継いでほしいという依頼を受けたこともありました。東北にあるキリスト教大学へのお誘いを受けたこともありました。しかし結局は、聖学院教会で取り組んでいる課題がまだ道半ばであるという理由で、すべてお断りを続けて来ました。
 ご承知のように、聖学院教会は、かつて緑聖伝道所として、滝野川教会と聖学院が協力して生み出した教会です。その後、聖学院大学のキャンパスの中にある教会となって、ともすれば、大学の意向や方針に影響される中で、教会としての立場を明確にしていくことが大きな課題でした。大学と対等なパートナーとして、伝道と教育に協力していくこと、宗教法人として独立することが困難な状況の中で、大学内での教会の積極的な位置づけをしていくこと、そして、地域への伝道を進めていくことが大事な課題でした。十分に成し遂げたとは思っていません。それはなおも道半ばではありましたけれど、私自身のできることにひと区切りつけて、後任牧師の目途をつけた上で、滝野川教会からの招聘を受けることにしたのです。それ以来、滝野川教会の教会としての再出発のために、「教会」を主題として学びを続けて来ました。
 そこに思いがけず、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックが襲い掛かりました。人間には計り知れないことです。コロナ禍の中での礼拝継続、コロナ後の礼拝再建の課題が重なり合いながら、そこでも、教会についての問いを続けて来ました。振り返ってみれば、聖学院教会においても、滝野川教会においても、それぞれの置かれた状況の中で、教会としての形成と確立に取り組んで来たと言ってよいのだと思います。その学びと取り組みの中で、教会に連なる一人ひとりの信徒たちの信仰の成長と成熟を願って、共に学びと研鑽を続けて来たのです。

 そんな中で、滝野川教会の聖書研究・祈祷会において、創世記を学ぶことになりました。改めて、聖書全体の最初の書物である創世記の御言葉を味わいながら、神さまのご計画と御業について深く学ばせられました。創世記は、神さまが、天と地とそこに生きるすべてのものを良きものとして創造されたことを記しています。その創造の御業の最後に、神さまは、私たち人間をご自分のかたちに造られ、祝福して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」(1章28節)。神はすべてを良きものとしてお造りになり、ご自身にかたどって造られた人間を大いに祝福されたのです。世界の初めにあったのは、神の祝福です。祝福だけです。神に良しとされ、神に喜ばれるものとして、神と共ある祝福が告げられたのです。ところが、そのすぐあと、創世記第3章において、祝福の対極にある呪いが告げられることになります。神の言葉に背いて、神との約束を破ってしまったために、人間は自らを、神の前に呪われたものにしてしまったのです。そしてついには、造られたものである人間が、造り主である神を差し置いて、自ら神のようになろうとした傲慢な罪のゆえに、全地の面に散らされてしまいました。
 しかし、神さまは、それでも人間を愛し、祝福を回復するために、一人の人をお選びになりました。マタイによる福音書の言葉と合わせて朗読した創世記第12章の冒頭に記されています。主なる神は、アブラム、後のアブラハムを選び出して言われました。「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる」(12章2節)。「地上のすべての氏族は あなたによって祝福される」(同3節)。新共同訳聖書では「祝福の源」と訳されていましたが、聖書協会共同訳になって「祝福の基」という表現に戻りました。アブラハムによって、アブラハムを通して、全地に散らされた地上のすべての氏族が、再び祝福に入るという意味で、「祝福の源」「祝福の基」と訳したわけです。けれども、ヘブライ語の原文には「源」「基」にあたる単語はありません。アブラハム自身が、この世に対する祝福となり、以後その子孫は、この世に対する神の祝福を受け継ぎ、祝福を担うものとされたのです。アブラハム、イサク、ヤコブと続き、ヤコブは神さまからイスラエルという新しい名前をいただきました。さらに、モーセのとき、イスラエルは神さまと契約を結んで、神の民とされました。選ばれた民であるイスラエルが、全世界に対する祝福を担う民とされたのです。人間の罪のゆえに呪われるものとなってしまった世界は、ユダヤ人を通して、再び神の祝福にあずかるようになるはずであったのです。

 ところが、皆さんもご承知のように、誤った選民意識によってユダヤ人は思い上がり、神を知らない異邦人を蔑み、祝福の基、祝福そのものとなる使命をなおざりにしました。繰り返し、神の言葉に背いて、命のない死んだ偶像の神々を頼り、膝をかがめました。目に見える繫栄や力に心奪われてしまったのです。偶像を拝んでいる民を、神さまは深い悲しみをもって見つめられたに違いありません。神さまはご自身に背いた民をお見捨てにならず、預言者を遣わして、その立ち帰りを求められました。ついには国が滅ぼされ、捕囚の苦しみを味わった後にも、解放者を立てて、エルサレムの再建を許されました。それでもなお、目に見える力にあこがれ、敵を打ち倒す栄光のメシアを求めた民の中に、神さまはついに、愛する独り子イエスを遣わされました。神さまの独り子である主イエスが、ユダヤ人の一人としてお生まれになった。この事実は、神さまが、なおもユダヤ人を見捨てておられないというしるしです。独り子イエスによって、神の民イスラエルを立て直そうとされたのです。
 しかし、ユダヤ人たちは、主イエスを受け入れようとしませんでした。それは、主イエスが、自分たちの求めた、自分たちの気に入るメシアではなかったからです。主イエスは、人々が求めた栄光のメシアではなくて、苦難のメシアでした。イザヤ書第53章の苦難の僕の歌が告げたように、民の背きの罪を背負って、その命を絶たれ、自らの命を犠牲にして神への執り成しをする苦難のメシアであったのです。それは、神に背いた罪のゆえに、呪われるものとなってしまった人間を、罪の呪いの中から贖い出して、祝福にあずからせるためでした。主イエスは、十字架にかけられ、自らが神に呪われたものとなって、私たちが受けるべき呪いをすべてご自身の上に引き受けてくださいました。そして、私たちには、ただ祝福だけを残そうとされたのです。それは、まさに、祝福された人間の再創造と呼んでよいと思います。しかも、その再創造は、律法に基づく契約によってではなくて、十字架で流された神の御子の血による新しい契約によって実現されたのです。主イエスにおいて、新しい神の民が召集されることになりました。

 十字架にかけられ、贖いの業を成し遂げて、墓の中から復活された主イエスは、かつてガリラヤの地で宣教を始められた時から、ずっと一緒に過ごして来た弟子たちを、改めて、ガリラヤの地に呼び集められました。マタイによる福音書の第28章16節に記されています。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った」。「ガリラヤ」。それはかつて、宣教の第一声を響かせられた地でした。ユダヤの宗教の中心であったエルサレムから見れば、北の果て、辺境の地です。預言者イザヤは、「異邦人のガリラヤ」と呼びました。しかし、そのイザヤは、「異邦人のガリラヤ 闇の中に住む民は 大いなる光を見た」と預言したのです(イザヤ9章1節)。マタイによる福音書は、主イエスの宣教開始を告げた第4章において、このイザヤの預言を引用しながら、主イエスの宣教開始によって、イザヤの言葉が実現した、と証ししました。確かに、マタイによる福音書はユダヤ人に向けて書かれた福音書だと言われて来ました。主イエスは何よりも、イスラエルの失われた羊を訪ね求め、神の民イスラエルを立て直そうとされました。けれども、旧約聖書において、もうすでに、異邦人を照らす救いの光となることが預言されていたのです。そして、主イエスの十字架と復活によって、新しい神の民が召集されるとき、主は、まず異邦人のガリラヤに赴かれたと、マタイは告げているのです。
 ガリラヤで、主イエスに予め指示されていた山に登った十一人の弟子たちは、改めて、復活された栄光の主と出会いました。主の前にひれ伏して、神として礼拝しました。ところが、「疑う者もいた」と福音書は記します。復活の主の前に召し出されているにもかかわらず、なお主イエスを信じ切ることのできない者たちもいたのです。それが、いつの時代も、教会の現実であると言ってよいのだと思います。私たちの現実です。私たちも、信じていても疑いを抱くことが幾度もあるのです。けれども、主イエスは、そんなことを問題にはされません。圧倒的な復活の力に満ちておられる主が、疑い迷う者たちをも召し出して、ご自身の栄光のうちに包み込んでおられるのです。主は宣言されます。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」(28章18~19節)。「すべての民を私の弟子にしなさい」と主は言われます。主イエスは、まことの王として、造られたすべてのものを治める権能を担われました。権能というのは、権威であり、力です。十字架と復活の主の力、それは、何よりも、罪人の罪を赦し、ご自身のものとして新しい命を与える再創造の力です。主イエスは、その権能を教会に託して、弟子たちにお命じになります。

 「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」。よみがえりの主は弟子たちに、そして代々の教会に命じて言われます。「行きなさい」「弟子にしなさい」「洗礼を授けなさい」「教えなさい」。私たちは、自らが洗礼を受けて、古い罪の自分に死んで、キリストのもの、主の弟子として新しく生まれたものとして、さらに多くの者たちを、いやすべての民を主の弟子とするようにと遣わされているのです。弟子というのは、父と子と聖霊の名によって、洗礼を授けられ、主と一つに結び合わされた者たちです。礼拝は、ファンが集まるコンサートやライブとは違います。好きなアーティストを押すために集まっているファン・ミーティングとは違います。主イエスによって招かれて、洗礼を受けて主の弟子たちの群れに加えられ、さらに主の弟子たちが増し加えられていく群れ、それが私たち教会です。私たちが礼拝する主のお姿は目には見えませんけれども、主が私たちを召し出してくださり、主が私たちに語り掛けてくださいます。主が私たちを弟子としてくださり、さらにすべての民を弟子とするように、さあ、主の弟子たちよ、証し人の群れとして出ていきなさい、と言われるのです。
 主の日の礼拝を終えて、それぞれに出ていく場所に、実は、主が私たちを遣わしておられます。私たちは、世に対する祝福を担っている教会のひと肢として、父なる神が世を愛しておられ、私たち一人ひとりを救おうとしておられる、主の愛と祝福の証人として遣わされていくのです。私たちは、ただ散らされていくのではありません。遣わされていきます。そして、遣わしてくださるお方自身が、霊において、いつでも私たちと共にいてくださるのです。マタイによる福音書は、主イエスの誕生の記事においても、預言者イザヤの言葉を引用してその預言が実現したと告げています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは、『神は私たちと共におられる』という意味である」(1章23節)。「神は私たちと共におられる」。この旧約聖書の預言が、主イエス・キリストにおいて実現しました。主のご生涯の初めに告げられた言葉と響き合うように、福音書の結びにおいて、主ご自身が約束してくださいました。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

 聖書の原文を見ますと、ここに訳されてはいないのですけれど、「見よ」という言葉があります。「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主は、私たちに「見よ」と語りかけておられます。肉の目で見ることはできなくても、霊の目において、信仰の眼によって、さあ見よ、私はここにいる。私はあなたと共にいる。恐れるな。私と共に出て行こう。主はそのように告げてくださいます。主はご自分の命を犠牲にして、救い上げ、召し出してくださった教会と共にいてくださいます。そして、私たち教会を用いて、ご自分の救いの御業をさらに全世界へ広めていこうとしておられるのです。

 この世界はなおも混沌としています。今もなお闇の力が働いていることを認めざるを得ません。しかし、そのただ中で、再創造としての神の救いの御業は前進していくのです。教会は、まさにその前進基地であり、砦です。私たちは、そのような教会のひと肢として、神によって召し出されました。そして、主と出会い、主の弟子とされた者たちとして、救いの喜びと祝福を証しするために、主ご自身によってここから遣わされていくのです。