2024年8月25日 主日礼拝説教「へりくだって、神と共に歩む」 菊地 順 牧師

ミカ書 第6章6~8節
フィリピの信徒への手紙 第2章1~11節

 「人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を行い、慈しみを愛し、て、主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を行い、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。」
 ここでは、問答形式を取って、一つの重要な問いが問われています。それは、6節に記された言葉、「何をもって主にまみえ、いと高き神にぬかずくべきか」という問いです。すなわち、神の前にどのようにぬかずくべきか、ぬかずくにふさわしい在り方とはどういうものかという問いです。そして、その問いに対する答えとして、この八節の言葉が語られたわけです。おそらく、この問答は、当時すでに礼拝の形式として整えられ、用いられていたものと思われます。そして、そこでは、問う者と答える者とが、それぞれに問答する形で礼拝が守られていたことと思います。しかし、それ以上に、この問いと答えは、預言者ミカ自身の、内なる自問自答であったとも言えるように思います。「何をもって主にまみえ、いと高き神のみ前にぬかずくべきか」、<何をもって、いと高き神の前にふさわしく立つことができるのか>、ミカは預言者として、そのふさわしい在り方を深く問わざるを得なかったのではないかと思います。おそらく、そこには、いと高き神にふさわしくない自分の姿があったのではないでしょうか。そして、ふさわしくない者が神の前に出るという恐れがあったのではないでしょうか。そのため、ミカは問わざるを得なかったのです。何をもって、いと高き神のみ前にぬかずくべきかと。しかし、それはまた、ただミカだけの問いではなく、神に従うすべての者の問いでもあるのではないでしょうか。

 ここでミカは、その自問自答を、祖先たちの教えに従って、繰り返しています。最初に、ミカは問います。「焼き尽くすいけにえか、一歳の子牛か」。まず、そのような犠牲を捧げることなのかと問います。それに対して、「果たして、主は幾千の雄羊、幾万のしたたる油を喜ばれるだろうか」と反問しています。おそらく、この反問には、預言者ホセアのあの言葉が反響しているのではないでしょうか。すなわち、「私(すなわち、神)が喜ぶのは慈しみであって、いけにえではない。神を知ることであって、焼き尽くすいけにえではない」(ホセア6章6節)というホセアの言葉です。そこで、ミカはさらに問います。「私は自らの背きの罪のために長子を、自らの罪のために胎から生まれた子を献げるべきか」。旧約聖書には、人身供犠の実例はありません。しかし、アブラハムが、その子イサクを、神の命令に従って神に捧げる寸前にまで行った話を、ミカはここで思い起こしているのではないかと思います。そして、長子という、犠牲の中でも最も尊い犠牲を捧げることなのかと問うたのです。そのように、ミカは、神の前に出るにふさわしい在り方を巡って、深く問わざるを得なかったのです。
 しかし、その結果得られた答えは、ある意味、意外なものであったとも言えます。それは、決して、ものではなかったからです。犠牲ではなかったからです。そうではなく、それは、預言者ミカ自身の歩み、その生き方を求めるものであったからです。そして、その意味では、それはミカ自身が求められることであったとも言えます。ふさわしいのは、たとえこの世の最高のものであっても、それを捧げることではなく、むしろ、あなた自身を捧げること、「公正を行い、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことである」と告げられたのです。そして、それが、預言者ミカがこの自問自答によって至った究極の答えであったのです。
 しかし、これはまた、わたしたちキリスト者の究極の答えでもあるのではないでしょうか。もちろん、そこにはイエス・キリストという名前が入ってきます。イエス・キリストにおいて、「公正を行い、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むこと」、それがわたしたちの究極の答え、目標ではないでしょうか。それは、何よりも、主イエスご自身が、正にこのみ言葉を生きられた方であるからです。そして、そのことによって、父なる神と1つであられたからです。主イエスに従ったパウロも、特に「へりくだる」ことの重要性を強調しました。なぜなら、それなしには、父なる神と一つであることはできないからなのです。それは、父なる神は、その造られたものを深く愛してやまない方であるからです。そして、愛してやまない神の、その愛の本質が、へりくだるということにあったからなのです。

 わたしが神学生であった時に教わった旧約聖書学の左近淑先生は、この神を「低きにくだる神」と表現しました。歴史を超えて支配される神は、また同時に、歴史に深く関わられ、取るに足りないイスラエル民族に、導きと救いのみ手を差し伸べられた神なのです。悪と罪が満ちる世界に、正に身をかがめて救いのみ手をさしのべられたのが、旧約聖書に記されている神なのです。そして、そのみ手は、時至って、ご自身のみ子をこの世界へと送り出されたのです。そればかりか、主イエスご自身が深くへりくだられ、わたしたち罪人の足元まで降りて来てくださったのです。パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、そのことを声高らかに賛美しつつ語っています。「キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。この言葉も、すでに当時定式化された文言であったようですが、この言葉ほど主イエスの本質を語る言葉はないのではないでしょうか。そして、それは、父なる神の御心に完全に叶う歩みであったのです。そのため、パウロは、続けてこう賛美します。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが、膝をかがめ、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神が崇められるためなのです。」
 これが、わたしたちの救い主、主イエス・キリストなのです。そして、聖書は、ここにこそ、神の愛があると語ります。というのも、先ほども触れましたように、へりくだりこそ愛の本質であるからです。ご存知のように、新約聖書で用いられている愛というギリシャ語は、アガペーといいます。それは、エロースとかフィリアと言った、愛を表す他のギリシャ語とは異なる、神の愛を語る言葉であると言われています。それは、エロースやフィリアと言った言葉は、ある価値を前提とする言葉だからです。価値があるから愛するというのが、エロースでありフィリアです。しかし、神の愛であるアガペーは、価値があるから愛するのではないのです。むしろ、価値のないものであっても愛するのです。そして、そこに価値を生み出していくのです。それが、神の愛なのです。わたしたちは、神の愛にふさわしいから愛されているのではないのです。そうではなく、神ご自身が愛そのものであるから、わたしたちをも愛してくださるのです。罪と悪にまみれたわたしたちをも愛してくださり、わたしたちと1つとなり、赦しと励ましをお与えくださるのです。

 12世紀に活躍したある神学者は、愛は水に似ているということを語っています。水は、何よりも、低いところへと流れて行きます。決して高いところには流れません。低いところ、低いところへと流れていきます。それは、愛も同じだと言うのです。神の愛も、低いところへと流れて行きます。価値のない、取るに足りないところにも流れて行くのです。そして、それだけではなく、水はその流れ着いたところの形にしたがって形を取っていきます。四角であれば四角になり、丸であれば丸くなります。そのように、水は低く下るだけではなく、下って行ったところの形に合わせて同じ形を取るのです。そして、愛も同じなのです。相手に合わせて形を変えるのです。そして、相手に似ていくのです。そして、相手と一つとなっていくのです。それが愛なのです。キリストは、神の子であるにもかかわらず、人間の形をとってこの世に来られました。それは、人間を深く愛されたからです。そのように、愛は愛するものに似ていくのです。そして、一つとなっていくのです。そして、慰め、励まし、力づけていくのです。
 この神の愛のへりくだりについて、古代の最大の教父と言われるアウグスティヌスは、大変興味深いことを語っています。アウグスティヌスは、回心に至るまで、深い苦悩を経験した人ですが、その一つに、神に出会うという経験をしながらも、その神に留まることができないという苦悩に突き当たりました。しかし、それが、アウグスティヌスがキリストに出会うきっかけともなったのです。というのも、アウグスティヌスは、そのとき、パウロの書簡を通してキリストのへりくだりということを知り、そのへりくだりにおいてこそ、神と共にあることができるという深い救いの経験をすることができたからなのです。アウグスティヌスは、その時の経験を、こう語っています。「昇らんがために、神にむかって昇らんがために、降りなければならなかった」。アウグスティヌスは、高き神のところへ昇ろう、昇ろうとしたのです。しかし、それは、実際には下へと降りることであったというのです。キリストという謙遜の元に降りることこそ、神と一つとなる永遠の喜びであることを知ったのです。正に、「昇らんがために、神にむかって昇らんがために、降りなければならなかった」のです。
 それゆえ、パウロも、わたしたちにこう語っています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考えなさい。めいめい、自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と。わたしたちは、利己心や虚栄心に走りやすい者です。いつも自分のことだけを考えてしまう輩です。モーセの十戒の第一戒で、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」と戒められていますが、ヤハウェ以外の神々を神にするどころか、わたしたちは、何よりも、自分自身を神の位置に置こうとする輩ではないでしょうか。それほどまでに、わたしたちは自分自身に凝り固まった者なのです。宗教改革者のマルティン・ルターも、「人間は本性上、生まれながらにして神を神たらしめることができない。常に自己を神たらしめるからである」と語っています。また、だからこそ、生涯にわたって悔い改めが不可欠であるとも語りました。そうであるならば、わたしたちは、絶えずこの罪深さを自覚しながら、常に主の御姿を仰ぎ見つつ、へりくだって、神と共に歩んで行かなければならないのです。そして、そこにこそ、人間の最もふさわしい歩みがあり、また深い喜びと慰めがあるのです。そしてまた、実際、多くの人たちが、その道を歩んできたのです。今日は、最後に、そのような歩みをした一人の女性を皆さんに紹介したいと思います。それは、井深八重という女性です。

 皆さんは、井深八重という女性についてご存じでしょうか。この女性について、すでにあちらこちらで話しておりますので、すでにお聞きになった方もおられるかもしれません。井深八重という女性は、静岡の御殿場にある神山復生病院というハンセン病療養所で、ハンセン病患者のために、看護婦としてその生涯を捧げた女性です。この病院は、1889年、明治22年に、フランス人のジェルマン・レジェ・テストヴィドというカトリックの神父によって設立され、約100年に渡ってハンセン病の療養所として活動してきた施設で、現在はその使命を終え、新たにホスピスとして歩みだしていますが、この病院で、その生涯を捧げて、ハンセン病患者のために尽くしたのが、井深八重という女性です。
 井深八重は、明治学院の初代副総理となり、その後第2代総理として活躍した井深梶之助の姪に当たる人です。梶之助の実弟で、後に国会議員になった井深彦三郎の娘です。この井深家というのは、旧会津藩の名家で、この井深家からはソニーの創業者井深大(まさる)も出ています。私も会津の出身ですので、この女性に関心があり、それもあって、今日、皆さんに紹介したいと思いました。なお、以前、NHKの大河ドラマで「八重の桜」というのがありましたが、その八重とは別人です。ところで、この井深八重が、なぜハンセン病の療養所で看護婦として働くことになったのかといいますと、そこには大きな偶然が介入していました。
 井深八重は、明治23年、東京に生まれましたが、幼くして母と別れ、また父親は一旗上げようとして中国に渡りましたので、物心がつく頃から叔父の梶之助の家に預けられました。そのため、現在明治学院大学がある白金のキャンパスで成長しました。そして、初等教育を終えた後、当時開学したばかりの同志社女学校に入り、七年間寄宿生活をし、卒業後は長崎の県立女学校に英語の教師として赴任しました。しかし、その約1年後、体にある異変が生じます。皮膚に吹出物のような斑点が現われ、体調も崩してしまいます。そこで、福岡にある大学病院で検査を受けることになったのです。しかし、検査を受けたところ、その結果は何も告げられませんでした。告げられないどころか、何の理由も語られないまま、九州から御殿場の神山復生病院へ、叔父夫婦によって連れていかれたのです。そして、そこに到着して初めて、その診断結果が、当時の言葉で、「らい病」であると告げられたのです。八重、22歳のときでした。すでに縁談の話もあり、正に人生の春爛漫のときに、一挙に生き地獄へと突き落とされることになったのです。
 ご存知のように、当時の日本社会にはハンセン病に対する理解はなく、それはしばしば呪われた「恥ずべき業病」として人々から忌み嫌われ、社会から完全に隔離された生活を余儀なくされていました。そして、八重も突然そうした生活へと追いやられることになったのです。そのときの絶望は如何ほどのものであったでしょうか。そこには、想像を絶するものがあります。しかし、そうした生活にもかすかな救いがありました。それは、当時神山復生病院の第五代院長をしていたフランス人のドワールド・レゼーという神父が、八重を信仰に導く一方、八重の知性のすばらしさを知り、自分の助手として指導したからです。八重は自分のために建てられた家から、毎日レゼー神父のもとに通い、神父を助けながら、少しずつ生きる力を回復していきました。そしてそんな中、思いもかけないことが起こったのです。
 入居してから1年ほどしたとき、あまり病状の進展の見られない八重に、レゼー神父が東京の皮膚科の権威にもう1度診察をしてもらうようにと勧めたのです。そしてその言葉に従って診察を受けたところ、何と「らい病」とは誤診であることが分かったのです。そのときの八重の驚きはどれほどのものであったでしょうか。この報告を受けたレゼー神父は非常に喜び、八重に、「ここから」、すなわち療養所から自由に出てもいいこと、また必要ならフランスに渡って生活できるよう手配をしようとまで言ってくれました。それは、当時、一度「らい病」の施設に入った者は、社会復帰が事実上不可能であったからです。しかしそのとき、八重の心の中にはある思いが湧き上がりつつありました。それは、フランスから日本にまで来て、しかも人々から忌み嫌われ、同胞の日本人ですら手を差し伸べようとしなかった「らい病」の人たちのために、命をかけて仕えているレゼー神父を残して、日本人として「ここを出ることはできない」という思いでした。そして八重は、何と、そこに留まる決心をしたのです。
 その後、レゼー神父を助けるべく八重は看護学校に行き、卒業後直ちにこの神山復生病院に帰ってきて、レゼー神父を助けることになります。その後レゼー神父は81歳の生涯を終え、その病院の墓地にハンセン病で亡くなった日本人たちと共に葬られましたが、八重はレゼー神父の後任として、第6代院長として赴任した岩下壮1神父にも同じようにして仕え、看護婦として、またクリスチャンとして、ハンセン病の人たちの看護に生涯を捧げたのです。その尊い働きが認められ、1959年には黄綬褒章(おうじゅほうしょう)が、また1961年にはナイチンゲール記章が授与されています。そして1989年、御殿場の地で、91歳の生涯を終えました。

 この井深八重やレゼー神父や、その後任の岩下壮一神父の生き方を想うとき、その生き方には、それに先立って歩まれる主イエスの姿が見えてくるのではないでしょうか。わたしたちの罪のために、十字架の死にまでへりくだられた主イエスの姿を、そこに見ることができるように思います。ご存知の方も多いと思いますが、横須賀で「横須賀基督教社会館」という福祉施設の館長を50年に渡って務められた阿部志郎先生という方がおられますが、この先生は、井深八重から大きな影響を受けた人でもあります。阿部先生は、一橋大学を卒業する前年の1948年、この神山復生病院を訪問しましたが、そのとき期せずして井深八重に会うことになりました。先生は、そのときのことを、次のように語られています。「ほほえみをたたえた婦長の平安な顔と、包帯を巻くダイナミックな行動。そのコントラスト。美しい……と私のなかに衝撃が走った。突如、湧き出すように、ある聖句が私に迫って来た。『これら、いと小さき者のひとりになしたるは、我になしたるなり』(マタイ25章40節)」。阿部志郎先生は、ハンセン病の患者一人人ひとりに生き生きと接している井深八重に出会って、そこに、「いと小さき者のひとりに」すべてを献げようとしている姿を見たのです。そして、そのとき、阿部先生は、「私もこの跡をついてゆこう」という秘かな思いを与えられたと述懐しています。その後、阿部先生は、31歳のとき、明治学院大学の教員を辞し、「横須賀基督教社会館」の第2代館長に就任しますが、その原点は、この井深八重との出会いにあったのです。またカトリック作家の遠藤周作の小説に『わたしが・棄てた・女』という作品がありますが、このモデルとなったのが、井深八重です。遠藤周作自身、おそらく重い肺病などを患う中で、井深八重の生き方に深い共感を覚えたのではないかと思います。
 おそらく、井深八重自身は、自分がそのように人々から注目される存在になるとは露も思っていなかったのではないでしょうか。ただレゼー神父の生き方に感動し、自分もその後に従おうとしただけなのではないでしょうか。そして、そこに、神の御心があると信じただけなのではないでしょうか。井深八重が詠んだ歌がありますが、そこにはこう詠われています。「み摂理のままにと思いしのびきぬ、なべてはふかく胸につつみて」。井深八重の生涯は、運命のいたずらとも思える「らい病」という誤診の中に神の摂理を見、キリストの光を輝きだすレゼー神父に照らされて、その後に従い、社会から見捨てられた人たちに仕えることを、ただひたすら自分の使命として歩んだ人生に過ぎないのかもしれません。しかし、この「いと小さき者」にただひたすら仕える中で、その存在自身が大きな希望の光となって照り輝いたのです。そして、それは正に、「へりくだって、神と共に歩む」歩みであったのではないかと思います。
 「人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を行い、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。」
 お祈りをいたします。