2024年8月18日 主日礼拝説教「苦しみが喜びに変わるとき」 東野尚志牧師
イザヤ書 第26章16~19節
ヨハネによる福音書 第16章16~24節
先月、7月の26日から始まったパリオリンピックは、先週の日曜日、8月11日で閉会となりました。17日間、恐らく、皆さまも何らかの形で、オリンピックのニュースに触れて来られたのではないかと思います。私が学んだ高校は、仏教系の高校でしたけれど、通常の体育とは別に3年間通して柔道の授業がありました。自分でもいろんな技のことが分かりますから、開会式の翌日から始まった柔道の試合はよく見ていました。同じ高校の出身者で体操や陸上の選手が出たこともあるので、これも見るようになりました。昨晩は、NHKでパリオリンピックの総集編が放映されていて、礼拝の準備が気になりながら、ついつい見てしまいました。
メダルを取るか取らないかで、その後の人生が変わるともいわれます。前回の東京オリンピックからは3年ですけれども、通常は4年に一度のオリンピックに照準を合わせて、努力と鍛錬を重ねる若いアスリートたちの姿はまぶしく見えます。メダリストたちの輝くような笑顔と涙を見ながら、今日の礼拝の説教題がその笑顔に重なり合うような気がしました。「苦しみが喜びに変わるとき」。栄光の陰には挫折もあります。メダリストたちは、あの表彰台に立つとき、オリンピックを目指して重ねてきた苦しい練習の日々が報われて、栄光に輝き、喜びに満たされるのです。
「苦しみが喜びに変わるとき」。それはもちろん、オリンピックの競技を意識したわけではありません。今日与えられた聖書の言葉の中から取られた説教題です。主イエスは、十字架にかけられる前の晩、弟子たちとの別れを前にして、これから弟子たちが経験することになる苦しみとその先にある喜びを見据えながら、不安と恐れにさいなまれている弟子たちを励まそうとしておられます。ヨハネによる福音書第16章20節以下で、主は弟子たちに語って言われます。「よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。女が子どもを産むときには、苦しみがある。その時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(16章20~21節)。
「産みの苦しみ」という言葉があります。それはもちろん、字義的には、子を産むときの激しい苦しみを指しています。出産の時が近づくと陣痛の痛みを味わい、出産の際には激しい苦しみを伴うことと思います。けれども、無事に出産して、赤ちゃんの元気な泣き声を聞くと、新しい命の誕生を喜ぶその喜びのゆえに、苦しみを忘れてしまう。それは、男性には体験することのできない痛みと苦しみです。主イエスも味わわれたことのない苦しみです。しかし、比喩的なたとえとしては古くから用いられていました。旧約聖書の中にも出て来ます。さきほど、福音書に合わせて朗読したイザヤ書第26章の中で語られます。「主よ、苦難の時に 人々はあなたを求めました。あなたの懲らしめが臨むと 彼らは祈りを献げました。出産の時が近づいた妊婦が 産みの苦しみと痛みに叫ぶように主よ、私たちも御前で苦しみ叫びました」(イザヤ26章16~17節)。このように記したイザヤも男性です。出産の経験者からは、そんなもんじゃない、と言われてしまうかも知れません。しかし、主イエスが、産みの苦しみをたとえとして用いられたとき、それは、今、弟子たちが直面しようとしている苦しみが、それを凌駕する喜びに変えられることを伝えようとしておられるのです。
それでは、弟子たちが味わうことになる苦しみとは何を指しているのでしょうか。きょう与えられた福音書の記事の前半部分で、そのことが告げられています。ヨハネによる福音書第16章16節から24節までを読みました。最初のところ、16節から19節までの朗読を聞きながら、何か繰り返しが多くてくどいと感じられたのではないかと思います。主イエスは言われます。「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」。冒頭の16節で主イエスが告げられた言葉が、17節、そして19節と、3回も繰り返されているのです。一つの文章の中に「しばらく」という言葉が2回繰り返されていますから、同じ文章が3回繰り返されて、「しばらく」という言葉が6回も出て来ます。しかも、弟子たちが「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」と言っています。もう1回加算されて、この短い数節の中に「しばらく」という言葉が合計7回も繰り返されているのです。
「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」。「見る」という言葉も繰り返されているのですが、実は、聖書のもとの言葉は違います。最初の「見る」、これは、目で見ることを指す普通の動詞です。弟子たちは、これまで主イエスと一緒に過ごして、そのお姿を自分たちの目で見てきたのです。けれども、もう間もなく、主イエスは弟子たちの前から去って行かれるので、弟子たちは主イエスのお姿を目で見ることができなくなるわけです。それに対して、後の方の「見る」という言葉は、復活された主イエスが、弟子たちの前に現れたことによって「見られた」というときに用いられている言葉です。つまり、主イエスが世を去って行かれ、もはや肉の目で主のお姿を見ることはできなくなるけれども、その後すぐに、間もなく、主イエスは、信仰の目によって見られる存在としてご自身を現わしてくださることを予告しておられるのです。
思い起こしてください。主イエスが弟子たちに語っておられるのは、最後の晩餐の席上です。主イエスは、この後すぐ、園で捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられ殺されることになります。しかし、葬られた三日目の朝、墓の中から復活された主は、やがて、父なる神のもとへと帰って行かれることになります。主イエスは、父なる神の独り子として、世の始まる前から神のもとにおられました。神はその御子を、この世に遣わされたのです。「世の罪を取り除く神の小羊」として、十字架にかかって罪人の罪を贖い赦すため、主イエスはこの世に生まれてくださいました。そして、十字架と復活において、救い主としてなすべき務めを果たされた後、ご自身がもとおられたところ、天におられる父なる神のもとへ行かれるのです。主のお姿を、以前のように親しく目で見ることはできなくなります。目に見えない主イエスを、見ないで信じて生きて行くことになるのです。
弟子たちは、主イエスが語られる別れの説教を聞きながら、主イエスが自分たちのもとから取り去られるときが迫っていることを、不安と共に感じ取っていたのではないかと思います。それまでは、いつも主イエスと一緒に過ごしながら、直に主の教えを聞くことができました。主のお姿を見ることができました。主イエスが、水をぶどう酒に変えられたのを見ました。病気で死にかけていた役人の息子を、離れたところから癒されたのも見ていました。38年間も病気で歩くことのできなかった人を癒して歩けるようにしたり、5千人もの大群衆をわずか5つのパンと2匹の魚で満腹させたり、ガリラヤの湖の上を歩かれたり、生まれつきの盲人の目を見えるようにされたのも知っています。そして、ついには、死んで墓に葬られていたラザロを、墓の中から呼び出されたのです。弟子たちは、主が驚くべきしるしを行われたとき、そのそばにいて見ていました。ところが、その肝心の主イエスが、自分たちのもとから離れて去って行かれる。そのお姿を目で見ることができなくなる。主が告げられる現実を受け入れるのは、弟子たちにとって耐えがたい苦痛でした。
主イエスが去って行かれる。主イエスのお姿が見えなくなる。それは、ただ肉体的に主イエスのお姿が見えなくて不安を覚えるというだけではありません。20節で主は告げておられます。「よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ」。弟子たちが、主のお姿が見えなくなって泣き悲しむだけではないのです。主イエスを信じなかった者たち、主イエスの救いを当てにしていなかった者たちは、嘆き悲しんでいる弟子たちを見て喜ぶと言うのです。それ見たことか、あんな男を当てにして信じたお前たちが愚かなのだ。ざまを見ろ。そう言って、世が勝ち誇ったように喜ぶのです。
主イエスが見えない。神の救いが見えない。神が生きて働いておられることが分からなくなる。それは、確かに、主イエスの直弟子たちだけではなくて、最初にこの福音書の言葉を聞かされた1世紀末のヨハネの教会の信徒たちにとっても、切実な悩みであったと思います。ユダヤ教の会堂から追い出され、ローマ帝国からの迫害を受けながら、使徒たちが伝えてくれた主イエスの救いを信じて生きようとする弟子たちにとって、それは苦しい試練であったと思います。それだけではありません。それは、今日生きている、私たちの不安や悲しみにもつながります。主イエスが父なる神のもとに帰られた後の時代を生きている私たちも、主イエスのお姿を自分の目で見ることはできません。私たちは最初から、見ずして信じる信仰を求められているのです。何か、確かな証拠を見たから信じるというのではありません。主イエスの奇跡を目の当たりにして信じたというのでもありません。むしろ、私たちが生きている現代の社会に、主イエスの救いの目に見える証拠はないのです。
連日の猛暑の中、熱中症になって病院に運ばれる間に命を落としてしまう人たちがいます。主イエスを信じていたって、病気になることはあります。主イエスに対する信仰が足りないから病気になるのではありません。どんなに信仰深い人であっても、病に冒されることがあり、事故に巻き込まれることもあり、災害の中で命を落とすこともあります。そんなとき、私たちは、主イエスがここに一緒にいてくださったら、としばしば思います。この世界の中に、私たちの人生において、主イエスが見えない。神の恵みが見えない。神の愛が信じられない。そんな思いにさいなまれることがあるのです。信じてたって、何の役にも立たなかったではないか。そんな深い嘆きと絶望に襲われることがあるのです。
しかし、主は約束して言われます。「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」(16章16節)。ここで7回も繰り返されている「しばらく」という言葉は、日本語としては、「少しの間」「一時」「ちょっと」といった意味で用いられます。もとの原語は「ミクロン」というギリシア語です。ミクロンというのは、1ミリの1千分の1を表わす単位ですが、ミクロの世界というような用い方もされるように、目に見えない非常に小さいものを表わします。またまことに短い時間を指すということになります。もちろん、時間の感覚というのは主観的ですから、人それぞれに感じ方が違います。同じ時間であっても、楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまうのに対して、苦しい時間はまるで永遠に続くかのように長く感じることがあります。主は言われるのです。もうすぐ、あなたがたは私を見なくなる。けれども、またすぐに私を見るようになる。主は確かに、弟子たちのもとから離れ去って行かれました。ご自身を遣わされた父なる神のもとへ帰って行かれました。しかし、またすぐに帰ってくると言われたのです。
主は再び来られるということを、主の再臨の予告として受けとめた人たちがいました。この世の終わりに、主イエスが栄光のうちに天から降って来られ、生きている者と死んだ者を、つまりはすべての者をお裁きになります。主は確かに天に帰られたけれども、すぐにまた戻って来られて、最後の審判を通して、信じる者たちの救いを完成してくださる。「しばらく」だと言われたので、もうすぐにでも、主の再臨の時が来て、救いは完成されると信じた人たちがいたのです。
けれども、主イエスが「またしばらくすると、私を見るようになる」と言われたとき、前とは「見る」という言葉が違うということを指摘しました。主イエスは、私たちが肉の目で見るように来られると語られたのではありません。むしろ、信仰の目で見るということであり、これまでの福音書の流れを受けて言えば、主はもうひとりの弁護者、助け主として、真理の霊として、弟子たちのもとに現れてくださることを予告しているのです。主は、同じ16章の7節で言われました。「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。14章の26節では次のように言われました。「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。真理の霊である聖霊は、主イエスの名によって遣わされます。主イエスの名代ということです。真理の霊が、主イエスの言葉を思い起こさせ、主イエスを信じるように真理へと導いてくださいます。この霊において、主イエスはご自身を現わしてくださるのです。
産みの苦しみのたとえを語られた後で、主は続けて言われました。「このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(16章22節)。十字架の死と復活を経て、主イエスは父なる神のおられる天に帰られました。終わりの日、栄光の体で再び地上に来られるその日まで、主の復活のお体は天にあり、主は天におられます。私たちは、主のお姿を自分の目で見ることはできません。目で見ることのできる救いの証拠を持つことはできないのです。だから、地上に生きている私たちは、悲しみと苦しみに捕らわれています。けれども、主イエスが、目には見えなくても、霊において私たちと会ってくださるとき、その苦しみは喜びに変えられるというのです。主イエスが「私は再びあなたがたと会」うと言われたとき、「会う」と訳されているのも「見る」という言葉です。しかし、ここでは、主イエスが私たちを見てくださる、というのです。私たちの目には主イエスのお姿が見えません。けれども、霊なる主が私たちを見てくださり、私たちにご自身を示してくださるから、私たちも信仰の目をもって霊なる主を見ることができるようになります。確かに、主が私たちと共にいてくださり、私たちの間に救いの御業を現わそうとしていてくださることを信じるようになるのです。
主はさらに続けて言われます。「その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない。よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる」(16章23節)。「その日」というのは、弁護者である聖霊において、主イエスが私たちと出会ってくださり、苦しみが喜びに変えられる日です。その日には、私たちは、真理の霊である聖霊の働きにおいて、主イエスが私たちの救い主であり、父なる神がどれほどに深く私たちを愛していてくださるかを深く知らされます。そして、主が共にいてくださることを信じて、どのようなときにも、主イエスの名によって、父なる神に祈ることができるようになるのです。聖霊なる神は、私たちに祈る言葉をも与えてくださいます。だから、私たちはこの世における苦難や試練の中で、主のお姿が見えない、神が生きて働いておられる証しが見えないと言って嘆く必要はありません。苦難や試練の中で、主イエスの名によって祈ることができるからです。父なる神が聞いていてくださることを信頼して、祈ることができます。父なる神の子とされた者たちとして、すべてを父なる神の御手に委ねることができるのです。
「産みの苦しみ」について触れたとき、それは、男性である主イエスも味わわれたことのない苦しみだと申しました。けれども、主イエスは、私たちを神の子として生み出すために、そのためのすべての苦しみを担ってくださいました。私たちのすべての罪を担って十字架の苦しみを引き受けられ、罪の裁きとしての死を味わわれ、滅びの墓に葬られました。その苦難を通して、新しく神の子たちが生み出されるための救いの道を開いていくださったのです。
主イエスの十字架の苦しみを預言したイザヤ書53章には、次のように記されています。「彼は自分の魂の苦しみの後、光を見 それを知って満足する。私の正しき僕は多くの人を義とし 彼らの過ちを自ら背負う」(イザヤ53章11節)。主イエスは、十字架の苦しみの中で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という苦難の叫びを上げるほどに、神に見捨てられる絶望を味わってくださいました。しかし、私たちのすべての罪と過ちをご自身の身に負うという、その激しい苦難を通して、罪人が義とされ、神の子が生み出される光を見ておられたのです。
主イエスは、今も私たちを見ておられ、私たちと出会ってくださいます。主日ごとの礼拝は、霊なる主と新しく出会う時です。苦難の中でも、主がいつも私たちと共にいてくださったことを思い起こさせられる時です。霊なる主の現臨にあずかって、苦しみが喜びに変えられるのです。主の御前に、悔い改めと感謝を献げ、さらに新たな信頼と愛をもって、主と共に、世へと送り出されて行きます。主と出会い、主と共に生きる喜びを、私たちから奪い去る者は誰もいない、と主は約束してくださいました。新しい週の歩みが、主の約束に支えられ、主の光に照らされ、祈りの絆で結ばれた平安と喜びで満たされることを願います。主が再び来られる栄光の時まで、霊なる主の力強いお働きにあずかり続けることができますように。