2024年8月11日 主日礼拝説教「新しい言葉を語る」 東野ひかり牧師

エレミヤ書 第31章31~34節
マルコによる福音書 第16章9~20節

 2020年4月以来、主としてマルコによる福音書を説き続けて参りました。と申しましてもきちんとした連続講解説教をしてきたのではなく、かなり自由な形で語らせていただいて参りましたが、この朝、マルコによる福音書の最後の部分、第16章9~20節からのみ言葉を共に聴くこととなりました。
 マルコによる福音書第16章9節以下は、通常の小見出しとは別に「結び一」「結び二」という見出しがつけられ、それぞれが〔括弧〕に入れられております。これは、この二つの結びは元々のマルコによる福音書にはなかったものだというしるしです。マルコ福音書を書いた人ではない別の人が、少し後の時代に書いてマルコ福音書の「結び」として付け加えたものだとされています。そういう「後からの付加」という箇所ということもあり、私はこれまでこの9節以下の「結び」部分については少し軽視していたところがありました。けれどもこの結びの中の15節にはこういうみ言葉が記されています。15節「それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。・・・」」このみ言葉は、今年度私たちの教会が年間聖句として掲げているマタイによる福音書第28章19,20節、主イエスの〈大伝道命令〉と呼ばれるみ言葉のマルコバージョンとも言えるものです。マルコ福音書のこの「結び」は、〔括弧〕の中に入っているからと言って軽視したり無視してよいというような箇所ではないと、改めて思わされております。今日このマルコ版〈大伝道命令〉を含むこの箇所からみ言葉を聴きますことは、私たちが重ねて参りました年間主題の学びに、少し違う角度から光を当てることにもなるかもしれません。またここには、この8月という特別な月に私たちが耳を傾けるべきメッセージも含まれていることをも思わされております。

 この「結び一」は、マタイによる福音書の〈大伝道命令〉によく似たみ言葉を含みますが、それだけではなく、ルカによる福音書やヨハネによる福音書の復活の記事、そして使徒言行録の様々な記事にも似たところがあります。似ていると言うより、それらの寄せ集めと言いますか、ダイジェスト版のような趣です。マルコによる福音書にどうしてこのような「結び」が付け加えられることになったのか、それは、このマルコによる福音書の本来の部分があまりにも唐突で不自然に終わっているからです。第16章8節「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」これが、マルコによる福音書の本来の結びの言葉です。この8節の最後の字は、原文のギリシャ語では「なぜなら」という意味の接続詞です。マルコによる福音書は、「そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかった、なぜなら」で終わっているのです。それで、この終わり方はいかにもおかしいと考えた人が続きを書いたのです。紀元100年頃とされています。けれどその人は自分でオリジナルの続きを考えて書き加えたというのではなく、当時既に知られていた他の福音書と使徒言行録から、それらをまとめる形で、マルコによる福音書の続きを書きました。それがこの福音書の「結び」として、教会の中で大切に伝えられたのです。また別の人が短い「結び二」を書き、それもまた教会の中で大切に伝えられたのです。

 確かにこの「結び一」は、他の福音書や使徒言行録のダイジェスト版のようなものではありますけれど、しかしただのダイジェスト版ではありません。ここには、紀元100年頃・第2世紀初頭の教会の信仰と伝道の姿が証しされている、そう言ってよいのです。この「結び一」は、伝えたい、証言したいことがあって書かれているのです。
 すぐに気づかされますのは、ここには「主イエスはお甦りになって生きておられる」ということを知らされた弟子たちが、それを「信じなかった」ということが三度も繰り返して記されている、ということです。そのことがとても強調されて書かれていると思います。11節「しかし彼らは、イエスが生きておられ、マリアがお姿を見たと聞いても、信じなかった。」 13節「この二人も行って、残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことを信じなかった。」 14節「その後、十一人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」この弟子たちの不信仰の姿は、第16章8節に描かれたマグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメという三人の女たちの姿とも重なります。女たちは、主イエスの復活を告げた天使の言葉を聞いても驚き恐れるばかりでした。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」と言われたにもかかわらず、墓から逃げ去り、恐ろしさに震え「誰にも何も言わなかった。」(16:1~8)。マグダラのマリアもはじめは「信じなかった」のです。「結び一」に描き出される弟子たちの不信仰の姿は、8節の女たちの姿からつながっています。 
 この「信じない」不信仰の弟子たちの姿を読みながら、はじめ私は、ここに強調されているのは「復活というのは本当に信じ難いものだ」ということかと思っていました。けれどこの9節以下に描き出されている弟子たちの「信じなかった」姿が示しているのは、単にそういうことではないと、改めて教えられました。
 私たちは、復活を信じるというのは、2000年前ゴルゴタの丘で十字架につけられて殺されたナザレのイエスが三日目に復活したという驚くべき奇跡を信じる、あるいは死んだ人が生き返るというような驚くべき奇跡を信じる、ということだと思っていると思います。しかしここに描かれているのは、そういう意味で復活を信じることができなかった弟子たちの姿ではないのです。11節に「イエスが生きておられ、マリアがお姿を見たと聞いても、信じなかった」と記されています。弟子たちが「信じなかった」のは、お甦りになった主イエスが「生きておられる」ということだったと記されているのです。死人の甦り・復活を信じるということは確かに簡単なことではありません。信じ難いことです。けれどもここで弟子たちが「信じなかった」と言われているのは、復活という奇跡について、そんなことはあり得ないと信じられなかった、ということではないのです。そうではなくて、復活された主イエスが「生きておられる」ということを弟子たちは「信じなかった」、そのことが言われているのです。
 さらに14節では、主イエスは弟子たちのこの「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と記されます。主イエスは弟子たちが「信じなかった」その不信仰だけではなく、その心の「かたくなさ」を厳しくとがめられたと言われています。ある説教者は、なぜ弟子たちは主イエスが復活して「生きておられる」ということを信じなかったのか、なぜその心が「不信仰とかたくなさ」でかちこちに硬くなってしまったのか、ということを問いながら、こう語っておられます。弟子たちが「信じなかった」のは、彼らの心が「失望と絶望に硬く閉ざされていたからだ」と。自分たちが救い主と信じた主イエスは、引き渡されるままにあえなく十字架につけられ殺されてしまった。自分たちが信じたこと、主に従って歩んだことは何だったのか、自分たちのしてきたことは全くの無駄だったのではないか、そういう失望と絶望によって弟子たちの心は硬く閉ざされてしまった、それゆえに、主イエスが復活して生きておられるという、弟子たちにとって本来喜びの知らせであるはずのことを聞いても受け入れなかったのだと言うのです。弟子たちは、主イエスに対する失望、自分たちの信じたことも歩んだ道も全くの無駄だったという絶望のために、その心を硬く閉ざしてしまったのだと説いておられました。そして主イエスは、そのような「不信仰とかたくなな心」を激しくとがめたのだ、と言うのです。

 マタイによる福音書の第11章2節以下に、洗礼者ヨハネが獄中から弟子をやって主イエスにひとつの問いを投げかけた、という場面が描かれています。ヨハネは主イエスに尋ねました。「来たるべき方はあなたですか。それともほかの方を待つべきでしょうか。」この箇所が先週の教会学校の礼拝のテキストだったのですが、教会学校で用いている教案誌の説教例のひとつを書いていたのが、尚志牧師でした。尚志牧師はこの箇所についてこういうことを書いていました。〈ヨハネにはこのとき迷いがあった。このイエスという人を救い主と信じ続けていてよいのか、この人は本当に救い主メシアなのか。この人において、神さまのご支配が始まったと信じたのに、相変わらず権力者はやりたい放題で、神の支配にほど遠い現実を前にヨハネは不安になった。〉
 このヨハネの迷いと心配は、弟子たちの主イエスに対する失望に通じると思います。そして私たちの思いにも通じるところがあると思わされます。私たちも救い主主イエスに、様々な期待をします。願いを抱きます。主がほんとうに力ある神の子、神から遣わされたメシア・救い主であるならば、そして死んで復活して今も生きておられ、神の支配を実現しておられる救い主だというのなら、神のご支配を目に見える形であらわしてくださればよいのにと、私たちにもそういう救い主を願い、そういう救い主を期待する心がある、そのように思わされるのです。
 今世界は、オリンピックの祭典の裏で、戦争に苦しみ、戦争の不安におびえ、今もなお核兵器の脅威にさらされています。私たちも、救い主主イエスが神の子の力と正義を貫いて悪い指導者を懲らしめ、正義と公正を行ってくださればよいのに、そういう救いを実現してくださればよいのに、そう願わないでしょうか。ヨハネも牢の中でそのように期待していました。けれどいつまでたっても、権力者の悪は糺されない。ヨハネは不安になりました。「この人は本当に救い主なのか。この人を信じていてよいのか。ほかに誰かを待つべきなのではないか。」私たちも同じような思いにとらわれるのではないかと思うのです。救い主主イエスに失望しそうになる。いや、もう失望しかかっているかもしれません。「私は全く見当違いの人を救い主と信じているのではないか。自分が信じていることは全く無駄なのではないか。むなしい信仰に生きているだけなのではないか。」「来るべき方は、あなたですか。それともほかの方を待つべきでしょうか。」このヨハネの問いは、私たちの心の底にも潜む問いなのではないでしょうか。

 ヨハネは、この人が救い主なのか、この人を信じてついて行ってよいのかと迷いました。弟子たちは、「この人こそ救い主」と信じて従ったのに、主イエスはあえなく逮捕され十字架につけられて殺されてしまった、当てが外れたと失望して、自分たちが信じて歩んできた道は全くの無駄だったと絶望して心硬く閉ざしたと先の説教者は説きます。ヨハネも弟子たちも主イエスにつまずいたのです。そこに、主は生きておられるという知らせを聞いても信じない、喜びの知らせを受け入れない「不信仰とかたくなな心」が生まれたのです。私たちも同じなのではないかと思わされます。主イエスにつまずく。主イエスのことが分からなくなって迷う。主イエスに対してがっかりする、失望する。そして心がかちこちに硬くなり、「主は生きておられる」ことが信じられず、受け入れられなくなる。そういうことが私たちにもあるのではないでしょうか。
 私たちは繰り返し聞かされています。主は甦って生きておられる。私たちと共にいてくださる。共に働いていてくださる。そう聞きながらも、心の中で「生きているっていうなら、証拠を見せてよ」と子どものようにつぶやきたくなるということがないでしょうか。救い主だというのなら、力をもって正義を行使し、戦争を止めさせ、大地を鎮め、空を鎮め、気候を鎮め、全世界の人が平和に、幸せに暮らせるようにしてほしい。地震も大雨も起こさないで、災害で苦しむ人をなくしてほしい。そういう目に見える、分かりやすい救いを求める思いは、私たちの中にも常にあるのではないでしょうか。しかしその願い、期待は外れ、当てが外れてがっかりする、失望して、この人を信じていても無駄なのではないかという失望と絶望が心の中に沸き起こってくる。「主は生きておられる」「共にいてくださる」「神の支配は来ている」そう聞かされても信じられない、受け入れることができない。「不信仰とかたくなな心」、それは私たちの心でもあると思います。

 しかし主イエスは、弟子たちの、また私たちの「不信仰とかたくなな心」を厳しくおとがめになります。激しくお叱りになります。ヨハネの問いに主イエスはこう答えられました。「私につまずかない人は、幸いである。」主イエスはヨハネに「私につまずかないで、失望しないで、がっかりしないで、私を信じなさい」と言われたのです。「私につまずかない人は、幸い」そう言って、ヨハネを「信じる幸い」へと、祝福へと招かれました。主が弟子たちの不信仰とかたくなな心を激しくとがめられたのは、「私につまずかない人は、幸い」という招きを含んだ激しい叱責であったのではないかと思います。主イエスは、弟子たちにも、そして私たちにも「信じない者ではなく信じる者になりなさい」と招かれます。そこに真実の「幸い」の道がある、祝福の道があるのだと、強く激しく招かれるのです。
 そして驚くべきことは、主イエスはここで、弟子たちを厳しくとがめられてすぐ後に、「不信仰とかたくなな心」の弟子たちに大きな使命をお与えになられたと書かれていることです。主はこのような弟子たちを用いようとされるのです。改めて15節を読みます。「それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」弟子たちが立派に「信じます」と言ったので主イエスは弟子たちに使命をお与えになった、というのではないのです。また「信じなかった」弟子たちをとがめて「お前たちなどもう要らない、お前たちは役立たずだ」と言って用いようとしなかったというのでもないのです。そうではなくて、主イエスは「信じなかった」「不信仰とかたくなな心」の弟子たちを厳しくとがめながら招き、お用いになる、その弟子たちに使命をお与えになるのです。
 この14節と15節のつながりに驚かされます。ここに、第二世紀の教会の信仰と伝道の姿が証しされているのではないかと思います。ここを解き明かす注解者もまた説教者も、ほとんど声をそろえるようにしてこういうことを言うのです。〈「信じなかった」弟子たちが使命を与えられ用いられる。彼らはこの使命を担い果たしていくということの中で、主イエスが本当にお甦りになって、今生きておられる、生きて自分たちと共に働いていてくださるということが本当に分かるようになる。福音を宣べ伝えるという使命を果たしていくことの中でこそ、弟子たちはその不信仰とかたくなな心が打ち砕かれ、信仰が与えられ養われ、信じる者へと変えられていく。〉そういうことがここで語られている、証しされているのだと言うのです。

 15節の主のご命令は「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」でした。マルコ版大伝道命令は、「すべての民」ではなくて「すべての造られたものに」となっていることも大切なことだと思います。弟子たちが遣わされていくのは、神がお造りになった世界なのです。遣わされたそのところで、弟子たちは「ここも神のみ国」、ここも神のご支配のあるところ、そう知らされていった、そう信じる者へと変えられていったのではないでしょうか。神に造られた世界は、神が「よし」と祝福され、神の右に座したもう主がまことに「主」として治め給う世界です。弟子たちはその「全世界」に遣わされるのです。神の造られた世界で、弟子たちは「主は生きてそのご支配を行っておられる」ことを学び知らされながら、福音を宣べ伝えたのではないかと思うのです。
 続く16節にはこうあります。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。」弟子たちの福音伝道は人々を洗礼へと導くものでありました。すべての造られたものに神の国の福音を宣べ伝え、洗礼を授けるというものでありました。けれどそれは、主を信じない人、洗礼を受けない人は罪に定めれて滅びるぞと、脅すようにして伝道していったということでは決してないはずです。なぜなら弟子たちは、自分たちこそ「信じない者」であったことをよくわきまえていたはずだからです。「信じない者」「罪に定められ」てしかるべき者であった弟子たちが、使命を与えられ、主と共に働く者とされる中で、「イエスこそ主、主は生きておられる」と信じる者へと変えられていったのです。弟子たちは「あなたも私と同じように主を信じてください。洗礼を受けて主のもの、主の弟子となって、私たちと一緒に幸いと祝福の道を歩みましょう」そう言って伝道したのではないでしょうか。

 17~20節は、弟子たちの伝道が実に力強く進められて行った、その様子を伝えています。使徒言行録に記されていることのダイジェスト版のような記事です。「17信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。18手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る。19主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右に座られた。20弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた。
 ここには、主イエスは生きておられると「信じる者」とされた人々、すなわち教会が力強く伝道していったことが証しされています。「信じる者」の群れである教会が語る言葉は、「新しい言葉」であり、その言葉には驚くべきしるしが伴った、つまりその言葉には、悪霊にも蛇にも毒にも病にも勝つ力があったと語られています。そして、主イエスが天に上げられ、この世界の「主」、真の「王」として、神の右の座に着かれたことによって、ますます弟子たちの群れである教会の伝道は力を増して行ったと証しされています。
 現代の私たちの教会の伝道には、ここに語られているような「しるし」は伴いません。教会は、蛇をつかんでみせたり、毒を飲んでも平気、現代風に言えば、伝染病が流行ってもそれにかからない、というようなことを宣伝しながら伝道するわけではありません。けれどもここに言われている「悪霊、蛇、毒、病」、これらは主イエスが戦い、教会が戦い続けている「罪と死と悪魔の力」だと理解してよいと思うのです。それは「神に造られたもの」を神から引き離そうとする力です。世界を治めているのは御子主イエスではなくて罪の力・死の力だと誘う力です。そういう力に勝つ「新しい言葉」の力・福音の力をもって、教会は伝道したのだと力強く証しされているのです。

 教会の伝道は、「新しい言葉を語る」すなわち「福音を宣べ伝え」ることによって、罪と死と悪魔の力に立ち向かう、そういう伝道でありました。ここで、私たちの心をとらえ、大きく励ましますことは、その「新しい言葉を語る」弟子たちの群れ・教会に「主も共に働いた」と、はっきり証しされていることです。20節「弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた。」ここに言われる「しるし」は、罪と死と悪魔の力に勝つ主ご自身が「共に働い」てくださった、その主の勝利の力だと捉えてよいのではないでしょうか。主が共に働いて弟子たちの語る言葉を「確かなもの」としてくださった、「罪と死と悪魔の力」に勝つ、力ある言葉としてくださった、そう証しされているのです。「主も弟子たちと共に働き」。主が、不信仰でかたくなな弟子たちと共に働いてくださって、「新しい言葉」である「福音」をもって、救いのみ業を行ってくださったのです。
 マルコによる福音書は主イエスというお方について、戦争や災害をいっぺんに無くすというような目に見える分かりやすい救いを与える救い主なのではなく、あえなく十字架に死ぬことによって、すべての人の身代金としてご自分のいのちを献げ、すべての人の罪を贖われた、そういう「神の子」であり「救い主キリスト」だと語ってきました。十字架につけられて殺された主イエスこそ、墓を空にしてお甦りになった、罪と死と悪魔の力に勝利された救い主キリストであると告げてきました。マルコによる福音書に付け加えられたこの「結び」は、主イエスはそういう救い主として今も生きておられると告げています。主が共に働いて福音を広めてくださっているのだと、教会の伝道の姿を告げています。主イエスは、今も生きておられ、造られた世界を治め、不信仰でかたくな心の弟子たち・私たちを用いて、共に働いていてくださる。主イエスは、不信仰でかたくなな弟子たち・私たちを用い、私たちを通して福音を宣べ伝えさせ、それによって神の国・神の支配を実現して行かれる、まことの平和を実現して行かれる、そのような「生ける神の子キリスト」「主」イエスなのです。

  「結び二」はこう締めくくります。「イエスご自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音の言葉を広められた。アーメン」主が私たちと共に働き、私たちを用い、私たちを通して「永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音の言葉」「新しい言葉」を語り広め、力ある救いのみ業を行ってくださる。不信仰でかたくなな心の私たちですけれども、主の招きに応え、生きて共に働いてくださる主を信じ、福音を宣べ伝える使命に生きる幸いと祝福の道を共に歩んで参りたいと願うものです。