2024年7月7日 主日礼拝説教「主イエスの友と呼ばれて」 東野尚志牧師
申命記 第7章6~8節
ヨハネによる福音書 第15章11~17節
人生は選択である。そのように述べた人がいます。確かに、それは真実を言い当てているところがあります。私たちは、日々、さまざまな可能性の中から、何かを選ぶことによって、生きていると言ってよいのです。今日、ここに至るまでのことを振り返ってみてもそうです。朝、寝床で目が覚めたとき、すぐに起きて活動開始するか、それとも、もう少し横になっているか、選んで決断しなければなりませんでした。朝ご飯をどうするか、何を食ベ、何を飲むか、あるいは、何も食べないか、そこでも選択しなければなりませんでした。教会まで出かけて行くのか、それとも、家に留まってライブ配信の礼拝につなぐか、それも選択と決断を迫られることでした。
7月に入ってから、連日の猛暑で体に疲れが溜まってきています。このところ、まるでコロナ禍の頃を思い起こさせるような言葉を聞かされ続けています。日中は、不要不急の外出は控えて、家に留まるように、というのです。それでも、外出しなければならない人もいます。予定をキャンセルして家に留まるかどうかについても、よく考えて、決めなければなりません。昨日は一日猛暑だと思っていたら、夕方には雷が鳴り、豪雨になりました。そのさなか、出かけなければならなかった人は大変であったと思います。そこにも選択と決断がありました。
今、礼拝堂において、一緒に礼拝をしている人たちは、自分の家に留まるのではなく、家を出て、教会まで体を運ぶことを選んで、ここに集まっています。私たちは自由です。頑張って教会まで来ることもできるし、無理をせず、大事をとって、家でライブ配信の礼拝を見ることもできるし、自分で聖書を読んで祈りを合わせることもできます。もっと別の涼しいところに出かけてしまうことだってできます。今、この礼拝堂の中にいる皆さんは、さまざまな選択肢や可能性がある中で、日曜日の朝、神を礼拝するために、礼拝堂に集うことを選び取って、ここにやって来たのです。
けれども、さまざまな壁や誘惑を乗り越えて、主の日の朝、礼拝堂に集まって来たとき、私たちは、改めて、気づかせられます。確かに、私が望んで、私が選んで、私が頑張ってここまでやって来た、なるほど、それは、一面の真理です。けれども、その背後には、私たちの思いを超える選びがあり、決断がありました。神さまが、私たちに目を留めてくださり、私たちの名を呼んでくださり、私たちを礼拝へと招き、召し出してくださったのです。さらに言えば、私たちが、恐れることなく、神の前に出ることができるように、父なる神は独り子イエスを遣わしてくださり、また遣わされた主イエスもご自身で十字架の道を選び取って、私たちを罪の支配から解放するため、ご自身の命を献げてくださったのです。
私たちは、神の前に出るとき、否応なく、ひとつの逆転現象に直面させられることになります。自分が主体的に選んで、自分の思いと決断で生きてきたつもりでした。けれども、実は、そのすべてが神さまの選びと導きの中にあったことに気づかせられるのです。神の前に立つとき、それまで自分を主語にして語ってきたことはすべて、神を主語にして言い換えられるということ、いやそれこそが真理であるということを知るのです。神がすべてを見ておられ、すべてを導いていてくださいました。私たちの人生について、神を主語として言い換え、神の御業を告白することを通して、私たちは神に栄光を帰するのです。
先週の礼拝において、大木英夫先生の説教の一部を紹介しました。主イエスが弟子たちに告げられた言葉、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」というたとえの言葉をめぐる説教です。主イエスと弟子たち、つまり、主イエスと教会の関係を表わすたとえは、どんな木でも良かったのではない。ぶどうの木でなければならなかった、ぶどうに木においてこそ、大切なかたちが現れている、ということを大木先生は語られました。主イエスを木にたとえるとき、枝や葉を働かせて、自分の幹をどんどん太らせるような木はふさわしくない、と言われるのです。そうではなくて、まさに、ぶどうの木です。枝を立派に張りめぐらせ、良く伸びた枝にたわわにぶどうの実を実らせるために、幹はやせこけて、曲がりくねり、見るもあわれな木。それこそが、私たちを生かすために、ご自身の命を犠牲にしてくださった主イエスのお姿に重なり合うのです。
この印象深い教えをもって始まる説教は、『キリスト入門』という説教集の中に納められています。今から48年前に刊行された説教集です。私が、神学生になって、初めて読んだ説教集でした。『キリスト入門』。これも味わい深いタイトルです。『キリスト教入門』ではないのです。キリスト教の教えの基本について、分かりやすく解説した入門書はたくさんあります。けれども、この説教集は、決して、初心者向けのキリスト教の入門書というわけではありません。むしろ、神学的な深みがあり、初心者には少し分かりにくいところさえあります。そういう意味では、手軽なキリスト教の手引き書ではありません。この説教を読む人が、キリストへと入門することを願っているというのです。キリストに入門し、キリストの弟子として生きるようになることを求めているのです。さらに、この「キリスト入門」という言葉には二重の意味が込められています。ひとつは、今申しましたように、キリストへの入門という意味です。そして、もうひとつは、キリストご自身の入門を意味しています。キリストが、私たちの魂の城の門を開けて入って来ることを求めておられる、そのキリストの入門を明らかにしようとしているというのです。
キリストへの入門、それは、私たちの主体的な選びと決断によります。具体的には、洗礼を受けて、キリストと一つに結ばれることを目指していると言ってよいと思います。まさに、私たちがキリストの中へと入るのです。それに対して、キリストの入門というのは、キリストご自身の主体的な業です。キリストが私たちの中に、そして私たちの間、この群れのただ中に入ってきてくださり、私たちの主となってくださることを意味しています。主であるキリストが、私たちに、ご自分の肉と血を与えて、私たちを養ってくださるのです。キリストがおられるところに、聖餐の食卓による交わりが生まれます。そこには、私たちが選ぶことを包み込むようにして、主イエスご自身による選びが現わされていると言ってよいのではないかと思うのです。
主イエスは言われます。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(15章16節)。私たちは、主イエスのこの言葉を聞くまで、自分で選んだつもりで生きてきたのかも知れません。いろんな宗教がある中から、キリスト教を選んだのも自分であり、教会に来たのも自分の決断、洗礼を受けることも自分が選んで決心したのだと思っているかも知れません。しかし、もし、洗礼を受けた後も、自分が選んだと思い続けているならば、その人は、いつか教会からいなくなってしまうのではないかと思います。自分がキリストを選んだと思っている人は、キリストを捨てることもできるからです。キリストの弟子としての身分も捨てます。自分で選んだのだから、捨てるのも自分の意志です。自分にとって必要が無いと思えば、もはや教会に留まる理由はありません。教会の中で、誰かとぶつかってしまったり、嫌なことがあったりすれば、教会に行くのをやめれば良いのです。あるいは、教会に行っても満たされない、と思えば、別の道を選ぶことだってできるのです。
けれども、主イエスは言われます。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。私たちが今、ここにいるのは、主イエスが私たちを選んでくださったからです。そして、私たちの人生も、実は、私たちが自分で選んだというのではなくて、主イエスが、私たちを、それぞれの人生に選んでくださったのです。同じ福音書の第9章には、うまれつき目の見えない人の話が記されていました。道ばたに座って物乞いをしていたその人を見て、弟子たちは主イエスに尋ねました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。しかし、主イエスは言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。神の業が現れるため、自分はこの人生へと選ばれている。それが何らかの障害であったり、不幸と思われるような環境であったり、試練と受けとめられるようなことであったとしても、そこに神の選びがあるならば、必ず、意味と目的があると信じることができます。神がご自身の業を現わすために、私たちを選んでくださり、私たちを生かしていてくださる。そうであるならば、私たちは、その自分が置かれたところで、神の選びに応えて生きることができるのです。
主は言われます。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。主イエスは、無責任に私たちを選ばれたのではありません。主イエスは、私たちを喜びへと選んでおられます。主は言われました。「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(15章11節)。主イエスがこの言葉を語っておられるのは、十字架におかかりになる前の晩のことです。主は、ご自分が間もなく捕らえられ、十字架の死へと引き渡されることをご存知でありながら、ここで「喜び」について語っておられます。ご自分の内に喜びがあることを証ししておられるのです。主イエスは、父なる神の独り子として、父なる神に愛され、その御心に従って歩むことによって、父なる神の愛のうちに留まり続けておられます。そこには愛の喜び、交わりの喜びがあります。私たちが、この主イエスとひとつに結ばれて、主イエスのうちにとどまり、 主につながっているならば、主イエスの神との交わりの喜びが私たちの中にも注ぎ込まれて、私たちの喜びが満 たされるのです。
確かに、私たちは、この世が喜びだけではすまないことを知っています。私たちは罪人ですから、罪ゆえの痛みや苦しみ、悲しみとうめきがあることを知っています。けれども、私たちはすでに、主イエスの十字架のゆえに、贖われた罪人であり、赦された罪人とされています。主イエスは、罪赦された喜びへと私たちを招いておられるのです。神の愛を踏みにじり、交わりを弓|き裂く罪の力から自由になって、私たちのうちに、主イエスとの交わりに生きる喜びが満たされます。愛の交わりに生きる喜びです。父なる神と独り子である主イエスとの愛の交わりに連なるようにして、主イエスと罪赦された私たちの間にも愛の交わりが結ばれ、主イエスの愛に満たされた者たちは、お互いの間にも、この赦しと愛の交わりを生み出していくのです。互いに愛し合いなさい、という主イエスの戒めは、単なる命令ではありません。主イエスの中にある、溢れるほどの愛の喜びに、共にあずかるようにという招きだと言ってもよいのです。私たちが愛の絆で結ばれ、喜びに満たされることを、主は望んでおられるのです。
そして、主イエスはついに愛の奥義を口にされます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。今からもう43年前のことです。私自身が、洗礼を受けることを迷っているときに、この個所を読んで、ひとつの問いをもった覚えがあります。主イエスはどうしてここでわざわざ「友のために」と言われたのだろうか、ということです。聖書の他の個所では、「敵を愛しなさい」とさえお命じになった方です。なぜここでも、自分の仲間のために命を捨てるというのでなく、もっと激しく、また厳しく、敵対する者のためにさえ命を献げるほどの愛について語られなかったのか。頭でっかちで、そんな疑問を抱いたのです。
今から思えば、そのときには、主イエスの愛が、本当には良く分かっていませんでした。主イエスは決して、一般的な愛の奥義を語っておられるのではありません。むしろ、ご自分がこれから何をしようとしているのかを良くご存知の上で、弟子たち、私たちに語っておられます。主は私たちを愛して、私たちのために、十字架の上でご自分の命を捨てようとしておられます。主はご自分の死を見つめながら語っておられます。そして言われるのです。「私はあなたがたを友と呼んだ」(15節)。主イエスは、神に背いた罪のために、神の前から失われていた私たちを、「友」と呼んでくださいます。私たちを「敵」と見ておられるのではありません。友と呼ばれる値打ちのない者を、主は「私の友」と呼んでくださいます。「友よ、私はあなたのために十字架の上で命を捨てるのだ」、そのように語りかけてくださるのです。何の資格もない私たちを、主イエスが選んで、主イエスがすべてを整えて、友と呼んでくださる。主の愛のうちに留まり続けるようにと、招いてくださるのです。主を共に礼拝する教会の交わりの中に留まり続けるようにと、私たちを招いてくださるのです。
ヨハネによる福音書第15章は、ぶどうの木のたとえから始まりました。そのたとえは、11節以下、きょう読んだところにも、その響きを残しています。主は言われるのです。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである」(16節)。主イエスは、私たちが、お互いの間に、喜びと愛の実を豊かに結ぶように、そのようにして、私たちが主イエスに愛されている弟子として生きるようにと望んでおられます。私たちが互いに愛し合うことによって、主の弟子であることを世に現わし、主の大いなる愛を証しする者として生きることを願っておられます。そして、この地上に、主にある喜びと愛と平和の実が結ばれることを、私たちが大胆に、主の名によって願い、その実現のために祈りつつ仕えていくようにと求 めておられるのです。
主の聖餐を囲んでいます。ここに、私たちが主の言葉に留まり続けることのできる確かな場所があります。主が私たちを友と呼んでくださる確かな場所があります。主イエスにつながる洗礼を受けることによって、主の愛の満ちあふれる食卓に、共にあずかる喜びを味わっていただきたいと願います。主は、皆さん、お一人びとりを、御言葉と 聖餐によって養われ、導かれる、祝福と恵みへと招いていてくださるのです。