2024年7月28日 主日礼拝説教「主の証し人として生きる」 東野尚志牧師

イザヤ書 第44章6~8節 
ヨハネによる福音書 第15章26節~16章4a節

 滝野川教会の創立120周年の記念の年、主の年2024年もすでに半年が過ぎました。先月(6月)には、記念のオルガン・コンサートや伝道礼拝が行われました。そして今月、2週間前の7月15日(月)は、教会全体一日修養会を開催することができました。「キリストの弟子として生きる―祝福を担う群れ・教会」。120周年の年間主題のもと、休日の一日を用いて、学びと語り合いの時を持ちました。修養会に先立つ2回の学びと修養会の講演内容、また参加者の言葉は、8月の夏期修養会の前に、教会報である『椎の樹』の中にまとめて掲載する予定です。それをもって、夏期修養会に臨みます。学んできたことに基づいて、さらに理解を深めていくためです。また、これまでの学びに参加できなかった方たちにも、学びの内容を共有していただきたいのです。

 今月はまた、120周年記念の証し集の原稿がようやく揃いまして、印刷会社の手に渡すところにまでこぎ着けました。印刷会社の手で割り付けがなされ、ページが組まれた後には、印刷会社と教会の間で何度か校正のやり取りをしながら、11月の初めには皆さまの手元に届けられるよう、さらに準備を進めて行くことになります。言うまでもないことですが、この証し集の中心は、100名を超える方たちから寄せられた証しの文章です。正式に標題が決まる前から「証し集2」という呼び方をして参りましたように、今から32年前に刊行された『神の恵み―われらここに生きる』という証し集の形式を引き継いでいます。原則として、1人に1ページずつが割り当てられて、信仰の証しの文章に合わせて、小さな顔写真と信仰の経歴が記される形になります。
 ただし全体の構成としては、メインである教会員一人ひとりの証しは第二部でありまして、その前に第一部として、「コロナ禍における教会」という主題で、私が短い文章を書きました。私が滝野川教会に着任した2019年の6月以降、この5年間の教会の歩みを振り返りながら、「コロナ禍」という特殊な状況の中に置かれた教会の日々をたどりました。さまざまな制限を強いられた歩みの中にも、多くの恵みが与えられたことを感謝したいと思いました。私の文章が提出されるまで、忍耐強く待ち続けてくださった編集委員の方たちにも感謝したいと思います。そして、このような二部構成を考えられた編集委員会の判断に敬意を表します。確かに、今回の証し集のメインは、第二部の信仰者一人ひとりの証しです。けれども、その一人ひとりを支え、一つに結び合わせているのは教会なのです。「証し集」という観点からすれば、第一部は、コロナ禍を生き抜いた、教会の証しだと言ってよいと思います。私たちは、この教会の証しの中で、生かされているのです。

 すでに「証し」という言葉を何度も用いてきました。けれども、「証し」という言葉は、日本の社会の中で、あまり一般的に通用する言葉ではないのかもしれません。「贖い」や「安息日」、「牧会」といった言葉と同じように、キリスト教会の特殊な用語ということになるかもしれません。もちろん、教会外においても「証し」という言葉が用いられないわけではありません。けれども、「交わり」とか「恵み」といった言葉と同じように、普通に社会の中で用いるときと、教会の中で用いるときに、微妙なズレが生じる場合が多いのではないかと思います。さらに誤解を恐れずに言えば、同じキリスト教会の中でも、「交わり」を「お交わり」と言い、「証し」を「お証し」というとき、その教派的な背景によって、独特な意味合いを持つこともあります。ましてや、日本という異教的な社会の中で、「証し」という言葉は、うまく理解されないのではないかと感じるのです。
 そんな中で、今から2年前、一般の書店である角川書店から、『証し』という題の書物が出版されたことを、皆さんはご存じでしょうか。2022年12月31日に、初版が発行されました。1000ページを超える分厚い書物の中に、さまざまな立場や背景をもつ日本のキリスト者たちの証しが集められているのです。著者である最相葉月(さいしょう はづき)という人は、ご自身はキリスト者ではないにもかかわらず、日本全国の多くの教会の教師や信徒たちを訪ねて、取材を重ね、インタヴューをもとにして、それを一人ひとりの証しの文章の形で綴っています。依頼して、書いてもらったというのではありません。一人ひとりに時間をかけて話を聞いた上で、それを本人が語る一人称の証しとして綴った忍耐と努力はすごいことだと思いました。私は、この本が出たときすぐに買い求めて、半分ほど読みました。その後、忙しくなって積んだままになっていました。書物の題名は『証し』というのですが、副題として「日本のキリスト者」と記されています。そこに、現代の日本のキリスト者の姿が、生き生きと描かれている、そう言って良いと思います。

 この書物の最初のページを開いたところに、「証し」についての定義のような言葉が記されています。「『証し』とは、キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や行動を通して人に伝えること。証、証言ともいう」。なかなか簡潔で要を得た言葉だと思います。確かに、「証し」の文章には、自分自身のことを書くのです。けれども、それは、信仰に関わる話です。決して、自分の宗教的な不思議な体験を誇ることでもなければ、まして奇跡の体験談に留まるような話ではありません。そのような体験に基づいて、自分自身が、神から与えられた恵みを人に伝える言葉なのです。独りよがりな言葉であってはなりません。日本という社会の中にあって、今、自分がキリストを信じる者とされていること、教会につながる者とされていること、そこに働いた神の恵みの業を人に伝える言葉です。神の恵みの証言だと言っても良いのです。
 「証し」というと、教会の特別な用語のように響くかも知れませんけれども、「証言」というと、急に公の言葉のように聞こえます。「目撃証言」という言葉もあるように、法廷において裁きがなされるとき、目撃証言は有力な証拠と見なされることになります。主イエスの弟子たちが語った言葉は、まさに、主イエスについての目撃証言だと言って良いのだと思います。主イエスが語られた言葉を聞き、主イエスがなさった業を見た者たちが、主の言葉と業を証言したのです。使徒言行録を見ると、実際に、弟子たちが裁きの場に引き出されて、そこで、主イエスについての証言を迫られている場面があります。何よりも、使徒言行録の中で、主イエスの弟子たちは、「主の証人」と呼ばれます。「証人」というのも、法廷用語です。ある事柄が真実であるかどうかを判定するために、証人の喚問がなされるのです。そして、証人に対しては、真実のみを述べるという誓約が求められ、その証言が重要な意味を持つことになります。偽証すれば罪に問われるのです。

 主イエスは、大勢の弟子たちの中から、特別に十二人を選んで、これを使徒とされました。主イエスが十二人を選ばれたのは、明らかに、イスラエルの民が十二の部族からなっていたことをなぞるものです。かつての神の民に代わるものとして、その使命を受け継ぐ群れとして、十二人の使徒たちを新しい神の民の基礎にしようとされたのです。だからこそ、主イエスが十字架にかけられ、死んで葬られ、復活して天に帰られたあと、残された弟子たちは、十二という数を守ろうとしました。主イエスを裏切ったユダが抜けて、一人欠けてしまったところを補充しようとしたのです。使徒言行録の第1章の後半に、使徒選出の様子が描かれています。120人ほどの仲間たちが集まっている中で、ペトロが立ち上がって、ユダの代わりとなる使徒を選ぶことを提案します。そのとき、使徒として選ばれるための条件を述べて言うのです。「主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者のうちの誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです」(使徒言行録1章21~22節)。そこで2人の候補が立てられて、使徒の務めを継がせるためにくじを引いたところ、マティアに当たり、この人が十一人の使徒たちに加えられました。大事なことは、主イエスと最初から一緒にいた者たちの中から、つまり、実際に主の言葉を聞き、主の業を見た者たちの中から、主の復活の証人が選び立てられたのです。
 ヨハネによる福音書の終わりのところにも、興味深い言葉が記されています。最後の章である第21章の結びの言葉です。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(21章24~25節)。「この弟子」と呼ばれているのは、「イエスの愛しておられた弟子」のことです。この福音書の中で、名前は記されていません。実は、この福音書を書いたヨハネその人であったのではないかとも言われています。この弟子が、「これらのことについて証しをし、それを書いた」というのです。「これらのこと」という言葉でまとめられているのは、最初から主イエスと一緒にいて見聞きしたすべてのことです。それをこの福音書として書いた、というのです。その意味では、この福音書もまた証しの言葉です。福音書記者ヨハネが、主イエスのそば近くにいて聞いた、主イエスの言葉、また目撃した主イエスの御業について証しをしているのです。

 主イエスは、十字架を目前にした最後の晩餐の中で、弟子たちに語って言われました。「私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるであろう。あなたがたも、初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである」(15章26~27節)。この後、主イエスは捕らえられ、十字架につけられ、死んで墓に葬られます。しかし、墓の中からよみがえって天に昇られ、もはや直接には、そのお姿を見ることができず、直接にその言葉を聞くこともできない存在になられます。けれども、主イエスは、ご自身に代わって、父なる神のもとから聖霊を送ってくださるのです。主イエスご自身の霊と言っても良い、神の霊の力強い働きが始まります。そして、このお方、主イエスが父なる神のもとから遣わされる弁護者である真理の霊が来られるとき、このお方は主イエスについて証しをなさる。主イエスが何を語られ、何をなさったか、真理の霊である神ご自身が証しされるのです。
 既に読みました第14章においては、こんなふうに告げられていました。「私は、あなたがたのもとにいる間、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14章25~26節)。真理の霊である聖霊が働いてくださるとき、主イエスが話しておられた言葉を思い起こさせてくださるというのです。そして、さらに言えば、思い起こさせてくださるだけではなくて、それを悟らせてくださる。それが、聖霊による証しであると、主は言われます。しかも、それと同時に、主イエスと初めから一緒にいた弟子たちも、主イエスについて証しをすると言われるのです。主が約束されたとおり、弟子たちの群れに聖霊が降り、聖霊を受けた弟子たちは、力強く、主の十字架と復活による救いを語り始めました。聖霊を受けた弟子たちによる伝道が始まったのです。

 確かに、主イエスが語られた言葉は、十字架を前にして、弟子たちに告げられた遺言のような言葉でした。けれども、その言葉が、主の愛された弟子によって福音書として記されたとき、その言葉を最初に聞かされたのはヨハネの教会の信徒たちでした。1世紀の終わり近くのことと考えられます。すでに、紀元70年に、エルサレムの神殿はローマの軍隊によって滅ぼされていました。信仰の拠り所としての神殿を失ったユダヤの人たちは、自分たちの信仰を守るために、律法のみを拠り所として結束するようになります。そして、ローマとの厳しい戦いに協力しようとしなかったキリスト者たちを、自分たちの群れから追放することを決めるのです。ヨハネによる福音書の16章冒頭の言葉は、そういう時代の状況を反映しています。主は言われます。「これらのことを語ったのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」(16章1~2節)。主イエスと一緒に過ごして来た弟子たちにとっては、少し先に起こることの予告でした。けれども、1世紀の終わり頃、この福音書の言葉を聞かされた信徒たちにとっては、まさに、自分たちの身に迫っている現実でした。切実な思いで、主の言葉を聞いたのではないでしょうか。
 主はさらに主は言われます。「彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、私が彼らについて語ったのだということを、あなたがたに思い出させるためである」。1世紀末の信徒たちは、まさに「その時が来た」ということを痛切に受けとめたのです。イエス・キリストを救い主として信じる者たちは、ユダヤ教の会堂から追放されて、自分たちの身を守ってくれるコミュニティを失います。会堂からの追放は、死刑を宣告されたも同じです。さらには、もはやユダヤ教という仲間の保護から追い出されたところで、ローマ帝国からの容赦ない迫害に直接さらされるようになるのです。こうして、「証人」という言葉は、殉教者という意味を持つようになりました。主イエス・キリストに対する信仰の信実を貫こうとすると、命を奪われることになるのです。

 かえりみて、今、こうして共に礼拝をしている私たちはどうでしょうか。確かに、私たちは、二千年前の使徒たちとは違って、初めから主イエスと一緒にいて、その言葉を聞き、その業を見たわけではありません。そのような私たちが、本当に、主の証人となることができるのでしょうか。最初の使徒たちのように、さらには、1世紀末のヨハネの教会の信徒たちのように、命を奪われる危機にさらされることがないまま、どこか、主イエスの存在を遠く感じてしまっているのかもしれません。主イエスが地上を歩まれた時から2千年もの時を経て、ユダヤから遠く離れた地にいる私たち、時間的にも空間的にも大きな隔たりの中に置かれている私たちが、どのように、主の言葉を聞き、主のお姿を見ることができるのでしょうか。
 その秘密は、主が送ってくださった弁護者、助け主の存在にあります。歴史的、社会的な状況の違いを超えて、また時間的、空間的な隔たりを超えて、今も、2千年前の教会と同じように、私たちの上に力強く働いてくださるお方があるのです。弁護者であり、真理の霊である聖霊なる神が、私たちの上に働いてくださるとき、私たちは、2千年前に書かれた言葉を、今、私たちに告げられた神の言葉として聞くことができるようになるのです。2千年前のパレスチナの信徒たちと、今、日本で生きている私たちと、それぞれを取り巻く状況は、大きく違っています。しかし、命を奪うような迫害があろうがなかろうが、証し人として立てられた証人に求められている務めは同じです。主イエスの救いを証しすることです。

 聖霊の働きによって、主イエスのことが分かるようになるということは、父なる神がどれほど深くまた強く、私たちのことを愛していてくださるかが分かるということです。私たちが、罪の支配から解き放たれて、罪に対しては死んだ者となり、神に対して生きる者となるように、独り子イエスを遣わしてくださった、神の大きな愛に、今、私たちは包まれています。私たちのためにご自身の命を犠牲にして、十字架にかかって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちが神のものとして新しく生まれるための救いの道を拓いてくださった主イエス・キリストの深い慈しみの中に、今、私たちは招かれています。主イエスによる救いは、2千年前も今も、変わることはありません。救いは、キリスト以外にはどこにも存在しない。この救いと自由の喜びを、一人でも多くの人に証しし、伝えたい。聖霊なる神が、その証しの業へと、今、私たちを送り出してくださるのです。  主は言われます。「恐れるな、おびえるな。昔から私はあなたに聞かせ 告げてきたではないか。あなたがたは私の証人。私のほかに神があろうか。私のほかに岩があろうか。私はそれを知らない」(イザヤ44章8節)。私たちも今、主イエス・キリストの証人と呼ばれます。主を信じることで、たとえどのような不利益や試練にさらされるとしても、主は私たちに信実であられます。連日の猛暑の中、礼拝に集まること自体が命懸けとも言えるような現実を生きています。さまざまな試練や誘惑にさらされながら、私たちも主の御前に信実な証人として、信仰の生涯を貫きたいと願います。