2024年7月21日 主日礼拝説教「世から選び出された者」 東野尚志牧師

詩編 第69編1~5節 
ヨハネによる福音書 第15章18~25節

 「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」。ヨハネによる福音書の第15章は、主イエスと弟子たち、主イエスと私たち教会の関係を、ぶどうの木とその枝の関係として描いてきました。ぶどうの枝である私たちが、幹である主イエスにしっかりとつながっており、主イエスのうちにとどまっているならば、私たちは豊かに実を結ぶと約束されていました。それは、とても絵画的で分かりやすいたとえであると思います。ぶどう棚が広がり、その広く張り巡らされた枝々から、たわわに実がぶら下がっている光景を見たことのある人は、一瞬にして、主イエスと私たちの関係を理解することができるのです。
 ぶどうの木である主イエスと、その枝である私たちを結び合わせているのは「愛」です。主イエスが私たちを選んでくださり、私たちをご自分の枝としてつなぎとめてくださり、私たちに命と愛を溢れるほどに注ぎ込んでくださって、愛の実を豊かに結ばせてくださるのです。しかも、私たちが良い実を実らせるようにと、心をかけて世話をしてくださるのは、父なる神さまです。神さまは、ぶどうの木の世話をする農夫として、私たちが主イエスという木にしっかりとつながって、良い実を結ぶように、心を尽くし、手入れをしてくださいます。あらぬ方向に伸びていきそうな木の芽を摘み取ってくださって、私たちが伸び伸びと枝を張っていくことができるように愛の鋏をいれてくださるのです。そこには愛に伴う喜びが溢れています。
 ところが、同じ第15章の18節以下に進むと、愛ではなくて、憎しみが語られることになります。父なる神も主イエスも、教会を愛してくださるにもかかわらず、教会は世から憎まれることになると言われるのです。いやそれは、逆説ではないのかもしれません。父なる神と主イエスが教会を愛してくださるからこそ、教会は世から憎まれることになるのです。ぶどうの木につながる枝が、豊かに愛の実を結べば結ぶほど、世は教会を憎むようになる。それはむしろ必然であると、主は言われるのです。

 いったい、教会を憎み、迫害する「世」というのは何でしょうか。「世」と訳されているのは、「コスモス」というギリシア語です。秩序のある世界や宇宙を表わすこともあります。英語で「コスモス」と言えば、最初に出てくるのは、宇宙、秩序、調和と言った意味になります。それを、ヨハネによる福音書では「世」と訳しています。この世、この世界を指す言葉として用いるのです。
 ヨハネによる福音書の中で、最初に「コスモス」という言葉が表れるのは、第1章9節です。「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」と告げられます。クリスマスの時期に良く読まれる言葉です。かつての口語訳聖書では、「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」と訳されていました。闇に閉ざされた世に、まことの光である救い主として主イエスが来てくださった。神の独り子が生まれてくださった。そのように説かれます。また同じ1章の29節では、洗礼者ヨハネの言葉の中で、世について語られます。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」。主イエスが世に来られたのは、ご自身がほふられる犠牲の小羊となることによって、世の罪を取り除くためであったと告げるのです。
 そして、忘れることができないのは、3章16節の言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ヨハネによる福音書において、「世」というのは、神が愛された愛の対象です。神は、世を愛されたのです。神は世を愛して、最愛の独り子である主イエスをさえ惜しまずに与えてくださいました。それほどに、神は世を愛しておられるのです。続く17節で語られます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。神は世が御子によって救われるために、大切な独り子を世に遣わしてくださったのです。

 ヨハネによる福音書が、最初から語っているように、神さまは世を愛されました。世を救おうとされました。ところが、主イエスは、十字架の死を前にした最後の晩餐の席上で、弟子たちに告げられます。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んだことを覚えておくがよい」(18節)。神は、その独り子をお与えになるほどに世を愛されたにもかかわらず、世は神に逆らい、神から遣わされた独り子イエスを憎み、神の御子を抹殺しようとしました。そして、ただ主イエスを憎んだだけではなくて、主イエスを信じ、主に従おうとする弟子たち、主の教会をも憎んだというのです。
 恐らく、この主イエスの言葉を切実な思いで受けとめたのは、最初にこの福音書を手にしたヨハネの教会の信徒たちだったのではないかと思われます。確かに、主イエスの言葉は、最後の晩餐に続く食卓で、すでに主イエスを裏切ることになるユダが欠けてしまった後の11人の弟子たちに向けて語られた言葉として記されています。けれども、ヨハネがこの福音書をまとめたのは、1世紀の終わりに近い頃のことです。そして、この福音書の中に描かれているユダヤ人たちは、主イエスが地上を歩まれた頃のユダヤ人であるよりは、むしろ、福音書が書かれた当時の1世紀の終わり頃のユダヤ人支配層、ファリサイ派と呼ばれた人たちの姿を現わしていると思われます。主イエスが言われた「『人々は理由もなく、私を憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである」というのは、まさに、1世紀の半ば以降のユダヤ人の姿を指しているのです。

 先ほど朗読した箇所の少し先のところ、第16章の2節にはこう記されています。「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。この後半のくだりは、使徒パウロの姿にも重なります。パウロは、ユダヤ人の間でサウロと名乗っていたとき、熱心な教会の迫害者でした。キリストの教会を荒らし回り、イエスを信じる者を捕らえては牢にぶち込むことで、自分は神に仕えているのだと信じていたのです。なぜなら、木にかけられて殺された者、すなわち、神に呪われた者を救い主・メシアと信じて宣べ伝えるなどというのは、神への反逆だと考えたからです。
 しかし、サウロはさらにキリスト者殺害の息を弾ませ、ダマスコへと向かう途上で天からの光に打たれ、復活された主イエスの言葉を聞きました。地に倒れたサウロは、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞きました。「主よ、あなたはどなたですかと尋ねると、その声は答えました。「私は、あなたが迫害しているイエスである」(使徒言行録9章4~5節)。主イエスは、教会に対する迫害をご自身に対する迫害として受けとめられました。この復活者との出会いを通して、サウロは180度の回心を経験し、キリストの教会を迫害する者から、キリストを宣べ伝え、教会を建てる者へと変えられたのです。

 パウロは後に、ガラテヤの教会に宛てた手紙の中で、キリストが受けられた呪いについて、語りました。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木に掛けられた者は皆、呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤ3章13節)。キリストが、十字架の木に掛けられて、神に呪われた者となられたのは、私たちが受けるべき呪いをすべてご自身に引き受けて、私たちを律法の呪いから贖い出してくださったのだということに目を開かれたのです。
 いずれにしても、パウロ、すなわちサウロは初め、教会の迫害者でした。教会を迫害することで、自分は神に仕えていると思っていたのです。サウロは回心して、伝道者パウロになることができました。けれども、その後にも、神に仕える熱心さをもって教会を迫害したユダヤ人が多くいたのだと思われます。そしてついには、キリストを信じることを公に言い表した者は、ユダヤ教の会堂から追放するという決議がなされるようになります。正式に、そのような方針が固まったのは、1世紀の終わり近くのことであったとされるのです。

 しかしながら、キリストの教会を迫害したのは、熱心なユダヤ教徒たちだけではありませんでした。当時、パレスチナの地域を支配していたローマ帝国も、やがてキリストの教会を迫害するようになります。ローマの皇帝ネロは64年に起こったローマの大火について、新しい都市計画のためにネロが火を放ったという噂が広まると、それを打ち消すために、キリスト教徒が火をつけたという話をでっちあげて、大迫害を行いました。政治的には名君としての側面も持ち合わせていたようですけれども、もっぱら教会を迫害した暴君として知られるようになりました。キリスト信者はまた、無神論者というレッテルを貼られて迫害されたとも伝えられます。ローマの神々を信じることをせず、ローマ皇帝を神として拝むこともしなかったからです。
 ユダヤ人たちからも憎まれ、ローマ帝国からも厳しい迫害を受ける中で、1世紀終わり頃のヨハネの教会の中に、激しい動揺が起こったのだと思われます。信仰が揺さぶられ、迫害を恐れて教会から離れていく者も出て来ました。厳しい迫害にさらされて、恐れと迷いを覚える者たちに、主イエスは告げておられるのです。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んだことを覚えておくがよい。もしあなたがたが世から出た者であるなら、世はあなたがたを自分のものとして愛するだろう。だが、あなたがたは世から出た者ではない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(18~19節)。世に憎まれる者になってしまったのは、世に憎まれている主イエスのものとされたからなのです。
 確かに、最初は皆、世に属するものでした。けれども、主イエスは、ご自身に従う者を世から選び出して、ご自分に属する者とされました。主は言われます。「もしあなたがたが世から出た者であるなら、世はあなたがたを自分のものとして愛するだろう」(19節)。新共同訳聖書では、「自分のもの」というところを「身内」と訳していました。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである」というのです。なかなか面白い言葉に訳したと思います。主イエスによって選ばれ、この世から選び出されて、主イエスに属する者、主イエスの身内とされた者は、もはや、この世の身内ではなくなってしまったのです。世の身内ではなくなり、世にとってはよそ者になってしまったから、世はあなたがたを憎み、嫌うのだと言われます。ユダヤ人からもローマ人からも迫害されるようになったのは、キリストの者とされたからなのです。

 ここで語られていることは、事実上、1世紀末の歴史的な状況を背景にしていると思われます。しかし、それは、私たちにとって、決して他人事で済ませられることではありません。確かに、この日本においても、江戸時代にはキリシタンに対する激しい迫害が行われたことがあり、今から80年ほど前、日本が欧米の列強と戦争していた時代には、キリスト教は「敵性宗教」と見なされ、弾圧を受けました。殉教者を多く出した教派もあります。忘れられてはならない歴史的な出来事です。けれども、今現在、教会に連なって生きている私たちが、世の人々から憎まれていると感じることはあまりないかもしれません。なるほど一部には、教会に通うことで、親族の中で生きづらさを感じることがあったり、縁を切られたりするようなことがあるかもしれません。それでも、この日本において、主イエスを信じていることで、命を奪われるような事態に直面することはないと言ってよいのではないでしょうか。そうであればこそ、私たちは今、主イエスの言葉を真剣に聞かなければならないのだと思います。私たちが、この世から選び出されて、もはや世に属する者ではなく、キリストに属する者にされているということを、真剣に受けとめなければならないのです。
 サタンがなおも力を奮うこの世において、キリストの教会が脅威であるならば、サタンは全力でこれを潰しにかかるのだと思います。けれども、キリストの教会が脅威でも何でもなければ、サタンは手を出すこともせずに、そのまま教会の存在感が薄れていくのを、ほくそ笑みながら眺めているのではないでしょうか。教会が今、この世から憎まれることもなく、迫害されることもないとしたら、この世から選び出され、キリストに属する者とされたはずの教会が、いつの間にかこの世にとって身内のような存在になってしまっているということなのではないでしょうか。信仰は罪人を義人に造り替える力を失って、毒にも薬にもならない一時的な慰めや安心感を与えるだけの一時しのぎのサプリに過ぎないものに変質してしまっているのではないでしょうか。しかし、世から選び出されるということは、私たちがぶどうの木につながる枝となり、愛の実を結ぶ者となることと一つなのです。実を結ぶ枝というのは、この世から切り取られて、キリストに接ぎ木された枝であり、もはや世につながっているのではなく、キリストにつながっている枝でなければなりません。もはや世に属しているのではなく、主イエス・キリストに属する者とされており、それゆえに、世の価値観とは相容れない者とされているはずなのです。

 憎む、というと、とても激しい言葉だと感じます。しかし、主イエス・キリストは世から憎まれたのだということを忘れてはならないと思います。神はこの世を愛され、この世を救うために大切な独り子をお遣わしになったにもかかわらず、世はキリストを受け入れず、むしろ、父なる神とキリストを憎んだと告げられます。なぜ、これほどの愛を受け入れようとしなかったのでしょうか。それは、父なる神が主キリストを遣わして与えようとされた救いが、世の求める救いとは違っていたからです。だからこそ、人々は、主イエスに背を向け、こんな救い主は要らないと言って十字架にかけたのです。私たちは、この世が求めている救いを伝えようとするのではありません。そうではなくて、父なる神が主イエス・キリストにおいて与えようとしておられる救いを宣べ伝えるのです。この世が諸手を挙げて歓迎してくれるような救いではなく、むしろ、価値のないもの、役に立たないものとして見捨てられてしまうような救い、しかし、それこそが、隅の親石となる救い主を証しするのです。
 主は言われました。「僕は主人にまさるものではない」。私たちは、十字架にかけられた御子を、私の救い主、私たちの救い主として信じ、受け入れました。使徒パウロの言葉を思い起こします。「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(1コリント1章18節)。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(同22~24節)。十字架にこそ救いがあり、罪人の罪を赦す神の力が溢れ出ていることを喜び、キリストに選び出され、キリストの身内とされた者として、愛の実を結んでいく者でありたいと願います。

 主イエスは、私たち教会に対して、「あなたがたは地の塩である」と言われました(マタイ5章13節)。「あなたがたは世の光である」とも言われました(同14節)。塩気を失い、味付けにも役立たない塩になってしまうことのないように、また、光を隠してしまうことのないように、心しなければなりません。私たちは、この世に塩味をつけ、この世を救いの光で照らす存在として遣わされているのです。主が私たちをお遣わしになり、私たちを用いてくださいます。主の御心に従って、救いの現実を喜んで生きる者でありたいと思います。