2024年7月14日 主日礼拝説教「平和を運ぶ使者」 東野ひかり牧師

サムエル記上 第25章4~6節
マタイによる福音書 第10章7~15節

 今年の2月、青山学院で「教会と青山学院との懇談会」という会が開かれました。教会学校の先生お二人と出席しました。そこで青山学院の学院宗教部長の伊藤悟先生のご講演を聞きました。学校も教会も主イエスから託されている使命は「伝道」ですから、講演の主題のひとつは「伝道」ということでありましたが、その中で印象深く聞いた言葉があります。こういうことを言われたのです。「教会というところは、変わる、ということがとても下手だ。昔ながらのことをずっと変わらずやっている。」先月私たちの教会にお招きした聖学院の伊藤大輔先生も、礼拝後の懇談会の中で同じようなことを言っておられました。「教会は、いつまでも昔と同じやり方をしていたのではだめなんじゃないか。」
 青山学院のほうの伊藤先生は「教会は変わるのがとても下手」という話の中で、今年度私たちの教会が主題聖句として掲げましたマタイによる福音書の最後のみ言葉、第28章19節20節に言及されました。4月からずっと週報に印刷されているみ言葉です。「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」このみ言葉に触れながら、こういうことを言われました。「イエスさまは『あなたがたは行って』と言われた。この『行って』ということが大事なのではないか。教会がずっとやって来た伝道の方法のひとつは、教会に人をたくさん集めて伝道集会をする、というやり方だけれども、イエスさまは、『行って、出て行って』と言われた。このことが大事なのではないか。」 教会にやって来る人たちを待っているという伝道、あるいは何とかしてたくさんの人を教会に集める伝道、そういう旧来型の伝道ではなく、「出て行く伝道」ということをもっと考えたほうがよいのではないかということを言われました。

 先月、私たちの教会は教会創立120周年記念のオルガンコンサートと特別伝道礼拝を行いました。青山の伊藤先生から見れば、「昔と同じ〈教会に人を集める〉という伝道集会をした」ということになるでしょう。そういうやり方が全くダメとは言えないと思います。人を集めるために、チラシを配ったり、声をかけて誘ったり、それぞれが「出て行って」働きかけなければ、人は集まりません。昔ながらの方法かもしれませんが、そこにも「出て行く」という伝道の形はあると思います。けれど、青山の伊藤先生も聖学院の先生もおっしゃった「昔ながらのやり方を旧態依然として続けていて、これをしていればよい、というところから『出て行』かなければならないのではないか」ということは、考えさせられます。お二人の伊藤先生は、これからの教会の「伝道」ということを真剣に考えるなら、教会は変わらねばならないだろう、変わる必要があるだろう、変化を恐れないで、一緒に新しい伝道の旅に「出て行こう」と、変化の苦手な私たちを励ましてくださったようにも思います。
 主イエスは、教会に「伝道」という使命を与えておられます。「行きなさい」と弟子たちを遣わされます。主の教会がなすべきことは、主に遣わされて出て行き、伝道することです。教会に連なる私たち一人ひとりが、主イエスに遣わされて、伝道の旅に「出て行く」のです。今いる居心地のよいところから、慣れ親しんだやり方から離れて「出て行く、外に出る」ということは、勇気が要ります。「変わる」ということは勇気が要ります。しかし主イエスは言われます。「行きなさい」と。「出て行きなさい」と言われ、弟子たちを、私たちを遣わされるのです。伝道というのは、本来、主イエスに遣わされて「出て行く」ということです。

 明日は、学びを重ねながら祈って備えてきました一日修養会が行われます。「キリストの弟子として生きる—祝福を担う群れ・教会」という主題のもとで、約40名の方々が再びここに集められて、学びをし、分団に分かれて語り合います。この教会創立120周年を覚える一年をここまで歩みながら、コンサートや伝道集会という催しを開き、そして主題の学びを重ねながら、私どもがずっと祈っていますことは、教会全体がこの記念のときに心を合わせて、祈りを合わせて、主から託された伝道の使命に新たに進んでゆけますようにということです。「新しく出て行くことができますように。」そういう祈りを重ねています。そして、私たちが「祝福を担う群れ」「祝福を担う一人ひとり」として遣わされることを、伝道の使命に生きることを喜びとする、そういう教会、そういう教会のひとえだとして生かされるようにと、祈り続けております。
 随分以前に、ある若い伝道者のご夫妻からいただいたお年賀状の写真に、私はちょっと驚いて感激したことがあります。どういう写真だったかと言いますと、1歳か2歳くらいになったお子さんとご夫婦の写真だったのですが、それだけならば他の多くの若い家族のほほえましい写真と何も変わらないわけですけれど、その若い伝道者のご夫妻とお子さんは手に小さな旗を持って嬉しそうに笑っていました。手にしていたその旗には「伝道」と書いてあったのです。みんなして「伝道」と書いた旗を持って(旗を振って、というように見えましたが)、家族3人満面の笑顔で写っていました。私にはもうまぶしいくらいのすてきな家族写真でした。伝道という主の働きに召されている家族がみんなで伝道する、伝道の働きを担わせていただいている、それが嬉しくてならない。そういう実に楽しそうな家族写真。伝道の使命を与えられている、担っている、ということは喜びなのだとその写真から強く教えられました。「伝道はほんとに楽しい、楽しくて嬉しくてならない、イエスさまに従って行くことはもうほんとに嬉しいです、楽しいです」そんなふうに話しかけてくるような写真でした。
 
 今の時代、伝道困難だと言われ続けています。皆さまもそれを肌で感じておられると思います。そもそも伝道という行為自体が敬遠されるような社会の空気があると思います。いわゆる「宗教」への警戒感や、あるいは全くの無関心があります。一所懸命伝道しても、チラシを配っても、コンサートをしても、新しく教会にお出でになる人は少ない。学校から紹介されてたくさんの生徒さんたちが礼拝に出席されても、ほとんどの人は課題が済めばもう来ない。一所懸命伝道してもむなしいだけだ、落胆するばかりだ。心ひそかにそんなふうに思っている人もあるかもしれません。あるいは、一所懸命勇気を出してお友だちを誘って、やっと教会に来てくれたのに、説教はちんぷんかんぷんで、礼拝は長いし、誘ってももう来てくれなくなってしまった、もう行かないと言われてしまったということもあるかもしれません。私ども牧師たちの説教がつまらない分からない難しい、ということが伝道を困難にしている一番の原因ということがあるかもしれない。私どもは悔い改めて努力をしていく他ありません。
 けれど、どんなに伝道が困難でも、伝道するということは、私たちにとって、牧師や伝道者だけではない、皆さんすべてにとって大きな喜びです。なぜなら伝道は、主イエスの働きだからです。そして主イエスはその働きに私たち一人ひとりを必要としてくださり、ご自身の使者として遣わしてくださるのです。私たちのする小さな伝道のわざ、心にかかる人のところに行って一緒に祈る、電話をかける、手紙を書く、メールをする、そして礼拝に誘う、一緒に礼拝に出る、すべて勇気を振り絞って一歩を踏み出す、小さな一歩かもしれませんが、「出て行く」伝道のわざだと思います。そこに、主イエスが働かれる。主イエスが共にいてくださるのです。声をかけることも、手紙もメールも電話もできない、ただその人のために祈るだけ、それも、伝道のわざです。そこに主イエスが共におられ、働かれます。

 伝道は、主イエスが教会に命じ、私たち一人ひとりにお与えになった主イエスの働きです。そこには、必ず、主が共におられる。「世の終わりまで」も、いつまでも、そして私たちがどこに出て行っても、主が共におられる。主イエスが「行きなさい」と私たちを遣わす。聖霊のいのちの息を吹き入れて、遣わしてくださる。主イエスはご自身の働きに私たちを必要としてくださる。そして、遣わす主イエスは、後は知らないよと、私たちを放りだすのではないのです。そうではなくて、常に共に働いてくださるのです。後始末までしてくださるのです。伝道のわざは、どんな小さな業でも、主イエスが共にいます業です。主イエスが働く業です。私たちの内に住むほどに近くいます主が、私たちにおいて働いてくださる。主の生けるご支配を見せてくださる。神さまこそが真の主であることを分からせてくださる、主に必要とされて、主に用いていただける、こんなに大きな喜びのわざはありません。楽しい働きはありません。
 ですから、今日読みましたマタイによる福音書の第10章10節にはこうあります。「10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」何も持たなくて大丈夫だと、主は言われます。履物さえはかなくて大丈夫だと。あなたがたの行くところ、そこはすべて、神がおられ神が働かれる神の宮なのだから、と、そう言っておられるのです。あなたがたの行くところ、そこはすべて、先ほどの讃美歌で歌いましたように、神のみ国、神がおられ支配されるところとなる、だから思い煩う必要はない、そう言われるのです。何を食べようか、何を着ようかと、思い煩わなくてよいのです。神が必要なものは与えてくださる。伝道の働きとは、そういうものなのです。

 今朝読みました第10章の全体を「弟子の派遣」と呼ぶことがあります。主イエスが「行きなさい」と弟子たちを派遣するみ言葉です。第10章1~4節で、主イエスは改めて、12人の弟子たちを選び立てておられます。そのとき、主は12人に「汚れた霊に対する権能をお授けになった」とあります。この「権能」は、マタイ福音書第28章18節に語られている主イエスご自身の「権能」と全く同じ言葉です。主イエスは言われました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」この主イエスの権能・力と同じ権能・力が、12人の弟子たちに授けられています。そしてこの12人は10章2節で「十二使徒」と呼ばれています。「使徒」という言葉は、マタイによる福音書ではここだけに出てきます。ここには「教会」という言葉はまだ出てきません。けれども主イエスは、ここで、この12人・十二使徒において、教会の基礎を据えておられる、そう言えます。教会・キリストの弟子たちの群れには、キリストと同じ権能・力が、授けられている。そして、教会・主の弟子たちは、主と全く同じ働きを、主の働きをするようにと、主の伝道の担い手として、その使命を帯びて、派遣されるのです。主は、教会を通してご自分の働きを全世界に、すべての人に広げていかれます。驚くべきことです。
 主イエスは12人にお命じになります。7-8節「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死者を生き返らせ、規定の病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」12人の使徒たちすなわち教会は、主イエスが語られたことなさったこと、それをそっくりそのまま行なうことのできる力を与えられました。教会は、弟子たちは、それを持って、それを携えて出て行くのです。そして教会に連なるキリストの弟子たちは、一人ひとりが、主イエスとひとつになって、伝道するのです。教会の伝道、私たちの伝道とはそのような主イエスのわざなのです。

 教会の伝道において語られること、告げられることは「天の国は近づいた」です。主イエスご自身がお語りになったことをそのまま、口移しに授けるように、主イエスはこの力ある言葉を教会にお授けになりました。「天の国」は、天上の楽園、死んだ人が行くパラダイスという意味ではなく、他の福音書で「神の国」と言われていることと同じです。「国」は、空間的な領域のことではなく「支配」ということです。「天の国」は「神のご支配」です。神が生きて今も働きこの世界も私たちも、ご支配くださっている、神こそがすべての主であると、それが真実のことだと、教会は告げるのです。この神を信じてくださいと、生ける神の支配を告げるのです。
 現代の私たちの教会においては、主イエスご自身がお語りになったときのように、また使徒たちが伝道したときのように、目に見える神のご支配のしるしである奇跡のわざ、病人の癒やしや死者が生き返るというようなしるしが伴う、ということはありません。しかしだからといって、私たちの教会の伝道の言葉・宣教の言葉は空しい、力がない、中身がない、ということではありません。
 「天の国は近づいた」、神のご支配は始まった、すでにここに見えている、そう告げることは12,13節に言われている「平和の挨拶」と深く結びついています。12-13節「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。その家がふさわしければ、あなたがたの願う平和がそこを訪れるようにしなさい。ふさわしくなければ、その平和があなたがたに返って来るようにしなさい。」弟子たちの伝道は、主イエスと全く同じことを語り、行なうことでした。そしてそれは、もっと具体的には、訪れた家で平和の挨拶をすること、その家に平和を告げるということだと、そう主イエスは言われるのです。シャーロームと挨拶することです。そこに、神の支配が実現する、神が生きて共におられる、その出来事が起こると、主イエスは示してくださっています。

 私たちが、この人に福音を伝えたい、この人に神さまを信じてもらいたい、と思ったとき、そこで何を告げればよいのか、何を語ればよいのか分からないと、立ちすくんでしまう、ということがあると思います。けれど主イエスは「あなたに平和があるように」そう挨拶すればよいと言われました。それは先ほど旧約聖書のサムエル記で読みましたように、ごく普通の挨拶です。ユダヤの人々が日常的に交わす「シャーローム」という挨拶です。
 今この平和の挨拶を交わす国に平和がなく、争いが続いていることを私たちは知らされています。シャーロームと挨拶をする国で殺し合いをしている。しかしこの挨拶は、主イエスに遣わされた者が主イエスと共に告げるとき、憎しみと争いが渦巻く中に、神の支配という平和、神との和解、神が共にいてくださるその平和を実現する。主はそう言われたのです。争いのただ中に神のご支配による平和・平安を告げる、そこに神が共にいてくださる、主イエスの権能をもって告げられる平和の挨拶は、実に力ある挨拶です。争いのただ中に、神の和解をもたらし、神の平安を実現するのです。
 もう14年も前ですが、このみ言葉を加藤常昭先生の指導の下で、5日間もかけて学ぶというセミナーに参加しました。鎌倉の十二所というところの山の中にあるイエズス会黙想の家というところで、15人くらいの、いろんな教派の牧師たちが集まって学びました。私は夫と子どもたちの世話がありましたから、車で通って参加しました。そのセミナーの中で加藤先生が、この平和の挨拶についてこういうことを言われました。〈私たちの伝道というのは、この平和の挨拶をすることだ。それは、福音を伝えたいと思うその人の両手を包み込むようにして、あるいはその人を抱きしめるようにして、あなたに平和があるようにと告げることだ。〉そう言われました。そして、そのように告げられる平和は、戦争のただ中で死の不安に囲まれている人に、病気で死の不安に囚われている人に、罪と死の力にも勝つ平安を与える、そういう力強い、中身のある平和・平安なんだと言われました。
 キリストに遣わされて出て行き、そこで告げる平和の挨拶、それは力ある平和の挨拶です。そこにキリストが共に働いてくださるからです。このキリストは、私たちに対しても、私たちが遣わされる相手に対しても、はらわたが千切れるほどの憐れみを抱いてくださり、私たちすべてのために、十字架にかかってその命を与え尽くしてくださったキリストです。このキリストが私たちを遣わし、私たちの平和の挨拶と共に、その人を抱きしめてくださる。そこには、罪の力、死の力、悪魔の力に勝つ平安がある、重みのある、中身のある、力のある平和が、平安が、その人を包む。伝道とは、この〈平和を告げるキリストの使者になること〉です。

 しかしこの平和の使者が運ぶ平和・平安は、そのように力のあるものですから、もしその挨拶を拒むなら、それは恐ろしい罪になり、裁きを招きます。14-15節「あなたがたを受け入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいれば、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。よく言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムとゴモラの地のほうが軽い罰で済む。」何と恐ろしいことを主は言われるのだろうと、思われるかもしれません。確かに厳しい言葉です。けれどこの主の言葉は、一方で伝道という使命を担う教会にとっては、私たちにとっては、実は大きな慰めです。私たちの心を実に軽くしてくれる、そういう主の深い配慮に満ちた言葉、そう言ってよいと思うのです。
 私たちは知っていると思います。一所懸命祈り、勇気を振り絞って出て行って、平和を告げた、心を込めて平和の挨拶をした、神はあなたとともにおられる、そう告げたその人が、踵を返して去っていってしまう、その悲しみを知っています。伝道の失敗ということを教会は経験します。私たちは伝道がうまくいかなかった、その挫折を知っています。そういうとき、私たちは「何がいけなかったのだろう、私の言い方が悪かったのか、そもそも私という人間がダメだから伝わらなかったのか」、そんなふうに自分を責めはじめたりするのです。けれども主イエスは言われるのです。「一所懸命やってダメだったら、他に行けばよい。後は私がやるから。あなたが責任を感じる必要はないのだ」と。「足の埃を払い落として出て行く」というのは、「私は関係がない」ということを示す態度です。そうしてよい、と主イエスは言われるのです。後始末は引き受けた、と言ってくださっているのです。
 15節の裁きの言葉は、伝道に失敗した者が自分の言葉を拒んだ相手に対して吐く呪いの言葉ではありません。「あなたのような人は滅びてしまうわよ」と言う捨て台詞ではありません。これは、主イエスの言葉です。そしてこの厳しい裁きを語る主イエスご自身が、この裁きを引き受ける覚悟で、はらわた千切れる憐みの心で語っておられる言葉だと思います。この厳しいさばきの言葉を語られた主イエスは、主イエスを拒んだ人、主イエスを裏切った者、あの12人の中にも含まれる主イエスを棄てた人、その人のために、その人が受けるべき裁きを代わりに負われた方です。十字架にかかって死なれた方です。この主が、後のことは引き受けてくださる。私たちは、この主に、後始末を委ねることができる。自分の働きの結果にくよくよする必要はないのです。

 はじめに、教会は変わらねばならないということ、出て行く伝道、ということを考えましたが、最後にひとつのエピソードをご紹介したいと思います。鎌倉の教会でのことですが、老人ホームに入っておられるご婦人をお訪ねしたときのことです。静岡英和を出られた方で、鎌倉の山の上の静かなお宅で、お茶の先生をしておられた方でした。けれども、ご主人を亡くされ、ホームにお入りになって、認知症が大分進行しておられました。お誕生日のときでしたか、いつものように、同じ地区の長老さん、執事さんと三人でお訪ねしました。お部屋には亡くなったご主人の写真が飾られていました。けれどその方は、その写真の人が自分の夫であったということも、もうよく分からなくなっておられました。今日が何月何日かということも、分かりません。けれど、聖書を読み、讃美歌を歌い、小さな聖餐を共に囲んで、礼拝をしました。静岡英和時代の女学生だったころのお話を楽しそうにしてくださいました。そろそろお暇しましょうと、部屋を出て、「また参りますね」と、それこそ両手を包むように、皆がその方と握手をして、では、と玄関に向かって私たちが歩き始めたとき、背後からはっきりした声がしました。「神が共にあるように。」私たち三人はびっくりして振り向きました。その方がこっちを向いてしっかり立ち、私たちの背後から「神が共にあるように」とおっしゃったのです。奇跡が起きたと思いました。私たちは、振り返ってその方の近くに戻り「神さまが共に」ともう一度握手をして別れました。私たち三人は、祝福を携えて、平和を告げる使者として、この方のお部屋に遣わされてきた、そんな思いでいました。けれど大きな祝福を受けて教会に戻りました。その方もまた、主に遣わされた平和を告げる使者として用いられたのです。
 こういうことは恐らく滝野川教会でもあるでしょう。決して新しい教会の姿ではないと思います。けれども改めて想い起したいと思うのです。教会というのは、平和が、平安が、祝福が生き生きと行き交うところなのです。平和が、平安が、祝福が、空しい言葉ではなく、出来事となるところです。キリストが生き生きと働いているのです。神が共にいてくださるのです。神の支配が実現する、奇跡が起こるのです。私たちは、どんなに歳を取って、いろんなことが分からなくなっても、この教会につながっている限り、「平和を運ぶ使者・平安を告げる使者」「祝福を担う者」として用いられる、遣わされます。主イエスによって派遣されて「行く」ことができるのです。

 互いに平和の挨拶を交わす教会でありたいと思います。そこに、キリストが、父なる神が、生き生きと働いてくださいます。そしてこの教会から遣わされて出て行き、それぞれに帰っていく家で、平和を告げる使者、祝福を告げる使者として、用いていただきましょう。キリストは、世の終わりまで、私たちと共にいてくださいます。