2024年6月9日 主日礼拝説教「主に喜ばれる生活」 東野ひかり牧師

詩編 第1編
コロサイの信徒への手紙 第1章9~14節

 本日の礼拝は「子どもの日・花の日」を覚えて、礼拝の中で「子ども祝福式」が行われます。また教会学校では、先ほどの分級の時間に、子どもたちが警察署と消防署を訪ねて、お花と子どもたちがぬり絵をしましたカードをお届けするということが行われました。日曜日も私たちのために働いていてくださる方々に、神さまの愛と祝福をあらわすお花、そしてカードをお渡しして、感謝を表したことと思います。幼稚科さんは、牧師たちを訪ねてくださいまして、私どももお花とカードをいただきました。かわいい幼稚科の子どもたちから神さまの愛と祝福をいただき、嬉しいひと時でした。また、教会学校の子どもたちが分級の時間にぬり絵をしてくださったカードは、普段教会にお出でになることのできない教会員の方たちにお送りすることになっています。

 6月第二の日曜日にこういった「子どもの日・花の日」という行事をするようになったのは、19世紀の中頃のアメリカの教会が発祥のことです。子どもたちを信仰に導くことを大切に考えて、子ども中心の礼拝を行ったということが始まりだったようです。それが6月のことで、アメリカでは6月が花の咲く時期であることから、皆が教会に花を持ち寄り花を飾って礼拝をするようになり、その花を持ってご病人を見舞うということも行われるようになった、それが日本の教会に受け入れられて、今私たちの教会でも行われているわけです。
 今日の教会学校の礼拝では、主イエスが山の上で「空の鳥、野の花を見よ」と言って、飛んでいる鳥たちや、咲いている野の花を指差すようにして、神さまの大きないつくしみを教えてくださった、そのみ言葉を共に聞きました。空の鳥や動物たち、また野の花たちをも、天の父はその必要をすべて満たして養い育てていてくださる、この天の父のいつくしみ、その愛は、ましてや私たち一人ひとりにどれほど十分に注がれていることか、だからあなたがたは自分のいのちのことで思い煩うなと主イエスは教えてくださいました。美しい花々は、その主イエスのお言葉を思い起こさせ、天の父の大きな愛を指し示します。
 子どもの日・花の日は、子どもたちにそのような神さまの愛を教え、子どもたちが信仰に導かれることを祈り願い、子どもたちに祝福を祈る、そのような日です。そして子どもたちもまた、神さまの愛を伝える使者として用いられて、ご病気の方を覚えてぬり絵カードに色を塗り、公共施設で日曜日も働く方々をお訪ねする。教会学校が花の日の行事をするというだけでなく、教会全体でこの日を覚え、子どもたちへの伝道を考え、皆が共に愛のわざに用いられる喜びを共にすることができれば、ということも願っています。

 主イエスは「空の鳥、野の花を見なさい」と言って、神さまの大きないつくしみ・愛を教えてくださいましたが、最近、私には、我が家の猫を見ていて、この神さまの大きないつくしみ・愛を思わされる、というようなことがありました。礼拝の説教で猫のことをお話するのはどうかとも思ったのですけれど、主イエスは「空の鳥、野の花を見なさい」と言われましたから、許していただけるかと思っています。
 我が家には二匹猫がいるのですが、先月その若いほうの猫の具合が急に悪くなって、動物病院に三日間入院するということがありました。幸いよい治療をしていただいて、今はすっかり元気になったのですが、この猫、入院を境に性格が変わったのです。猫の性格がこんなふうに変わってしまうものかと、私はびっくりしました。この猫は、臆病で、ビビりな性格の猫でした。そしていつもどこか遠慮しているようなところのある猫でした。それが、入院して帰って来ましたら、どうも態度が大きくなったと言いますか、大胆になったと言いますか、私に対するいろんな要求の仕方も大胆になりまして、とにかく性格が変わったのです。獣医さんに「こんなことってあるのでしょうか」と聞きましたら、笑って「入院中は固まってましたけど、随分がんばってましたからね、自信がついたんでしょうかね」と言われました。確かに自信をつけた、という感じになったのです。とにかく驚きの変化でした。以前、伝道礼拝の説教題に「あなたも新しくなれる」という説教題があったと思いますが、「猫も新しくなれる」んだなぁと思いました。

 どうしてこの猫はこんなふうに変わったのかしらと私なりに考えておりまして、昔読んだ子育てについての本を思い出しました。児童精神科医の佐々木正美(ささきまさみ)先生がお書きになった『子どもへのまなざし』という本です。佐々木先生は、2017年にお亡くなりになったそうですが、私は佐々木先生という方がどういう方か全然知りませんでした。今もよくは知りません。鎌倉の本屋さんでこの本に出会いましたとき、表紙が『ぐりとぐら』の絵を描いておられる山脇百合子さんの絵だったので、思わず手に取って、良さそうな本だと思って買い求めて読み始めました。読みながら思いました。「ああ、もっと早くにこの本を読んでいたら、私の子育てはもっとましなものになっていただろうに」と。半分悔しいような思いで、でも夢中で読んだ、そういう本です。その頃、上の子は小学生になっていたでしょうか、とにかく、ああもっと早くにこの本を読みたかった、と思いました。手元にあるはずなのですが、どうやら引っ越しのときに出すことができなかった本の箱の中のようで、本を開くことができませんでしたので、記憶でのお話になってしまうのですが、一番印象深く覚えているのは、子どもには「愛着」ということがとっても大事だ、ということでした。最近NHKのあさイチでしたか、取り上げられていましたが、「アタッチメント」という心理学用語で知られている考え方だと思います。
 どういうことかと言いますと、たとえば赤ちゃんが泣いたとします。昔は「抱き癖がつく」などと言って、すぐにお母さんは赤ちゃんを抱っこしないほうがよいというようなことが言われたけれども、そんなことはないのであって、泣いたらいくらでも抱っこしてあげなさい、とにかくたくさん赤ちゃんを抱っこしてあげなさい、それで甘えた子になんかならない、むしろ、幼児期に十分要求に応えてもらってたくさんだっこしてもらった赤ちゃんは自立する子になるから、安心してたくさん抱っこしてあげたらよい、そういうことが書かれてあったと思います。アタッチメントは、密着とかくっついているもの、という意味もありますが、子どもの自立には、幼児期のアタッチメント、親や親に代わる存在との密着が非常に重要だ、それが不十分だと「分離不安」というものを起こすのだという、そういうことが書かれてあったかと思います。
 私はその本を読みながら、長男が幼いとき、どうにも私から離れることを嫌がって、朝保育園に預けるとき、年長になるまで泣いていたことや、音楽教室に入れたいと思って教室に連れて行ったとき、異常に嫌がってその部屋に入ろうとしなかったことや、教会学校で私が説教をするとき、どんなに教会学校の先生がなだめてもすかしても私から離れず、とうとう抱っこしたまま説教したことなど、次々に思い出して、長男のあの大泣きは、あの困った行動は、ここに書いてある「分離不安」というものであったのかもしれない、幼少期のアタッチメント不足、愛着不足であったのかもしれないと、もちろんそれだけが理由だとは思いませんが、しかしその本から色々と教えられました。

 それで例の猫ですが、具合が悪くなって苦しんでいたとき、私はほぼ一晩中猫につきっきりでした。それこそ密着しておりました。夜間の救急病院が満員で受け入れてもらえなかったので、朝になるまで待って病院に連れて行きました。夫は祈祷会の準備がありましたので、心配しながらも、ずっと執務室のほうにおりました。もっぱら私が猫にくっついて世話をしていたのですが、思うに、これで猫は、まったくもって自信をつけたのではないかと、そう思ったのです。つまり猫は、自分はこの飼い主から非常に大事にされているという、そういう自信を得た、(漱石風に言えば)「吾輩は実に大事な猫である」というような自信をつけたのではなかろうか、そう思ったのです。
 病院での獣医さんたちの対応も良かったのだろうと思います。猫は、病院でもものすごく大事にされるという経験をした、点滴されたり管を通されたり色々されたけれど、結局猫としては一晩中苦しかったのが、この病院で非常に大事にされて楽にしてもらった、これは猫に「吾輩は実に大事な猫である」という、自分は大事にされている、愛されているという、大きな自信を与えたのではないかと、猫の方はどう思っているか分かりませんが、私は猫の様子を見ておりまして、そんなことを考えたわけなのです。遠慮がちに甘えていた猫が、大胆に、臆することなく甘えたり、何かを訴えて話しかけて来るようになった、それが煩わしいときも正直なくはないわけですが、飼い主にとっては嬉しい変化を見せたわけなのです。

 私たちは皆、赤ん坊や子ども(そして猫)だけでなく、大人でも老人であっても、自分の存在が絶対的に大事にされ、受け入れられ、愛されている、そういうことを感じ取ったなら、そこで体も心もゆるめられ、楽にされて、ほんとうに安心して、喜んで、手足をのびのびと伸ばすことができるのではないでしょうか。何の恐れもなく、不安もなく、遠慮もなく、愛を注いでくれる存在に向かってほほ笑むのではないでしょうか。何か要求があれば遠慮なく、何でも安心して、臆することなく、訴えるのではないでしょうか。大事にされている、愛されている、という確信、自信は、私たちに大きな安心感を与えると思います。もちろん人と人の間では、愛されているという確信、自信が「わがまま」に変容して、相手を傷つけたり、互いに傷つけ合ったり、ということも起こってしまいますが、相手が神さまであるなら、私たちは、その確かな愛・いつくしみの中で、ほんとうに解き放たれる、自由にされる、いろんなことに縛られていたこころと体がゆるめられ、安心することができる、猫が膝の上でリラックスしてくてんとなるように、自分に何の鎧も飾りもつける必要なく、神の愛の膝の上でくつろぐことができる。猫の変化を通して、私はそんなことを思わされたのです。

 キリスト者とは、神の大きないつくしみの愛の中に、自分自身を見出している者たちです。御子主イエスは、私たち人間と同じ、肉の体を持つほどに、私たちに密着してくださいました。私たちのあらゆる苦しみ、悩み、悲しみに、罪ゆえの弱さに密着して、この地上を歩んでくださいました。そして、罪と死の力に囚われて、暗闇の底にうずくまるような私たちのところにまで、さらに私たちの知る暗闇よりももっと深い暗闇にまで深く降り給うて、暗闇の力に支配されてしまう私たちの罪を全てその身に引き受けて、私たちが死ぬべきであった罪ゆえの滅びの死を死んでくださいました。それほどに、私たちに密着してくださったのです。そして、父なる神は、その暗闇の底から、罪と死の支配の中から御子を起き上がらせられました。御子は、闇の力に、罪と死の力に打ち勝たれて、甦らされました。洗礼を授けられたとき、私たちは、水の中から引き上げられて、キリストの復活のいのちと共に生きる者とされました。罪の暗闇に打ち沈んでいた者が、復活のいのちの光の中に引き上げられ、そのいのちの支配の中に、神の大きないつくしみの愛の中に移されました。コロサイの信徒への手紙が語る通りです。1:13,14「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
 キリスト者というのは、この神の愛の中に、キリストのいのちのご支配の中に、深く根ざし、常に父なる神の御顔を喜びをもって見上げている、遠慮も恐れも、何の隔てもなく、神を父と呼んで、のびのびと体を伸ばし、ほほ笑んでいる、そういう存在です。しばしば言われますように、夏に咲くひまわりが、常に太陽のほうに顔を向けて咲き続けるように、キリスト者は、キリストにおいて示された神の愛にしっかりと根ざして、喜びをもって神を父と呼び、天の父のほうを向き続けている者たちなのです。

 コロサイの信徒への手紙を書きました使徒パウロは、コロサイの教会の信徒たちのために祈ります。「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と洞察によって神の御心を深く知り、主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善い行いによって実を結び、神をますます深く知るように。」なんだか難しい言葉のお祈りですけれど、パウロはコロサイ教会の人たちがいつも神さまのほうを向いて生活するように、と祈っているのです。私たちは、このようなパウロの言葉を聞きますと、少しひるむような思いになるかもしれません。自分には「主にふさわしく歩む」とか、「あらゆる点で主に喜ばれる」とか、「あらゆる善い行いによって実を結ぶ」とか、そんなことはできそうもないと、そんなふうに思ってしまうかもしれません。けれど、神さまの愛する御子・主イエスは私たちに密着するようにこの地上を歩んでくださり、十字架にかかり、その死によって私たちを罪から贖い、私たちの罪を赦してくださいました。そして私たちを、御子主イエスの甦りのいのちの支配の中に、神の愛のご支配の中に移してくださった。いわば私たちは、その中にしっかりと植えられているのです。
 詩編第1編は、信仰者を「流れのほとりに植えられた木」と言い表します。ある人はこの「植えられた」というのは、もともと別のところに生えていた者が「移し植えられた」ということだと説いています。神が、闇の中に、罪の中におりました者を、御子キリストのいのちの光の中に、神の大きないつくしみの愛の中に、移し植えてくださった。そのいのちの流れのほとりに植えられてそこに根をおろしている者は、「主の教えを喜びとし/ の教えを昼も夜も唱える」のです。新共同訳聖書はこの「唱える」というのを「口ずさむ」(とてもすてきな訳だと思います)と訳しました。昼も夜も口ずさむ、主の教え・神の言葉を口にするのは、とても嬉しい楽しいことなのです。神さまの言葉は、私たちへの愛の言葉であるからです。昼も夜も、喜んで主の言葉を口ずさむ、何か良いことがあった時に嬉しくて鼻歌を歌い出してしまうように口ずさむ、そのように歩むその人は、「流れのほとりに植えられた木のよう。/ 時に適って実を結び、葉も枯れることがない。 その行いはすべて栄える」と言われます。神さまの愛の中に根をおろして、そのいのちの水・愛の言葉を絶えず吸い上げて生きる人は、「時に適って」つまり「時が来れば必ず」実を結ぶ。その人生は、決して空しくは終わらない。聖書はそのように約束するのです。

 我が家の猫が「吾輩は実に大事な猫である」と自覚したかどうかは分かりませんが、何だかやけに自信をつけましたように、私たちも、キリストが密着していてくださる、神さまの大きな愛の中にしっかりと植えつけられている、そのことのゆえに自信を持ってよいのです。自信、と言うと自分の内にある何かしらの力を信じるというような、自分の側に自信を持つ根拠があっての自信、というように思われるかもしれませんが、そういう意味ではなくて、キリストに根拠を置いた自信、神の愛に根ざした自信・確信です。主イエスが私たちに密着してくださっているから、それゆえに私たちは、父なる神にとって、神の愛する独り子主イエスと同じ、神に愛されている子ども、「実に大事な神の子どもたち」なのだという確信、そういう意味での自信を、私たちは持ってよいのです。御子主イエスのゆえに「吾輩は実に大事な存在である」と、私たちはそういう自信を持ってよいのです。そしてそこに生まれる歩み、生活は「主にふさわしい、主に喜ばれる生活、歩み」となるのです。なぜなら神さまは、私たちが臆することなく、何の遠慮もすることなく、大胆に親しく、神を「天の父よ」と呼んで祈ることをほんとうにお喜びになる、そのような私たちの「天の父」であるからです。

 昨年から、教会学校で「父母分級」というのを始めましたが、そこで最初に学びましたのは「主の祈り」でした。その学びのときにお手伝いくださっている姉妹が、大木英夫先生がお書きになった「天の父よ—ある病床のそばで」という短い文章のコピーをくださいました。どの本からのコピーなのかうっかり聞きそびれたのですが、そこにこういう文章がありました。〈「天の父よ」と呼ぶとき、わたしたちは自分が「地」にあるということを深く自覚するのであります。病気でたおれるときは、わたしたちは「地」に横たわらねばなりません。そのようなとき、わたしたちは、立って動きまわっているときよりも、はっきりと「天」を仰ぎます。「地」に横たわる者は、「天」を仰がざるを得ません。死の床に横たわるときは、避けがたくわたしたちはを見なければなりません。絶対的に「天」を仰がねばなりません。しかしそこで「天の父よ」と、この「地」の深みから呼びかけることができるとすれば、それは、なんという深いなぐさめでしょうか。〉

 コロサイの信徒への手紙は、第3章1節で「あなたがたはキリスト共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」と勧めます。その「上」(天)では「キリストが神の右の座に着いておられます」と語るのです。「地」の深み・死の床に横たわり、避けがたく上を見ねばならない、その地上のいのちの終わりのとき、私たちは、私たちと共に、私たちに密着するほど近く「地」を歩んでくださった御子主イエスが、「上」にあって、天にあって、神の右に座しておられるのを仰ぐ。最初の殉教者ステファノは、その死の間際に天を仰ぎ、神の右におられる主イエスを見つめて「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言いましたが、主イエスは天にあって、私たちを迎えようと立ち上がってさえくださる。
 私たちは、その「上」を見て、「天の父よ、私は実に大事なあなたの子どもです」と、喜びの叫びをあげて死ぬことができるのです。なんと幸いなことかと思います。教会は、子どもも大人も、若者も老人も、この幸いを、この祝福を生きる群れなのです。