2024年6月30日 主日礼拝説教「キリストの愛にとどまる」 東野尚志牧師
ホセア書 第10章1~4節
ヨハネによる福音書 第15章1~10節
主イエスは言われました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)。この言葉を聞いた途端、教会のイメージが大きく広がります。私たち一人ひとりが、主イエス・キリストという一本の木につながる枝として、今ここに、共に生かされています。今、私たちの目には見えませんけれども、主イエス・キリストが、私たちを一つにつないでいてくださるのです。枝同士が勝手につながっているのではありません。一人ひとりが主イエス・キリストとつながることで、イエス・キリストを通して互いにつながっている、それが教会という交わりの不思議な恵みです。
もちろん、イエス・キリストを知る前に、教会に来る前から、お互いが知り合いであったり、友人であったり、家族であったり、すでにつながりを持っていた人もいると思います。けれども、教会に来て、イエス・キリストを知るようになったとき、それ以前からのつながりがすべて、イエス・キリストを通して新しくされるのです。イエス・キリストを知る前と、イエス・キリストを知った後では、お互いのつながり方が変えられてしまいます。イエス・キリストにおいて、イエス・キリストにあって、イエス・キリストの中で、互いにつながれた者として生きることになるのです。
例えば、教会に来る前から夫婦であった人もいるでしょう。でも、イエス・キリストを知ることによって、イエス・キリストにつながることによって、キリストが与えてくださった夫として、キリストが与えてくださった妻として、新しくお互いを知ることになると言ってよいと思います。イエス・キリストを通して、新しく向かい合うことになります。イエス・キリストを知り、イエス・キリストとつながることによって、そこにキリストの命と力が通うようになります。キリストの愛によって、新しく結ばれることになるのです。
主イエスは言われました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」。今から35年前、東京神学大学を卒業して、最初に伝道師として赴任した横浜指路教会の教会員の中に、「其枝」さんというお名前の方がおられました。「そのえだ」というのを漢字で書いて、「其枝」さんとおっしゃいました。教会に赴任してすぐに、その方の葬儀が行われました。私は伝道師でしたので、主任牧師である鷲山林蔵先生の指示に従いながら、伝道者になって初めての葬儀に連なりました。そのとき、どのような御言葉が語られたのか、全く覚えていません。けれども、「其枝」さんは、イエス・キリストにつながる枝として、死によっても空しくなることのない確かなつながりの中にあるということを確信しました。目に見える人と人とのつながりは、死によって断ち切られます。けれども、主イエス・キリストにつながっているならば、そのつながりは決してむなしくなることはない。永遠の命の実を結ぶ、ということを信じることができました。それが、私にとって、葬儀の原点になったと思います。
「其枝」さんというお名前は、まさに「そのえだ」ということで、直接的な響きですけれども、女性の方たちの中には、ご自分の名前の中に「枝」という漢字が入っているという方が、案外多くおられるのではないでしょうか。「恵」という漢字を「え」と読ませるか、「枝」という漢字を「え」と読ませるか、名前をつけるときに、迷うところかもしれません。それぞれ、用いる漢字に込める思いがあるのだと思います。特に、キリスト者の家庭で授かった子どもの名前に「枝」という漢字を用いるときには、健やかに育って、主イエスにつながる枝として、良い実を結ぶ人生を歩んで欲しい、そんな思いや祈りが込められているのではないでしょうか。「枝」は「枝」だけで存在することはできません。木につながっていてこそ、枝として生きることができます。木につながっていてこそ、実を結ぶことができるのです。
主イエスは言われました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」。私は、この言葉を読むと、青年時代に読んだ、大木英夫先生の説教の一節を思い起こします。大木先生は、ご自身でも、優れた印象深いたとえを語られました。その際、しばしば、たとえには限界がある、と言われたのですけれども、それ以上に、たとえは、たとえる事柄とたとえられる事柄の間に共通する「かたち」があるのが大事だと言われました。主イエスが、ご自分を木にたとえて、弟子たち、つまり教会を、主イエスにつながる枝にたとえられとき、その木は、ぶどうの木であったということに深い意味があると言われたのです。もちろん、聖書の時代、ぶどう園は身近にあって、たとえとして用いやすいし、分かりやすかったということはあると思います。ぶどうの木の話をすれば、聞いている人は皆すぐに、ぶどう園の中のぶどうの木の姿を思い浮かべることができたのです。
大木先生は、その説教の冒頭で、ご自分が山梨の勝沼を通って、久しぶりに「ぶどうの木」を目にされたとき、主イエスがご自分をぶどうの木にたとえられたことの意味をしみじみ考えさせられたと述べておられます。主イエスのたとえにおいて、農夫である父なる神が、実を結ぶように手入れをなさる、とあるように、勝沼のぶどうの木も、見事に手入れが行き届いて、これが一本の木かと感嘆させられるほどに、その枝ぶりが広大に張っていたといいます。ふさふさと実るぶどうを見ながら、そのすばらしさ、見事さは、ぶどうの木の幹が与える印象ではなくて、その巨大な翼のように張った枝々が与える印象だということに気づいたというのです。木の本体はどこにあるかと見ると、その枝とは対照的に、やせこけた、曲がりくねった、むしろあわれな木であった。そのあわれな木が、何か必死に なって不釣り合いに大きな枝を支えているように見えたといいます。
大木先生は、こんなふうに言われます。「教会とイエス・キリストとの関係は、他のどんな種類の木でもよいのではない、やはりぶどうの木でしかたとえられないものなのでしょう。だからイエスは、それを例としてえらばれたにちがいありません。『たとえ』は、その中に、それが示すものの何らかの「かたち」を含んでいなければならない。枝や葉を働かせて自分の幹をふとらせるような木は、キリストと教会の間の関係を示すことはできないのであります」(「神秘的結合・ぶどうの木のたとえ」『キリスト入門一福音の再発見』)。私は、深くうなずかせられました。
主イエスは言われました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」。ここで、「実を結ぶ」という約束が告げられています。主イエスにつながっていれば、その人は実を結ぶと言われるのです。実は、この「実を結ぶ」という言葉が、ヨハネによる福音書の中で最初に出てくるのは、第12章です。そこでは、主イエスご自身が、実を結ぶことの主語として語られています。過越祭が近づいていました。エルサレムで礼拝をするために、多くの巡礼者たちが都に集まってきていました。その中に、何人かのギリシア人がいて、主イエスに会いに来たのです。ユダヤ人だけでなく、異邦人もまた救いを求めている、それを聞いて、主イエスは言われました。「人の子が栄光を受ける時が来た。よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章23~24節)。続けて言われました。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば私のいる所に、私に仕える者もいることになる」。これもまた、印象深いたとえです。主イエスは、ご自分のことを、地に落ちて死ぬ一粒の麦になぞらえられました。主イエスが一粒の麦として、地に落ちて死ぬことによって、多くの実を結ぶと言われたのです。
ここで言われる「栄光」というのは、主イエスが十字架にかかって死ぬことによって、世の罪を取り除いてくださることを指しています。そこで結ばれる「多くの実」というのは、その十字架の贖いを信じて、罪赦され、救いにあずかった者たちのことです。救われた者たちは、主イエスに仕えて生きる主の弟子となります。主イエスに従い、主イエスに仕え、主イエスと共にいるようになる。主の弟子である私たちこそは、主イエスがその十字架の死を通して結んでくださった実りだと言ってよいのです。私たちが主イエスを選んで弟子になったのではありません。主イエスが私たちを選んで弟子としてくださいました。主イエスに仕える者としてくださいました。
「仕える」というのは、英語では「サーヴ」と訳されています。「サーヴィス」です。その本来の意味は、「礼拝する」ということです。礼拝するというのは、神を崇めること、神の栄光を称えることです。主イエスの十字架において現わされた神の栄光を称えるのです。私たちを滅びに追いやる罪の力に、主は打ち勝ってくださいました。それによって、神の栄光を現わしてくださいました。その栄光を賛美し、世に証しして行く。それが私たちのささげる礼拝です。私たちがささげている礼拝そのものが、実は、救われた私たちの結んでいる実だといってもよいのです。
主イエスは言われました。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない」(15章4節)。ぶどうの木とその枝の関係を語っているのですから、「つながる」というふうに訳すのが日本語としては自然に響くと思います。けれども、実は、ここで用いられている言葉は、単純に、枝が木につながることを意味する言葉ではありません。聖書のもとの言葉を直訳すると、「とどまる」「滞在する」「住む」という意味の言葉「メノー」というギリシア語が用いられています。私たちが用いている聖書協会共同訳の聖書において、「引照・注付き」の聖書を見ると、「私につながっていなさい」と訳されているところに、しるしがついていて、欄外に「直訳 とどまっていなさい」と記してあります。従来通り「つながる」という 訳語を用いながら、そのイメージに限定されないように、注を付けているのです。
聖書協会共同訳の聖書が刊行されたのは、今から6年前、2018年の12月でした。実は、その前の年、2017年に、宗教改革500年を記念して、新改訳聖書の新しい版が刊行されました。「新改訳2017」と呼ばれています。この新改訳2017の聖書では、木と枝の関係に引きずられて「つながる」と訳すことをせずに、もともとの言葉の意味を重視して「とどまる」と訳しています。新改訳2017の言葉で、15章の4節と5節を読んでみます。私たちの聖書と比べて見てください。主イエスは言われます。4節「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」。
考えてみれば、幹とは別に枝があるわけではありません。幹と枝は一体であって、枝は幹から生え出てきます。主イエスは、そのように一体となっている幹と枝の全体を指して、「私はぶどうの木」だと言われたのです。確かに、幹が主イエスであり、枝は弟子たちであるとしても、その枝の中に主イエスが生きておられ、幹の中に弟子たちが生きている。そういう関係になります。主イエスと弟子である私たちがお互いに内在する、相互内在的な関係です。そういう関係性の全体を指して、主イエスは「私はぶどうの木」であると言われたのです。弟子たちの中に、つまり、私たちの中に主イエスが生きておられるのです。そして私たちは主イエスの中に生きている。相互に内在するようなあり方を可能にするのは愛です。主イエスと私たちは、愛によって、またその愛を信じる信仰によって一体とされているのです。枝は本来幹と一体であって、幹から命が流れてきて、葉を茂らせ、実を結んでいきます。枝が、幹から離れて、幹とは別に生きようとしたら、それはただ枯れてしまうだけであって、焼かれて終わってしまうのです。
私たちが、良い実を結ぶために、必死になって頑張らなければならないというのではありません。私たちが、主イエスの内にとどまっているならば、私たちの内に生きておられる主イエスが、実を結ばせてくださるのです。それならば、私たちが主イエスの内にとどまり、主イエスが私たちのうちにとどまってくださるということは、具体的にはどのようにして実現するのでしょうか。7節ではこのように告げられています。「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」。同じ節の中で、「つながる」「とどまる」と訳し分けられていますけれども、もとの言葉は同じです。枝である私たちと幹である主イエスが一体であり、私たちが主イエスの内にとどまるというのは、どのようにして成り立つかと言えば、主イエスの言葉が私たちの内にとどまっていることによる、というのです。
「主イエスの言葉」というのは、ただ「主イエスが語られた言葉」を意味するだけではありません。それは、主イエスを証しする言葉であり、聖書の言葉、と言ってもよいと思います。聖書はすべて、主イエスを証しする言葉です。新約聖書だけではありません、旧約聖書もすべて、主イエスを証しする言葉です。旧約聖書は、救い主の到来を預言しました。旧約聖書は、主イエスによる救いを預言する言葉であり、新約聖書は、主イエスの救いを証言する言葉です。旧約聖書と新約聖書の全体が、主イエスを証しする言葉、神の言葉なのです。だからこそ、主イエスと私たちが一体であることの実りとして与えられた礼拝において、神の言葉である聖書が読まれ、聖書が説かれます。主イエスの言葉が私たちの内にとどまり、御言葉において、主ご自身が私たちの内にとどまっていてくださるからこそ、私たちは礼拝において、主の言葉を聞き、主を賛美し、主に願いと祈りを献げることができるのです。私たちが主の言葉を聞くだけではなくて、主イエスも、私たちの言葉を聞いてくださるからです。
主イエスは言われました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」。ぶどうの木とその枝の話として始まりました。だから、最初は、「つながる」と訳されていました。けれども、主イエスの言葉は、ぶどうの木のたとえを超えて、教会の形を描き出していきます。「とどまる」という言葉の持つ恵みが前面に出て来ます。それは、愛によって結ばれて、主イエスと私たちが一つとされている姿です。主は言われます。「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる」(9~10節)。
主イエスの戒めとは何であったでしょうか。主は、弟子たちの足を洗って、互いに愛し合い、仕え合う模範を示された後、弟子たちに教えて言われました。「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節)。私たちが互いに愛し合うのは、主が私たちを愛してくださったからです。私たちが互いに仕え合うのは、主が私たちに仕えてくださったからです。私たちは、主の言葉を聞き、主の言葉を生きることによって、主の愛の内にとどまるのです。
かつて、神を信じると言いながら、豊かさの中で神の言葉に従うことを忘れ、主への畏れを失った民は、二心のものと呼ばれました。伸び放題のぶどうの木は、自分のための実を結ぼうとしました。そのような傲慢な思いが、ついには、神の独り子をも十字架の死に追いやったのです。けれども、主の十字架の死によって、主イエスの命が地に蒔かれたことによって、滅びの実ではなく、救いの実が生まれました。私たちは、礼拝へと招かれ、私たちを救うために、ご自身の命までも与えてくださった主の愛と出会い、真実の愛を知りました。主の大いなる赦しの愛を知ることによって、自らの罪を悔い改めて、主に立ち帰ったのです。私たちの唇に賛美の実りが与えられました。主の言葉が私たちの内にあり、私たちが主の愛に包まれる礼拝の恵みにあずかっているのです。
やがてこの礼拝が終わり、礼拝の中から送り出されて行くときも、主イエスの中から出て行ってしまうのではありません。それぞれが遣わされた場所においても、主の言葉が私たちの内にとどまり、私たちが主イエスの愛の中に生きることによって、主は遣わされた場所で、愛の実を結ばせてくださいます。主イエスにしっかりとつながれた枝として、この週の歩みを感謝と共に始めたいと思います。