2024年6月23日 創立120周年記念礼拝説教「神の造られた世界」 伊藤大輔牧師

創世記 第1章 1~5節
マタイによる福音書 第1章13~16節

 滝野川教会の創立120周年を記念する伝道礼拝にお招きいただきまして、まことに感謝でございます。今日皆さんと一緒に礼拝を捧げられるこの幸いを、人間的な言葉で補うのは失礼かとも思いますけれども、私は本当に楽しみにしておりました。
 私は聖学院で育ちました。当時、渋谷の教会にずっと通っておりましたが、聖学院に在学すれば当然、この滝野川教会の名前を耳にしますし、場所もよく知っておりました。自宅は赤羽にありましたから、上中里駅を利用して学校に通っておりましたので、行き帰りはいつもこの教会の前を通っておりました。けれどもこの教会の中に入るのは、実は今日が初めてなのです。敷居が高い、というのとは少し言葉のニュアンスが違うのかもしれませんけれども、滝野川教会で長く牧会された大木英夫先生は、私が東京神学大学に在籍しておりました頃の学長でもありました。ある種ブランドがある滝野川教会、そのような教会の120周年の礼拝に招いて頂いたということを、大変嬉しく思っております。先ほど、楽しみにしておりました、と申しましたけれども、それは本当に感謝をもってこの日を受け止め、そしてまた皆さんとの出会いの幸いを味わいつつ、この礼拝の時を持ちたいと願っております。

 さて、私が今日ここに招かれたということは、とりもなおさず聖学院、私が現在勤めており、また私の母校でもある聖学院中学高等学校がどのような学校であるか、ということをお聞きになりたい、確かめたい、それがこの滝野川教会120周年の礼拝に招かれた理由の一つかと思います。そこで今日は聖学院のことを中心にお話しをしていきたいと思います。
 聖学院は今から120年前、滝野川教会よりも少し前に、聖学院神学校として始められました。その後に女子聖学院、そしてまた普通科の生徒たちを育成する学校も必要ということで現在の聖学院中学高等学校が神学校の開設より三年ほど遅れて始められた、というのが私たちの歴史です。言ってみればこの滝野川教会と120年間一緒に歩んできた、そのような歴史を持つ聖学院です。
 聖学院という学校はどのような学校であるのか、多くの皆さんはもう既によくご存知ですし、また本日は多くの聖学院卒業生、在校生、関係者の方々と共に礼拝を守らせていただいておりますので、聖学院についてのおおよその理解はおありかと思いますが、今日は改めてこの聖学院という学校がどのような学校であるのかを皆さんにお伝えしようと思っております。
 初代の校長、石川角次郎先生が、聖学院の名前の由来について語った次のような言葉があります。「我等は君が学園を『聖学院』と名付けた。聖学院とは、聖なる学院にあらず、聖学の院である。聖学とは、聖人の教えに学ぶのみならず、自ら進んで、聖人を志す者を言う。されば本学の目標は、聖人を養成することである」
 聖学院とは、簡単に言ってしまえば、「聖人を作る学校」なのです。聖人を作る、それが私たちの使命です。ただ、この「聖人」という言葉、わかるようでわからない言葉です。また「聖学」という言葉自体は儒教にもありますが、この聖学院の名前の由来となった「聖学」の概念は、おそらく石川先生がお作りになったものでしょう。私たちプロテスタントはあまり「聖人」という言葉を使いませんが、カソリックでは伝統的に「聖人」という言葉を使います。「聖人」と聞いて私たちは、あの人たちのことね、と連想することはもちろん可能ですし、そういった人物も含まれています。ただ石川先生が説いた「聖人」は、そのように限定された者のみならず、私たち誰しもが聖人になる、それを目標にこの学校は営まれています。クリスチャンになる、ならない、そういったことも、限定されてはいません。クリスチャンになろうがなるまいが聖人は聖人、それを目指せ、さればそれは聖人なのです。では聖人とはいったいどんな人物なのでしょうか。

 私が在学中にお世話になった第八代校長の林田秀彦先生は、この「聖人」という言葉を少々現代風に言い直し、「オンリーワン」と表現しました。「オンリーワン」は「聖人」の言い換えなのです。私たちのスクールモットーに「オンリーワン・フォー・アザース」という言葉があります。実はこの「フォー・アザース」という部分は後から付け加えられた言葉で、最初のうちは「オンリーワン」としか言われておりませんでした。林田先生は初代校長の石川角次郎先生が説く「聖人」というものは「オンリーワン」のことなのだ、そうおっしゃっておりました。「あなたたちはオンリーワンを目指しなさい」、私たちが学校説明会でいつも用いている言葉です。ただこの「オンリーワン」という言葉にも、少々解釈の幅があるものですから、私たちはこれをもう少し限定し、また鮮明化する、そういった仕方で教育を営んでいます。
 「オンリーワンはナンバーワンとは違う」、これは私が生徒たちに、そして教職員にも言っていることです。皆さんもよくご存じの「ナンバーワンではなくオンリーワン」、そう歌う紅白を賑わしたアイドルグループがいましたけれども、彼らが歌うよりもずっと前から聖学院では「ナンバーワンではなくオンリーワン」、そう言い続けてきました。
 オンリーワンとナンバーワンとは違うのです。では何が違うのでしょうか。ナンバーワンは、自分がナンバーワンであるかないかを確認する際、必ず自分以外のもの、他者が必要になります。他者と比較して、ナンバーツー、ナンバースリー、ナンバーフォーがどうなっているのか、いつも気になります。自分以外のものに心を寄せて、自分以外のものと見比べて、私は今、ナンバーいくつであるのか、自分以外のところに心を持っていかれて自分を測る、これがナンバーワンの思考です。けれどもオンリーワンはそうではありません。何ものにも依存せずに、何ものをも経由せずに、本当の私はこれなのだ、これが私なのだということを確認する、それがオンリーワンの思考です。聖学院の中でよく用いられる言葉に「賜物」がありますが、あなたの賜物は何か、あなたに神さまから与えられた使命は何か、それを見つけるのがオンリーワンなのだと思います。
 しかしながらこのナンバーワンの思考は少々厄介でもあります。それは私たちが通常、必ずといってよいほど、このナンバーワンの思考をするからです。生徒たちは、自分はいったい何者なのかということを測る時に、必ず点数や成績を持ち出します。私たち教員もそれを材料にして、つい生徒たちを測るかのような言動をしてしまうことがあります。点数や成績、それは自分以外のものです。自分以外のものを経由してこれが私だと判断する、それは私たちが目指している「聖人」ではありません。大人の皆さまはいかがでしょうか。富や経済を他者と比較して、どれほどの貯えが自分にあるのか、この国のGDPはいったいどれぐらいあるのか、日本は世界の中で今何番目の経済大国なのか、私の年収はいくらか、私の地位は今どのあたりに位置するのか、もっと地位が上がったらもっと良いことがあるのではないか……。私たちは皆、自分以外のものに心を寄せて、自分以外のものに引っ張られて私を測ろうとする、そしてもっと上に行こうとする、それがナンバーワンの思考回路です。

 私たち聖学院は、成績も重んじます。勉強しなさいとも言います。ただそれは、仮に勉強した結果点数が増えたならば、その増えた分がお前自身だと思え、というわけではありません。本当の賜物を見つけるためにいろいろなチャレンジをしなさい、本当の自分を見つけるためにいろいろなことを試みなさい、それが勉強であり学問の入り口だから、生徒たちにはそう伝えています。学問に根差す、学問を志す、学問を究める、それは本当の自分と出会うための土台になる、そのように考えるからです。
 それでも私たちが自分以外のものに心を寄せてしまうのはなぜでしょうか。自分以外のものに心を寄せるということは、厳しい言い方をすれば自分以外のものに支配される、自分以外のものに依存する、ということです。点数、富、経済、地位、名誉……、武器もその一つでしょう。私たちは自分以外のものに依存し、支配されているのです。これがなくなったら大変だ、これがなくなったら自分はおかしくなってしまう、これがなくなったら私が失われてしまう……、それは自分と他のものとの区別がついていない人間なのです。依存や支配の中にある人間、それは奴隷なのではないか、あなたたちは一生奴隷として過ごすのか、私たちは生徒にそう問いかけます。私たちが神から与えられている恵みは奴隷の中でどれほど立派な奴隷になったかということを競い合うことか、私たちの人生は奴隷となることが究極の目的なのか、むしろ私たちには自由が与えられているのだから、自由の中でこそ自分たちの賜物を見つけ、それを磨き、それを育み、伝えていくことができるのではないか、私たちが志すものは奴隷の道ではなく自由の道なのではないか、私たちは生徒にそう問うのです。ただそこではまだ、なぜ私たちが奴隷の道を選んでしまうのか、という根本的な問題の解決には至りません。
 
 今日はマタイによる福音書を皆さんとご一緒に読みました。イエスさまが弟子たちと群衆に向けて語った教え「山上の説教」の冒頭部分に続く、かなり迫力を込めてイエスさまがおっしゃった言葉であろうと感じている箇所です。
 「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」、これは私たちが志している「聖人」とも重なる、聖人の言い換えであると言っても過言ではない言葉です。「地の塩、世の光」、これをスクールモットーに掲げている学校もあるぐらいに、この言葉は若者のみならず人間にとって大切な言葉であろうと思います。
 ここで「あなたがたは地の塩である」という時、その先に「塩味」という言葉が続くことから、私たちはつい「味付け」や「味」に引っ張られてしまいます。しかし古代人にとって塩はおそらく「命にかかわるもの」という意味合いを持っていました。水と塩、それさえあれば人間は何とか生きていけます。逆のことを申せば、水と塩がなくなれば人間は身体を維持することができません。これがなくなってしまうと身体を維持することができない、すなわち生きることができなくなってしまう、それが塩です。
 イエスさまがおっしゃった「光」も、またそれと同じようなものでしょう。未来に向け希望を持って世界が前に進むためには、世界が喜びを持って歩むためには、光と、そして塩が必要なのです。そしてそれはあなただ、あなたは世界の希望であり、世界の命なのだ、そうイエスさまは言っているのです。
 ここでイエスさまが言われていること、内容そのものも当然に大切ですが、それ以上にこの言い方、実はこれがとても重要だと私は思うのです。この箇所がどのような表現だったのかというと「イエスさまの宣言になっている」ということです。この箇所は「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」というイエスさまの「宣言」なのです。「宣言」は「取引」とは違います。あなたは努力をしたから地の塩になれますよ、あなたは勉強すれば世の光になれますよ、勉強もせず努力もしなければ地の塩にも世の光にもなれませんよ、とは言っていないのです。あなたが何をしようが、また何もしなかろうが、あなたは地の塩である、あなたは世の光である、という宣言なのです。けれども私たちは、イエスさまがそう宣言されているにも関わらず、信じることができないのです。それはなぜでしょうか。
 実はこの「山上の説教」は、この後ずっとその課題、その問題を明らかにしていきます。皆さんもこのあとご自宅に帰って、この箇所に続く部分をじっくりお読みいただければと思いますが、ここでイエスさまが心配しておられることは、あなたたちは「人を見る」よね、ということです。あなたたちは人を見て、人に褒めてもらおうと思ってお祈りをするよね、あなたたちは人を見て、人におびえて、人に引っ張られて、自分の大事なものを見失うよね、ということです。光をどうして隠すの、塩味をどうして砂粒のようにするの、それもすべて理由は同じ、人に引っ張られるから、これがイエスさまの言っていることです。
 なぜ私たちは人に引っ張られるのでしょうか。私たちはどうして自分以外のものに引っ張られていくのでしょうか、どうして自分以外のものが大事だと思うのでしょうか、自分以外のものを手にすればするほど私は大丈夫だ、私は安心だと思うのでしょうか。実はそれらはすべて先ほど申したナンバーワンの思考と同じなのです。

 今日は新約聖書とともに、旧約聖書の創世記第一章をあわせて読みました。実は今日皆さんとお読みした箇所の少し先、創世記の第三章には最初の人アダムとエバが蛇にそそのかされる場面が描かれています。第三章で蛇はエバに対して何と言ったのでしょうか。聖書を開くまでもなく多くの皆さんがご記憶されていることかと思いますが、あの木の実、善悪の知識の木の実を食べると神のようになれるぞ、蛇はそう言うのです。そこで彼女はその木の実を見て、それはいかにも食べるに好ましくあったのでそれを取って食べ、一緒にいたアダムにも渡す、というあの記事です。
 あなたは神のようになれるぞ、という蛇の言葉、それは誘惑の言葉です。魅力的な言葉です。確かにそう言われれば、エバはそうするよね、と私たちは思ってしまいます。けれども果たしてそれだけで良いのでしょうか。
 蛇の言ったセリフは、どういう言葉だったのでしょうか。蛇は、あの木の実を食べると「神のようになれる」、そう言いました。それは少し言葉を分解すると「あなたは神ではないよね」と言っているようなものです。あなたは神ではないよね、あなたは神ではないのだから、あの善悪の知識の木の実を補えば神のようになれる、蛇はそう言ったのです。蛇の言ったアンダーメッセージ、言葉には表していませんけれども、人間たちに植え付けられた本当のメッセージは「お前たちには不足がある」ということです。お前は足りない、自分にないのだから足りないものを補いなさい、自分は持っていないのだから自分以外のところからそれを補いなさい、これが蛇の言葉です。善悪の知識の木の実、それは私たちにとっては富であり、名声であり、権力でしょう。生徒たちにとっては成績や点数でしょう。善悪の知識の木の実、それを補えばあなたたちは幸せになれるぞ、そう蛇は誘惑するのです。
 けれどもこれは「蛇が言った言葉」です。蛇のセリフなのです。「お前には足りないものがある」、私たちは誰もがこの言葉を疑わずに、日々の生活を営んでいます。ただそれは、聖書の中では「蛇の言葉」なのです。それならば「神の言葉」は何でしょうか。神さまは何とおっしゃったのでしょうか。それが今日皆さまと一緒に読んだ創世記の一番初めのところです。今日お読みした箇所の後に創造物語が続くことは皆さまもよくご存じでしょう。神さまは次から次へと世界をお造りになります。それも言葉を発して、「言って」造ります。世界は神さまご自身の言葉によって造られました。神さまは言葉を発して水と水とを分け、地と海とを分けました。神さまがおっしゃった言葉は、その通りになるのです。そして人間をお造りになりました。神さまはご自身に似せて人間を造られたのです。ご自分に似せて、男と女とを造られたのです。したがって世界はどういうところかというと、神さまを映し出しているところです。人間は何者かというと、神さまを映し出しているものです。そして神さまは自分のお造りになった全てものをご覧になってどうされたのかというと、それは極めて良かった、そう言って下さったのです。何も不足はありません。何も欠けてはいません。余計なものもついていません。これで良い、それが世界です。それが私たちなのです。
 蛇が言ったことは、嘘っぱちです。蛇は、お前には足りないものがある、そう言いました。けれども、私たちには足りないものなどないのです。不足はないにもかかわらず、私たちは蛇の言った言葉に踊らされるのです。神さまの言葉を忘れ、神さまの造られた世界のことを忘れて、蛇の言葉をどうやって実現しようか、どうやったら蛇のご機嫌取りをすることができるのだろうか、そう考えてあくせく働いているのがこの世界なのではないでしょうか。

 聖学院は聖人を作る、そう申しました。聖人とは神の造った世界を信じる人なのです。この世界は何も欠けていないのです。何も不足していないのです。ところが私たちは、あなたは欠けている、不足している、と言われれば、つい恐ろしくなります。恐ろしくなって、怖くなって、いろいろなものに手を出します。それがこの世界の本質だと思って、私たちは自分以外のものを集めようというコレクターになっていきます。けれども本当の世界は何も欠けていません。何も不足していません。余計なものもありません。神さまの造られた世界は極めて良かったのです。世界は怖くないのです。そこに自分たちはいるのです。だから何も恐れずに、自分の光、自分の塩味、それを探すのです。それを求めるのです。あの人の顔色が怖い、あの人から無視されたら怖い、あの人からそっぽを向かれたら怖い、怖い、怖い……、そう思い始めると、私たちはすぐに自分の賜物を見失います。光も塩味も分からなくなります。そしてそれは家族や友人との関係性の中で日常茶飯事に起こります。友達の顔色、家族の顔色をうかがうようになります。顔色、というのも少し厳しい言い方かもしれませんけれども、その人たちの思い、その人たちの考えに対して自分が相反することを言うのは少し恐ろしい、それは迷惑、それは悲しい、そのようなことはしてはいけない、そう思うと、私たちはいつの間にか自分以外のものに心を寄せる、ということが日々始まるのです。だから日々戦いなのです。自分自身との戦いなのです。
 本当の神さまが造って下さった世界を信じて自分自身と向き合い本当の私を見出す時、一人ひとりに賜物が与えられている、一人ひとりにタラントが与えられていることに気付くのです。そして本当の自分に気付く時、私たちは人類が未だ達することのできなかった、平和を造り出す、ということができるのだと思います。聖人を作る、それは一人ひとりについて語っている聖書の言葉です。世界について聖書が語っている言葉は、平和を造り出す、ということです。「平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」、聖書はそう語ります。聖人、神の子、それを作ろうとしているのが120年の歴史を刻む聖学院の歩みです。その聖学院がこれまで滝野川教会と共に歩むことのできた幸いを心から感謝するとともに、これからもまたご一緒に歩むことができる喜びを今日皆さまと一緒に分かち合いながら、120年の礼拝の時を最後までつなげてまいりたいと思う次第です。