2024年6月2日 主日礼拝説教「愛する者の内に住まわれる神」 東野尚志牧師
イザヤ書 第41章10節
ヨハネによる福音書 第14章15~31節
新しい月、6月を迎えました。私がさいたまの上尾にある聖学院教会から滝野川教会に転任したのは、2019年の6月からでした。これで、ちょうど5年が過ぎたことになります。振り返ってみれば、赴任してまだ1年も経たない、9か月が過ぎた頃に、世界中が新型コロナウィルス感染症によるパンデミックに吞み込まれて行きました。それからの丸3年間、感染症対策のためのさまざまな厳しい制限の中で過ごしました。ようやく昨年から長いトンネルを抜け出たような思いを味わいながら、この1年を過ごしてきたのです。そして今年、教会創立120周年の記念の年を迎えました。1904年の9月、聖学院神学校の中にある教会、いわゆる学院教会として生まれたのが、滝野川教会の始まりです。後に、学校から外に出て町の教会になり、さらには、合同教会として設立された日本基督教団に加わり、今日まで、120年の歴史を刻んできたのです。
今年は、教会創立120周年の記念のため、一年を通して、特別なお祝いの計画をしました。既に先月から、7月の一日修養会を目指して、学びのプログラムが始まっています。「キリストの弟子として生きるー祝福を担う群れ・教会」という年間主題を掲げました。キリストの弟子、まさに、ディサイプルスです。この主題のもとで学びを重ねていきます。そして、今月は、6月16日に、記念のオルガンコンサート、翌週6月23日には、聖学院中学高等学校の校長である伊藤大輔先生をお迎えして、記念の伝道礼拝が行われます。一つひとつ大切に受けとめながら、教会全体で120年のお祝いをしたいと思います。さまざまな形で教会の歴史に関わってくださった方たちはもちろんのこと、ぜひ、多くの新しい方たちをもお迎えして、一緒に神さまの恵みを分かち合いたいと 願います。
滝野川教会の歴史は120年ですけれども、滝野川教会や聖学院を生み出したアメリカのディサイプルス教会は200年近くの歴史を刻んでいます。ディサイプルス教会もその流れを汲むプロテスタント教会は500年を超える歴史を刻んでいます。そして、プロテスタント教会も、カトリック教会も、さらには東方正教会と呼ばれるオーソドックス教会も、すべては2千年前、エルサレムで生まれた教会から始まりました。主イエス・キリストが墓の中から復活されたイースターの主日から七週を経て、50日目に当たるペンテコステの日、集まっていた弟子たち一同の上に、天から聖霊が降りました。聖霊に満たされた弟子たちは、力強く伝道を開始したのです。そこから2千年に及ぶ教会の歴史が始まりました。現在、さまざまに枝分かれして、世界中に広がっているキリストの教会も、その歴史を遡って行けば、ペンテコステの出来事から始まったのです。しかもそれは、突然、何の前ぶれもなく起こったことではありませんでした。主イエス・キリストご自身が、約束しておられたのです。
ヨハネによる福音書第14章15節と16節をもう一度お読みします。主イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。私は父にお願いしょう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。この時まで、およそ3年間にわたり、主イエスはいつも弟子たちと一緒に過ごしながら、弟子たちを教え導き、敵の手から守ってこられました。けれども、それは永遠に続くわけではありません。別れの時が近づいていました。主イエスは、父なる神から遣わされて、私たちと同じ人間のひとりとして地上に来られました。父なる神のご計画に従って、父なる神の御心を行うために、降って来られたのです。そして、間もなく、父なる神のもとへ帰って行こうとしておられます。弟子たちから離れて、天に帰ろうとしておられるのです。
弟子たちとの別れが近づいたとき、主イエスがなさったのは、弟子たちを愛し抜くということでした。この福音書の第13章の初めに、こう記されていました。「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」。ついに、主イエスの時が来たのです。それは、主イエスが栄光をお受けになる時です。ヨハネによる福音書においては、これまで何度か、「上げられる」という言葉で表わされてきました。この「上げられる」という言葉には、いくつかのイメージが結びつけられています。栄光を受けるということと分かりやすく結びついているのは、主イエスが天に上げられるということです。天において、父なる神と共に栄光に包まれていた独り子である御子は、天の栄光をかなぐり捨てるようにして降って来られ、貧しい人間の姿で地上に宿られました。その御子が天に上げられるということは、再び神の独り子としての栄光をお受けになるということです。それは、13章の冒頭で、「この世から父のもとへ移る」と言われたこととも響き合います。この世においては、神の独り子としての栄光は、人としての貧しい姿の中に隠されていました。けれども、父なる神のもとに帰られるとき、再び独り子としての栄光に包まれることになります。
しかしながら、その前に、主イエスにはなすべき務めがありました。主はその務めを果たすために、父なる神から遣わされて、地上に降って来られたのです。救い主である主イエスが果たすべき務め、それは、神のもとから迷い出て、神の御前から失われてしまっていた人間を、その本来いるべき場所に連れ戻すことでした。主イエスは、失われたものを探し出すために、迷い出た者を見つけ出して、神のもとへ立ち帰らせるために来られたのです。人間は、本来、神にかたどって、神と向かい合うように、神の愛を受けて生きるように造られました。ところが、神の言葉に背いて罪を犯した人間は、罪と死の力のもとに捕らわれてしまいました。だから、この世界には、闇が力を奮い、人と人とが争い合い、互いに傷つけ合っています。開発という名の下に自然が破壊され、緑が失われて砂漠が広がっていきます。地球温暖化もまた、人間が自分たちの快適な生活を求めて、そのしわ寄せをすべて自然に押しつけてきたからでしょう。人間が、造り主である神を畏れなくなったからです。人と人との関係はねじれてしまい、人と自然との関係も引き裂かれてしまいました。それはすべて、造り主である神と私たち人間の関係が壊れてしまったからです。神は私たちを愛してくださるにもかかわらず、私たち人間は神を愛することを忘れてしまい、神を信じることもできなくなってしまいました。神が共に生きるようにと与えてくださった隣り人を愛することもできなくなりました。この引き裂かれた関係を回復するために、神の独り子が来てくださいました。私たち人間を罪と死の力から解放して、神のものとして取り戻すために、神の独り子が来てくださった のです。
かつて、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷として苦しめられていたとき、神は、モーセを遣わして、イスラエルの民をエジプトの支配から解放しようとされました。心を頑なにして、解放を拒むエジプトの王ファラオに対して、神はモーセを通して、さまざまな恐ろしい災いを下されました。その最後、十番目の災いは、初子撃ちと呼ばれます。エジプト中の長子、また家畜の初子がすべて、一夜の内に撃たれて死んだのです。その夜、死の天使がエジプト中の家を巡って、長子や初子の命を奪っていきました。ついに心折れたファラオは、イスラエルの民を去らせることになるのです。死の天使がエジプト中の家を巡った夜、予めモーセを通して指示を与えられたイスラエルの家は、小羊を屠って、その血を入り口の二本の柱とかもいに塗っておきました。死の天使は、小羊の血でしるしを付けられた家には入らず、過ぎ越して行ったのです。それが、過越祭の名前の由来でした。イスラエルの家は守られ、奴隷の生活から解放されることになりました。それ以来、この過越祭は、イスラエルの大切なお祭りとして、毎年、祝うようにと定められたのです。
主イエスが、最後にエルサレムに上られたのは、過越祭のときでした。主イエスは、過越の小羊がほふられる日、すべての民を罪から解放する犠牲の小羊として、十字架にかけられて、肉を裂き、血を流されました。この御子イエスの血によって、私たちの罪は贖われ、私たちは罪と死の支配から解放されるのです。ヨハネ福音書は、主イエスが十字架にかけられることをも、「上げられる」という言葉で指し示します。つまり「上げられる」という言葉には、主イエスが十字架に上げられること、さらに死んで葬られた主イエスが、死人の中から上げられて復活されること、そして、復活された主イエスが、弟子たちのもとから天へと上げられることが、すべて重ね合わせるように描かれているのです。それは、言い換えるならば、福音書の中に描かれる主イエスは、いつも、十字架に上げられた方であり、復活された方であり、天に上げられた方として、弟子たちに語っておられるということなのです。
主イエスは、ご自分が上げられるときが来たことを悟られ、後に残していくことになる弟子たちを、極みまで愛し抜かれました。そして、その愛の手本として、弟子たちの足を洗って行かれました。主イエスを裏切ることになるユダも含めて、十二人の弟子たちの足をすべて洗って行かれた後で、主イエスは食卓に戻って、弟子たちに言われました。「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」(13章14~15節)。さらに、それを新しい戒めとして、弟子たちに示して言われました。「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう」(13章34〜35節)。主イエスが足を洗ってくださったように、互いに足を洗い合う。主イエスが愛してくださったように、互いに愛し合い、仕え合う。それが、主イエスの弟子として生きるしるしであると言われたのです。
しかも、主イエスは、ただ愛する手本を示されただけではありませんでした。主イエスとの別れを前にして、不安と恐れを抱く弟子たちに、「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」と言われました(14章1節)。主イエスが、十字架に上げられ、復活して天に上げられるのは、ご自身がまことの命の道となって、神さまのところに導くためであると教えてくださいました。そして、何よりも心強い約束として、ご自身が天に上げられることによって、父なる神のもとから、別の助け主として、聖霊を遣わすと約束してくださったのです。主イエスは、この聖霊を「もうひとりの弁護者」と呼ばれました。つまり、主イエスご自身に代わって、弟子たちと共いて、弟子たちを助け、教え導いてくださる助け主です。主イエスはこの弁護者、助け主について、「真理の霊」、「父が私の名によってお遣わしになる聖霊」と呼んでおられます。真理そのものである主イエスの霊と言ってもよいのです。父なる神が、御子イエスの名によってお遣わしになる霊です。そこに、父・子・聖霊なる神が一体となったお働きが見えています。主イエスは言われました。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(18節)。地上におられたときの主イエスとは違って、十字架と復活の主、栄光の主が、聖霊というかたちで弟子たちのもとに戻って来られ、永遠に一緒にいてくださるというのです。
聖霊なる神が私たちと共にいてくださるとき、私たちは、恐れと不安から解放されます。「弁護者」と訳されている「パラクレートス」という言葉は、いつでも私たちの傍らにあって、私たちを助けてくださるお方を意味します。意気消沈して落胆している者には、新しい勇気を与えてくださいます。苦しみや悩みの中にある者には、慰めと望みを与えてくださいます。そして、私たちに真理である主イエス・キリストのことを教えてくださり、主イエスの言葉を思い起こさせてくださるのです。主イエスが何をしてくださり、何を教えてくださったか、それは、確かに、主イエス一緒に過ごしたことのある弟子たちにとって、その主イエスのお姿や教えを思い起こすことでした。けれども、地上を歩まれた主イエスを直接には知らない私たちにとっては、聖書を通して触れていた主の言葉を思い起こさせることを意味します。自分で読んだときにはよく分からなかったとしても、聖霊なる神が働いてくださるとき、その御言葉を思い起こし、御言葉が分かるようになるのです。そして、御言葉においてご自身を現わしてくださる主と出会い、主を仰ぎ見るのです。主が弟子たちを愛し抜いて、愛する手本を示してくださったことを思い起こしながら、私たちもまた、主イエスを愛し、主の戒めに従って、互いに愛し合い、仕え合う者として生きることを始めるのです。主の言葉が、私たちの中に生きて、私たちを通して証しされるのです。
主は言われました。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」(27節)。「平和」と訳される「エイレーネー」というギリシア語は、ヘブライ語の「シャーローム」の訳語として用いられます。それは、ただ争いがない状態を指すだけではありません。命が満たされて、何も欠けがない完全な調和を表わす言葉です。関係を引き裂く罪の力から自由になって、罪によって引き裂かれた関係が癒され、神との和解が成し遂げられるとき、私たちは、自分自身と和解し、隣り人と和解し、また自然とも和解して、この地上に、目に見える平和を造り出すものとされるのです。
主イエスは言われました。「平和を造る人々は、幸いである その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章10節)。使徒パウロは言いました。「神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです」(2コリント5章18~21節)。主イエス・キリストは、ご自身の命を犠牲にして、和解の道を開いてくださいました。そして、私たちがその和解を受けるだけでなく、和解の言葉を語るように、私たち教会に託してくださいました。
主は今も、私たちの目には見えなくても、霊において、私たちと共にいてくださいます。私たちを父なる神の前に立たせ、神の子として生きるように、霊の力で満たしてくださいます。聖霊の導きによって、私たちは主の名によって祈り、主の御心を行い、神に栄光を帰すのです。霊なる主が、私たちと共にあり、私たちを通して働いてくださいます。主のものとして生かされ、導かれる幸いを喜び歌いたいと思います。
教会創立120周年の年間主題は「キリストの弟子として生きる―祝福を担う群れ・教会」です。キリストの弟子として、キリストに倣い、キリストに従い、キリストによって遣わされて福音を宣べ伝え、祝福と平和を告げる群れとして召し出されています。このような務めに誰が堪えられるでしょうか。しかし、私たちは、ペンテコステ以後を生きています。神の霊が注がれています。霊なる主が私たちと共にいてくださいます。主は約束して言われます。「恐れるな、私があなたと共にいる。たじろぐな、私があなたの神である。私はあなたを奮い立たせ、助け 私の勝利の右手で支える」(イザヤ41章10節)。私たちは、この力強い約束の言葉と共に送り出されていくのです。