2024年6月16日 主日礼拝説教「豊かに実を結ぶ」 東野尚志牧師

イザヤ書 第5章1~7節
ヨハネによる福音書 第15章1~5節

 この朝、滝野川教会の礼拝に集われた皆さまを、心から歓迎いたします。今日の礼拝が始まってから、既に、私は何度か、「創立120周年」という言葉を口にしてきました。今から120年前、1904年の9月、滝野川教会は、 聖学院の学院教会として生まれました。その前の年に設立された神学校が、現在の男子聖学院の場所に移転するのに合わせて、神学校の中に新しく生まれた教会でした。その後、滝野川教会は、聖学院の外に出て、町の教会になり、戦時中に合同教会として設立された日本基督教団に加盟して今日に至ります。
 昨年は、聖学院の創立120周年記念の年でした。そして、今年は、滝野川教会の創立120周年ということになります。合わせて、昨年は、アメリカのディサイプルス教会による日本伝道開始140年を数える節目の年であり、今年は、日本において生まれたディサイプルスの最初の教会、現在の秋田高陽教会の創立140周年ということになります。今月初めの主の日に、秋田高陽教会の創立140年の記念礼拝が行われました。昨年から今年にかけて、日本におけるディサイプルスの学校と教会が、大事な節目の年を刻んでいるのです。
 以前、滝野川教会では、6月を特別伝道月間として位置づけて、伝道礼拝や伝道講演会、またコンサート等を企画しておりました。ここ数年は、コロナのために途切れておりましたけれど、ようやく昨年から少し落ち着いて来ました。今月は、120周年を記念して、オルガン・コンサートと伝道礼拝が計画されています。本日の午後2時から、この場所で、120周年記念オルガン・コンサートが行われます。そして、来週は、記念の伝道礼拝が行われるのです。ぜひ、大切に覚えてご出席いただきたいと願っています。今から141年前、日本の地に蒔かれたディサイプルスの信仰の種が、翌年には、秋田の教会として芽生え育ち、それから20年を経て、東京において、聖学院という教育の業として芽吹き、さらに私たちの教会も生まれました。もちろん、それぞれに120年を超える歴史の中で、さまざまな厳しい試練にさらされてきました。けれども、感謝すべきことは、決して、途切れることなく、その業は続いてきたのです。

 続いてきたというのは、言い換えれば、つながっているということでもあります。地上においては、目に見えるつながりとして、具体的な歴史を刻んでいます。そして、そのような目に見えるつながりが守られ導かれてきたのは、すべての業が、主イエス・キリストとつながっているからだと言ってよいと思います。もしも、人間の意欲や努力だけに頼っていたのなら、どこかで途切れたり、挫折したりしていたかもしれません。あるいは、何かの力に屈して、ねじ曲げられ、変質してしまっていたかも知れません。それが、途切れることなく、また変質することなく、初めの志を貫いてくることができたのは、イエス・キリストを主と仰ぎ、常にキリストの御心をたずね求めながら、主につながる歩みを刻んで来たからです。
 主イエスは言われます。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている」(4節)。主イエスが、聖学院を、また秋田高陽教会も滝野川教会も、ご自分のものとして愛してくださり、主ご自身がつながっていてくださったからこそ、聖学院も教会も、主につながり続けることができました。そして、主から託された伝道と教育の業をそれぞれに担って来たのです。主イエスにつながる業であったからこそ、途切れることなく、また変質することもなく、140年、また120年続いて来ました。そして、これからも主イエスにつながる業として続いて行きます。140年前、あるいは、120年前に、その始まりを経験した人は、もはやこの地上にはいません。学校も教会も、一人の人の生涯よりも長く続いています。それぞれの時代に、学校また教会に生きた人たちが、主イエスにしっかりとつながって、信仰の歴史を受け継いできたのです。そして今、私たちもまた、主イエスにつながる者として、この滝野川教会の信仰と歴史を共に担わせていただいているのです。

 確かに、聖学院も滝野川教会も、主イエス・キリストを土台として建てられ、主イエス・キリストにつながり続けてきました。だからこそ、主が約束してくださったように、豊かに実を結んできたと言ってよいのだと思います。多くの人材を世に送り出し、また多くの信仰者を生み出してきました。けれども、それは、学校や教会が実を結んできたというだけではありません。学校や教会の働きを支えた人たち、それぞれの時代を生きた求道者や信仰者たちもまた、学校を通して、教会を通して、主イエス・キリストにつながることによって、それぞれの人生において、豊かに実を結んできたのです。主イエスはここで、私たち一人ひとりの存在を視野に入れながら語っておられます。主は言われました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)。主イエスは、私たちがしっかりと主につながって、実を結ぶ者となることを望んでおられます。そして、ご自身につながっているように、と私たちを励ましてくださっているのです。
 ヨハネによる福音書の第15章の前半では、「つながる」という言葉と「実を結ぶ」という言葉が繰り返されて、全体を読み解く「鍵」になっています。主イエスは、ご自分を「ぶどうの木」にたとえ、私たちを、その木につながる「枝」にたとえられました。そして、ぶどうの木である主イエスにしっかりとつながっていれば、枝である私たちは、豊かに実を結ぶことができると約束しておられるのです。私たちが実を結ぶというとき、何よりもまず第一に思い浮かぶのは、私たち一人ひとりの人生における実りということでないかと思います。主イエスにつながっていれば、私たちは、実りある人生を送ることができるようになる、主はそのように語っておられるのです。

 「充実した人生」という表現が用いられることもあります。誰でも、実り豊かな人生を送りたい、そのように願っているのではないでしょうか。あまりそんなふうに考えたことはないという人でも、それなら、空しい人生でよいか、と問われれば、そんなことはないと答えるはずです。人生は、何度も繰り返したり、さかのぼってやり直したりできるわけではありません。繰り返しのない、一度しかない人生を、無駄にしてよいはずがないのです。中身のない空っぽの空しい人生ではなくて、ずっしりと中身のある、手応えのある人生、生きがいや、やりがいを感じることのできる人生を送りたいと、誰もが思っています。ただ時の流れに任せて、周りの意見に流されていくのではなくて、自分で選び取り、自分で決断して、前に進んでいくのです。そうやって、豊かに実を結んでいく人生を送りたいのです。
 どんなに一所懸命努力しても、その努力が報われず、頑張っても頑張っても空回りしてしまう。そういう日々が続くと、私たちは生きることに疲れてしまいます。確かに、生きるというのは、疲れることかもしれません。けれども、それがむなしい疲れに終わるのでなくて、実りへとつながって行くということを信じることができれば、疲れた中からもう一度、立ち上がることができるはずです。いったいどうしたら、私たち自身の人生において、確かな実りを信じ望むことができるのでしょうか。今日の聖書の言葉は、その実りを生み出す力がどこから来るのかを、私たちに告げているのです。

 先ほど朗読した聖書の箇所は、15章の初め、1節から17節までが、カギ括弧でくくられています。これは、主イエス・キリストが語られた言葉を、そのまま引用していることを示しています。ですから、この個所で、「私」と語っておられるのは、主イエス・キリストです。いったい、どういう場面で、主が語られた言葉なのでしょうか。今日は、ヨハネによる福音書の第15章、その初めの部分だけを読んだのですけれども、少しさかのぼって、第13章から読み始めると、今日の言葉が語られた背景と状況がよく分かると思います。さらに、15章から18章まで続けて読んでいくと、状況はもっとよく分かるようになります。
 第18章からは、主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、そしてついには十字架にかけられて殺されてしまう物語が続きます。いわゆる受難の物語が記されているのです。第13章は、その直前の出来事、主イエスが、弟子たちと一緒に、夕べの食卓に着かれたときの出来事を記しています。夕べの食事の最中に、主イエスはやおら立ち上がって、手ぬぐいを腰に巻き、たらいに水をくんできて、弟子たちの足を洗って行かれたというのです。パレスチナは砂漠の多い地方です。砂埃の中を歩きますから、体の中で一番汚れるのは足でした。家に着くと、足を洗う。当時、それは、最も卑しい仕事として奴隷の務めとされていたようです。ところが、主であり、師であるイエスさまが弟子たちの足を洗っていかれた。そうすることによって、お互いに仕えること、愛し合うべきことを、目に見える形で示してくださったのです。

 そして、そこから始まるのが、主イエスの説教です。13章の途中から16章まで続きます。長い説教です。そのあとの17章は、弟子たちのための執り成しの祈りです。特に14章から16章まで、3つの章にわたって綴られる説教は、十字架の死を目前にして、弟子たちとの地上の別れを前にした主の言葉として、別れの説教、告別説教と呼ばれます。死を覚悟した遺言と呼んでもよいと思います。主イエスは、間もなく弟子たちのもとからいなくなってしまうのです。その前に、大事なことを弟子たちに伝えようとしておられます。ご自分が去って行かれた後のことについて、備えをさせようとしておられるのです。
 けれども、それは、普通の意味での遺言とは少し違います。主イエスは確かに、去って行かれます。けれども、また戻って来られるからです。十字架につけられ、死んで墓の中に葬られたのち、三日目に復活して、弟子たちのもとに戻って来られます。さらには天に昇られた主が、父なる神のもとから、ご自身の霊である聖霊を送ってくださり、霊においていつまでも共にいてくださるのです。その意味では、死によってもむなしくされることない言葉、死を突き抜けて貫かれる、確かな約束を告げてくださったと言ってよいのです。主イエスは言われました。「人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。その「実」というのは、死によってもむなしくなることのない救いの実りということになります。

 私たちは、決して、最初から、主イエスにつながっていたわけではありません。教会と関わりなく過ごし、主イエスのことも、主イエスの父である神さまのことも知らずに生活をしていました。ところが、さまざまなきっかけが与えられて、キリスト教の学校に学ぶようになったり、教会の礼拝を訪ねたりするようになりました。そして、あの夜の食卓についていた弟子たちのように、主イエスに足を洗っていただいたのです。主イエスは、私たちの最もよごれた部分である足を洗ってくださいました。そのように、私たちの最も汚れたところ、どんなに自分で洗い清めようとしても、自分では洗い流すことのできない罪。その罪を、主イエスは、ご自分の十字架の血によって洗ってくださいました。私たちの罪を償うために、主イエスは私たちの身代わりとなって十字架におかかりくださり、私たちの罪を洗い清めてくださいました。私たちの罪が洗い清められたことのしるしとして、洗礼の水が注がれるのです。
 私たちは、聖書の言葉に導かれながら、私たちの生きることをむなしくさせ、実を結ぶことを妨げていたのは、実は、私たちに染みついた罪の力であったことを知らされます。罪は、命と救いの源である神さまと私たちの間を弓|き裂いて、私たちの生きることを空しくさせ、滅びの中に引きずりこもうとします。けれども、主イエスは、ご自分の十字架の死によって、罪の償いを完全に成し遂げてくださり、さらには、死人の中からよみがえって、新しい命の道を拓いてくださいました。そのようにして、主イエスは、罪によって引き裂かされていた、父なる神と私たちの間をしっかりと結び直してくださいました。そして、私たちすべてを招いて言われるのです。「私 につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている」。

 教会は、主イエスにつながれて、主イエスとつながっている者たちの集まりです。主イエスにつながることを通して、ひとつにされている群れです。洗礼を受けて主イエス・キリストとひとつに結ばれるとき、主イエスにつながることを通して、父なる神さまとつながり、主イエスを通して、教会の他の仲間たちともつながる者とされます。主に結ばれることを通して、教会の中に、そのひと枝として新しく生まれるのです。枝である私たちは、ぶどうの木である主イエスにしっかりとつながることを通して、豊かに実を結ぶと約束されています。私たちが実を結ぶための、ただひとつの条件は、主イエスにつながっているということです。自分にこれができる、あれができるということではありません。これだけ頑張った。こんなに努力したということでもありません。主イエスがつながっていてくださるとき、その枝は豊かに実を結ぶのです。実を結ぶ生き方をしなさい、と命じられているのではありません。主につながっているならば、その人は豊かに実を結ぶ、と約束されているのです。
 このぶどうの木のたとえの中で、「つながる」と訳されている言葉が、とても大事な意味をもっています。ぶどうの枝が木に「つながる」と訳されているのは、本来は「とどまる」という意味をもつ言葉です。とどまって、つながり続けることが大事なのです。主イエスと最初につながることが、洗礼を指し示しているとすれば、主イエスにつながり続け、とどまることは、聖餐の恵みを指し示しているといってよいかもしれません。教会の2千年の伝統において、信仰を言い表し、洗礼を受けたものだけが、主の聖餐にあずかることを許されてきました。ぶどうの木である主イエスにつながり続けることによって、枝は豊かに養われます。実を結ぶものとされます。そのために、主は、洗礼と聖餐という二つの大切な恵みを、教会に与えてくださったのです。

 私たちが、主イエスにつながり、さらには主の恵みの中にとどまり続けることができるように、手入れをしてくださる方がおられます。主は初めに言われました。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」(1節)。続けて言われます。「私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。この言葉を聞くと、不安を覚える方があるかもしれません。主イエスにつながっている枝なのに、実を結ばない枝もあるというのでしょうか。実を結ばない枝は父なる神さまが取り除かれるというのです。それは、恐らく、ただ形式的につながっているように見えても、主の命が通ってはおらず、枯れてしまう枝のことであると思います。6節ではこんなふうにも言われます。「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」。いったんはつながれたはずなのに、枯れてしまう枝があると言われます。それは恐ろしいことです。けれども、そうならないように、主イエスは私たちに、命の言葉を与えてくださるのです。
 主は言われます。「私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」(3節)。神の言葉そのものである主イエスが、十字架と復活によって完全に救いを成し遂げてくださいました。私たちは、既に罪赦され、清められているのです。神の言葉である主イエスを信じ、主の言葉に聴き従うならば、枯れることのない命の祝福にあずかります。主ご自身が、私たちをご自分の言葉によって捕らえていてくださり、御言葉の命による実りを与えてくださるのです。

 農夫である神さまによる手入れは、時には、痛みを伴う剪定作業であるかもしれません、けれども、枝である私たちが豊かに実を結ぶことができるように、父なる神さまが愛の鉄を入れてくださいます。私たちが、自分勝手な酸っぱい実を結んでしまうことのないように、必要な手入れをしてくださるのです。洗礼によって、ぶどうの木につながる枝とされ、主の命と愛を満たした聖餐によって豊かに養われながら、御言葉の良い実を結んでいく枝でありたいと願います。そして、120年の歴史を刻む教会を通して、主がさらに多くの枝を育ててくださり、豊かに実を結ばせてくださるように、私たちも、主の伝道の業に、共に仕えて行きたいと思います。