2024年5月19日 聖霊降臨主日礼拝説教「真理の霊━もう一人の弁護者」 東野尚志牧師

エゼキエル書 第36章25~28節 
ヨハネによる福音書 第14章15~26節

 本日は、教会の暦において、ペンテコステと呼ばれる祝祭日です。クリスマス、イースターと並んで、キリスト教の三大祝祭日の一つとして祝われます。クリスマス、イースター、そして、ペンテコステ、これは、はからずも、日本人によく知られている順序になっていると言ってよいかもしれません。恐らく、キリスト者でなくても、日本人のほとんどが、12月25日はクリスマスだということを知っています。神の独り子である救い主イエス・キリストの誕生をお祝いする日です。
 イースターは、テーマパークのイベントで知られるようになり、春のお祭りだと思っている人が多いかもしれません。しかし、本来は、イエス・キリストの復活を祝う日です。ユダヤ教の大事なお祭りである過越祭のとき、十字架にかけられ殺された主イエスは、葬られて三日目、週の初めの日の朝早く、墓の中から復活されました。聖書に日付がはっきり記されているので、当時の太陰暦を太陽暦に換算すると、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日、ということになります。それで、3月の終わりから4月の後半まで、約一か月の間、イースターの日付は動くのです。今年のイースターは、3月31日でした。
 そして、ペンテコステ。これは、キリスト教会の外では、ほとんど知られていない日であるかもしれません。しかし、実は、三大祝祭日の中で、唯一、聖書の中に記された言葉がそのままの呼び名になっている祝日です。「ペンテーコステー」というギリシア語がもとになっています。50番目、50日目、という意味の言葉です。日本語の聖書では「五旬祭」と訳されています。文字通り50日祭、という意味です。これは、もともとは、ユダヤ教の祭りである過越祭から七週間後、50日目に祝われた小麦の収穫のお祭りでした。それは、主イエスが復活された日から50日目ということにもなります。過越祭のとき、十字架にかけられ殺された主イエスは、三日目の朝、墓の中からよみがえられました。使徒言行録によれば、復活された主イエスは、40日にわたって、たびたび弟子たちに現れて神の国について詳しく教えられました。そして、40日目に、弟子たちの見ている前で、天に昇られたのです。その10日後、つまり、主イエスの復活から数えて50日目にあたる五旬祭の日、弟子たちの上に、約束の聖霊が降りました。それで、ペンテコステは、日本語で、聖霊降臨日、あるいは、聖霊降臨祭とも呼ばれます。今年のイースター、3月31日から七週を経て、50日目にあたるきょうが、聖霊降臨日、ペンテコステの祝いの日なのです。

 2千年前、最初のペンテコステの日の出来事は、使徒言行録の第2章に記されています。「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした」(使徒言行録2章1~4節)。聖霊に満たされた弟子たちは、さまざまな国の言葉で、福音を語り始めました。そこから教会の伝道活動が始まったということで、教会の誕生日と呼ばれることもあります。全世界への伝道が始まったのです。復活された主イエスは、弟子たちに約束して言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」(同1章8節)。主イエスは「地の果てまで」と言われました。そのお言葉通り、東の果て、極東と呼ばれた日本にまで、キリストの福音は伝えられ、教会が生まれたのです。
 私たち滝野川教会は、今年、創立120周年を祝っています。アメリカのディサイプルス教会の宣教師であったガイ博士が、聖学院の最初の学校である神学校を建てたのは1903年の2月のことでした。その翌年、現在の男子聖学院のある場所に約4千坪の土地を得て、新たな校舎を建てて移転しました。1904年の9月のことでした。それに合わせて、学院教会として生まれたのが滝野川教会です。その後、ミッションの意向を受けて、1932年には学院の外に出て町の教会になり、また日本の国が戦争へと突入していく中、1941年に合同教会として設立された日本基督教団に加盟して今日にいたります。その滝野川教会の120年の歴史も、2千年のキリスト教会の歴史に連なるものであり、遡っていけば、すべては2千年前のペンテコステの日、エルサレムに生まれた教会から始まったと言ってよいのです。約束の聖霊を受けて、力強く伝道を開始した教会は、さまざまに枝分かれしながら、全世界に広がり、この日本にまで聖霊の息吹が届いたのです。

 2千年前、弟子たちの群れに聖霊が与えられるということは、既に、主イエスが十字架にかけられる前に約束しておられたことでもありました。先ほど朗読したヨハネによる福音書第14章15節以下に、そのことが記されています。ヨハネの福音書は21章までありますけれども、その全体は大きく二つに区切ることができます。12章までが前半、13章からは後半に入ります。ただし後半と言っても、13章以下は、イエス・キリストの受難と復活の記事なので、わずか数日の間の出来事です。13章には、主イエスが弟子たちと一緒に過ごされた最後の夜の出来事が描かれているのです。
 最後の晩餐として知られる夕食の席でのことです。主イエスは、立ち上がって、十二人の弟子たちの足を順に洗って行かれました。それでこの日は「洗足木曜日」と呼ばれるようになりました。既に主イエスは、ご自分が去って行かなければならないことを覚悟しておられました。その夜のうちに捕らえられ、裁かれ、十字架につけられることになると知っておられました。弟子たちとの別れを覚悟して、大事なことを教えて行かれました。「別れの説教」「告別説教」と呼ばれます。主イエスの遺言と呼んでもよいと思います。それが、14章から16章の終わりまで3章にわたって語られます。その中で、聖霊が遣わされること、またその聖霊の働きについて繰り返し語られているのです。

 主イエスは、足かけ三年ほどでしょうか。弟子たちと一緒に旅をしながら、弟子たちを教え、導いてこられました。主イエスは、いつも弟子たちと一緒にいて、ユダヤ人たちから律法違反を咎められたときも、主イエスが弟子たちのことを守ってくださいました。弟子たちは、主イエスが一緒にいてくださることで、とても心強く感じていたと思います。けれども、主イエスは、弟子たちに教えを語り、不思議な業を示しながら、覚悟しておられました。いつまでも弟子たちと一緒にいることはできないということ、別れの時が迫っていることを覚悟しておられたのです。

 13章の冒頭にはこう記されていました。「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」。別れの時を前にして、究極の愛をもって、弟子たちを愛し抜かれたのです。その愛は、主であり師であるイエスさまが弟子たちの足を洗う、という驚くべき振る舞いをもって示されました。主イエスは以前、ユダヤ人たちに対して言われました。「私が行く所にあなたがたは来ることができない」。それはユダヤ人たちを拒絶するような響きに満ちていましたけれども、今や、主イエスは同じことを、一緒に過ごして来た弟子たちに対しても言われます。弟子たちは不安を覚えたに違いありません。師であるイエスさまは、自分たちのことを見捨てて、去って行ってしまわれるのではないかと恐れたのです。
 主イエスは言われます。14章16節です。「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。「弁護者」というと、何か法廷のような場面が思い浮かぶかも知れません。私たちは被告席にいます。私たちの罪が裁かれようとしているのです。検察の席には、私たちの罪を容赦なく暴き立て、私たちを断罪しようとする検事役のサタンがいます。被告席に立たせられている私たちは、何も罪を犯していなければ、堂々と無実を主張することができるはずです。ところが、私たちにもやましいところがあるのです。裁かれる理由があることが分かっています。サタンはそれをよく心得ていて、私たちの罪を暴き立てようとします。有罪判決に導こうとするのです。ところが、そのとき、私たちのために弁護してくださる方がおられます。私たちに罪があることを知りながら、それでも私たちのために弁護をしてくださる方があるのです。

 最近、テレビのドラマでは、法廷を舞台にしたものが多いように思います。長男が弁護士になりましたので、そういう番組に関心が向くのかもしれません。女子高生が弁護士をするドラマもあれば、今期はNHKの朝ドラでも、女性初の弁護士、女性初の裁判官となった実在の人物をモデルにした番組が放映されています。さらには、殺人犯を無罪にしてしまう怪しげな弁護士まで登場します。なにか、警察と検察の闇を暴こうとするようなドラマで、過去の冤罪がからんでいるらしくて、興味を引かれます。「アンチ・ヒーロー」という番組名も挑戦的で話題になりました。さわやか路線の朝ドラでも、検察の筋書きで自白を強要されて、あわや冤罪という事件が取り上げられていました。今も冤罪に苦しみながら、無罪を主張する人たちがいることを忘れてはならないと思います。その意味で、弁護者の存在とその働きは大きいのです。
 しかしながら、私たちが、神さまの法廷に引き出されて、被告席に立たせられるとき、私たちの罪が暴かれ、有罪の判決が下されたとしても、冤罪とは言えません。そうであるにもかかわらず、そのような私たちを弁護してくださる方がおられます。しかも、情状酌量を求めて罪を軽くしてくださるというのでもなければ、法廷戦術で言葉巧みに有罪を無罪にしてしまうというのでもありません。そうではなくて、弁護者であるそのお方自身が、私たちの身代わりとなって裁きを引き受けてくださり、私たちの罪を背負って命を捨ててくださったのです。そのお方の命の犠牲によって、私たちの罪が贖われて、私たちは罪赦されたのです。

 ヨハネによる福音書において「弁護者」と訳されている言葉は、以前の口語訳聖書では「助け主」と訳されていました。ギリシア語の原語では「パラクレートス」と書かれています。「そばに、傍らに」という意味の「パラ」と「呼ぶ」という意味の動詞「カレオー」を組み合わせてできた「パラカレオー」、それを名詞にしたのが「パラクレートス」です。「傍らに呼ばれた者」を意味します。このヨハネによる福音書では、14章16節と26節、15章26節、そして、16章7節に出てきます。「パラカレオー」は、慰める、励ますという意味でも用いられますので、「パラクレートス」は、「慰め主」と訳されることもあります。
 主イエスはここで、わざわざ「もうひとりの弁護者」という言い方をなさいました。その意味では、まず何よりも、誰よりも、主イエスご自身が、私たちの弁護者であり、助け主、慰め主でいてくださることが前提になっています。それを認めた上で、もうひとりの、別の弁護者について語っておられるのです。頼れる弁護者である主イエスが去って行かれた後、主イエスの願いに応える形で、父なる神が、もうひとりの、別の弁護者を遣わしてくださいます。しかも、その弁護者を、永遠に私たちと一緒にいるようにしてくださる、というのです。
 主は言われます。「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14章16~17節)。父なる神が、私たちに送ってくださるもうひとりの弁護者、助け主は、「真理の霊」、すなわち、聖霊であると言われます。このお方は、永遠に私たちと一緒にいてくださいます。私たちのもとにおられ、私たちの内にいてくださいます。だからこそ、主イエスを信じ、主イエスに結ばれて神の子とされた私たちを、主イエスは、決して、お見捨てになることもなく、みなしごにしておかれるようなこともないと言われるのです。もうひとりの弁護者である真理の霊、聖霊が、私たちと共におられ、私たちの内に、また私たちの間に宿ってくださるからです。主イエスが、父なる神のもとへと帰られたのは、私たちに、別の弁護者である聖霊を送るためであったと言ってもよいのです。主イエスは、この霊において、いつも私たちと一緒にいるようにしてくださいました。目に見える肉体に縛られることなく、いつでも、どこにでも、私たちと共にいるために、主は天に昇られ、ご自身の霊である聖霊を送ってくださったのです。

 きょうは、聖書の段落の区切りを超えて、14章の25節と26節まで読みました。そこに、こう記されているからです。「私は、あなたがたのもとにいる間、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。ここに、聖霊がどのようなお方であり、何をしてくださるかがはっきりと示されています。まず、もうひとりの弁護者である聖霊は、父なる神が、主イエスの名によって遣わしてくださるのだと言われます。確かに、父・子・聖霊なる三位一体の神と言われるように、子なる神と聖霊なる神は、別の位格を持っておられます。けれども、聖霊は主イエスの名によって遣わされます。つまり、聖霊の働きは、主イエスと一つであるということです。聖霊の働きは主イエスの働きだと言ってもよいのです。
 しかも、聖霊なる神は、私たちに必要なすべてのことを教えてくださり、主イエスが話してくださったことを思い起こさせてくださいます。大事なことは、私たちが、主イエスのお話しくださったことを聞いているということです。聞いてもいないことを、思い起こすことはできません。聖書通読の勧めは、この聖霊なる神の働きを信じているところでこそ意味を持つのだと、私は思います。自分ひとりで聖書を読んでいても、分からないことはたくさんあると思います。真面目な人ほど、分からないところで考え込んでしまって、先に進めなくなってしまうかも知れません。でも、その時には分からなくても良いのです。分からなくても聖書を読み、聖書に親しみ、聖書の言葉を自分の中に豊かに蓄えていくことが大事なのです。御言葉を蓄えていればこそ、聖霊が働いてくださるとき、それを思い起こすことができます。試練の中で、苦難の中で、主の助けを求めて祈るとき、自分の中に蓄えていた御言葉が立ち上がるようにして、御言葉が思い起こされる。聖霊が働いてくださるとき、御言葉が分かるようになるのです。そして、御言葉が分かるようになるというのは、何よりも、主イエスのことが分かるようになるということです。聖霊の働きによって、私たちは、御言葉を通して、主イエスと新しく出会うのです。

 聖書の中に書かれているのは、すべて過去のことです。旧約聖書はもちろんのこと、新約聖書に書かれているのも2千年前の言葉です。主イエスが、十字架にかけられたのも、死人の中から復活されたのも2千年前の話です。その主イエスの十字架と復活が、単なる昔話ではなくて、今、ここに生きている私たちの救いである、と言えるのは、聖霊なる神のおかげだと言ってよいと思います。ペンテコステがなかったら、クリスマスもイースターも、私たちとは関わりのない昔々の話だということになってしまいます。聖霊こそは、今、生きて働く神の力、神の現臨です。神が生きて働いていてくださるからこそ、礼拝の中で、十字架と復活の恵みが説かれるとき、それが今を生きる私たちの救いとなるのです。聖霊が働いてくださるからこそ、信仰を言い表して洗礼を受けるとき、私たちは、主イエスの命に結び合わされます。聖霊が働いてくださるからこそ、主の食卓に備えられたパンと杯に与るとき、ここに主イエス・キリストが共におられることを信じて、主の命に与ることができるのです。
 復活された主イエス・キリストは、弟子たちの前に現れ、息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」(20章22節)。主は今も、私たちに命の息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けよ」。2千年前に起こった十字架の出来事が、この私の救いになるというようなことを、どうして信じられるというのでしょうか。死人が復活したなどということを、誰が信じるというのでしょうか。理性的に考えれば、全く説明のつかないことです。けれども、聖霊が私たちの間に、また私たちの内に働いてくださるとき、私たちは、死を打ち破る神の命に包まれて、信じる者へと変えられます。今も生きて働いておられる主の命と愛に満たされて、「私の主、私の神よ」(20章28節)と告白するのです。

 主は言われました。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)。霊なる主がいつも私たちと共にいて、私たちを励まし、導き、ご自身の業のために用いてくださるのです。