2024年5月12日 主日礼拝説教「罪と死に勝ちたもう主」 東野ひかり牧師
イザヤ書 第6章1~8節
マルコによる福音書 第16章1~8節
今朝私どもに与えられました聖書は、マルコによる福音書第16章1~8節、主イエスがお甦りになったことを告げるみ言葉です。先ほどは、讃美歌第二編100番、復活の信仰を歌う讃美歌を歌いました。7節まである讃美歌ですので、説教後も同じ讃美歌の後半を歌うことにいたしました。難しい歌でした。歌いながら「歌いにくい歌だ」とお思いになられた方も多かったと思いますが、しかしこの讃美歌の歌詞は、宗教改革者のマルティン・ルターによるもの、曲のほうはヨハン・セバスティアン・バッハの編曲という、実に堂々たる讃美歌です。歌いやすい、親しみやすいというような讃美歌ではありませんが、実に力強く堂々と、また高らかに、復活の信仰を歌っている讃美歌だと思います。
1節はこういう歌詞でした。「主は死につながれ わがつみを解き、主はよみがえりて、いのちをたもう。」元のドイツ語の歌詞の冒頭の言葉が、讃美歌の左上に小さい字で書かれています。Christ lag in Todesbanden この冒頭の言葉がこの歌の題にもなっています。lagというのは、横たわる、という意味です。十字架につけられて死に、アリマタヤのヨセフの墓に葬られ、墓の中に横たえられたキリストを思わせる言葉でもあります。Todesbandenは、「死の縄目」と訳され、この歌は「キリストは死の縄目につながれたり」という歌として知られています。この讃美歌は、十字架につけられて死なれた、死の縄目につながれ墓に横たえられた、そのキリストの死によって、私たちの罪が解かれた、私たちの罪が赦された、そう歌い始めます。そしてその主が、お甦りになって、私たちにいのちをたまわった、今私たちを生かしていると歌うのです。
この歌は、主の十字架の死によって私たちの罪が解かれた、罪が赦された、そう歌いながら、その主が甦らされて、罪と死の力、陰府の力に打ち勝ちたまいて、私たちにいのちを与え、今私たちを生かしている、そう歌います。
竹森満佐一先生のこの箇所についての比較的短い説教がありますが、その説教の終わり近くで竹森先生は念を押すように、「復活は、十字架につけられて死んだお方の復活である」ということを語られ、これを見落としてはならないということを強く語っておられます。「復活は、十字架につけられて死んだお方の復活である」。当たり前のことではないかと思われるかもしれません。けれど、私たちは時々この当たり前のことを見失うのではないかと思うのです。
竹森先生はこういうふうに言われます。〈主イエスの死はただの死ではなくて、十字架にかけられて殺された死でありました。その復活もまた、ただ死からよみがえられた、というのではなくて、十字架につけられて死んで、甦らせられた、ということなのであります。……したがって、復活は、十字架において取り上げられた罪と死に関わることであります。復活ですから、死が関わるのは当然のことと思われるかもしれません。しかし、それは、肉体の死だけを言っているのではなくて、罪によってもたらされた死のことであります。罪と死、なのであります。これを見落としては、復活は分かりません。〉罪と死に関わるのは、十字架だけのことではない、復活もまた罪と死に関わる、そう言われるのです。十字架につけられて死んだお方が復活なさったということは、私たちの罪が完全に赦された、私たちの罪が完全に解決された、そういうことなのです。復活は、私たちの罪、そして罪によってもたらされる死に対する、完全な勝利だということです。
今日のこの説教の準備のためにキリストの復活についての言葉を幾つか読みました。その中で度々こういう言葉に出会いました。「十字架の死と復活は切り離せない。」 これは、「復活は、十字架に死んだ方の復活である」ということと同じことを言っていると思います。これも当たり前のこと、当然のこと、と思われる方が多いとは思いますが、このことをいろんな人がキリストの復活を語る時に口にしたり、書いたりしているのです。それはおそらく、私たちはいつの間にか十字架と復活を切り離して考えてしまうことが多いからではないか、と思います。
こんなふうに考えることがないでしょうか。「十字架の恵みは分かる、でも復活はよく分からない。」「十字架によって私たちの罪が贖われて赦されたという、十字架の恵みは分かるけれど、復活の意味はよく分からない。」 あるいは逆に、「復活という神の力溢れる出来事が私たちを救うということは信じられるけれど、十字架という惨めな死にどうして私たちを救う力があるのか分からない。」 私自身、かつてそんなふうに思っていたことがありました。「十字架は自分のための救いの出来事だと分かる気がするが、でも復活がどう私の救いに関わるのか分からない。」 私も十字架と復活を切り離して考えていたのです。ある人ははっきりと〈十字架と復活を切り離して考えるのは間違っているし、信仰の急所を外している〉と言います。けれど案外、私たちはこの信仰の急所を、分かっているようなつもりでいてもよく分かっていないということがあるのではないかと思います。
私が十字架と復活は切り離せないということを、ほんとうにそうだと思わせられたのは、コリントの信徒への手紙Ⅰの15章17節のみ言葉によりました。こういう言葉です。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお罪の中にいることになります。」 キリストの復活がなかったなら、私たちはまだ罪の中にいる。ああそうか、と思わされました。もし主がずっと墓の中に、陰府に留まったままであったなら、罪と死の力は克服されないままなのです。十字架に死なれた主がお甦りになった、それによって私の罪も完全に赦されたのです。十字架につけられて死なれた主は、墓に葬られ陰府に降り、そこから甦らされた、墓は空になった。それは、罪と死の力が完全に打ち負かされたということです。十字架につけられたお方の復活、その復活は確かに私の救いだと思いました。私の罪を背負って十字架につけられて死んでくださった主がお甦りになった。主の復活がなければ私はまだ罪の中にいることになる、確かにそのとおりなのです。十字架だけではない、また復活だけでもない、主の十字架と復活が私の救いだと知らされました。
マルコによる福音書の、主の復活を告げる天使の言葉も、このことをはっきり語っています。朝早く、主が葬られた墓に急いだ女たちは、墓に着くと、墓の入り口にをふさいでいたはずの大きな石が既に転がされており、墓の中に主イエスの遺体はなく、そこに天使のような若者が座っているのを見ました。女たちは非常に驚きます。天使は言いました。「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」 「十字架につけられたナザレのイエス」は「復活なさってここにはおられない。」 天使は、復活なさったのは「十字架につけられたナザレのイエス」だと、念を押すように告げています。
しかし、この天使の言葉を聞いた女たち、主の復活を最初に知らされた女たちは、喜びにあふれたというのではありませんでした。「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(8節)十字架につけられて死んだお方が復活なさった。このことは、この知らせを最初に告げられた女たちにとっては喜びの知らせではなく、体ががたがた震え出すような、非常な恐れを引き起こした知らせであったと、そうマルコは伝えるのです。
そして、驚くべきことにこの8節で本来のマルコによる福音書は終わってしまっているのです。9節以下は亀甲括弧というカッコの中に入っています。それはこの部分が後からの付加であることを示します。9節以下は、後の時代の人たちが「結び」として書き足した部分です。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」この福音書の冒頭にはそう書き記されました。けれどその終わりは「恐ろしかったからである。」というのです。
「十字架につけられて死んだキリストは甦られた。まことに、甦られた。」これが福音の中核です。喜びの知らせそのものです。キリストの教会はこのことを伝え続けて広まったのです。ところが、「十字架につけられて死んだナザレのイエスは、復活なさってここにはおられない」と喜びの知らせそのものをいちばん最初に聞いた女たちは喜ぶどころか、あまりの恐れに正気を失うほどだった、誰にも何も伝えられなかった、ただただ恐ろしかったのだ、そう書いてこの福音書は終わっているのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。復活の知らせを最初に聞いた女性たちのこの恐れは、いったい何なのでしょうか。なぜこれほどまでに、彼女たちは恐れたのでしょうか。
そのひとつの答えは、〈復活〉という出来事は、徹頭徹尾、神のみわざであった、神そのものの力に触れて女たちは恐れおののいた、ということです。復活は、神がさったことです。神ご自身のみわざです。聖書が注意深く、ほとんどのところで「復活させられた」と受け身で書いているのも、そのことを示します。
十字架につけられて死んだ主、墓に葬られた主は、そこから復活させられました。それによって罪と死の力は打ち滅ぼされました。主の復活、罪と死に対する勝利。この私たちにとってこの上ない喜びの福音である出来事は、すべて神がなさったことです。そこに神そのものの力があらわされたのです。そしてそれは本来、この女たちが恐れおののき震え上がったような、恐るべき出来事なのです。
竹森先生はたいへん厳しく、こうおっしゃいました。〈私たちは、初めの信者たちが感じたような、復活に対する恐ろしさを知らない。イースターだから嬉しい、という安っぽい気持ちばかりあって、イースターの恐ろしさを感じていない。〉竹森先生らしい言葉だと思います。主の復活は、私たちにとって確かに福音です。そしてこの福音、十字架につけられたお方の復活は、神そのものの力があらわされたことでした。徹頭徹尾神がなさったこと、神のみわざでした。それは本来、私たちには恐るべきこと、驚くべきこと、おののくような出来事だということを忘れてはならないのです。
今日はイザヤ書の第6章を合わせて読みました。預言者イザヤもまた、神そのものの力に触れて恐れおののき、打ち震えました。そして崩れ落ちるようにして言いました。「ああ、災いだ。/私は汚れた唇の者/私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。/しかも、私の目は/王である万軍の主を見てしまったのだ。 」「ああ、災いだ」とは、「ああ、わたしはもうだめだ」という意味です。「ああ」というのは、本来葬りの嘆きの声だと言われます。以前の口語訳では、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」となっていました。「ああ、わたしはもうダメだ、わたしは滅び失せる」イザヤはそう叫んだというのです。主の復活の最初の証人となった女たちも、このイザヤのようであったのではないかと思うのです。罪人である人間が、神そのものの力、神の現臨に触れたなら、「もうだめだ」と恐れおののき崩れ落ちるほかないのです。
イザヤは「私は汚れた唇の者」(5節)と言いました。「唇」とは、ただこの口だけのことを言うのではなくて、古代においては全存在を表現するところと理解されました。ですからイザヤは、「ああ、私は全存在が汚れている…」と言ったのです。しかしそのように、神そのものに触れて「ああ、私はもうダメだ、私は全存在が汚れている…」と、崩れ落ちているイザヤに、ここで赦しの言葉が告げられるのです。「すると、セラフィムの一人が私のところに飛んで来た。その手には祭壇の上から火箸で取った炭火があった。彼はそれを私の口に触れさせ、言った。 「見よ、これがあなたの唇に触れたので/過ちは取り去られ、罪は覆われた。」」
主イエスの復活を告げた天使もここで赦しの言葉を告げている、そう言うことができます。天使は女たちに言いました。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」天使は、女たちに「弟子たちとペトロに告げなさい」と言いました。「ペトロに」というのは、「ペトロにも」という意味です。天使は、「弟子たちと、そしてペトロにも、告げなさい」と言ったのです。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」
「かねて言われたとおり」というのは、ペトロが主イエスに対して「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません」と豪語したときのことを指しています。主イエスは、「今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度私を知らないと言うだろう」と、ペトロの裏切りを予告されました。そのとき主イエスはこうもおっしゃっていたのです。14章28節です。「私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
このようにたどりながら、私は、東京神学大学で、新約聖書神学を教えてくださった松永希久夫先生のことを思い出しました。松永先生は、よくこういうことをおっしゃったのです。「復活なさった主イエスは、弟子たちにご自身を現された。弟子たちに再び出会ってくださった。それは、『おまえたちよくも私を裏切ったな、うらめしや~』と言って現れたのではないんだよ」と、よく話されました。復活なさった主イエスは、弟子たちに「よくも私を裏切ったな、うらめしや〜」と言って現れたっておかしくはなかったのに、そうではなかったと、松永先生はよく話されました。
また、「イエスさまが先にガリラヤへ行く、というのは、イエスさまを裏切って見捨てた弟子たちをおさばきになるためだ、女たちは天使の言葉を聞いてそう思ったから、正気を失うほどに震え上がって恐れたのだ」そう考えた人もあるそうです。もし復活なさった主イエスが、ご自分を裏切り見捨てた弟子たちをおさばきになるために「先にガリラヤへ行く」と言われたのだとしたら、たしかに、それはかなり恐ろしいことに違いないと思います。
けれども、もちろんそうではありません。主イエスが「私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われたのは、そこで弟子たちやペトロに、「うらめしや~」と言うためでも、弟子たちをさばいて復讐するためでもありません。そうではなくて、弟子たちとそしてペトロの罪をすべて赦して、もう一度新しく出会うためです。ガリラヤは、主イエスがペトロと弟子たちに最初に出会ったところです。弟子たちの、またここに登場する女性たちの故郷です。主イエスと弟子たちの始まりの地です。主イエスは、そこでペトロに、弟子たちに、さらにこの女性たちに再び出会うために、主イエスの方が先にガリラヤに行かれる、そう告げられているのです。これは、呪いの言葉でもさばきの言葉でもなく、赦しの言葉です。
女たちは、天使の言葉を聞いたときただただ震え上がり、恐れおののきました。そしてこのときは「誰にも何も言わなかった。」 黙ってしまいました。マルコは、このとき女たちは、十字架の主イエスを見捨てて逃げてしまった男の弟子たちのように、墓から「逃げ去った」のだと書いています。男弟子たちは十字架へと向かう主イエスを見捨てて逃げ去ったのでしたが、女たちはお甦りになってガリラヤへと先に向かわれた復活の主イエスから逃げ去ったのだと言えるかもしれません。女たちも逃げてしまった、マルコはそのように書くのです。ここで、マルコによる福音書の本来の部分は、終わってしまうのです。
しかしこの女たちは、いったいどこに向かって逃げて行ったのか、ということを考えますと、ガリラヤに向かったのだろうとしか思えないのです。主イエスが先に行っていると言われたガリラヤに向かって走り出したのではないかと思うのです。9節以下は、「その後」の彼女たちと弟子たちの姿を知る人々が、書き足した「結び」です。ここには、復活なさった主イエスが、男弟子たちにも、女弟子たちにも、そしてペトロにも「ご自身を現された」ということが記されています。そのことをうかがわせる言葉が、9,12,14節に記されています。そして復活の主は弟子たちに「新しい言葉」を与え(17節)、「共に働」かれた(20節)と記されます。
ガリラヤで、復活の主イエスは何をなさったのか。もう一度、ペトロを、また弟子たちを、そして女たちを、呼ばれた、召し出されたのではないでしょうか。ガリラヤの湖のほとりで、最初に出会ったときのように「私について来なさい」と。そしてペトロも、ほかの弟子たちも、女たちも、新しく主のあとに従った。そして「新しい言葉」を語る者とされた。主と共に働く者、福音を語る者とされたのです。そしてその福音を聞いたマルコという人が、この「神の子イエス・キリストの福音」を、この福音書を書き綴ったのです。
ある人は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と、マルコがこの福音書の冒頭の言葉を書いたとき、この「神の子」というのは、十字架に死んでお甦りになった、復活されたイエス・キリストという意味だと言いました。福音書記者マルコは、十字架と復活の主イエス・キリストの福音をここに書き綴った。罪と死に勝利された、主イエス・キリストの福音をここに書き綴ったのです。これは、神ご自身がそこにお姿をあらわしている、そのような恐るべき驚くべき物語です。しかし、喜びの物語です。
あなたがたより先にガリラヤに行く。十字架と復活の主・罪と死に勝ちたもう主は、私たちのそれぞれのガリラヤに、先に行っていてくださいます。ガリラヤは弟子たちの故郷、そして弟子たちの日常生活の場所です。それ故にそこにはあらゆる悲しみと苦しみ嘆きがある、そのような場所です。そのガリラヤに、罪と死に勝ちたもう主が先立ち行かれるのです。私たちのそれぞれのガリラヤに。罪と死に勝ちたもう主が、お甦りの主が、私たちの悲しみの地に、私たちの苦しみの地に、私たちの嘆きの地に先立ち行き、そこで私たちと出会ってくださる。そこで「私について来なさい」と私たちを招き、呼ばれるのです。
罪赦された預言者イザヤは、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応えました。「ここに私がおります」というのは、ごくごく単純な「はい、わたしがここに」という、呼びかけに答える返事の言葉です。左近淑先生はこの言葉についてこうお書きになりました。「『はい、わたしがここに』とは、罪のゆるしによって新たに生かされ、復活にあずかる者の応答と服従の姿勢を示す。……それは『ゆるされ』、呼びかけをうけ、それに素直に『はい』と応答する、使命をもった、自由な、雄々しくも喜ばしい生である。」
「はい、わたしがここに。わたしをおつかわしください。」罪と死に勝ちたもうた主の赦しを受け、主のいのちの祝福を受け、私たちも、新しく主のあとに従って参りましょう。