2024年4月7日 主日礼拝説教「キリストの弟子として生きる」 東野尚志牧師

イザヤ書 第50章4節
マタイによる福音書 第28章16~20節

 先週の日曜日、私たちは、主イエス・キリストの復活を祝うイースターの礼拝をささげました。礼拝の中で、3人の姉妹たちが、信仰を言い表して、洗礼を授けられました。何年も前に、何十年も前に洗礼を受けた人たちも、改めて、洗礼式に立ち会って、ご自分の受洗のときを思い起こされたのではないかと思います。まだこれから洗礼を受けようとしている人たちは、予行演習をするように、興味深く食い入るように洗礼式を見ておられたかも知れません。洗礼式に続いて、聖餐の食卓にあずかりました。受洗した方たちにとっては、生まれて初めて受ける聖餐でした。皆さんは、ご自分が初めて聖餐のパンと杯にあずかったときのことを覚えておられるでしょうか。それまでは、礼拝の中で聖餐のパンと杯が配られても、それを取ることはできませんでした。洗礼を受けて、初めて味わう聖餐、それは感動的な体験であったはずです。けれども、それ以来、何回も回数を重ねていくうちに、最初の感激を忘れてしまっているのではないかと思います。
 初めて聖餐にあずかったときの記憶は薄れても、洗礼の記憶が薄れることはないと思います。洗礼は、生涯に一度だけだからです。とりわけ、全身を水の中に沈める浸礼によって洗礼を授けられた人は、そのときの水の冷たさと共に、体が覚えているのだと思います。親と教会の信仰によって、生まれて間もなく幼児洗礼を授けられた人には、洗礼そのものの記憶はないかも知れません。けれども、自分の口で自覚的に信仰を言い表した、信仰告白式の記憶は刻まれているはずです。そこから、聖餐に養われる信徒としての新たな歩みが始まったのです。

 洗礼を受けることによって、私たちはキリストの死に合わせられて、古い罪の自分に死にます。そして、キリストの復活に合わせられて、神の子としての新しい命を生きる者となります。水の中から引き上げられることによって、キリストに結ばれて新しく生まれたのです。洗礼を受けた者のことを言い表すのに、いろいろな呼び方があります。「信者」、「信仰者」というのが一般的かも知れません。教会のひと肢として新しく生まれて、教会の中で、お互いを兄弟姉妹と呼び合う神の家族に加えられたという意味では、「教会員」というのも大切な呼び名です。あるいはまた、洗礼を受けて、キリストに結ばれる者となったという意味では、「キリスト者」という呼び名が分かりやすくて良いかもしれません。さらに、キリストとの関係をはっきりと表わす呼び方として、キリストを「主」と呼ぶ「主の僕」、またキリストを「師」と呼ぶ「キリストの弟子」という言い方も大切にしたいと思うのです。
 特に、私たち滝野川教会は、アメリカのディサイプルス教会によって生み出されたという信仰のルーツを重んじています。当然のこととして、Disciples of Christ、すなわち、「キリストの弟子」という呼び名を大事にしなければならないと思います。私たちは、洗礼を受けることによって、キリストを師と仰ぐ「キリストの弟子」として、新たな命をいただいたのです。2024年度は、滝野川教会にとって、教会創立120周年という節目の年でもあります。1903年、ディサイプルス教会の伝道者を養成する神学校が最初に設立されて、聖学院神学校と呼ばれるようになりました。そして翌年、1904年に、その神学校の中の教会として生まれたのが、滝野川教会の歴史の始まりです。ディサイプルス教会の信仰は単純明快でした。「イエスは主なり」。それだけで良かったのです。「イエスは主なり」、そして「我らはキリストの弟子」である。そこに、ディサイプルス教会の原点があると言って良いと思います。教会創立120周年を迎えて、教会の原点を意識しながら、「キリストの弟子として生きる」という年間主題を掲げました。合わせて、マタイによる福音書第28章19節と20節を年間聖句としました。きょうの週報をお開きになって、気づかれたでしょうか。この一年間、毎週の週報にこの年間聖句を掲げながら、キリストの弟子とされた者として、学びと交わりを深めて行きたいと思うのです。

 主イエス・キリストは、十字架にかけられ、死んで葬られた日から数えて三日目、週の初めの日の朝早く、墓の中から復活されました。そして、弟子たちの前に現れて、ご自分が復活されたことを示してくださったのです。その後、11人の弟子たちは、復活の主に命じられたとおり、ガリラヤに行きました。そして、あらかじめ指示されていた山に登りました。どこの山であったかは分かりません。山は、古来、神の顕現の場所とされています。その山で、弟子たちは、復活された主イエスとお会いして、ひれ伏した、と記されています。「ひれ伏した」と訳されているのは、礼拝を現す専門用語として用いられるようになった言葉です。弟子たちは、主イエスと生活を共にしていた頃から、この方こそ、メシア、救い主である、という確信を次第に強めていったと思われます。優れた信仰の教師として、心から深く主イエスを尊敬していたに違いありません。しかしそれでも、主イエスを拝むということはありませんでした。主イエスが捕らえられ、十字架にかけられるときには、怖くなり、あるいはまた失望して、先生を見捨てて逃げてしまった弟子たちでした。その弟子たちが、今、復活された主の御前に召し出され、主にお会いしたとき、御子イエスをひれ伏して拝む者へと変えられたのです。
 恐らく、以前の主イエスとは違う、ということを感じたのだと思います。もっとも、復活者を前にしても、なお疑う者もいた、と記されています。これも正直なところでしょう。このひと言が記されている意味も大きいと思います。主の御前に呼び集められた弟子たちの中にも、なお心定まらず、心揺れ動く不安を抱えている者たちがいたのです。これが教会の姿です。これが私たちの姿です。ここに描かれているのは、私たちが今ささげている礼拝と重なります。私たちも、復活された主イエス・キリストによって召し出され、主の御前に集められました。集められた私たちは、決して、皆が信仰の勇者たちというわけではありません。むしろ自分の信仰の小ささを嘆き、この世の試練の中で、信仰が絶えず揺さぶられている者たちです。けれども、大事なのは、私たちの側に確信があるかどうか、私たちの中に確かさがあるかどうかではありません。大事なのは、そのような私たちに対して、主イエスの方から歩み寄って来られた。近づいて来てくださり、言葉をかけてくださる、ということなのです。

 マタイは書いています。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『私は天と地の一切の権能を授かっている。』」。弟子たちに語りかける主イエスは、確かにそれまでの主イエスとは違いました。主イエスは生まれながら神の子でしたけれども、その人としての歩みにおいては、弱く、疲れ、涙を流し、神から捨てられたのです。けれども、復活されたキリストは、エフェソの信徒への手紙の中に描かれているように、「この世だけでなく来るべき世にある、すべての支配、権威、権力、権勢、また名を持つすべてのものの上に置かれ」た方です(エフェソの信徒への手紙第1章21節)。このお方に対しては、まさに、ひれ伏して、礼拝することこそがふさわしいのです。
 かつて、主イエスは、洗礼を受けられた直後、荒れ野において悪魔の試みを受けられました。悪魔は言葉巧みに主イエスを誘惑しようとして、3度目には、その本性を曝しました。悪魔は、高い山の上に主イエスを連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、言いました。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう」。主イエスはきっぱりとその誘いを退けて言われました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み/ただ主に仕えよ』と書いてある」。主イエスは、悪魔に仕えることによってではなくて、父なる神に従い、十字架の道を貫くことによって、死者の中から復活させられ、一切の権能をその手に託されました。悪魔が約束した地上の権威だけでなく、天における権威までも、すべて主イエスの御手に授けられたのです。ですから、主イエスが弟子たちに告げられた言葉は、勝利の宣言と言ってよいでしょう。悪魔の力に対する完全な勝利です。死の力を打ち破って復活された主は、今や、天と地の一切の権能を授けられました。そして、主イエスは、父なる神から託された権能によって、まさに、権威をもって、弟子たちにお命じになるのです。

 主は言われます。「だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」。一切の権能を授かった主がお命じになります。そこに、根拠があります。すべての権能を授かっている主がお命じになり、主が後ろ盾となってくださるから、だからこそ、行きなさい、と命じられるのです。私たちは、さまざまなきっかけで、教会へと足を運んだのだと思います。そこには、一人ひとりの大切な証しがあるに違いありません。漠然と生きることに不安を覚えて、教会を訪ねた人がいるかもしれません。重い病や事故などを通して、死の恐れを味わい、その恐れを乗り越えて生きるために、助けを求めて来た人もいるでしょう。子どもの頃から習慣的に、あまり迷いもなく教会に来ている人もあると思います。それでも、人間関係でさまざまな悩みを抱えて、出口を求めている人は多いでしょう。あるいは、自分で自分が受け入れられない。自分がいやでしょうがない。変わりたい、新しくなりたい、もっといい人生があるはずだ、そう思って、宗教の教えを求める人もいると思います。それぞれの経験に根ざした、いわば実存的な願いを持って、教会に足を運んでくるのです。
 その教会において、繰り返し聞かされる話があります。キリストの十字架と復活の話です。キリストの十字架の死によって、私たちは罪を赦された。私たちはキリストの死に合わせられて、古い罪の自分に死ぬ。そして、キリストの復活に合わせられて、新しい命を与えられ、神に生きる者となる。初めのうちは、何の話かよく分からなくても、同じ話を聞き続けている間に、福音の言葉そのものが打ち開かれるようにして、私たちの心にまっすぐに入ってくる時が来ます。そして、私たちは主イエスを信じ、主イエスの十字架と復活の福音を信じるのです。うつろだった心に恵みが満たされ、喜びがあふれてきます。けれども、主イエスを救い主と信じ、主の復活を信じて、喜びに満たされたら、それで終わりというのではありません。私たちは、洗礼を受けてキリストのものとされたならば、キリストから新しい命と共に、新しい使命を与えられるのです。招かれたのは、遣わされるためです。たとえ一人ひとりは力弱く、小さな存在であるとしても、主は、弟子たちの群れである教会に、大切な使命を託されました。そして今、私たちをも、この教会のひと肢としてくださいました。私たちは、キリストがかしらとしていつも共にいてくださる教会のひと肢として、教会に託された使命のために遣わされるのです。

 教会に託された使命は、「すべての民を弟子にする」ということです。かつて主イエスが十二人の使徒たちを宣教の旅に遣わされたとき、主は弟子たちに命じられました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10章5~6節)。しかし、復活された主イエスは、今や、全世界に神の言葉を宣べ伝えるように、とお命じになります。神は、選民イスラエルだけを守る神ではありません。御子イエスを通して、すべての者の父となってくださるお方です。世界のすべての国の民が、救われて、主の弟子となることを望んでおられるのです。
 「すべての民を弟子にする」ということは、具体的には、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」ることを意味します。ここに三位一体の神の名による洗礼の定式がはっきりと示されたのは、とても大事なことだと思います。私たちは、洗礼という恵みの手段を通して、父・子・聖霊なる神の救いの御業の中に入れていただくのです。洗礼を授けられることによって、私たちはキリストの弟子とされて、弟子たちの群れである教会の中に加えられるのです。洗礼式は、洗礼入会式であるというべきです。洗礼を授けられた者は、キリストの弟子として新しく生まれます。教会の中に、教会のひと肢として、新しく生まれるのです。
 そして、主イエスは、洗礼を受けて教会のひと肢とされ、キリストの弟子として新たに生まれた者たちに、主がお命じになったことを「すべて守るように教え」ることをお求めになります。洗礼を受けて、キリストの弟子とされた者は、キリストの言葉に従って生きる者となるのです。主の教えをただ聞くだけではなくて、聞いて行う者となるのです。それは、何か新たな律法主義のように、掟に縛られて不自由な生活を強いられるということではありません。むしろ、私たちを愛して、私たちのためにご自身の命を献げてくださった主のあとに、仲間たちと一緒に喜んでついて行きたいのです。主イエスに喜んでいただきたい。神に喜ばれる者となりたい。そのための道を、教え示すようにと、主は言われるのです。

 カトリックの教会で歌われる典礼聖歌の中に、「キリストのように考え」という歌があります。「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう」と歌います。そうしなければならない、というのではなくて、そうしたいのです。キリストを愛し、キリストに憧れながら、キリストに従って、キリストのように生きる者になりたいと思うのです。続けて歌います。「もはやこの身に生きることなく、キリストによって生きるために。キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう。キリストの死をその身に受け、新たないのちに召されたなら、キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう。力の限り」。
 キリストの弟子というのは、キリストに学び、キリストにならい、キリストに従って、キリストのように生きることを願う者たちだと言って良いかも知れません。「すべての民を弟子にしなさい」と命じられている者たちは、自らもキリストの弟子として生きることを願います。キリストのまことの弟子として立てられたいのです。福音を生きる者となりたいのです。もちろん、自分自身においては、洗礼を受けた後も、挫折やつまずきを繰り返すに違いありません。けれども、自分の周りにいる身近な人たちに、御言葉を宣べ伝えようとする中で、自分自身が御言葉によって癒され、慰められる経験をします。御言葉を通して、私たちを慰め、癒やしてくださる主と新しく出会うのです。

 大学生の頃、生活費のためにいろんなアルバイトをしました。新聞配達もしましたけれども、一番、割が良いのは家庭教師のアルバイトでした。中学生や高校生に、英語、数学、理科、何でも教えました。自分がちゃんと分かっていなければ、ひとに教えることはできません。分かったつもりでいても、分からない人に教えようとすると、実は自分もよく分かっていないところが分かってきたりします。教えることで身につくようになるのです。ひとに伝えようとすることで、伝えるべき内容が明確にされていきます。だからこそ、主イエスは、主の弟子とされた私たちに、ひとに教えること、伝えることを求められるのだと思います。人に伝えようとすることで、私たち自身の信じている信仰の中身が確かなものとされていくのです。
 主イエスを伝えようとすることで、自分でも、主イエスのことをもっと良く知るようになります。さらにもっと知りたいと思うようになります。主イエスを知るというのは、ただ頭で知識として知るというのではなくて、主と新しく出会い、さらに深く主イエスとの交わりの中に生かされるようになるのです。そのようにして、最後に主が約束してくださったこと、世の終わりまで、いつも主が私たちと共にいてくださるという恵みを、深く味わい知るのです。

 きょうは、2024年度の最初の主日礼拝です。共に聖餐にあずかったあと、2024年度の役員任職式、教会学校校長ならびに教師・奉仕者の任職式が行われます。そこで問われるのは、その務めが、教会のかしらである主イエス・キリストの召しによるものであることを確信し、その召しに応えて行こうとする覚悟です。任職を受ける役員や教師たちだけではありません。私たち皆が、すべての民を主の弟子にするという大いなる使命へと召し出されているのです。この召しに応えるためにも、まず私たち自身が「キリストの弟子」として生きる恵みと祝福の中で日々導かれ、養われていきたいと願います。
 預言者イザヤは告げました。「主なる神は、弟子としての舌を私に与えた/疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように。主は朝ごとに私を呼び覚まし/私の耳を呼び覚まし/弟子として聞くようにしてくださる」。朝ごとに主は、私たちの内に御言葉を聞く耳を呼び覚まし、主の弟子として恵みと慰めと癒やしを伝える舌を養ってくださいます。「キリストの弟子として生きる」喜びが、朝ごとに、また日ごとに、私たちのうちに呼び覚まされ、確信をもって主の召しに応えて行くことができますように。主の祝福を祈ります。