2024年3月31日 復活主日礼拝説教「新しい命に生きる」 東野尚志牧師

エゼキエル書 第36章25~28節
ローマの信徒への手紙 第6章1~11節

 主イエス・キリストの復活を祝うイースターの朝を迎えました。主イエスは、十字架にかけられ、十字架の上で死んで墓に葬られた後、安息日を間にはさんだ三日目の朝、墓の中からよみがえられました。主が復活されたのは、週の初めの日でした。それで、キリストの教会は、週の終わりの日の安息日の礼拝に加えて、週の初めの日にも集まって礼拝をするようになりました。やがては、安息日を週の終わりから週の初めに移し、週の初めの日を「主の日」と呼んで、復活の主を礼拝するための休みの日としました。
 週の初めの日を休みとする暦は、その後、キリスト教会の伝道が進展するのに合わせて西欧世界全体へと広まります。そして、ついには、明治の初め、日本にも伝えられて定着しました。知らずに暦を使っている人が多いと思います。けれども、七日ごとに主の日を迎え、週の初めの日を休みとする暦は、主の復活を祝うキリスト教会の信仰に基づいているのです。
 主の日ごとに、私たちは主なる神の招きを受けて、礼拝に集い、主の復活を祝います。そして、年に一度、太陰暦に基づくユダヤ教の過越祭に合わせて、主の復活の朝を記念して、喜び集います。それで、現代の太陽暦に換算すると、イースターの日付は3月の末から4月後半まで、約一か月の間を動くことになります。春分の日の後の最初の満月の次の日曜日が、主の復活の日にあたるのです。二千年前、主イエスが、墓の中からよみがえられたイースターの朝の出来事が、復活主日の礼拝を支えています。同時にまた、七日ごとの主の日の礼拝をも支えているのです。
 主の復活の栄光が輝き溢れるイースターの朝を迎えました。「イースター、おめでとうございます」。「主の復活、ハレルヤ」。互いに喜びの挨拶を交わしながら、主の十字架の死と復活によって、私たちが今、神の子としての命をいただき、キリストの弟子として生かされている恵みを深く味わいたいと思います。

 きょうは、主の復活を記念して、3名の方たちが、礼拝の中で洗礼を受けられます。私たち滝野川教会における洗礼式は、全身を水の中に沈める形で行います。浸すという漢字を用いて、「浸礼」と呼びます。頭に数滴の水を垂らす「滴礼」ではなくて、二千年前の最初の洗礼の形をなぞるようにして、浸礼によって洗礼を授けるのです。他教会から転会してこられた方たちの中には、恐らく、滴礼で洗礼を受けた方の方が多いと思います。この後、洗礼を授けようとしている私自身も、今から43年前、1981年のイースター、会衆派の伝統を受け継ぐ大阪教会において、滴礼による洗礼を受けました。日本基督教団の教会の中で、浸礼による洗礼の形を大事に受け継いでいるのは、バプテスト教会とディサイプルス教会の伝統に立つ教会くらいではないかと思います。数の上では、決して多くありません。きょう、洗礼を受ける方たちは、数少ない浸礼による洗礼を行う教会に導かれたことを、大切に受けとめていただきたいのです。
 なぜ、浸礼による洗礼を大切にして欲しいのかと言えば、まさに、この形にこそ、洗礼の本来持っている意味がよく現わされているからです。確かに、浸礼による洗礼式を行うのは、なかなか大変です。受洗者は全身が水に濡れてしまうわけですから、濡れた体を拭いたり、着替えをしたり、それだけで時間がかかります。司式者にもそれなりの準備と体力が要求されます。洗礼を授けられるのは、一瞬の出来事ですけれども、その前後にかなり時間がかかるのです。きょう、説教者に求められているのは、とにかく説教の時間を短くすることです。そうまでして、礼拝の中で時間をかけて浸礼による洗礼式を行うのは、この形の中でこそ、洗礼の恵みを、身をもって味わい知ることができると考えているからです。洗礼式に立ち会う者たちも、その恵みの中に共に生かされるのです。

 洗礼について触れている聖書の箇所はいくつかあります。その中で、洗礼とは何であるかということを、端的に現わしているのが、先ほど朗読したローマの信徒への手紙の第6章であると思います。3節と4節にこうあります。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです」。私たちは、主イエス・キリストが、私たちの救い主であることを信じ、父・子・聖霊なる神に対する信仰を言い表して洗礼を受けます。それによって、実は、キリストの死にあずかることになるのだと言うのです。3節は、元の言葉を少し直訳的に言うとこうなります。「キリスト・イエスの中へと洗礼された私たちは皆、その死の中へと洗礼された」。
 洗礼という言葉は、かつての口語訳聖書では、原語の響きを残して、「バプテスマ」と訳されていました。「キリスト・イエスの中へとバプテスマされた」ということになります。とても面白い言い方だと思います。そして同時に、とても意義深い言葉ではないかと思います。洗礼式、バプテスマ、というのは、単なる教会入会のための儀式ではありません。その本質は、キリストの中へと入れられること。キリストの中へと入れられて、キリストと一つに結び合わせられることです。「バプテスマ」という言葉のもともとの意味は、どっぷりと水に浸す、ということです。「キリスト・イエスの中へとバプテスマされる」というのは、キリストの中にどっぷりと浸かること、と言ってもよいのです。そういう意味では、全身を水に浸す洗礼式の形はまさしく象徴的です。パウロ自身、そういう洗礼の場面を思い浮かべていたに違いないのです。

 パウロは告げています。「キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました」。「キリストの死にあずかる」というのは、どういうことでしょうか。イエス・キリストの死、それは罪のための死でした。もちろん、主イエスに罪があったわけではありません。私たちの罪のために、私たちを罪から解放するために、キリストは私たちの罪をすべて引き受けて、私たちの身代わりとなって、罪に対する審きとしての死を味わわれたのです。ですから、私たちがキリストと共に葬られるというのは、このキリストの死に合わせられることです。それは、私たちがキリストと同じ死を死ぬということではありません。キリストがなさったように、キリストを手本として死ぬ、ということでもありません。そうではなくて、洗礼によって、私たちはキリストと結ばれて、キリストの死に重ね合わせられるのです。
 キリストの死に合わせられ、キリストの死の中で、私たちの罪に支配された古い自分が死ぬ。神に背いて、罪と死の力に支配されるようになった古い自分は死んでしまう。罪を犯す古い自分は、キリストにおいて十字架につけられたのです。奴隷も死んでしまえばその主人から解放されるように、罪の奴隷であった私たちが、キリストの死に合わせられて死ぬことによって、罪とは縁のない者になります。罪はもはや私たちの主人ではありません。パウロは洗礼の恵みを通して、キリストの死に合わせられ、罪に死んで、罪から解放された私たちの姿を描き出すのです。

 しかしながら、それはなお、半分の真理です。罪からの自由は、それだけでは完成しません。だからパウロは、私たちがキリストと結ばれる恵みの中で、折り返すように描いています。「それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです」。私たちは、キリストの死に合わせられて古い罪に死ぬ。そして、キリストの復活に合わせられて、新しい命に生きる。洗礼の水に沈められた者は、そのままなら本当に死んでしまいます。しかし、すぐに水の中から引き上げられるのです。そのようにして、罪と死の中から引き上げられ、神に生きる命の中に新しく生まれるのです。私たちは、キリスト・イエスの中にバプテスマされることによって、罪の支配に対しては死んで、神に対して生きる者となる。11節では次のように述べています。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい」。キリスト・イエスにあって、すなわち、キリスト・イエスの中で、私たちは、神に対して生きる者となったのです。
 私たちが、キリストの中へと入れられて、キリストの中にあるならば、キリストにおいて成し遂げられた恵みの中に、しっかりと浸されて、死から命へと移されています。それが、洗礼において私たちに与えられる祝福です。その恵みの事実を認めよ、救いの出来事を受け入れよ、と御言葉は私たちを励ましています。なぜなら、私たちはなおも途上にあるからです。確かに、救いはキリストにおいて成し遂げられました。私たちは、このキリストの中へとバプテスマされることによって、キリストの死と復活に合わせられています。復活の命の支配が既に始まっています。しかしながら、まだ私たちにおいて完成されたわけではありません。それゆえに、迷いや疑いが忍び込んできます。つぶやきが生まれます。私たちは、目の前の現実に惑わされることなく、忍耐と望みをもって、十字架の主を仰ぎ、復活の主に従って行きたいと思います。終わりの日、復活の体を与えられ、救いが完成される日を信じ望みながら、霊なる主と共に歩み続けるのです。
 キリストの中へとバプテスマされることは、キリストの体である教会の中に、その部分として新しく生まれることとして現わされます。キリストの体である教会の中に、今も力強く働いているキリストの霊の力を受けて、私たちは日々、キリストに似た者へと造りかえられて行くのです。

 洗礼を受けることによって、聖餐にあずかる歩みが始まります。聖餐の食卓において、私たちがいただくのは、キリストが十字架の上で割いてくださったお体であり、流された血潮です。それはまた同時に、キリストの復活のお体であり、キリストの復活の命そのものでもあります。主イエスは言われました。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる」(ヨハネによる福音書6章54~56節)。洗礼はゴールではありません。新たなスタートです。洗礼によって与えられる新たな命は、聖餐にあずかることによって養われていきます。共に聖餐にあずかる交わりの中で、私たちは主の内にとどまり、主もまた私たちの内にとどまり続けてくださるのです。この祝福と喜びに満ちた交わりの中に、さらに多くの者たちが招き入れられ、共々に恵みにあずかることができますように。主の命にあずかる祝福と喜びを、さらに多くの者たちと共に分かち合って行きたいと思います。