2024年3月24日 棕櫚の主日礼拝説教「互いに足を洗い合う」 東野尚志牧師
詩編 第41編8~13節
ヨハネによる福音書 第13章12~20節
主イエスは、地上で迎えられる最後の過越祭を祝うために、週の初めの日、エルサレムの都に上られました。主イエスが来られるとの知らせに、エルサレムの町の人たちは城壁の外、門までつながる街道沿いに並んで、主イエスをお迎えしようとしました。祭りを祝うためにエルサレムまで巡礼の旅を続けてきた人たちも、主イエスと並んで歩きながら、まことの王の入城を祝いました。その際、途中の町で切り取ってきたなつめやしの枝を手に持って、それを振りながら、主イエスを称えました。以前の口語訳聖書では「なつめやし」が「しゅろ」と訳されておりましたので、日本では、「棕櫚の主日」と呼ばれるようになりました。海外では、Palm Sundayと呼ばれます。
手に持った枝を振る者もあれば、その枝を主イエスが進んで行かれる道に敷く者もあり、さらに、自分の上着を脱いで、それを道に敷く者もいました。勝利者である王の入城を祝うために、心からの喜びと賛美を表わしたのです。ところが、エルサレム入城の際、主イエスは勝利者にふさわしい軍馬、戦いに用いる馬ではなくて、荷物を運ぶために用いるろばの背に乗られました。しかも、まだ荷物運びに使われたことのない子どものろばの背に乗って進んで行かれたのです。人々から見上げられるというのではなくて、むしろ、並んで歩くように、あるいは、子どものろばですから、その背に乗れば、周りの人よりも低くなったかも知れません。それは、ちょっと滑稽な姿でもあったと思います。福音書はそれを、旧約聖書ゼカリヤ書の預言の成就として記しました。預言者は告げています。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る雌ろばの子、子ろばに乗って」(ゼカリヤ9章9節)。今日、礼拝の初めに、招きの言葉として読んだところです。
ろばの子に乗る勝利の王は、エルサレムと諸国に平和をもたらす王として来られました。勝利を得るお方が、へりくだって、ご自身を低くして来られたのです。それは、福音書記者ヨハネが、第13章に描いた主イエスのお姿にもつながると言ってよいのではないかと思います。13章には、ご自身を低くして弟子たちに仕える主のお姿が描かれています。13章の冒頭には、こう記されました。「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」。主イエスは、ご自分の時、つまり、この地上で最後を迎えて、天へと帰られる時が来たことを悟って、世にいるご自分の者たちを、その極みまで、究極の愛で愛し抜かれたというのです。この主イエスの愛を象徴的に表わしたのが、弟子たちの足を洗うという行為であったと言ってよいのです。
弟子たちの足を洗う。洗足と呼ばれます。これを教会の名前につけたところもあります。洗足教会。東急池上線の旗の台の駅の近くにあります。近くには洗足という地名や駅もあるのですが、そちらの方は、もともとは千の束と書く千束であったようです。ところが、その千束の大池で、池上に向かう途中の日蓮が足を洗ったという伝説によって、足を洗う洗足池と呼ばれるようになり、地名の方も足を洗う洗足になったとされます。どうやらルーツが違うようです。主イエスが弟子の足を洗われたのは、十字架にかけられる前の晩ということで、洗足木曜日という呼び方も生まれました。修道院の中には、洗足木曜日に修道士が互いに足を洗い合うことを大切にしているところもあるようです。私たちの教会では、洗足木曜日を記念して、聖餐を祝う特別な祈祷会を行います。その元になっているのが、ヨハネによる福音書の第13章に描かれている洗足の出来事なのです。
第13章の1節から11節は、前回の礼拝で読みました。主イエスは、十字架にかけられる前の晩、弟子たちとの最後の夕食の席で、突然立ち上がって、おもむろに上着を脱いで、手拭いを取って腰に巻かれました。そらから、たらいに水を汲んできて、十二人の弟子たちの足を洗って行かれました。一人ひとり順に、たらいの水で丁寧に足を洗って、腰に巻いた手拭いで拭いて行かれたのです。当時、サンダル履きで外を歩きますから、体の中で足が一番汚れました。外から家に着くと、その家の奴隷が足を洗ってくれます。つまり、足を洗うのは、奴隷のする仕事でした。ところが、先生である主イエスが、弟子たちの足を洗って行かれたのです。シモン・ペトロとの間で、意義深いやり取りもありました。主イエスに足を洗っていただくことを恐縮して、辞退しようとするペトロに、主は言われました。「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」(13章8節)。つまり、主イエスと弟子たちとのつながりは、主が弟子たちの足を洗ってくださったところにかかっているというのです。もちろん、足を洗うというのは象徴的な行為です。それは、罪を洗い清めることを指し示しています。主がこの後、十字架にかかって成し遂げようとしておられる罪の贖いの業を指し示しているのです。
この夕食の席で、主イエスは弟子たちに大切な教えを語られた後、弟子たちと一緒にオリーブ山に出かけて行かれます。そこにある園で、ユダに手引きされた兵士たちに捕らえられ、大祭司の館で裁かれ、さらにローマの総督ポンティオ・ピラトの法廷で裁かれて、十字架に引き渡されることになります。そして、ゴルゴタの丘で十字架につけられ、十字架の上で息を引き取られるのです。その悲惨な十字架の死において、主イエスは、私たちの罪をすべて背負って、ご自身の命を犠牲にして、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。主イエスが流された血によって、私たちの罪が贖われ、私たちは罪から洗い清められました。ひとの足を洗うためには、その前にかがみ込んで、相手よりも身を低くする必要があります。主イエスによる洗足の場面を描いた絵が多く残されていますけれども、いずれも、主イエスは床に膝をついておられます。主が身を低くして、ひざまずいて、弟子の足を洗っておられる。それは、奴隷のように相手に仕えることのしるしであり、究極の愛の業である十字架の死を表わしているのです。マルコによる福音書が、主イエスの言葉を伝えています。「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章42~45節)。
さて、主イエスを裏切るユダをも含めて、十二人の弟子たちの足をすべて洗い終えると、主は再び上着を着て、席に戻られ、弟子たちに教えて言われました。13章の12節から15節まで、少し長いですが続けて読みます。「こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び席に着いて言われた。『私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ』」。主は弟子たちにお尋ねになりました。「私があなたがたにしたことが分かるか」。ここを読んで、あれ、どういうこと、と思われた方があるかもしれません。前の段落を見ると、主イエスは、ペトロにこんなことを言っておられました。「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」(13章7節)。そこでは、主イエスははっきり、「私のしていることは、今あなたには分からない」と言われたのです。
確かに、主イエスが弟子たちの足を洗われた、ということが、主イエスの十字架の死による罪の贖い、罪の洗いを意味しているということは、まだ十字架を見ておらず、真理の霊である聖霊を受けていないペトロに、分かるはずがありません。ただびっくりしながら、恐縮して、一度は断ろうと思ったけれど、主イエスと関わりがなくなると言われて、それは困る、されるがままになっていたというのが、実際のところであったと思います。しかし、やがて、主イエスが弟子の裏切りによって捕らえられ、裁かれ、十字架に引き渡され、死んで葬られ、三日目によみがえって、弟子たちの前に再び現れてくださったとき、復活の主と出会い、主の霊である聖霊を受けることによって、弟子たちは、洗足の意味を深く味わい知ることになります。主イエスの血によって、自分たちの罪が洗い清められたことを知るのです。
ヨハネによる福音書を読んでおりますと、時々、時間的な流れを飛び越えるような記述を目にして、戸惑いを覚えることがあります。それは、ヨハネに限らず、どの福音書を読んでいるときに感じることかも知れません。確かに、ヨハネは、第13章において、十字架の前夜の出来事を描いています。主イエスは弟子たちと一緒に、最後の晩餐の食卓に着いておられます。その食事の途中で、席から立って、弟子たちの足を洗って行かれたのです。主イエスによって足を洗っていただいたのは、十二人の弟子たちです。けれども、そこには、ヨハネが書き記した福音書を読んでいる1世紀の終わりの弟子たちの姿も重なり合っています。ヨハネは自分の教会の信徒たちに、主イエスの言葉を伝えようとして、この福音書を書いています。だから、これを読んだ教会員は、この福音書の物語を通して、自分たちに語りかける主の言葉を聞いたのです。物語の外にいて、主イエスと弟子たちのやり取りを聞いている、外から眺めているというのではなくて、自分がその物語の中に入り込んでしまうのです。
12節以下の主の言葉は、まさに、そのようにして、弟子たちの足を洗い終えられた主が、弟子たちに向かって語られた言葉であるだけでなく、それを読んでいるヨハネの教会の信徒たちに教える言葉として、記されているのだと思います。すでに、主の十字架と復活を知っています。主の霊を受けて、洗足の出来事が象徴的に指し示している罪の洗いの意味をも知らされています。主イエスの十字架による救いを信じて、洗礼を受け、教会の仲間として一緒に信仰の生活を続けているのです。そこで、改めて、主は問うておられるのです。「私があなたがたにしたことが分かるか」。あなたがたには分かるはずだと言われるのです。
そして、さらに広がります。この福音書を記したヨハネは、自分の教会の信徒たちに伝えるためだけではなくて、代々にわたって、福音書を読むすべての者たちに主イエスを伝えようとして記しています。主イエスがお語りになる言葉は、時空を越えて、福音書を読むすべての者たちに語りかけるのです。最初にこの福音書が書かれたときから、今日に至るまで、この福音書を読むすべての読者に向けて、主イエスは、「あなたがた」と言って呼びかけておられます。ヨハネは、そのように語りかける主の言葉、命の言葉を書き記しているのです。
だからこそ、主イエスと一緒に最後の食卓を囲み、主イエスによって足を洗っていただいた弟子たちの姿に、ヨハネの教会の信徒たちが重なり合います。そしてさらに、今、この聖書を読んでいる私たちの姿も重なり合っていくのです。主は、ヨハネの教会の信徒たちに語られます。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」(13章12~15節)。ヨハネの教会の信徒たちに語っておられる主の顔が、気づいたら、私たちの方を見ておられます。そして、私たちに向かって言われるのです。「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」。
信仰者として生きるということは、突き詰めて言えば、主が示してくださった模範に倣って生きると言うことなのだと思います。主イエスは今、私たちに向かって問うておられます。「私があなたがたにしたことが分かるか」。何とか分かって欲しい、という主の切なる思いが込められていると言ってもよいと思います。私たちは、互いに愛し合う、とか、互いに仕え合う、と言葉で読んでも、なかなかピンと来ないところがあるかも知れません。愛しているつもりになり、仕えているつもりになって、何となくやり過ごしてしまいます。主イエスの教えを、もう分かった気になってスルーしてしまうのです。それはもう分かりました。もっと別の感動的な話を聞かせてください、平気でそんなふうに考えます。けれども、私たちは本当に、愛するというのがどういうことか、分かっているのでしょうか。仕えるということがどういうことか、分かっているのでしょうか。主イエスは、それを、具体的な姿で示してくださったのです。
主であり、師であるイエスさまが、弟子である私たちのために、お手本を示してくださいました。愛するというのはどういうことか、仕えるというのはどういうことか、分からなかったら、私がするように真似してご覧。私にならって、私と同じようにしてご覧なさい、と言われるのです。相手の足を洗う、そのためには、主がそうされたように、座っている人の前で、自分は床に膝をついて、相手の前に身をかがめなければなりません。お互いに兄弟姉妹だと言って、対等な立場だと考えるかもしれません。けれども、相手の足を洗うためには、自分を相手よりも低くしなければなりません。それは屈辱的なことです。だからこそ、奴隷の仕事とされていました。この世的に偉くなってしまった人たちにとって、相手よりも自分を低くするというのは、プライドの傷つくことであるかもしれません。けれども、主であり、師であるイエスさまが、弟子である私たちの汚れた足を洗ってくださったのです。罪にまみれた体を洗い清めてくださったのです。そのようにして、愛に生きる手本を示してくださったのです。
「弟子」と訳される言葉のもとの意味は、「学ぶ者」ということです。そして、「まなぶ」というのは「まねぶ」という言葉から来ています。まねぶ、すなわち真似をすることです。職人の世界では、弟子は師匠の真似をすることで、学び取っていくのだと言われます。師匠のすることを良く観察しながら、同じようにしてみる、実際に、同じように振る舞ってみることで、少しずつ身についていくのです。ただ頭で理解するだけでは身につきません。体で覚えていく。そのために、主イエスは、実際に、弟子の前に身をかがめて、仕える姿勢、愛の仕草を、身をもって示してくださいました。主イエスは、私たちに身をもって愛を教えるために、私たちと同じ人間となってくださったと言ってもよいのです。模範を示すために、主イエスの方から、私たちのところに来てくださったのです。
もちろん、私たちは、主がご自身を低くして、その命をも捨てるほどに、私たちを愛し、私たちに仕えてくださったほどに、隣り人に仕え、隣り人を愛するなんてできっこない、という思いに捕らわれます。人よりも偉くなりたい、人よりも上に立ちたいという罪の思いが絡みついているからです。けれども、主イエスは、神の独り子としての命をかけて、私たちの罪を洗い清め、ぬぐい取ってくださいました。私たちは、もはや罪の支配のもとではなくて、神の御子の命と愛の支配の中に移されたのです。だからこそ、主イエスは、決して、私たちのことを諦めずに、さあ、私があなたにしたとおりに、あなたもしてごらん、私はそれができるように、あなたの罪を贖った、そう語りかけてくださるのです。
今日の箇所で、主イエスは、「よくよく言っておく」という言葉を二回繰り返しておられます。「アーメン、アーメン、私はあなたがたに言う」。そういう特別な言い方です。主が特に大事なことを教えるときに用いられた言葉です。主は言われます。「よくよく言っておく。僕は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない」(13章16節)。そして、最後にまた言われます。「よくよく言っておく。私の遣わす者を受け入れる人は、私を受け入れ、私を受け入れる人は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」(同20節)。イエスさまご自身が私たちに、私たちが愛し、仕えるべき相手を遣わしてくださいました。私たちは、自分の目の前にいる信仰の仲間たち、そして、家族や隣り人を、主イエスがこの私のために遣わしてくださった人として受け入れるようにと、告げられています。それが、主ご自身を受け入れることだと言われるのです。
私たちは、お互いがお互いにとって、愛し、仕えるべき隣り人として、主から与えられています。仕え合い、愛し合うところに、主の愛が実を結び、主に従い行く弟子たちの交わりが造られていくのです。その交わりにおいて、主ご自身のお姿が見えるようになります。主の愛が見えるようになります。主イエスこそは、父なる神が私たちのために遣わしてくださった救い主であることが見えるようになるのです。
ただひとり「私はある」と宣言することのできる方、まことの神である方が、私たちの間に宿られ、愛の模範を示してくださいました。仕える姿を示してくださいました。そこから愛が始まります。そこでこそ、愛が実を結びます。主イエスの愛に倣い、互いに仕え合うことを通して、愛の実を結ぶ教会の交わりが造られていくのです。