2024年2月4日 主日礼拝説教「一粒の麦の命」 東野尚志牧師
ダニエル書 第7章13~14節
ヨハネによる福音書 第12章20~26節
聖書の中には、一度聞いたら忘れがたい響きを持つ言葉があります。ことわざや格言のように、前後の文脈を離れて、心に深く刻まれる言葉があるのです。先ほど朗読したヨハネによる福音書の第12章24節は、そのような言葉の一つと言ってよいと思います。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。この言葉をご自分の愛唱の聖句として覚えておられる方があるかも知れません。年配の方の中には、文語の言葉の方が、口をついて出てくるという方もあるでしょう。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて在らん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」。教会の中だけではなくて、文学や思想の中で、大きな影響を与えてきた言葉だと言ってよいと思います。ふと手に取った小説や随想の中で、思いがけず目にすることもあるのです。
『一粒の麦もし死なずば』と言えば、フランスの小説家アンドレ・ジッドの自叙伝、回想録の題名としても知られます。ジッド、あるいは、ジイドと表記されたこともあります。ロシアの文豪ドストエフスキーは、最後の未完の大作『カラマーゾフの兄弟』の扉に「一粒の麦」という言葉を記しています。ドストエフスキーはまた、『罪と罰』の中で、罪を犯したラスコーリニコフが、ソーニャに、ラザロのよみがえりの場面を読むように求めるところがあり、ヨハネによる福音書に深く親しんでいたのではないかと思われます。世界中の作家にとって、聖書は人間の本質を知るための大事な教科書であったと言って良いのかも知れません。
「一粒の麦」に話を戻しますと、この言葉は「広辞苑」に代表される日本語の辞書の中にも取り上げられています。「精選版 日本国語大辞典」の中では、こんなふうに解説されていました。「ひとりの人間。ひとりの犠牲によって、多くの人々が救われるという真理を示したイエス・キリストの言葉によるたとえ」。たとえとして通用するくらい、この日本に於いても、知られた言葉になっているのです。
コロナ禍の直前くらいでしたけれど、2019年の秋に、『一粒の麦 荻野吟子(おぎのぎんこ)の生涯』という映画が公開されました。男尊女卑の傾向が強い明治の時代に、日本で最初に医師免許を受けた女性、荻野吟子の生涯を描いた映画です。私は映画そのものを見る機会はありませんでしたけれど、3分半ほどのメイキング映像予告編を見ておりましたら、教会の礼拝で讃美歌が歌われている場面も流れました。「さまよう人々、たちかえりて、あめなる御国の父を見よや」。讃美歌239番です。偏見や差別に立ち向かい、いくつもの壁を乗り越えて医師になり、多くの女性や子どもたちを助けた人です。この人の生涯を描いた映画の題に「一粒の麦」という題をつけた。この一人の女性の生涯を通して、多くの人たちが救われたことを表わそうとしたのだと思います。
「一粒の麦」という言葉だけで、すでに、たとえとしてのメッセージをもっているのです。シンガー・ソングライターのさだまさしさんの作品にも「ひと粒の麦」と題する歌があります。アフガニスタンで銃撃を受けて亡くなった医師の中村哲さんを追悼する歌です。そうかと思うと、「一粒の麦」という名前の麦焼酎まであります。ただこちらはヨハネ福音書の12章ではなくて、「ただ一粒の麦なれど、大地にて芽を吹き、たくさんの豊穣をもたらせり」という旧約聖書の一節から命名したと説明されていました。旧約聖書のどこから取ったのかはよく分かりませんでした。
確かに、日本語の辞書でも説明されているように、「一粒の麦」という言葉は、たとえとして用いられるほどによく知られるようになりました。けれども、ヨハネによる福音書の中で、主イエスがこの言葉を口にされたとき、それは、ただの一般的なたとえとして語られたのではありません。地に落ちて死ぬ「一粒の麦」というのは、主イエスご自身のことです。「一粒の麦」が地に落ちて死ぬ、というのは、主イエス・キリストが十字架にかけられて死ぬ、ということを表わしているのです。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。この主イエスの言葉が記されているのは、ヨハネによる福音書の第12章24節です。その直前の段落では、ユダヤ人にとって大切な三大祭りの一つ、過越祭を前にして、主イエスがエルサレムの都に入られたことが語られていました。主イエスは、なつめやしの枝を振って歓呼の叫びを上げる群衆に迎えられ、ろばの子の背に乗ってエルサレムに入られたのです。それは、いわゆる受難週の最初の日である日曜日の出来事であったと考えられます。それから一週間もたたないうちに、その週の金曜日に、主イエスは十字架にかけられ殺されるのです。
エルサレム入城の出来事を受けて、今日の段落の最初に記されています。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」(12章20節)。この「祭り」というのが、過越祭です。エジプトで奴隷としての生活に苦しめられていたイスラエルの民は、モーセによってエジプトから導き出されました。過越祭は、その救いの出来事を記念する祭りです。ユダヤの全土から、また周辺の国々からも、過越祭を祝うために、ユダヤ人たちがエルサレムに集まって来ていました。エルサレムの神殿で、礼拝をささげるためです。ところが、そのユダヤ人たちに紛れるようにして、何人かのギリシア人も都に来ていたというのです。そこから、話が始まりました。
今日の段落の直前、12章の19節にはこう記されていました。「そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見ろ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男に付いて行ったではないか。」」。「世をあげて」と言われています。世界中の人々が主イエスに付いて行った、ということです。少し誇張した言い方であるかも知れません。けれども、ユダヤ人だけではなくて、他の国の人たちも、主イエスに付いて行ったということになります。他の国の人たち、異邦人の代表として、ここに、ギリシア人が登場するのです。過越祭は、本来ならば、エジプトからの解放を体験したユダヤ人のお祭りです。そのお祭りを異邦人であるギリシア人が共に祝おうとしたというのは不自然に思われるかもしれません。しかし、ヨハネは、主イエスの十字架による救いが、ただユダヤ人のためであったのではなくて、すべて主イエスを信じる者たちには、ユダヤ人にも異邦人にも与えられる恵みであることの証しとして、ここにギリシア人が含まれていたことを記すのです。
しかも、ギリシア人たちは、はっきりとした目的を持ってやって来ました。この人たちは、主イエスの弟子のひとりであったフィリポのもとに来て、頼みました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(21節)。主イエスに会いたい、主イエスにお目にかかりたい、と頼みました。「お願いです」と訳されているところは、直訳すると「主よ」と訳される言葉が用いられています。主イエスの弟子のことを「主よ」と呼んだというのは不自然ですから、相手に対する尊敬を込めて丁寧に頼んだという意味で、「お願いです」と訳したのだと思います。どうして、それほど、主イエスに会いたいと思ったのでしょうか。主イエスが、死んだラザロを墓の中からよみがえらせたことが、既に広く知られていたからではないかと思います。死という、人生最後の難関を突き抜ける力を持っておられる方にぜひ会ってみたい。その話を聞いてみたい、と思ったに違いありません。
主イエスへの取り次ぎを頼まれたフィリポについて、ヨハネ福音書は説明を加えています。「ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポ」。フィリポには、同じベトサイダ出身のアンデレという仲間がいました。フィリポは、同じ弟子仲間であるアンデレに話して、二人で一緒に主イエスのところへ行って話したというのです。いささか回りくどいような話になっています。この背景には、同じ福音書の第1章の記事が思い起こされます。第1章の記事によれば、主イエスの最初の弟子になった一人がアンデレでした。アンデレは自分の兄弟であるシモン・ペトロを主イエスのもとに連れて行って、ペトロも主イエスの弟子になりました。
主イエスはまた、ご自分からフィリポに出会って「私に従いなさい」と招いて弟子にされました。そのフィリポは、ナタナエルという人を主イエスのもとに連れて行ったのです。この人こそ約束された救い主メシアに違いない。そう思って、ナタナエルに告げました。なお疑いを抱いているナタナエルに、「来て、見なさい」と言って、主イエスのもとへ連れて行きました。つまり、ここに登場するアンデレもフィリポも、ただ自分が主イエスの弟子になっただけではなくて、自分の周りにいる人を主イエスのもとに連れて行く働きをしたのです。
二人ともガリラヤのベトサイダ出身であったことは、第1章にも記されていました。ガリラヤは異邦人の多い地域でしたから、主イエスへの取り次ぎを頼んだギリシア人たちも、巡礼者たちと一緒に、ガリラヤからやって来たのかも知れません。フィリポという名前は、ギリシア風の響きをもった名前です。ギリシア人たちは、フィリポに親しみを覚えていたのかも知れません。いずれにしても、フィリポもアンデレも、主イエスと人々の間に立って、人々を執り成し、主イエスのもとへと導く伝道者の役割を果たしていたのです。
ここに、主イエスの弟子である者の大事な働きが描かれていると言ってよいと思います。主イエスの弟子は、ただ自分が主イエスに従って行くというだけではありません。人々を主イエスに紹介する、主イエスのもとに連れて行く、という働きを担います。考えてみれば、私たちも異邦人です。ユダヤ人としてお生まれになった主イエスと、直接つながりがあったわけではありません。それなのに、誰かが間に立って、誰かが紹介してくれたことで、教会の礼拝に来るようになったのではないでしょうか。決して、自分一人だけで、教会にやって来られたわけではないはずです。
若い頃、学校で出会った教師たちの信仰に触れて、そこで既に導きを得ていた人もいると思います。その出会いが、何年もの歳月を経て、主イエスへと導いてくれたのです。あるいは、悩みを抱えて一人で苦しんでいたとき、教会に誘ってくれた友人の仲立ちで、主イエスのもとに導かれた人もいると思います。いや、自分は生まれたときから教会に来ていた、という人であっても、実はその家族を通して、教会につながれていたということではないでしょうか。私たちが、教会に足を運び、主イエスと出会うようになった背景には、誰かが間に立って、取り次いでくれた、紹介してくれた、導いてくれた、あるいは、祈ってくれていた、そういう仲立ちと執り成しがあってこそ、今、私たちはここにいるのです。
そうであるならば、そのようにして導かれた私たちもまた、悩みを抱えている友人を教会に誘ったり、誰かに主イエスを紹介したり、誰かを執り成して祈る。そのような主イエスの弟子としての働きへと召されているのではないでしょうか。決して、教会に来た人を心ない言葉でつまずかせたり、主イエスの前に立ちはだかるようにして、教会に来ようとする思いを挫けさせたりするようなことがあってはなりません。今、私たちの存在、私たちの言葉、私たちの行いが、主イエスと人をつなぐものとなっているかどうか、それを引き裂いてつまずかせるようなことがありはしないか、主イエスの御前で問われているのです。
フィリポとアンデレが取り次いでくれたおかげで、私たちは、心に刺さる主イエスの言葉を聞くことができました。主は答えて言われました。「人の子が栄光を受ける時が来た。よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。主イエスは、これまで、周りの人たちから促されても、「私の時はまだ来ていない」と答えてこられました。しかし、ここへ来てついに「時が来た」と言われます。主イエスにとって、「私の時」というのは、苦難を経て天へと帰る時を指していました。それをここでは、「人の子が栄光を受ける時」と呼んでおられます。
「人の子が栄光を受ける」という言葉は、先ほど、福音書に合わせて朗読したダニエル書の言葉からとられています。そこでは、「人の子のような者が/天の雲に乗って来」ると告げられていました。さらに「この方に支配権、栄誉、王権が与えられ/諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべては/この方に仕える」と記されていました(ダニエル7章13~14節)。主イエスは、ユダヤ人だけにとどまらず、民族も言語も異なる異邦人であるギリシア人が、救いを求めて来たことで、いよいよその時が来たことを確信されたのだと思います。人の子が栄光を受けることで実現される救いは、ユダヤ人だけではなく、異邦人であるギリシア人にも、つまり全世界のすべての人にまで及ぶものであることが示されました。人の子イエスにおいて、ユダヤ人もギリシア人も、すべての国の者たちが、神との和解にあずかり、主に栄光を帰することになる。その時がついに来たのです。
では、その救いはどのようにして成し遂げられるのでしょうか。主は言われます。「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。「よくよく言っておく」。原語では「アーメン」「アーメン」と繰り返して語られます。主イエスが、とても大事なことを告げようとしておられることを示しています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。一粒の麦が、一粒の麦としてのあり方を保ち続けていれば、それはどこまでも一粒の麦のままであって、多くの収穫は得られません。けれども、その麦の種が地に落ちて、麦の粒としての姿を失うことで、つまり麦の粒としての命が死ぬことによって、そこから芽が生え出て育ち、葉が広がり、もはや一粒の麦ではなくなって、多くの実を結ぶようになる。その意味では、厳密には種が完全に死んだとは言えないのかも知れません。けれども、ここで語られているのは主イエスのことです。主イエスが十字架にかかって死んでくださったことによって、多くの命が救われ、多くの救いの実が結ばれることになったのです。
しかしそこで、私たちは厳しい現実を突きつけられます。主イエスの死によって、主イエスがご自身の命を犠牲にしてくださったことによって、罪赦され、神の子として新しく生まれさせていただいたのです。そうであるにもかかわらず、主イエスにつながる信仰が萎えそうになることがあります。教会につながるものとされた命が、教会から離れてしまいそうになる。いや、実際に離れてしまうこともある。ひとたび結んだはずの実が失われてしまうことが起こるのです。生涯信仰を貫くためには、どうしたらよいのでしょうか。
先日、キリスト教書店に行きましたら、『人はなぜ教会を去るのか』という題の薄い本が積まれていました。私がその書店にいたしばらくの時間の間に、何人かの人が、その本を手に取って見ていました。やはり気になるのだと思います。痛みを覚える現実があるのだと思います。なぜ、人は教会から離れてしまうのでしょうか。もちろん、そこにはさまざまな要因があると思います。教会も人間の集まりです。決して、聖人君子の集まりではありません。罪人の集まりです。聖書の教えにはつまずかないけれど、人につまずいた、という言葉を耳にすることもあります。確かに、教会でも、いや教会だからこそかも知れません。人につまずくということが起こります。深刻なのは、牧師につまずくということです。でも、牧師が信徒につまずくということもないわけではありません。牧師も信徒も互いに罪人なのです。教会だから、お互いに期待しすぎるのかも知れません。その期待が裏切られたとき、つまずいてしまう。教会から離れてしまう。信仰の裏側が見えてしまったとき、それまでの熱心が一気に冷めてしまうということなのかもしれません。
けれども、人につまずくという言葉で誤魔化してはならないと、私は思います。人につまずいたと言いながら、教会から離れてしまうとすれば、本当は、福音に背を向けているのではないのか。主イエスが、一粒の麦として、この私のために命を捨ててくださった、その恵みを本気で受けとめることができなくなったとき、人につまずくのです。人につまずいたと思っているとき、実は、罪人に過ぎない者を、救われる資格のない者を、ご自身の命を犠牲にして救いに入れてくださった主の恵みを侮っているのです。役に立たないものだと思っている。主イエスの死をむなしくしてしまっているのです。一粒の麦の恵みを踏みにじってしまう。それは、その一粒の麦の死によって生まれた自分の信仰をも踏みにじることです。自分と同じように、主の命によって贖われた他者の存在をも踏みにじることになる。私たちは確かにみな罪人です。けれどもお互いに、赦された罪人なのです。
だからこそ、主イエスは続けて言われます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」(12章25節)。「自分の命を憎む」というとても激しい言葉が用いられています。ドキッとします。ここでは明らかに、「自分の命を憎む」というのは、「自分の命を愛する」の反対として語られています。主イエスが、私たちを愛していてくださるのですから、自分自身のことは主イエスの愛にお任せすればよいのに、自分で何とかしなければと思って、自分の命に執着する。それが、ここで言う「自分を愛する」ということです。自分の命のために、主イエスが一粒の麦として死なれたことを忘れて、自分だけで自分の命にこだわる。主イエスの愛から離れて、自分を愛するとき、その自己愛は破滅に向かいます。
けれども、その執着としての自己愛から離れること、すなわち、自分の命を憎むことで、一粒の麦である主の命によって贖われた者として、永遠の命にあずかることができる。主イエスは、この厳しく響く言葉で、私たちを拒絶しておられるのではありません。むしろ、私たちを招いておられるのです。だから、さらに続けて言われます。「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(26節)。主イエスのおられる所に共にいることができる。主イエスに従って行くなら、いつでも主イエスにくっついていられるのです。そして、主イエスに仕える者、主イエスの弟子となった者を、父なる神は「大切にしてくださる」と言われます。「大切にする」という言葉は、重んじる、尊重する、尊敬するとも訳されます。主イエスが共におられ、父なる神さまが、私たちを重んじてくださる。大事にしてくださる。そのような交わりの中に、私たちは招かれているのです。
このような父なる神と主イエス・キリストとの交わりの中に包み込まれ、生かされているとき、そこでこそ、私たちは改めて気づかせられます。私のために、一粒の麦となって命を捨ててくださった主イエスは、同じように、この兄弟のため、あの姉妹のためにも死んでくださった。その主イエスの命の重さが、教会におけるお互いの存在とお互いが造り出す交わりを、大切なものにしていくのです。大切な隣り人をつまずかせ、自らもつまずいてしまうような、罪に支配された自分を愛してはなりません。罪の自分を憎み、罪を憎んで、主の愛に生きる。主イエスが共にいてくださり、父なる神が重んじてくださるから、私たちは、主を愛し、主に仕えることができます。同じように、隣り人を愛し、隣り人に仕える喜びをも知るのです。
主イエスが、一粒の麦となって、私たちすべてを生かしてくださるように、私たちの前にも、一粒の麦として生きる道が開かれています。主イエスの十字架の愛が私たちの中に生きているからこそ、私たちも喜んで、隣人のために自分を犠牲にする道へと進みます。主イエスは、私たちを通して、私たちを用いて、さらに多くの実を結ばせようとしてくださるのです。主イエスは、その実りをご覧になって、喜んでくださいます。主の喜びに包まれ、主の命と愛に生かされる教会、そのような教会へと共に造り上げられて行きたいと思います。