2024年12月22日 クリスマス礼拝説教「天に栄光、地に平和」 東野尚志牧師
イザヤ書 第57章14~19節
ルカによる福音書 第2章1~21節
主の年2024年のクリスマス。神さまの独り子である主イエスのご降誕をお祝いするために、私たちは主の招きを受けて、共に礼拝に集いました。普段はなかなか教会まで足を運ぶことができなくても、クリスマスには何としても礼拝に連なり、聖餐を受けたいと願って、祈りを重ね、体調を整えて、この場に来られた方もあると思います。しかしまた、そのように願い祈りながらも、心や体の調子が整わず、あるいはまた大事を取って、オンラインで礼拝に連なっている方たちもあります。さまざまな形で、今日の礼拝に連なるすべての方たちの上に、クリスマスの祝福をお祈りします。
今月、アドヴェントに入ってから、少しずつクリスマスの訪問礼拝を実施しています。施設によっては、インフルエンザやコロナの患者が出たとのことで、外部からの訪問を制限される場合も少なくありません。ご自宅やホームの居室で、祈りながらこの朝を迎えている方も多くあります。クリスマスの出来事を覚えて、礼拝に心を合わせておられるすべての方たちの上にも、クリスマスの祝福をお祈りします。
しばらく教会から足が遠のいている人、信仰や交わりにつまずきを覚えている人、さらには、まだクリスマスの本当の意味を知らず、礼拝に心を向けてはおられない人たちも含めて、すべての命ある者たちの上に、クリスマスの祝福をお祈りします。御父は、すべての命の造り主です。そして、御子は、すべての民の救い主として来られました。この世界の隅々まで、クリスマスの光で照らされますように。救いの光が、すべての闇を追い払ってくださいますように。全世界が、クリスマスの祝福で満たされますように。そして、地に平和がなりますように、心から祈ります。
教会の暦においては、主イエスのご降誕、すなわち神の御子の到来を待ち望むアドヴェントから、すでに新しい一年の歩みが始まっています。けれども、この世の暦に従えば、私たちは今、一年の終わりの時を過ごしています。この年も、残すところ10日となりました。恐らく、これからの時期は、テレビや新聞やネットでも、この一年を振り返って、10大ニュースを数える企画が続いていくことと思います。この一年に、どのような出来事や事件を数えるかによって、その人の関心がどこに向いているのかが現われることにもなります。自然災害に目を向ければ、一年の最初の日に、石川県の能登地方で震度7の大地震が起こり、火災や津波による被害も出ました。4月には、台湾でも最大震度6強の地震がありました。災害級の猛暑・酷暑に喘ぎ、集中的な豪雨による洪水、家屋の倒壊や浸水の被害もありました。その一方で、スポーツ選手の活躍がニュースを賑わせた年でもありました。アメリカの大リーグでの日本人選手の記録ずくめの一年、夏にはパリ・オリンピックにおいて、海外でのメダル獲得数は最も多かったといいます。
今年一年の世相を表す「今年の漢字」には「金」が選ばれたそうです。全国からの応募によって漢字一字が選ばれるのですが、1995年に始まってちょうど30年になります。過去にもオリンピックの年に「金」が選ばれることが多かったとのことで、「金」が選ばれたのは5回目になるそうです。第2位は、災いの「災」の字であったと聞きました。私自身は、こちらの方がしっくりくる気がして、「金」などと浮かれていて良いのかと違和感を覚えました。先週の木曜日、聖書研究・祈祷会において、オンライン参加者の中からお祈りをお願いしましたら、今年の漢字が「きん」だ「かね」だ、というのは実に恥ずかしいことだと祈られた方がありました。なるほどそうだったのかと教えられました。「金」は光り輝く「きん」だけではなく、闇の深い「かね」も表しているのだそうです。政治家の裏金問題や、多発する闇バイトによる金目当ての強盗事件などを表す「かね」でもある。確かに、これが「今年の漢字」とは、何とも情けない、恥ずかしいことだと思いました。
その裏金問題がきっかけとなって、衆院選では与党が過半数割れという厳しい審判を受けました。キリスト者である石破茂首相がどのように対処して行かれるのか、しっかり見守りたいと思います。アメリカの大統領選挙の結果が日本には難しい状況をもたらすと思われます。さらに、ウクライナとロシアの戦争においても、またイスラエルのガザ地区における紛争においても、大国の支援がどうなるかで、戦局が大きく動く可能性もあります。主イエスがお生まれになったイスラエルの地で、今も戦闘が続いており、多くの命が犠牲になり、人々の生活が脅かされています。また戦局次第では、核兵器の使用をちらつかせる国もあります。そういう中で、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)のノーベル平和賞受賞は意義深いことであったと思います。この一年、他にも数え上げれば切りがありません。そういうさまざまな出来事を抱えた一年の終わりに、私たちはクリスマスを祝うのです。それは、この世のさまざまな問題と無関係に、毎年、年末にはクリスマスが来るということではありません。むしろ、そのような多くの問題を抱えたこの世界のただ中に、私たちのところに、神の御子が来てくださったということなのです。
二千年前の最初のクリスマスもまた、政治や経済の問題と無関係ではありませんでした。ルカが伝える主イエスの誕生の物語はこのように始まります。「その頃、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録であった。人々は皆、登録するために、それぞれ自分の町へ旅立った」(2章1~3節)。これは、ただ単に、主イエスがお生まれになった年代確定の手がかりとして記されているということではありません。時のローマ帝国の皇帝アウグストゥスの勅令によって、住民登録が命じられました。それは、何のためであったかといえば、全領土の住民から漏れなく税金を徴収するためです。神に選ばれた民としての自覚と誇りをもって生きていたユダヤの人たちにとって、これは何よりも屈辱的なことであったと思います。税金を取り立てるために、頭数を調べられるのです。ローマ帝国の支配下に置かれていることを、否応なく、思い知らされる経験でした。税金の取り立ても厳しかったと言われます。しばしば、この住民登録、人口調査のときに各地で反乱が起こったとも伝えられるのです。しかし、多くの善良な民は、権力者の意向に従わざるを得ませんでした。「人々は皆、登録するために、それぞれ自分の町へ旅立った」のです。その中には、ヨセフも含まれていました。ルカは続けて記しています。「ヨセフもダビデの家系であり、またその血筋であったので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」(4~5節)。
ヨセフは、ガリラヤの町ナザレに住んでいました。恐らく、その町で、マリアとの結婚生活を始めるつもりで、準備を進めていたのだと思います。マリアはすでに身重であり、準備を整えながら、神さまから託された大切な子が生まれるのを待っていました。何も好き好んで、この大事な時期に、長旅をする者などいません。けれども、ヨセフは、身重のマリアと一緒に、ナザレの町を出て、ユダヤのベツレヘムへ向かって旅をしなければならなくなりました。ヨセフとマリア、神の御子の両親となるべく選ばれた二人の、何と頼りなげなことでしょうか。時のローマ皇帝の勅令に逆らうすべもなく、世界史の大きな流れに翻弄され、流されていく無力で小さな存在として、旅に出るのです。天使が前もって告げたように、マリアのお腹の子は、普通の仕方で宿った子ではありませんでした。聖霊の力によって宿った神の御子です。けれども、ガリラヤの町ナザレを出て、ベツレヘムへと向かうヨセフとマリアの姿からは、そのような特別なしるしは何も見受けられません。身重のマリアにとって、ベツレヘムまでの長い道のりは、決して安全とは言えなかったと思われます。
ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムまで、直線距離にしても120キロくらいはあるでしょうか。しかも、その道のりは、平坦なところばかりではありません。山を登り、谷へくだり、あるいは、危険なところは大きく迂回して遠回りをする必要もあったでしょう。ゆうに1週間はかかる旅であったと言われます。大きなお腹を抱えての長旅がどんなに大変で、また危険を伴うものであったか、十分に想像することができます。神の御子を託された特別な両親だから、それこそ特別扱いで、天使の翼に守られて、ベツレヘムまでひとっ飛びというわけにはいきません。他の人たちと同じように、ローマ帝国の強大な力に迫られて、危険な旅に出なければなりませんでした。さらに、長旅を経て、ようやくたどり着いたベツレヘムにおいても、厳しい現実が待ち受けていました。長旅で疲れた体を休めようと思っても、宿屋には二人の泊まる所がなかったのです。恐らく、同じように、住民登録をするために里帰りをしていた旅人が大勢いたのでしょう。ベツレヘムの町には、身重のマリアが身を横たえて休むための場所さえありませんでした。神の独り子は、宿屋の中ではなくて、外の家畜小屋で生まれることになったのです。
福音書記者は淡々と記します。「ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」(6~7節)。これが現実でした。聖書協会共同訳になって、「産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた」となりました。ここは、以前の口語訳聖書においても、新共同訳聖書においても、「布にくるんで」と訳されていました。聖書を朗読するとき、うっかりすると「布にくるんで」と言いそうになってしまいます。私たちが「産着」という言葉で想像するような赤ちゃん用の着物があったわけではありません。布一枚にくるんで飼い葉桶の中に寝かせたのです。おむつ一枚にくるんでということです。「産着すらなかったのだ」と言う人もいます。柔らかくて心地よい真綿の布団の上ではなくて、飼い葉桶のわらの上に、生まれた幼子は寝かされました。「宿屋には彼らの泊まる所がなかった」と言われています。かつての口語訳聖書では、「客間には彼らのいる余地がなかった」と訳されていました。この方が、切実感があります。まさに余地がない。居場所がない。生まれた幼子、神の独り子、この世の救い主である幼子には、この地上に居場所がなかったのです。
考えてみれば、神の御子は、何という仕方で、何という場所でお生まれになったことでしょうか。しかし、まさしくこれが、神の御子のお生まれになったときの、この世界と人々の現実であった、聖書はそのように告げているのです。このようにして、神の独り子、私たちの救い主はお生まれになった、というのです。他の多くの人たちと同じように、支配者の理不尽な命令にも従わなければならない民の中の一人として。天使の翼に担われてではなくて、長く危険な旅を経なければなりませんでした。登録の町にたどり着いたときには、そこに居場所はなく、客間からは閉め出され、家畜小屋の中で、布一枚でくるまれて飼い葉桶に寝かされた幼子として、神の御子はお生まれになった。聖書はそのように告げているのです。誰の目から見ても、神の御子とは分からないような仕方で、誰からも注目されることなしに、ひっそりと、そして貧しく、お生まれになった。クリスマスを歌う讃美歌の中にこういう一節があります。「きらめくあかぼし、うまやに照り、わびしき乾草、まぶねに散る。こがねのゆりかご、にしきのうぶぎぞ、きみにふさわしきを」(107番3節)。神の御子の誕生。その華やかでおめでたいイメージとはかけ離れた仕方で、主イエスは、この世にお生まれになりました。
8節以下の段落には、天使が羊飼いたちに現われた場面が描かれます。ここには、確かに、目もくらむほどに光り輝く「主の栄光が周りを照らした」とあります。主の天使によって、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちに「救い主」の誕生が告げられます。この場面は、クリスマスの出来事の輝かしさを代表する見せ場の一つと言ってよいかもしれません。暗闇の中に、主の栄光が光り輝くのです。けれども、ここに登場する「羊飼いたち」というのは、当時の社会においては、身分の低い、見捨てられたような人たちであったと言われます。良く知られる詩編の23編には、「主は私の羊飼い」という言葉があり、牧者というと小さく弱い羊を守る存在として、主イエスのイメージに重なります。それで、私たちの意識の中では、何となく、羊飼いの存在を美化して受けとめているところがあるかもしれません。けれども、少なくとも二千年前の社会において、羊飼いは、住民登録をすることからも除外されて、要するに、ものの数に入らないような最下層の身分とみなされていました。
動物相手の仕事ですから、掟どおりに安息日を守ることもできません。そういう意味では、ユダヤ人の間において、律法を守らない、罪人の代表のようにも見なされました。ところが、そのような、社会全体から見捨てられたような人たちのところに、主の天使が遣わされて、救い主メシアの誕生を知らせたのです。天使は羊飼いたちに告げて言いました。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」(10~12節)。社会的には全く望みのないところに置かれていた羊飼いたちこそは、心から救い主の誕生を待ち望んでいたということかもしれません。そして、貧しい姿で生まれてくださった救い主であればこそ、身分の低い、見捨てられた存在であった羊飼いたちも、恐れることなく近づくことができるのです。
主の天使が羊飼いたちにメシアの誕生を告げると、突然、天が開けて、天の大軍が現れ、天使と一緒になって、神を讃美しました。「いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ」。天の星たちが、天使と一緒になって神を讃美したのです。まさに天の栄光があふれ出るように輝き、天軍の讃美が響き渡りました。けれども、主の天使と天の大軍は、讃美を歌うと自分たちの役目は終わったと言わんばかりに、あっさりと退場してしまいます。羊飼いたちと一緒になって、天の大軍がベツレヘムまで歌いながら行進したというわけではありません。開かれた天は再びぴったりと閉じられ、あふれ出た天の栄光は消え去り、あたり一面は再び闇に閉ざされました。羊の息づかいさえ聞こえるほどの静けさが戻りました。まるで、何事もなかったかのように、もとの暗闇と不安が世を覆うのです。しかし、羊飼いたちは、主の天使が告げた言葉をしっかりと受けとめて、ベツレヘムを目指して旅立ちます。そして、ベツレヘムの宿屋の外にある家畜小屋で、救い主としてお生まれになった乳飲み子を捜し当てました。飼い葉桶に寝かされた救い主メシアのもとに、最初に招かれたのは、社会の底辺にいた羊飼いたちだったのです。
救い主の誕生の出来事は、当時の世界の中心であったローマではなくて、世界の片隅のベツレヘムで起こりました。まことの王として来られた救い主は、この世の王が住む美しい宮殿ではなくて、貧しい家畜小屋で生まれました。そして、柔らかな布団を敷き詰めたこがねのゆりかごではなくて、冷たくて汚い飼い葉桶の中に寝かされたのです。どうして神さまは、ご自身の大切な愛する独り子を、このような仕方で、この世にお与えになったのでしょうか。ある人は言います。この主イエス・キリストの誕生の物語は、私たち一人ひとりの人生と重なる、と。私たち一人ひとりもまた、この世にあって、取り立てて目立つところのない、多くの者のうちのひとりとして数えられるに過ぎない存在です。私たち一人ひとりも、厳しい人生の旅を続けなければならず、険しい道を歩まなければならない、そういう者たちです。まさに、山があり、谷があり、険しい道のりを歩んでいかなければならない人生において、しばしば、自分の居場所がない、という辛い気持ちを味わいます。神の御子である主イエスは、そのような人生を生きる私たちと共に歩んでくださる救い主として生まれてくださったのです。
神の御子は、私たちすべての救い主となるために、そのためにこそ、社会の底辺に生まれてくださいました。はるか上の方から私たちを見下ろす王としてではなく、むしろ、私たちを下から支え、私たちの人生を担ってくださる救い主として来てくださいました。私たちの人生のあらゆる局面で、いつも共にいてくださる救い主としてお生まれくださったのです。だから、恐れる必要はありません。やがて、私たちが、人生の終わりを迎えるときにも、主は共にいてくださいます。飼い葉桶の中に寝かされた救い主は、すべての人の罪のために十字架におかかりくださり、死んで、墓の中に葬られ、三日目に墓の中からよみがえられました。死の中をも突き抜けて、よみがえりに至る命の道を開いてくださったのです。
クリスマスの出来事をしっかりと見つめながら、あの夜、全地に響き渡った賛美の歌に、私たちも共に声を合わせたいと思います。「いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ」。私たちは、この年、どれほど真剣に平和を望んで祈ったことでしょうか。ロシアとウクライナの戦争が一日も早く終わるように。イスラエルの地での戦闘が終結するように祈ってきたのです。どうして、この地上には平和が実現しないのでしょうか。それは、この世界が、神の栄光を求めずに、自分たちの栄光ばかりを求めているからだと思います。自らの栄光を求める者は、自らを誇ります。自分の正義を振りかざし、自分の力を頼りにして、相手を打ち負かして支配しようとします。そこには、本当の平和は生まれません。紛争が解決したと思っても、それは一時的な休戦状態に過ぎません。いつまた争いが始まるか分かりません。人が上に行こうとして、金を求め、名誉を求めるとき、平和はどんどん遠のいていきます。しかし、神の独り子は、天の栄光をかなぐり捨てるようにして、この地上に低く下って来られ、私たちよりも低く、この世の底辺に宿られたのです。
自分の栄光を求めるのではなくて、真実に神の栄光を求める者は、神の前に自分を低くして、神に仕え人を愛し、神を愛し人に仕えます。そこにこそ、神が与えてくださる平和が実を結ぶのです。アッシジのフランシスコは、自らが平和の道具となることを求めて祈りました。「フランシスコの平和の祈り」として知られています。主イエスを愛し、主とひとつになることを願い、晩年には、主の十字架の傷と同じ聖痕を受けたとされる人です。その祈りに心を合わせながら、平和の君を、私たちの心に、そして、私たちの間にお迎えしたいと思います。
主よ、私を平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、私たちが、自ら与えることによって受け、
赦すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。
アーメン