2024年12月1日 アドヴェント第一主日礼拝説教「喜びのおとずれ」 東野尚志牧師

創世記 第18章9~15節
ルカによる福音書 第1章26~38節

 主の年2024年の最後の月、12月に入りました。教会の暦は、今日から「アドヴェント」と呼ばれる季節に入ります。今日は、アドヴェント第一主日です。アドヴェントは、12月25日のクリスマスに先立つ4回の日曜日を含む期間です。第四主日まで数えることになります。けれども、多くの場合は、アドヴェント第四主日に、クリスマス礼拝を行うことになります。12月25日が平日である場合は、その前の日曜日に、クリスマスの礼拝を行うことになるからです。
 アドヴェントの間、私たちの教会では、週報の表紙が変わります。色が変わるだけではなくて、少しかたい紙になって、表紙のデザインやレイアウトも変わります。目に見えるところから、クリスマスに備えていくことになるのです。週報を開いて、礼拝順序の見出しのところを見ると「滝野川教会アドヴェント第一主日礼拝」と記してあります。どうして、わざわざ「滝野川教会」と入っているのか疑問に思ったことがありますが、恐らく、下の欄に緑聖伝道所、緑聖教会の礼拝順序が載せられていた頃からの名残なのだろうと思います。

 アドヴェントという言葉と、よく結びつけて用いられるものに、「アドヴェント・カレンダー」があります。一枚の絵の中に、1から24、あるいは25まで、数字のついた窓があります。12月に入ると、その日の日付の数字の窓を、毎日開いていきます。1つ開くたびに、クリスマスにちなんだ絵が出てくる。最後の窓を開くと、飼い葉桶に寝かされているイエスさまが見える。それが、オーソドックスなアドヴェント・カレンダーの形です。けれども、毎日、窓を開けるのが楽しくなるように、いろんな工夫をします。平面的な窓ではなくて、立体的になった箱の扉になっていて、その日の数字の扉を開くと、中からキャンディやチョコレートが出てくるというのもあります。いずれにしても、毎日一つずつ窓を開く、扉を開くという行為によって、一日一日、クリスマスのお祝いの日が近づいてくることを実感していくのです。これは、教育的にも意味深いと思います。クリスマスを待ちつつ、クリスマスに備える心を整えていくことになるわけです。
 その意味では、「アドヴェント」という言葉を日本語にして表すとき、「待降節」という名前を考えた人は、なかなかセンスの良い人だと思います。「待降節」、主のご降誕を待つ季節、と書きます。救い主イエスさまのご降誕を待ち望む、そういう私たちの心をよく表しているのです。しかし、そのように言い換えたことで、誤解をしてはならないと思います。確かに、私たちが、どのようにしてこの季節を過ごすかというのは大事なことです。けれども、町中に緑や赤のクリスマスカラーが溢れて、何となく世界全体がクリスマスを待っているかのように勘違いをしてはなりません。この世界は、クリスマスの明るく優しい雰囲気だけ利用して、クリスマスを楽しもうとして待ち構えています。クリスマスを利用してもうけを増やし、自分たちがそれをエンジョイしようとします。自分たちが主役になって、人間中心に祝われるクリスマスに、私たちまで巻き込まれてしまってはならないのです。

 アドヴェントは、確かに、クリスマスに備えて、クリスマスを待つときです。「待降節」というのは、素敵な響きの言葉だと思います。けれども、「アドヴェント」という言葉自体には、「待つ」という意味は含まれていません。アドヴェントという言葉を、そのもとのラテン語にまで遡れば、「到来する」「やって来る」「何かわくわくするようなことが起ころうとしている」「新しいことが出現する」。そういう意味があります。アドヴェンチャーという言葉と語源は同じです。何かすごいものがやって来る。すばらしいことが起ころうとしている、そういう意味の言葉なのです。神の御子が到来する。神の御子が天から降って、この地上の世界にやって来られる。それは、まさにアドヴェンチャー、大いなる冒険であり、日本語の言葉どおりに、危険を冒すことでした。
 神の独り子がやって来られる。クリスマスは、神の御子のアドヴェント、すなわち御子の来臨、到来を中心とする出来事です。英語で、The Second Adventというと、それは、世の終わりのキリストの再臨を指す言葉になります。二千年前、この地上に降って来られた主イエス・キリストは、世の終わりに、再び降って来られるのです。私たちは、神の独り子である主イエス・キリストの二つの来臨の間を生きています。主は来てくださいました。そして、再び来てくださいます。最初に来られたとき、その来臨はひっそりと行われました。神の独り子としての栄光は、貧しく幼いみどり子の姿の中に隠されていました。誰もその来臨に注目しませんでした。ただ、神から特別な知らせや示しを受けた者たちだけが、救い主のもとを訪ねることができました。けれども、世の終わり、二度目の来臨の時には、復活して天に上られた栄光の主が、誰の目にも明らかな神の栄光を身にまとって天から降って来られるのです。この地上でお始めになった救いの御業を完成するために、主は再び来られる。それが、The Second Adventと呼ばれるのです。
 その意味では、教会の暦において、終末主日とアドヴェントがつながっているのは、感慨深いと思います。教会の暦では、アドヴェントから新しい一年が始まります。この世の暦よりも一か月早く、新年がおとずれます。御子の降誕を祝うクリスマスに備えることから、新しい一年の歩みを始めることになるのです。そして、それゆえに、11月の終わり、アドヴェントが始まる直前の主日は、「終末主日」と呼ばれます。世の終わりに、主が刈り入れのためにお出でになります。造られたすべての者を裁くため、そして、救いを完成するために、再び天から降って来られる。ぐるっと回って、最初のアドヴェントと二度目のアドヴェントがつながることになるのです。初めと終わりがつながっている。初めの来臨が何のためであり、何を目指していたかが明らかにされることになります。始まりの中に、すでに終わりがあると言ってもよいのです。父なる神と共に天におられた御子が、幼子の姿でこの地上に来られたとき、すでに、十字架への歩みが始まっており、復活と召天、そして、再臨へとつながる御子の歴史が始まったのです。

 その大いなる始まりを告げるために、天使ガブリエルが、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされました。マリアという女性を訪ねてきたのです。女性と言いましたが、まだ10代半ばにも達しない少女でした。13歳か14歳くらいです。天使は、いきなりマリアに告げました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。突然のことで、マリアが驚き、戸惑っていると、ガブリエルはさらに続けて言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる」(30~32節)。天使が告げた神さまのご計画は、マリアにとっては全く想定外のことでした。「おめでとう」と言われても、すんなり喜べるようなことではなく、むしろ、マリアにとっては、大変都合の悪いことでした。なぜなら、マリアはヨセフと婚約している身であったからです。天使が告げたことは、マリアが婚約者であるヨセフの子どもではない子を産むということを意味していました。
 婚約中の娘が、婚約相手ではない誰かの子を身ごもるということは、今日でも大きな問題になります。当時のユダヤの社会では、とても重い罪とみなされました。公になれば、石打ちの刑に処せられます。ヨセフはそうならないように、ひそかに離縁しようとしたというのですけれども、母と子だけで生きていくのもまた大変なことになります。生まれる子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる、などと言われても、理解が追いつきません。マリアがとっさにどこまで考えられたかは分かりませんけれども、一つ確かなことがありました。マリアは天使に答えて言います。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(34節)。ヨセフとはもちろんのこと、男性との関係をもったことがないのに、子どもを身ごもるなどということが、いったいどうしたら起こりうるというのかと問うたのです。もっともなことです。
 マリアが抱いた疑問に対して、天使はきっぱりと答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。人間の力によるのではない。神の力によって、神の御子を身ごもることになるというのです。さらに、マリアが安心して神の御心を受け入れることができるように、すでにマリアの親戚のエリサベトの上に働いている神の力を証しして言います。「あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている(36節)」。この聖書の箇所の冒頭で、「六か月目に」と記されていたのは、実はこことつながっているのです。天使ガブリエルは、マリアを訪れる半年前に、エリサベトの夫である祭司ザカリアのもとを訪れて、高齢の夫婦であるザカリアとエリサベトに、男の子が生まれると告げました。ザカリアは天使の言葉を信じなかったので、子どもが生まれるまで話すことができなくなるのですけれども、天使が告げたとおり、その後、エリサベトは身ごもりました。五か月の間は身を隠していたと言います。それから六か月の時が過ぎていたのです。恐らく、老齢のエリサベトが子どもを宿したという話は、マリアのもとにも届いていたはずです。天使は、そこにも、聖霊の働きがあり、その同じ神の力が、マリアの上にも臨むと告げたのです。

 そして、最後に、天使ガブリエルは断言するように言いました。「神にできないことは何一つない」(37節)。引照付きの聖書を見ると、旧約聖書の箇所が示されています。創世記第18章14節です。アブラハムの物語の一節です。主なる神は旅人の姿をとって、アブラハムのもとをお訪ねになりました。アブラハムが三人の旅人を自分の天幕の中に招き入れて、もてなしているとき、その一人が言いました。「私は必ず来年の今頃、あなたのところに戻って来ます。その時、あなたの妻のサラには男の子が生まれているでしょう」(創世記18章10節)。アブラハムとサラには、二人の間に生まれる子が後を継いで、神の民として大いに栄えると約束されていました。けれども、サラは子どものできない体であって、二人の間には子がないまま、二人共にすでに年老いていたのです。この点は、ちょうどザカリアとエリサベツの夫婦のようです。「来年の春には男の子が生まれている」。旅人の言葉を天幕の入口の陰で聞いていたサラは心の中で笑ったといいます。子どもを望めるような年ではなかったからです。ところが、主はそれを見とがめてアブラハムに言われました。「どうしてサラは、自分は年を取っているのに本当に子どもを産むことなどできるのか、と言って笑ったのか。主にとって不可能なことがあろうか。私があなたのところに戻って来る来年の今頃には、サラに男の子が生まれている」(同13~14節)。
 ここで旅人が告げた言葉、「主にとって不可能なことがあろうか」。日本語で「こと」と訳されているのは「言葉」とも訳せます。「こと」というのと「言葉」というのは、ヘブライ語では同じなのです。神の言葉は不可能なことがあろうか。神が語られた言葉は必ず実現する。それは、御使いガブリエルがザカリアに告げた言葉とも響き合います。「あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」(ルカ1章20節)。神の言葉は、決してむなしくなることはありません。神の約束の言葉は、時が来れば必ず実現するのです。

 天使ガブリエルは、アブラハムに語られた主の言葉をなぞるようにして言いました。「神にできないことは何一つない」。確かに、それは、神の全能を証ししている言葉です。けれども、それは、私たちにとって都合よく働いて、私たちの勝手な願いをかなえてくれるような、安っぽい神の力を保証しているのではありません。「神にできないことは何一つない」。ここにも、実は、「言葉」が用いられています。直訳すれば、「神には、すべての言葉は不可能ではない」となります。つまり、神の語られた言葉は、決して空しくなることはない。必ず、それを語られた方の御心を成し遂げるのです。「神にできないことは何一つない」。それは、のんびりと聞いていてよい言葉ではありません。神の言葉が告げられているのです。必ずご自身の御心を成し遂げる神の言葉が語られました。その言葉に従って、神の独り子である主イエス・キリストがおとめマリアのお腹に宿り、私たちと同じ人間の一人として、この地上にお生まれくださいました。そして、神の言葉に従って、御子は、十字架への道を選び取ってくださいました。神さまの言葉を信じることができず、神さまの御心をさえ自分の都合のよいようにねじ曲げて、自分のためにだけ生きようとする私たちを、神のもとに立ち帰らせるために、神に逆らう私たちの罪をご自身に引き受け、私たちに代わって罪の裁きを受けるために、御子イエス・キリストは、十字架への道を歩まれたのです。
 「神にできないことは何一つない」。それは、子を宿すことのできない高齢の夫婦に子どもが生まれるというだけのことではありません。男性の関与なしにマリアが子どもを身ごもるというだけのことではありません。神の独り子が、人として生まれてくださるという驚くべき奇跡を指し示しているのです。そして、さらには、神の独り子が、神と等しくある方が、十字架にかかって死なれるという、誰一人、人間の思い及びもしなかったような驚くべきことを、神が望まれ、神が語られ、神が成し遂げてくださる、ということなのです。人間中心の、ただ喜び楽しむだけのクリスマスは、何と薄っぺらいことでしょうか。それに対して、神中心の、神ご自身が御業を行われるクリスマスは、何と深く、また重い内容を含んでいることでしょうか。それは、人間の重い罪を包み込んで、罪の贖いを成し遂げてしまうほどに重く、また恵みに満ち溢れているのです。

 マリアは、答えて言いました。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)。マリアは「私は主の仕え女です」と言いました。以前の翻訳では「はしため」と訳されていました。それで覚えてしまっている人が多いと思います。「はしため」という言葉に職業を卑下するような響きを感じて、配慮したのでしょうか。しかし、「はしため」と訳そうが「仕え女」と訳そうが、女奴隷を表す言葉が用いられています。主人に仕える者です。仕える者は、私の思いどおりにとは願いません。今、この世界には、「私の思いどおりに」と願う者たちが、深刻な争いを引き起しているのではないでしょうか。自分や、自分の身内、自分の国のことしか考えず、自分の思いを実現しようとするとき、対立と争いを避けることはできません。自分の思いではなく主の御心、主の言葉が実現することを願い求めて行くとき、私たちは変えられ、世界も変わるのではないでしょうか。
 「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」。これは、神の言葉が必ず実現することを信じたマリアの信仰告白です。マリアがこう言ったからといって、不安や恐れがすべてなくなったわけではないと思います。現実には、これから大変なことが始まるのです。事情の分からない周りの人たちからは、誤解や疑い、あるいは蔑みの目で見られることもあったに違いありません。マリアは、この後の試練に満ちた歩みの中で、繰り返し思い起こしたのではないでしょうか。天使は最初に告げました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。祝福を告げる「おめでとう」という言葉は、直訳すれば、「喜びなさい」という意味があります。あなたは主の恵みをいただいている。主が共にいてくださる。だから、喜びなさい。マリアは、主の言葉が必ず実現すると信じて、主に信頼し、自分自身を主にお献げすることができたのです。

 クリスマスの祝福と喜びを告げる天使の言葉は、私たち一人ひとりにも告げられています。おめでとう。主があなたと共におられる。喜べ。主が共にいてくださる。この喜ばしい知らせに導かれて、クリスマスの御子のお姿に、十字架の主のお姿を重ね合わせ、さらに、復活の主、再臨の主のお姿を望み見ながら、クリスマスの喜びをしっかりと受けとめたいと思います。そして、この喜ばしいおとずれをひとりでも多くの人に伝えていくために、私たち自身を、主の御業のためにお献げしたいと思います。