2024年11月17日 創立120周年記念礼拝説教「試練によって磨かれる信仰」 近藤勝彦先生
ペトロの手紙一第1章3 ~7節
あなたの生活に喜びはありますか? そう問われて、「あります」と答える方もおられるでしょうし、喜びがあるかどうか、不確かな方もおられるのではないかと思います。けれども先ほどお読みいただいた今朝の聖書箇所、ペトロの手紙一第1章6節には「、それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます」そう記されています。ところが「大いに喜んでいる」というみ言葉のうち「大いに」という言葉は、ギリシア語本文に記されているわけではありません。実は新約聖書には「喜ぶ」という意味を持つ言葉が二種類あるのです。
その一つは、よく知られている聖書箇所で言いますと「、喜びの書簡」と呼ばれる、パウロが記したフィリピの信徒への手紙に残されています。「常に喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい(フィリピの信徒への手紙 第4章4節)」。この手紙では、喜ぶ、という言葉が繰り返し用いられていることから「喜びの書簡」と言われますが、ここで使われている「喜ぶ」という言葉、これはどんな時にも、いつでも、常に、しみじみと、確かな喜びが私たちの人生の根底にある、そういった意味を持つ「喜び」を表す言葉です。
もう一つ、それとは異なる言葉が、今朝の聖書の「大いに喜んでいます」という箇所で使われています。これは、飛び上がりたいような喜び、という意味を持つ言葉です。皆さんの中には、そういった経験をされた方もあるかもしれません。素晴らしいことに触れて、あるいはそのような知らせを聞いて、万歳と言いたい、飛び上がりたい、そういう喜びも、人生の中にはあります。爆発的な歓喜の叫びをあげる、そのような喜びの言葉がここに使われているのです。この「飛び上がりたいような喜び」を表すために、大いに、という言葉を付けて、ただ喜んでいるだけではなくて、「大いに喜んで」、そのように記しているわけです。
この二つの喜びは、別々なものではありません。一続きに繋がっている、そのように言うべきだと思います。ですからこれを重ねて、「喜びなさい。大いに喜びなさい」のように、この二つの言葉を同時に使う場面もあるわけです。例えば主イエスは山上の説教の中で、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい(マタイによる福音書第5章11節、12節)」、そのように語ります。はじめの「喜びなさい」というのは、フィリピの信徒への手紙に記されているような、常にあるしみじみとした喜び、そして続く「大いに喜びなさい」、それは飛び上がって喜ぶような喜び、信仰生活にはこの2つの喜びがあるのだ、というふうに言われているわけです。信仰生活の中には、どんな時にも根本において喜んでいる喜びがある、そしてその上で、飛び上がりたいような大きな喜びもあるのだ、そのような意味で「それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます」と今朝の箇所には記されているわけです。
信仰生活には、なぜそれほどの喜びがあるのでしょうか。この喜びの言葉は、「それゆえ」という言葉に続いて記されています。「それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます」。それゆえ、というのですから、飛び上がりたいような喜びがある理由は、その前に書いてあるわけです。その前に書かれたことがあるからこそ、それゆえに飛び上がりたいような、歓喜の叫びをあげるのだ、そのようなみ言葉の繋がりになっています。その「喜びの根拠」として直前に書かれていること、それは、あなたがたキリスト者が「神の豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、新たに生まれさせた」存在だ、ということです。神の憐れみと主イエス・キリストの復活によって生き返らされた者、それがキリスト者だ、ということが言われています。何か特別なことが言われている、と考える必要はないと思います。キリスト者とは何か、ということに対して、神の大いなる憐れみと主イエス・キリストの復活によって生き返らされているのがキリスト者なのだ、そして同時に生ける希望、生き生きとした希望を与えられ、天に蓄えられている、朽ちることのない財産を継ぐ者とされている、キリスト者というのはそのような者だ、という当たり前のキリスト者の姿が描かれるわけです。その当たり前のキリスト者の姿の中に二つの喜びがあり、しみじみと、どんな時にも喜んでいる確かな喜びと、そして時に飛び上がりたいような、歓喜の叫びをあげたいような、そういう喜びの時がある、そう記されているのです。
キリスト者とされた、ということは、神の国を受け継ぐ者とされた、ということです。朽ちず、汚れず、消えることのないものを受け継ぐ者とされた、ということです。なぜ私たちは神の国を受け継ぐことになったのでしょうか。それは継承者になったからです。それではなぜ継承者になったのでしょうか。それは私たちが「子とされている」からです。神の国を受け継ぐ、それは子が受け継ぐわけです。その証拠に、私たちには聖霊が与えられています。聖霊によって私たちは、アバ父よ、そう祈ることができます。こういったことが、このみ言葉の背景にあります。キリスト者は、朽ちず、汚れず、しぼまない、天に貯えられている財産、み国の豊かな資産を受け継ぐ者とされました。また神の子とされ、生き生きとした希望を与えられ、そして主の栄光の体に与る救いに入れられる者とされました。何にも勝る、飛び上がりたいような喜びの中に置かれている、それがキリスト者の信仰生活だ、と言われているわけです。
今日は滝野川教会120周年記念の礼拝です。この教会は120年の間、キリスト教信仰を伝え、キリスト者の信仰生活に生きてきたわけです。そこには二つの形の喜びがありました。根底的な喜びに支えられ、そして神の子とされていることにより飛び上がって叫びを上げたいような喜びに満たされる、そのような信仰生活が送られてきたわけです。それでも今しばらくの間は、様々な試練に悩まなければならないことが続くかもしれませんが、これもまた信仰の現実だと思います。120年の間には、様々な試練にも、また悩まなければならなかったということもあるわけですし、そして現在、様々な試練に悩む、ということもあるわけです。喜びと試練、そう言われると、一見矛盾するように思われるかもしれませんが、それは矛盾ではありません。喜びと試練、この両方が一緒にあるのが信仰生活の現実なのです。信仰生活は喜びの中にある、このことを、今朝はまず特に深く身に体得する必要があると思います。けれども同時に、喜びの中にあって試練の中にもあるのです。試練の中にありながら喜びの中にある、それが信仰生活なのだ、そのように言われているわけです。
「試練」とは一体何でしょうか。聖書には苦難とか困難、あるいは患難というような言葉も出てきます。苦痛とは、つらいこと、です。けれども、痛み、苦しみ、悩み、それらが「試練」だというふうに言われるならば、その苦痛や痛みや辛さが、ある「意味」を持ってきます。それで試練、というふうに言われるのです。「試練」というのは「試みる」ことです。吟味することです。そして鍛錬することです。精錬することです。ですからこの文脈の中では「、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊く」として、火で精錬される金と比較されているわけです。信仰生活が試練を受けるということは、金が火で精錬されることと似ているけれども、それよりはるかに尊いのだ、というわけです。火によって金が精錬される、ということは、火によって焼かれるわけですから、金の気持ち、というわけではありませんが、金にとってみれば苦痛です。けれどもその火によって、混じり気が燃やされるのです。そして純粋な金に、純度の高い金に錬り直されていく、そこに火の意味があるのです。ただ単に苦痛を与えるため、滅ぼすための火ではなくて、不純物や混ざりものが燃やされ、除かれ、そして精錬されるための火なのです。同じように、どんな苦難や患難、痛み、そういったものも、それが試練であれば、ただ単に辛い困難、苦しみ、痛みだけではなく、そのことによってその人の信仰が精錬され、本物と証明される、本物の信仰にされていくのです。それゆえ、我々の試練は火だ、そのように言われているのです。
けれども一方で、試練の具体的な内容について、ここには記されていません。「さまざまな試練」と言われていますが、どういった試練なのかということについては書かれていません。ある聖書解釈者は、ここで言われている試練は信仰上の迫害のことだ、キリスト者であるからこそ受ける迫害があって、それがここで言われているのだ、というふうに解釈している方もいます。そういう意見もあると思いますが、私自身はその受け取り方をしていません。確かに信仰上の試練もあるのだろうと思います。けれども同時に、あなたがたは「さまざまな試練に悩まなければならない」、とも記しています。このペトロの手紙一は、その当時のキリスト者、神の国に既に属する者とされている全員に向けて書かれた手紙です。しかしその者たちは各地に離散し、散らばって滞在している、つまり本国にまだいないのです。私たちキリスト者は、本国である神の国に属する者とされていますけれども、それでいてなお、地上の生活を歩んでいるのです。そしてこの地上に、その本国である神の国が、まったき仕方で来ることを待ち望んでいるわけです。キリスト者はすでに本国に与っていますから、そこには喜びがあります。けれども同時に、この地上の生活は離散し、寄留しているのです。だからこそ、そこには悩みがある、患難がある、そして辛い状況もあるのです。キリスト者だからこそ受ける迫害もあります。けれどもそれだけではなく、この地上を生きていく上で様々な仕方で現れる試練、例えば健康上の悩みや辛さ、あるいは経済的な困難、人間関係の悩みなどもあると思います。私たちの信仰生活を考えてみますと、信仰ゆえの試練、迫害を受けるような試練にぶつかるということも重要なことで、そちらが多いほうが良いとも言えます。けれども私は、この箇所は迫害の試練だけではなく、およそキリスト者が地上で生きるための様々な試練が全部含まれている、そう受け取ってこの箇所を理解しています。皆さんの中には今、何かの悩みがある方もいらっしゃるかもしれません。それは健康上のことであり、人間関係のことであり、上司や部下のことであり、仕事の問題、あるいは家庭の問題、様々あるその全てにおいて、それは苦痛、悩み、苦しみですが、それはみな試練になるのです。そしてその試練によって、信仰は磨かれるのだ、そういった仕方でこの箇所は記されている、そう理解することができるのではないかと思われるのです。
いろいろな試練、様々な試練があるわけですけれども、その前に「今しばらくの間」と書いてある、このことにも注意が必要です。私たちは神さまを信じています。父、子、御霊にいます唯一の神、その神がおられると信じています。神がおられる、ということは、どんな試練があっても、それは「今しばらく」なのです。試練が永続するということはないのです。永遠に試練が続くということはありません。今しばらくのことにすぎません。そしてこのことは、私たち信仰者に限定したことではありません。今、地球上は様々な地域で、いろいろな試練にぶつかっています。もちろん自然災害の試練もありますし、あるいはウクライナやガザ地方、その他アフリカをはじめ様々な困難、苦難にぶつかっている様々な民族があります。しかしどの試練も、「今しばらくの間」なのです。ロシアのウクライナ侵攻は長くは続きません。神がおられるから、ウクライナの試練は、今しばらくの間、なのです。聖書が「今しばらくの間」と言っていることは、私たちの試練にとって重大なことです。今しばらくの間ではありますが、しかし私たちは様々な試練に悩まなければならないかもしれないのです。しかしそれはただ苦痛なのではなくて、試練なのであって、それは信仰を精錬するのです。そして、精錬された信仰、磨き抜かれた信仰は、金よりも尊いのです。金はどんなに精錬されても朽ちる、そのようにこの手紙は書いています。私は純度100パーセントの金がどのように朽ちるのか分かりませんが、聖書が言っているのでこれは間違いないと思うのです。どんな金でも朽ちるのです。しかし精錬された信仰は永遠のものだから朽ちないのです。その混じり気なしの信仰こそ、極めて高価であるゆえ、神のみ前に永遠のものとして評価されるわけです。
信仰がどんな金より高価だ、ということをお考えになったことはありますでしょうか。私もだいぶ高齢になってきたので、このようなことを考えるようになったのかもしれませんが、高齢になるとともに、信仰こそが重大だ、そのような思いを持ちます。仕事が重大だと思っている方もいらっしゃるかと思いますが、仕事は定年が来ます。定年の後もなお20年、30年と人生は続くのです。信仰は重大です。そして、その混ざり気のない信仰によって大いに喜ぶということがここには含まれている、これが重大なことです。
私がこの教会で洗礼を受けたのは高校2年生、16歳の時でした。それから64年間、信仰生活を送ってきました。しかし思い返してみると、信仰が重大だということをきちんと考えてきただろうか、そう反省させられています。今こそ信仰が重大だということを、心から思わなければならない、そういう思いで、今日の聖書箇所を読んだわけです。混じり気のない純度の高い本物の信仰、それは一体、どのような信仰なのでしょうか。これもちょうど、試練というものが具体的に書かれてないのと同じように、混じり気のない信仰についても具体的には書かれてないのです。ある優れた説教者はこのことを解釈して、混じり気のない信仰のことを、それは具体的に言えば、甘ったれていない、まことに神に対する正しい態度を持った信仰、そのように語っているのですが、私はその通りだと思います。またどんな困難があっても祈ることができる信仰、あるいはいつでも何事もない時にでも祈ることができるような信仰、それが混じり気のない信仰なのだと言われます。また人から嫌なことを言われても、されても、その人を赦し、その人のために尽くすことのできる信仰、そのようにも言われます。あるいは多くの誘惑の中にあっても間違った生活をしない信仰、清い心を持つ信仰なのだ、そのようにも言われます。私たちは様々な仕方で、本物の信仰、混じり気のない純度の高い信仰とはどのような信仰なのだろうかと思いをこらして考えるのです。私たちは祈りつつ、また自分の信仰を反省しつつ、純度の高い信仰に生かされるように祈り願う、そのようなことが可能だと思います。
聖書のこの箇所に、混じり気のない信仰とはこのような信仰だというふうに具体的に書かれてはいません。書かれてはいませんけれども、ここに書かれていることはあります。それは何かというと、繰り返し言うことになりますが、キリスト者はどのような存在なのか、ということなのです。そしてそれは、神の豊かな憐みと、死者の中からのイエス・キリストの復活によって生き返らされた人間なのだ、ということです。生き生きとした希望を与えられている人間なのだ、ということです。朽ちず、汚れず、しぼむことのない、天に蓄えられている資産を受け継ぐ者とされた人間なのだ、つまりは神の子とされたものなのだ、そう言われていることははっきり書かれていて、それを信じているわけです。それを信じることによって、大いに喜んでいる、それがキリスト者なのだ、そのことが書かれているのです。大いに喜ぶ信仰を持つことによって、キリスト者は様々な試練をくぐっていくのです。そしてそのことによって、主イエス・キリストが現れる時に、称賛と栄光と誉れとを受け取ることができるのです。そういう純度の高い信仰に生かされる、ということなのです。
人生百年時代、と言われます。百年であろうと120年であろうと、この信仰以外に生きる道はないのです。私たちは神の子とされ、イエス・キリストのものとされた、そのことによってみ国を受け継ぐ者にされているのです。ですから大いに喜んで、試練の中をくぐっていくのです。試練の中をくぐっていくその信仰によって、神の栄光と称賛と誉れに与るのだ、聖書にはそう記されています。聖書はまことに理路整然と、私たちが生きるべき信仰生活をきちんと書いている、そう言わざるを得ません。その信仰に生きていく、ということではないでしょうか。
私はこの箇所のみ言葉を読みながら、み言葉に聞きながら、教会の信仰告白のある条項、ある箇条を思い起こしました。それは「聖徒の堅忍」という信仰箇条です。プロテスタント教会の中で、すべての教派がこの「聖徒の堅忍」という信仰箇条を語ってきたわけではありません。「聖徒」は、つまりキリスト者のことです。聖なる者たち、つまり神の子とされた者たち、それが聖徒です。その聖徒は、「堅忍」、堅く耐え忍ぶのです。キリスト者の信仰というのは、その途上で出会う様々な試練の中で、不確かに見える時がある、と言うのです。信じてきたことが間違いだったのではないか、あるいは自分の信仰が弱いのではないか、自分の信仰が誤っているのではないか、様々な試練の中で、まるで信仰が失われるように思える時さえあります。けれどもどんなにその信仰が不確かに見え、あるいは失われるように見えるとしても、必ずやその試練を耐え抜くことができる、それが「聖徒の堅忍」の持つ意味です。その信仰を持って聖徒たち、つまりキリスト者は耐え抜くことができる、そういう信仰箇条です。それは、私たち自身に耐え抜く力があると言っているわけではありません。そうではなくて、神が信仰を堅持させてくださっている、ということです。神さまが真実なお方であるから、その子としてくださった者だから、神の子とされた者、その者の信仰を最後まで耐え抜かせる、ということなのです。どんなに不確かに見える信仰であったとしても、真実な神がおられるから、その信仰を失うことはできないものです。神の子とした者の信仰を最後まで耐え抜かせ、そして栄光と称賛、そして誉れに与るようにさせてくださる、そういう信仰箇条を思い起こすわけです。それゆえキリスト者の信仰は、しばらくの試練の中にあってもそれを耐えて、大いなる喜び、飛び上がるような喜びを失わず、そして神の子とされたその喜びに支えられ、人生の終わりまで、神のみ前に、み国に生きる、永遠に至るまで、その信仰生活を生きていくのです。その信仰を私はこの教会で与えられ、そして64年の間守られ、今日に至っています。
120周年記念を心から感謝し、神のみ名をほめたたえたい、そう思います。お祈りをいたしましょう。
天の父なる神さま、今朝は滝野川教会創立120周年の礼拝に招かれ、試練によって磨かれる信仰、そしてその信仰の喜びと希望を知らされ、感謝いたします。滝野川教会が神のみ旨に従い、また先人たちの信仰生活を引き継ぎ、その時代に、そしてその先へと、主の福音を伝え続けていくことができますように。どうか豊かな祝福をお与えくださいますよう、お願いいたします。教会の頭である主キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。