2024年11月10日 子ども祝福礼拝説教「いちばん偉いのは誰か」 東野尚志牧師
マタイによる福音書 第18章1~5節
イエスさまは、いつも12人のお弟子さんたちと一緒に過ごしておられました。イエスさまのお弟子さんはたくさんいましたけれども、その中から特別に12人を選んで、一緒に旅をされたのです。どんな人がいたか、皆さんは名前を知っているでしょうか。
そうです、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、マタイ、トマス、それにユダという人もいました。全部で12人です。12人もいると、どうしても、いつもイエスさまのすぐそばにいる人、ちょっと離れている人、少しずつばらつきが出てきます。12人を代表して、イエスさまの前に立つのは、いつも決まってペトロでした。大事な用事があるとき、イエスさまはいつも、ペトロとヨハネのヤコブの3人を一緒に連れて行かれました。もしかしたら、ほかの弟子たちが焼き餅を焼いたのかもしれません。自分たちの間で、誰がいちばん偉いのか、言い争いが始まったというのです。自分とほかの人を比べて、どっちが上か、下か、どっちの方が偉いか、順番争いが始まりました。
この世の中では、順番争いはいつものことです。勉強でも、運動でも、人と比べて、勝った、負けた、と言います。人よりも自分の方が良くできると思うと得意になります。でも、人よりもできないと思うと、落ち込んで、みじめな思いを味わいます。小さい頃は、そんなことを気にせずに、一緒に遊んでいたのに、少し大きくなって、学校に進むとなると、テストで順位を付けられます。そうやって、周りの人と比べて、人よりも上に行きたい、という思いが染みついてくる。この世の中だけの話ではなくて、イエスさまの弟子たち、つまり、教会の中でも、そういう順位争いが起こったのです。
「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」。「天の国では」というのは、神さまのもとでは、ということです。神さまに従う者たちの間では、どういう人がいちばんになれるのか、教会の中でいちばん偉いのは誰か、それが気になって仕方ない。弟子たちは、とうとう、イエスさまのところに来て、お尋ねしたのです。さて、イエスさまは何と答えられたのでしょうか。
イエスさまは、一人の子どもを呼び寄せると、弟子たちの真ん中に立たせて、言われました。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。「子どものようになる」と言われたから、教会学校の子どもたちは、そのまま安心していてよいのでしょうか。子どもの頃は、純真で、無邪気で、素直だったけれども、大人になるにつれて、だんだん世の中の汚れに染まって、純真さがなくなってしまった。そういう大人たちが、心を入れ替えて、子どもの頃の純粋さを取り戻さなければならないということでしょうか。
イエスさまは、続けて言われました。「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ」。「自分を低くする」という言葉は、貧しくする、卑しくする、謙遜にする、という意味の言葉です。いちばんになることを求めて、人よりも上に行こうとするのではなくて、むしろ、自分を低くして、へりくだる者が、神さまの前では、かえって偉い者とされるのだ、と言われるのです。
でも、子どもは、本当に謙遜でしょうか。子どもは、謙遜で、純真で汚れがないといえるでしょうか。むしろ、子どもの方がわがまま勝手で、遠慮しないのではないでしょうか。周りに気を使ったりしませんから、むしろ、子どもの方が、大人よりも素直に、偉くなりたい、自分の方が偉い、ということを主張します。漫画のドラえもんを見てもそうです。「誰がいちばん偉いか」という言い争いは、子どもたちの間でこそ、よく起こる。その意味では、弟子たちは、まことに、子どもじみた争いをしていたと言ってもよいのです。子どもというのは、決して、天使ではありません。子どもというのは、まだ自分で自分をコントロールできない、未熟な者たちという面があるのです。
未熟なものであるからこそ、子どもは、大人に頼らなければ生きていくことができません。親のもとで愛され、守られて成長していくのです。確かに、子どもは身勝手で、わがままです。けれども、大人になっても、身勝手でわがままな人はたくさんいます。ただ、子どもは、自分だけの力で生きていくことはできません。親や周りの人に助けられ、守られなければ、生きていくことができないのです。イエスさまが、子どものようになると言われるのは、自分の力に頼って、人と争って、少しでも上に行こうとするのではなくて、無力な子どものように、神さまに頼り、神さまの愛に守られ、神さまに従う者になる、ということではないでしょうか。
だから、イエスさまは言われました。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。「心を入れ替えて」というのは、向きを変える、悔い改める、という意味の言葉です。イエスさまは、へりくだって、私たちのところにまで低く降って来てくださいました。私たちの方で人より上を目指して上って行ことすれば、イエスさまとすれ違いになってしまいます。イエスさまにお会いできないのです。向きを変えて、低く降って来られたイエスさまのもとに集まって、イエスさまを通して、神さまの子どもとしていただくのです。神さまに愛され、神さまに守られ、神さまに導かれて行く、神さまの子どもです。人の目や他人の顔色を気にするのではなくて、神さまの御顔を仰いで生きる。そこにこそ、神さまの子どもとされた者たちの祝福があります。
神さまの前では、大人も子どももありません。みんな、神さまの子どもです。イエスさまは、私たち一人ひとりのことを、かけがえのない大切な者として愛し、受け入れてくださいました。イエスさまを信じ、イエスさまに従って行く私たちも、イエスさまに愛されている者として、お互いのことを受け入れ合うのです。いちばんになろうとして争い合い、競い合うのではなくて、そういう罪の思いから自由にされて、私たちを受け入れてくださる神さまの子どもとして生きる。イエスさまにつながることによって、イエスさまを通してお互いがつながれて、神さまの家族として生きる。その喜びと祝福を共に味わっていきたいと思います。