2024年10月6日 世界聖餐日・主日礼拝説教「私たちが一つになるため」 東野尚志牧師

詩編 第133編1~3節
ヨハネによる福音書 第17章20~26節

 今日は、聖歌隊の皆さんが、賛美奉献をしてくださいました。「主の食卓を囲み」。私にとっては、とても思い出深い讃美歌です。この讃美歌を初めて歌ったのは、もう今から30年以上前のことになります。三鷹にある東京神学大学の学生であった頃、年に一度、お隣のルーテル神学大学と合同で聖餐にあずかる礼拝が行われていました。1月のキリスト教一致祈祷週間に合わせて、二つの神学校が一緒に礼拝をしたのです。一年交替でお互いのチャペルを訪ねて、当番校の式文によって聖餐礼拝が行われました。初めて経験したルーテル教会の聖餐式は、私にとって衝撃的でした。聖餐卓を囲める人数ごと前に出て、差し出された大きなパンから自分の分をちぎり取り、渡されたぐい飲みのような器に並々と本物のワインを注がれました。残すわけにもいかず、飲み干しました。私はアルコールに弱いので、気分が悪くなり、ひどい頭痛がして、礼拝の後は授業を休んで寮の部屋で寝ていました。聖餐にあずかって体調を崩すというのも罰当たりな話だと思いました。

 ルーテル神学校のチャペルで行われた合同礼拝の中で、聖餐式の後「主の食卓を囲み」という讃美歌が歌われました。初めてでしたけれども、繰り返しのフレーズが心に残って、すぐに覚えてしまいました。その後、機会があれば歌いたいと思っていたのですが、『讃美歌21』の中に収録されたことで、身近になりました。作者の新垣壬敏(あらがき・つぐとし)さんは、沖縄出身のキリスト者で、ルーテル教会の人かと思ったらカトリックの信徒でした。『讃美歌21』が出た頃、私は鎌倉雪ノ下教会の牧師をしていました。新しい讃美歌集に切り替えることはしませんでしたけれども、81番の「主の食卓を囲み」という讃美歌だけは、月に一度の聖餐式のたびに歌うようになりました。鎌倉雪ノ下教会全体の愛唱讃美歌になったと思っています。
 「主の食卓を囲み、いのちのパンをいただき、救いのさかずきを飲み、主にあってわれらはひとつ。マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国がきますように。マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国がきますように」。「マラナ・タ」というのは、コリントの信徒への手紙一の16章22節に出てくる言葉です。「主よ、来りませ」と訳されています。「主よ、来てください」。主の再臨を待ち望む教会の祈りです。2節は、「主の十字架をおもい、主の復活をたたえ、主のみ国を待ち望み、主にあってわれらは生きる」と歌って、「マラナ・タ」を繰り返します。そして3節は、「主の呼びかけにこたえ、主のみことばに従い、愛のいぶきに満たされ、主にあってわれらは歩む」。やはり、「マラナ・タ」を繰り返す。主の食卓にあずかって、聖餐に養われる恵みと祝福が、豊かに歌われています。キリストの十字架と復活を歌い、聖霊に満たされて、主の呼びかけに応えるキリスト者の信仰を歌うのです。「マラナ・タ」という言葉とともに、「主にあって」という言葉が心に響きます。「主にあってわれらはひとつ」、「主にあってわれらは生きる」、「主にあってわれらは歩む」。主にあって。主に結ばれて、ということです。

 聖歌隊の皆さんが、今日、この讃美歌を歌ってくださったのは、もちろん、今日が世界聖餐日であることを意識されてのことでしょう。「世界聖餐日」。その歴史は決して古いものではありません。今から84年前、1940年に、アメリカのキリスト教教会連盟によって提唱されたのが始まりと言われます。世界全体が、大きく戦争へと傾いて行った時代です。人間の罪によって、世界が分断されていく危機的な状況の中で、キリストにあって、キリストにおいて一つであることを思い起こし、和解と一致の道を求めようと訴えたのです。世界中の教会が、聖餐を祝うことを通して、キリストにある交わりを確かめながら、教派や伝統の違いを超えて主イエスにあって一つであるとの自覚を新たにしようと呼びかけました。残念ながら、その後の悲惨な世界大戦を避けることはできませんでした。けれども、戦後になって、WCC(World Council of Churches)世界教会協議会が、改めてこの日を推奨し、NCC(National Christian Council in Japan)日本キリスト教協議会を通じて、日本の教会にも広がって行きました。
 ディサイプルスの伝統を受け継ぐ私たちの教会では、毎週の礼拝において聖餐を祝っていますから、あまり、世界聖餐日に特別な意識を持たないかもしれません。けれども、私が43年前に洗礼を受けた大阪教会は、当時、年に4回しか聖餐式を行っていませんでした。クリスマスとイースター、ペンテコステ。そして、あとの1回が世界聖餐日でした。両極端と言えるかもしれません。プロテスタント教会においては、月に一度、第一主日に聖餐を祝うという教会が多いのではないかと思います。教会ごとに違いはあるとしても、改めて、この日、世界中の教会が、さまざまな違いを超えて、主にあって一つであることを信じて、主の食卓に共にあずかる。そこには大事な祈りが込められているのです。教会ごとに食卓が準備されているとしても、すべては主の食卓です。主はただ一人なのですから、主の食卓もまた一つです。主イエスが招いてくださる食卓に、世界中のキリスト者たちが一緒にあずかっている。そんな様子を想像するのは、実に楽しいことではないでしょうか。「主にあってわれらはひとつ」。そこに、すべての敵意や対立を乗り越えて、一つになる恵みの場所が備えられているのです。

 振り返ってみれば、二千年の教会の歴史は、分裂の歴史であったと言ってよいかもしれません。古くは4世紀、ローマ帝国が東西に分割されるのと並行して、教会もまたギリシアや東ヨーロッパに広がる東方の正教会とローマを中心とした西方教会に分かれて行きました。基本信条の一つであるニカイア信条の文言に、西方教会が一語加えたことに東方教会は大きく反発して、対立は深まりました。そして、1054年には、西方教会のローマ教皇と、東方教会のコンスタンティノープル総主教が相互に破門し合う形で、東西教会の分裂は決定的になりました。その後、16世紀に入ると、西方教会の中で宗教改革が起こります。ローマ・カトリック教会からプロテスタント教会が分かれることになりました。ローマ教会を改革しようとしたルターは、教会から破門されてしまい、新しい教会を作ることになったのです。さらに、プロテスタント教会においては、聖書の文言の解釈の違いによって、いくつもの教派に別れて行きました。信仰の純粋さを求めるあまり、信仰の理解の違いによって教会は分かれてきたのです。
 19世紀のアメリカで生まれたディサイプルス教会は、そのような教会分裂の歴史を深く反省して、キリストの教会は一つでなければならないと主張しました。そして、教会が信条や信仰告白の言葉を持つことで、教派に分かれてきたことを踏まえながら、すべての教会が認める簡略な信仰告白、「イエスはキリスト、我らはその弟子なり」に立つ、それだけでよいとしたわけです。教職も信徒もキリストの弟子であるということを重んじて、キリストの弟子となるための儀式である洗礼は浸礼の形式で行い、キリストの弟子たちの交わりである聖餐は毎週の礼拝で行うことを重んじました。そういうディサイプルスの中でも、さらに分裂が起こったというのは皮肉な歴史ですけれども、ディサイプルスが目指したことは、20世紀のエキュメニカル運動の先駆けと言ってよいかもしれません。

 20世紀に入ると、世界の教会の再一致運動が推進されるようになりました。まさに、ディサイプルス教会が主張した「キリストの教会は一つ」ということを、世界の教会全体が大切に受けとめるようになったのです。「エキュメニカル運動」と呼ばれます。あえて日本語にしないで、エキュメニカルというカタカナの言葉をそのまま用いるようになりました。「エキュメニカル」。そのもとになっているのは、「オイクーメネー」というギリシア語です。人が住んでいる土地、世界を意味する言葉です。さらには、「家」を意味する「オイコス」という言葉にまでさかのぼることができます。つまり、この世界、地球全体を一つの家、神の大きな家であると捉えて、そこに住んでいる人たちが、お互いに愛し合い、自然環境を大切にしながら、共に生きる、それが「エキュメニカル」という言葉に込められた意味です。特に、戦後、このエキュメニカル運動を推進してきたのが、世界聖餐日を広めたWCC、世界教会協議会ということになります。
 ジュネーヴにあるWCCの本部の前には、聖書の言葉が刻まれています。「私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです」。お気づきでしょうか。先ほど朗読した、ヨハネによる福音書第17章の中の言葉です。16章までに語られた主イエスの説教に続けて、17章には、主イエスが弟子たちのために祈られた執り成しの祈りが記されています。別れの時を前にして、主イエスは、後に残していく弟子たちのために、父なる神に祈られました。「私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです」。お祈りの言葉ですから、「私たち」というのは、父なる神と主イエスとを指しています。「彼ら」というのは、弟子たちのことです。つまり、父なる神と主イエス・キリストが一つであるように、弟子たちも一つになることを、主は祈られたのです。世界聖餐日の礼拝において、この御言葉が与えられたということは、実に意義深いことだと思います。

 主イエスの執り成しの祈りには大きな広がりがあります。最後の晩餐に引き続いて祈り始められたのですから、主イエスの周りには弟子たちがいました。主イエスの直弟子である使徒たちは、耳をそばだてるようにして、主イエスが父なる神に祈られる、その祈りの言葉に聞き入っていたと思います。主イエスもまた、何よりもまず、目の前にいる弟子たち、主イエスの祈りの言葉を直接聞いている弟子たちのために祈られたのです。例えば、17章11節では、こんなふうに祈られました。「私は、もはや世にはいません。彼らは世におりますが、私は御もとに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです」。ここでも、すでに、弟子たちが一つとなることを求めておられます。主イエスは間もなく、世を去って行かれる。その後も世に残って、主の弟子として生きていく者たちの歩みには、苦しみが伴います。主イエスが世の人たちから憎まれたように、弟子たちも世から憎まれ、迫害を受けるようになります。その弟子たちを守ってくださるように、と主は祈られたのです。
 そこから、主イエスは、祈りの視野を大きく広げて行かれます。17章20節でこう祈られます。「また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします」。ここでの「彼ら」は、主イエスの目の前にいた弟子たちを指しています。その弟子たちは、この後、主イエス・キリストの十字架と復活を経て、主イエスご自身の霊である聖霊を受けて、力強く伝道を開始することになります。復活された主イエスは、弟子たちに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20章22~23節)。天と地の一切の権能を授けられた主イエスが、弟子たち教会に、罪の赦しの権能を与え、すべての人に福音を宣べ伝えるようにとお遣わしになるのです。その弟子たちの語る言葉を聞いて、主を信じる人々が起こされていく。主イエスは、そのような伝道の成果を望み見ておられます。直接、主イエスを見たことがなく、主イエスの言葉を聞いたこともない、後の時代の人々が、遣わされた弟子たちの証しの言葉を聞いて、主イエスを信じるようになるのです。それは、まさに私たちのことだと言ってよいでしょう。

 主イエスが、後の時代の教会のために祈られたのは、すべての人が一つになることでした。17章の21節、「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります」。父なる神が御子イエスの内におられ、御子イエスが父なる神の内におられる。御父と御子は、お互いがお互いの内にいると言いうるほどに一つであられます。父なる神と独り子イエスは、決して、切り離されることのない確かな絆によって結ばれています。それと同じように、弟子たちの伝道によって、主イエスを信じるようになった信仰者たち、つまり私たちも一つにされることを主は祈り願っておられるのです。そしてその願いは、「彼らも私たちの内にいるようにしてください」と祈られています。「私たち」というのは、主イエスと父なる神です。主イエスと父なる神の間には、お互いがお互いの内にいると言いうるほどの一体性、切り離せない交わりがあると言いました。その確かな交わりの内に、「彼ら」、つまり私たちもいるようにしてください、と祈っておられるのです。ここに、私たちが一つになるための鍵が示されていると言ってよいと思います。
 私たちが一つとされるのは、私たちが互いに理解し合い、思いを一つにすることによって実現するのではありません。それができたら、どんなに良いであろうかと思います。けれども、私たちの間に働く罪の力、関係を切り裂き、対立と争いを生み出すサタンの働きを、決して、侮ってはならないと思います。私たちの思いを付き合わせていたら、一つになんかなりっこないのです。それくらい、私たちは、思うことも、感じることも、考えることも違います。そういうさまざまな違いをもった者たちが一つになるのは、主イエスと父なる神の間に実現している交わりの中に、私たちが共に入れていただくことによって与えられる恵みの奇跡だと言ってよいでしょう。私たちが思いを一つにするのではなくて、主イエスと父なる神の交わりの中で、一つにされるのです。「主にあってわれらはひとつ」というのは、そういうことです。

 主は言われます。「あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(17章22~23節)。エキュメニカル運動というのは、信仰的な理解や教派的な伝統の違う教会が、それぞれの違いには目を伏せて、いわば妥協しながら一緒にやって行こうということではありません。主イエス・キリストと父なる神の間に実現している豊かな交わりの中に、いろいろな背景をもった教会が一緒に引き入れられて、主にあって、主において、主の中で、一つにされていくことです。主イエスが私たちの内におられ、父なる神が主イエスの内におられることによって、私たちは、この主の絆の中で一つに結ばれるのです。
 そのように、私たち教会が主において一つであることを、世は見ています。主は言われます。「こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります」。世はそれぞれの思いによって分裂し、争っています。そのような現実のただ中で、教会においては、主にあって一つとされ、父なる神と主イエスの交わりの中で、教会が一つであるということが、世に対する大きな証しになるのです。世は、自分の力で一つになろうとしても、罪の力に阻まれて一つになることができません。しかし、教会は、主にあって一つとされている。その現実を目の当たりにするとき、初めて、この世が神の愛を知るようになるのです。3章16節の言葉を思い起こしてください。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。独り子の命を犠牲にしてまでも、世を救おうとされる神の愛を知るのです。天地が造られる前から、神と共におられた御子が、父なる神によって遣わされ、この世に来てくださいました。私たちと同じ人間の一人となって、私たちのすべての罪を引き受け、十字架にかかって、私たちの罪を赦してくださいました。今、その独り子なる神の栄光を共に仰ぎ見るのです。

 主が最後に祈って言われます。「私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです」(17章26節)。主の弟子たちが宣べ伝えた福音の言葉によって、主イエスの御名を信じる者たちが起こされ、教会が証しする言葉によって、後の世の人たちも神の愛を信じるようになり、神の愛の中で一つにされる時が来るのです。教会が一つにされることによって、世は神の愛を知るようになります。「世界は教会になりたがっている」。大木英夫先生が語られた言葉です。世が自分の力ではなし得ない交わりが、主にあって、教会においては実現しています。その交わりへの憧れをもって、世界は教会になりたがっているのです。造られたすべてのものが、神の愛の中で一つにされていく。主イエスはそのような未来を信じておられるのではないでしょうか。主は祈られます。「すべての人を一つにしてください」。教派の違いを超えて、教会が一つになるというだけではありません。すべての人が一つにされるのです。すべての人が、主にあって一つにされて、地にまことの平和が実現する日を、私たちも信じ望み、そのために祈り、また力を尽くしていきたいと思います。