2024年10月27日 宗教改革記念礼拝説教「イエス・キリストの真実」 東野尚志牧師
詩編 第143編1~2節
ローマの信徒への手紙 第3章21~26節
今から507年前、1517年の10月31日、ドイツの修道僧マルティン・ルターは、当時のローマ・カトリック教会の信仰的な誤りをただすために、「95箇条の提題」を発表しました。当時、ローマ教会が売り出していた贖宥状、いわゆる免罪符に対する疑問を突きつけたのです。ルターが何よりも大事にしたのは、恩寵のみ、恵みのみ、ということでした。私たちが救われるのは、私たちの善い行いの功績によってではなくて、ただ神の憐れみと恵みによる。このことを、改革者ルターは、強く訴えたのです。
それは、内容的には、行いによってではなくて、ただ信仰のみによって救われる、ということであり、形式的には、教会の言い伝えや慣習ではなくて、ただ聖書のみを神の言葉として重んじる、という主張でした。このルターの問題提起は、単なる神学論争にはとどまりませんでした。やがてはヨーロッパ全土を巻き込んで行く大きな改革運動となりました。信仰の改革は、礼拝の改革を求め、教会自体の改革にまで展開していきました。そして、プロテスタント教会という新しい教会の誕生につながったのです。「信仰のみ」、「聖書のみ」。これが、宗教改革の合言葉になりました。ラテン語では「ソラ・フィデ」、「ソラ・スクリプトゥーラ」と言います。「ソラ」というのが、英語の「オンリー」にあたります。「信仰のみ」、「聖書のみ」です。
今から7年前、2017年は、宗教改革500年の節目の年でした。世界中のプロテスタント教会で、さまざまな記念の集会や礼拝が行われました。私はその年の11月、韓国の長老会神学大学で開催されたシンポジウムに参加しました。聖学院大学と長老会神学大学が協定を結んでいて、一年ごとにお互いの大学を訪ねて共同の神学シンポジウムを開催していたのです。私は特に、聖学院教会の牧師でもあるということで、長老会神学大学の大学礼拝で説教を担当しました。日本のキリスト教大学とは規模が違います。教授や学生たちがほとんど全員出席して、階段状に座席が並ぶ大きなチャペルは、千人を超える礼拝者で溢れていました。賛美の歌声の力強さに圧倒されました。
神学シンポジウムの出席者は限られていて、6、70人くらいだったと思いますけれども、日本側からは、聖学院大学の先生たちの中に、お一人、上智大学で教えておられるカトリックの司祭が参加しておられました。当時の聖学院の理事長・学長がカトリックの信者であったことから実現した企画であったと思います。カトリックの側から見た宗教改革について講演をされたのです。とても興味深い企画でした。カトリックの司祭のお話の中で、印象深く心に残ったのは、カトリックは「エト」ですから、と言われた言葉でした。「エト」というのは、日本の十二支のことではなくて、ラテン語の「エト」、英語の「アンド」にあたる言葉です。つまり、信仰だけでなくて、信仰「と」行い。聖書だけでなく、聖書「と」聖なる伝承。その両方を大事にしていくのだ、と言われたのです。今さらながらのように、やはり、カトリック教会では今もそうなんだ、と妙に納得しました。「ソラ」ではなく、「エト」、「のみ」ではなく、「と」あるいは「も」ということになります。信仰は大事だけれども、行いも大事にしよう。聖書はもちろん大事だけれども、教会が伝える教えも大切にしよう。そういう、広さをもっているのです。なんとなく、プロテスタントが、これだけだ、と言って頑張っているのに対して、カトリックの側ではこれもね、と言って余裕を見せている、顔つきも違っているように思えてきました。
確かに、カトリックとプロテスタントには、恵みの受けとめ方に違いがあると感じました。そうであればこそ、そういうカトリック教会とプロテスタント教会が協力して、共同事業として、一緒に聖書の翻訳に携わったというのは、画期的なことであったと思います。すでに今から40年以上も前に、その作業は始まりました。そして、1987年に、「新共同訳聖書」という聖書が世に出ました。それから、約30年を経て、2018年12月に、今、私たちが手にしている「聖書協会共同訳」の聖書が刊行されました。私たちの教会では、新共同訳を飛ばしたかたちで、口語訳から聖書協会共同訳に移行したのです。
今から5年前、私が滝野川教会に着任をした2019年に、一日修養会で、この新しい翻訳の聖書を取り上げて学びをしました。そして、コロナ禍のもとで協議を重ねながら、口語訳聖書から聖書協会共同訳の聖書に切り替える決断をしました。2021年の半日修養会において、さらに新しい翻訳聖書の特徴と意義について学びをした上で、2年前、2022年の4月から、礼拝で用いる聖書を切り替えました。その一年後には、講壇用の大型聖書も納品されました。礼拝でも聖書研究会でも、聖書協会共同訳の言葉によって、神の言葉に触れるようになり、もうすでに、2年半の時が流れたことになります。新しい翻訳の言葉にも、かなり馴染んできたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
そういうなかで、今日、宗教改革の記念の礼拝において、ローマの信徒への手紙の第3章21節から26節までを朗読しました。21節から31節まで、聖書協会共同訳では、2つの段落に分けられて、それぞれに見出しが立てられています。以前の口語訳聖書では、21節から31節まで区切らずに、1つの段落になっていました。この箇所全体を通して、「人は行いによってではなくて、信仰によって義とされる」ということが、高らかに宣言されています。宗教改革の原理となった「信仰義認」という教理の根拠になった箇所です。「信仰も」「信仰と」ではなくて、「信仰のみ」です。人は信仰のみによって義とされる。信仰によってのみ救われる。「エト」という、一見、包容力があるかに思える捉え方ではなくて、「ソラ」という集中力が求められるのです。
ここに至る20節までのところで、パウロが述べてきたのは、「律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされない」ということでした。「義とする」というのは、聖書の中の分かりにくい言葉のひとつだと思います。神さまとの関係が正しくされることを意味します。神の前に正しい者と認められる、と言い換えると分かりやすいかもしれません。神の前に正しい者として生きるように、神さまはモーセを通して律法を与えてくださいました。律法の中心は十戒です。けれども、その律法を完全に行うことのできる人間は一人もいません。神に背いてしまった人間には、罪が絡みついているからです。20節まで述べてきたことの結論として、パウロは最後にのべています。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。ここまでで終わってしまったら、望みはありません。誰一人救われないことになります。けれども、続く21節において、すべてを覆してしまうどんでん返しが起こります。神の大いなる「しかし」が告げられるのです。
「しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました」。神の義について、続けて宣言します。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです」。今日の説教題はここから取りました。「イエス・キリストの真実」。この翻訳は、聖書協会共同訳の大きな成果のひとつです。以前の口語訳聖書では、こんなふうに訳されていました。「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである」。30年を経て刊行された新共同訳聖書においても、大きな違いはありませんでした。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」。いずれも、「イエス・キリストを信じる」と訳していました。それを、このたび、聖書協会共同訳では「イエス・キリストの真実」と訳したのです。
聖書のもとのギリシア語は、「ピステオース・イエースー・クリストゥー」と書かれています。「ピステオース」の原形は「ピスティス」です。「ピスティス」は、通常は、「信仰」と訳されます。ですから、直訳すれば、「イエス・キリストの信仰」ということになります。「イエス・キリストの信仰」では、意味が分かりにくいので、口語訳聖書も、新共同訳聖書も、これを「イエス・キリストへの信仰」、つまり「イエス・キリストを信じる信仰」というふうに解釈したのです。けれども、「ピスティス」というギリシア語は、「信仰」と訳されるだけではなくて、「真実」や「忠実」と訳すこともできます。それで、聖書協会共同訳は、これを「イエス・キリストの真実」と訳したのです。
「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」と訳すか、それとも「イエス・キリストの真実による神の義」と訳すか。これは、文法的にはどちらの翻訳も可能です。しかし、その意味するところは大きく違ってきます。「イエス・キリストを信じる信仰」というふうにとれば、その信仰の主体性は私たちの側にあることになります。私たちがイエス・キリストを信じる信仰が問われることになるのです。確かに、信仰というのは、誰かが代わって信じる、というわけにはいきません。信仰は、個人的であり、主体的なものです。自分が信じるか、信じないかが問われるのです。でも、一番不確かなのは、自分自身ではないでしょうか。もしも、信仰が私たちの側の主体的な姿勢にかかっているとするなら、信じているときは良いとしても、信じられなくなったらそれまで、ということになります。もしも、信じる心が弱くなって、神さまを裏切ってしまったら、そこで、神さまとのつながりが断ち切られてしまう。神さまに見捨てられてしまうのではないかという心配がつきまといます。不安を拭うことができません。さらに言えば、そういう確かな信仰を持たなければならないのだとしたら、それは、自分の力に頼る信仰であり、信仰を自分のもののように考えてしまうことになるのだと思います。
けれども、私たちの救いは、私たち自身にかかっているのではないはずです。そうではなくて、イエス・キリストが私たちのためにしてくださったことによって、私たちは救いに入れていただいたのです。イエス・キリストが、ご自身の命を犠牲にして、神さまと私たちの間を引き裂いていた罪を取り除いてくださり、神さまと私たちの間をつないでくださったのです。新しい翻訳は、そういうイエス・キリストの恵みをはっきりと現してくれます。私たちの目の前に、イエス・キリストのお姿をくっきりと描き出してくれます。私たちの救いは、私たちがイエスさまを信じている私たちの信仰にかかっているのではなくて、イエスさまご自身の真実にかかっているのです。神さまの変わることのない真実、イエス・キリストの真実が、十字架のお姿の中に現されています。主イエスの真実が私たちを捉えていてくださり、私たちを救っていてくださる。その事実を受け入れ、信じるのが、私たちの信仰なのです。だから、私たちは、ただイエスさまを信頼していればよいのです。私たちの信仰以前に、私たちが信じるよりも前に、イエス・キリストの真実があります。そのキリストの真実が、私たちを義としてくださり、私たちを救ってくださるのです。そこに本当の救いの確かさがあると言って良いのです。
私たちは、自分の信仰の確かさにこだわる必要はありません。イエス・キリストの真実が、私たちを支えてくださるからです。使徒パウロは、愛するテモテに、書き送っています。テモテは、とても真面目な人であったようですが、それだけにまた、心配性でもあったようです。そのテモテに、パウロはキリストの真実を告げて言いました。テモテへの手紙二 第2章11節以下の言葉をお読みします。
「次の言葉は真実です。
『私たちは、この方と共に死んだのなら この方と共に生きるようになる。
耐え忍ぶなら この方と共に支配するようになる。
私たちが否むなら この方も私たちを否まれる。
私たちが真実でなくても この方は常に真実であられる。
この方にはご自身を 否むことはできないからである。』」
十字架において現され、貫かれたイエス・キリストの真実が、私たちを神の前に、義としてくださいます。神さまは、このイエス・キリストの真実によって、ご自身の義を現してくださったのです。信仰のみによって救われる、というとき、その信仰とは、イエス・キリストの真実を信頼することです。キリストの真実によって救われる。その確かさを信じて、私たちのすべてを、主の真実にお委ねしたいと思います。