2024年1月21日 主日礼拝説教「どん底に立つキリスト」 東野ひかり牧師
イザヤ書 第53章1~12節
マルコによる福音書 第15章1~32節
昨年4月から、教会学校で父母分級というのをさせていただくようになりました。第二と第四の日曜日、教会学校の分級の時間に行っています。平均10名ほどの方々が出席されますが、ほとんどは未信者の保護者の方々です。毎回、今日はどういうふうにお話をしようかと悩みながら、手探りで、とても緊張しながら行っています。今年度の教会学校カリキュラムに沿って、夏休み前の1学期は主の祈りを学び、夏休み後の2学期からは使徒信条を学んでいます。ちょうど今、父母分級で取り上げているのが「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」というところです。この使徒信条を学ぶ最初の父母分級のとき、ひとりのお父さまが「ここに出てくるポンテオ・ピラトというのは何ですか」という質問なさいました。ちょっと意表を突かれた感じになりましたが、簡単に説明をしながら、初めて使徒信条の言葉に触れるような方であっても、むしろ初めて触れたからこそかもしれませんが、この「ポンテオ・ピラト」とはいったい何なのかと、不思議な感じ、奇妙な感じを受けられるのかと思いました。
私たちは毎週「使徒信条」を私たちの信仰を言い表す言葉・信仰告白として礼拝の中で唱えます。もしかすると皆さまの中にも、どうしてここに「ポンテオ・ピラト」の名前が入っているのかと、この名前を口にしながら何か変な感じ、奇妙な感じを覚えておられる方があるかもしれません。どうして「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しみを受け、とわざわざ言わされるのかと疑問に思いながら、でも「今さら聞けない」という感じでいる方もいらっしゃるかもしれません。
「使徒信条」は、聖書の信仰をこれだけの短い言葉にまとめたものです。それだけに大変集中した表現で、余計なことを一切そぎ落としたような言葉で、教会の信仰・私たちの信仰を言い表しています。その中に、変な言い方ですけれどもこの「ポンテオ・ピラト」は結構大きな顔をして存在している、というような感じがします。確かに、「ポンテオ・ピラトのもとに」と口にするとき、何か奇妙な感じがする、ちょっと異様な感じさえすると言ってもよいかもしれません。
使徒信条の中にイエス・キリストのお名前以外の人の名前が出てくるのは、主の母とされた「マリア」と、この「ポンテオ・ピラト」の二人だけです。主イエスの誕生と死に関わった二人の名前が覚えられています。マリアの名前が覚えられるのは不思議ではないとしても、しかしなぜ「ポンテオ・ピラト」の名前を覚えるのか、「主は苦しみを受け、十字架につけられ」だけでもよかったのではないかと思います。この人は、主イエスが十字架につけられた時のローマ帝国役人・政治家です。ユダヤ地方の総督としてユダヤに赴任していた人です。あまり評判の良い政治家でもなかったようです。どうしてそんな人の名前をわざわざ唱え続けるのか。
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という言葉をめぐって、改めて色々読んでおりましたとき、こういう言葉を読みました。ある現代の神学者の言葉として紹介されていました。こういう言葉です。〈使徒信条の中になぜポンテオ・ピラトなどという名前が出てくるのか、自分はこの言葉を使徒信条で唱えさせられるたびに、立派な自分の部屋に汚い野良犬が紛れ込んできたような気がする〉。随分な言い方だとは思いますけれど、こう言いたい気持ちも何となく分かるような気がしました。ポンテオ・ピラトという一人のローマ帝国の政治家の名前、それは、私たちの信仰を言い表す言葉の中にあるにしては、どうも薄汚いような、もっと言えばどす黒いような感じさえする、そんな名前なのです。
使徒信条に「ポンテオ・ピラト」の名前が覚えられているということで、ひとつはっきりしていますことは、この名前によって、主イエスの苦しみ、十字架の出来事が、作り話でも絵空事でもなく歴史的な日付を持った実際の出来事だったと示される、ということです。ピラトという人がローマ帝国支配下にあったユダヤの国でローマ総督としてユダヤ地方を治めていた時、そういう具体的な日付を持つ時に、主イエスはこのピラトのもとで裁判を受け、苦しみを受け、死刑判決を言い渡され、十字架へと引き渡されました。この事実を「ポンテオ・ピラト」という名前は表します。「ポンテオ・ピラトのもとに」という言葉は、主イエス・キリストの誕生も死もそして復活も、この神の救いの御業・神の恵みの御業が、歴史の中に確かに起こった出来事だと示しているのです。
しかしそれだけではありません。このピラトは、何よりも主イエスを死刑に定めた人物です。この人のもとで主イエスは裁かれ、十字架刑に処せられることになりました。ピラトは、何よりも主イエスを裁き、死に定めた人物です。
今朝は、マルコによる福音書第15章からのかなり長い部分を読みました。聖書協会共同訳の小見出しは、15章1~5節に「ピラトから尋問される」、6〜15節に「死刑の判決を受ける」とつけています。ここには、主イエスがピラトによる裁判を受け、それを経て十字架刑に定められたことが記されています。
しかし、主イエスの裁判は、既にユダヤ人の宗教的指導者たちによる最高法院の議会においても行われていました。第14章には、主イエスが自らを「神の子、メシア」である(「私がそれである」14:62)とはっきり言ったことで、それは神への甚だしい冒涜だとユダヤの宗教的指導者たちが激しく怒り、最高法院は主イエスを「死刑にすべきだと決議した」(14:64)ことが記されています。主イエスは既にユダヤの指導者たちによって裁かれ、この者は十字架刑に処せられるべきだと断じられていました。
さらに第14章には、主がこの最高法院で裁かれておられたとき、主の一番弟子であったペトロは、その裁判が行われていた大祭司の家の中庭で三度も(すなわちまったく完全に)、主を「知らない」と否んでいたことが記されます。14章71節は、ペトロが「呪いの言葉さえ口にしながら」主イエスのことを「知らない」と言ったと記しています。これは驚くべき言葉です。ペトロは主を呪ったのです。呪ったということは、「神がこの人を滅ぼしてくださるように」と言った、祈ったということです。ペトロも主イエスに対する死刑判決を下していたのです。
さらに今日読みました、15章6〜15節では、「群衆」がまるで狂ったように、主イエスを「十字架につけろ」と叫んでいます。この「群衆」は、数日前には、エルサレムにお入りになった主イエスとその一行を大歓迎した人たちです。この人たちは主イエスを歓迎した人たちとは別のグループの人たちだとする学者もありますけれど、そうではないでしょう。同じ人々が、祭司長たちに扇動されて、主イエスを殺せ、殺せ、と叫んだということでしょう。「群集心理」などと言いますけれど、そういう言葉だけでは言い尽くせない、人間の不確かさ、長い者に巻かれる狡さ、身勝手さというような、醜い姿を見せられるような気がします。群衆は、主イエスではなくて暴動を起こして人を殺した、バラバの命を助けることを求め、主イエスについては、やはり死刑の判決を下しているのです。
ピラトはむしろ、主イエスが「一体、どんな悪事を働いたのか分からない」と言って、主イエスのほうが釈放されるようにしようとしているように見えます。けれども、祭司長たちに扇動された群衆の叫びに従ってしまいます。ピラトには少し同情したくもなりますが、結局のところ、ピラトが最後決定的に、主イエスに対する死刑判決を下して、主は十字架に引き渡されたのです。
マルコによる福音書は、主イエスが、ユダヤ人の指導者たちからも、弟子たちからも、さらにペトロからさえも、また群衆からも、ここに登場してくるすべての人たちから、死刑の判決を下されたのだということを厳しく伝えています。言い換えれば、全ての人が、主イエスの殺害に加担した、ということです。すべての人間が、神の子メシアである主イエスを、そして、神の民の王、私たちにとってもまことの王であるお方を、「お前など呪われてしまえ、滅ぼされてしまえ」と、お前のような救い主など、王など要らないのだと、主イエスを断罪し十字架につけたのだと、マルコは伝えています。ここに明らかに示されていますのは、神をさえ裁く人間の姿です。神の上に立ち、神について、神のなさりようについて、自分たちの判断を下している、人間の高慢さ、その罪の姿です。
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と言うときのこの「苦しみ」、主イエスが受けた苦しみとはどのような苦しみであったのか、ということを考えますとき、私たちがすぐに思いますことは、鞭打たれ、十字架に釘付けにされた、主イエスが受けた想像を絶するような壮絶な肉体的苦痛、ということをまず思うのではないかと思います。
注解書は、十字架刑というものがどれほど残酷で、どのように残虐な刑罰であったかということを説明します。また、主イエスがここで受けた「鞭打ち」についても、それがどのようにむごいものだったかということが説明されています。この「鞭」というのは、単なる皮ひもの鞭ではなくて、何本かの革ひもを束ねたもののそれぞれの先に鉛や動物の骨がくくりつけられているという「鞭」であり、主イエスはそれで背中を鞭打たれた、だからその時主イエスの背中の肉はえぐられ、肉片と血しぶきが飛び散っただろう、というようなことです。この鞭打ちだけでショック死してしまう場合もある。十字架刑というのは、このような「鞭打ち」から始まっているのだというのです。
主イエスはこのような「鞭打ち」をお受けになった。ですから、死刑囚は刑場のゴルゴタに行く途上、自分がつけられる十字架の横木を自ら背負って行かなければなりませんでしたけれども、主イエスはもはやその横木を背負って歩くことができないほどになっておられた。それで、通りがかりのキレネ人シモンがそれを担がされた、と書かれてあるのです。
刑場には、十字架の縦木が据えられてあり、囚人たちはそこまで横木を背負って歩き、裸にされて、大きな釘で両手両足を十字架に釘づけにされ、数時間から数日間、そのまま息絶えるまでさらされる。大変な苦痛ですから、「没薬を混ぜたぶどう酒」という麻酔効果のあるものを飲ませて苦痛を和らげたと言われます。ですけれども、主イエスはそれを「お受けにならなかった」と23節にあります。主イエスは、十字架の苦しみをまったく割り引くことなしに、お受けになりました。
しかしすぐに気づくことですけれども、福音書は今私が申しましたようなこと、つまり鞭打ちがどれほどむごいものであったかということや、十字架につけられるときは釘づけにされたのだということも、何も記してはいません。24節に「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて」とありますが、その時主イエスがどのように十字架につけられたのかということはひと言も書かれていないのです。マルコは「彼を十字架につけ」と、これ以上は簡単には書けないほど簡単に書くだけなのです。
詳しく書かなくてもそれがどういうものであるか皆知っている、ということであったのかもしれません。しかしこの福音書の簡略な書き方は、主イエスが受けた苦しみがどういうものだったかということを示していると言えます。それは、凄まじいけれどもここにはひと言も書かれていない肉体的苦痛だけが、主の受けた苦しみだったのではないということです。主イエスは麻酔効果のあるぶどう酒をお受けにならず、少しの割引もなしに、肉体的な苦痛をなめ尽くされました。しかしそれだけが、主イエスが受けた苦しみだったのではないのです。
むしろ主イエスがお受けになった苦しみの厳しさ、壮絶さは、全ての人が主イエスを裁いたということ、全ての人が主イエスに死刑の判決を下して、まことの神の子でありメシアであり、王であるお方を捨て去った、ということにあるのです。福音書が書いているのはそのことです。神をさえ裁く、神の上に立って、神の救いの御業について、恵みの御業について、自分の判断を下して、こんな救いは要らないと言い放つ、「十字架につけろ」と叫ぶ、その人間の罪が、主イエスを最も厳しく苦しめたということを、福音書は示しています。主イエスはその苦しみを黙って沈黙の中に引き受けておられる。主イエスが黙っておられたという〈主イエスの沈黙〉は、主イエスが人間のすべての罪を完全に引き受けておられた、高いところから落ちてくるような人の罪を、神の御心として割引なしに全身で引き受けておられた、ということの現れです。
ここで主イエスは、誰よりも低いところにおられます。神の子であり、メシアであり、王である方が、誰よりも低くなっておられます。ある人は「裁く」ということについて、このように言います。〈裁く、ということは、私たちの支配欲の現われである。私たちの、王になりたい、人に対しても神に対しても、すべてを自分の思うように支配したい、神をさえ自分の思い通りにしたい、という思いの現れである。〉
私たちは裁くことが好きです。人を裁いているとき、私たちは自分は正しいというところに立っています。高いところに立っています。私たちの周りでは、毎日大小さまざまな裁判が繰り広げられます。家庭でも職場でも他愛のないおしゃべりの中でも。「あの人は良い、あの人はダメだ、あの人はちょっと変だ。」そう言って人を判断します。高い所に立って、人を判断して裁いています。あの人はダメだ、おかしい、変だというようなことを口にするとき、私たちは、私はダメじゃない正しい、おかしくない、大丈夫、そう思って安心しています。一段も二段も高いところに立って、私たちは自分が裁判官になり、王になっている。そういうことが毎日繰り返されている。そう思います。人を裁き、互いに裁き合う。神をさえ裁く。神についても自分で判断する。神さまはこういうふうに私たちを救ってくださらなければならない、神さまはこういうふうに私たちに恵みを与えてくださらなければならない、幸せを与えてくださらなければ神さまではない。そうでない神さまならば捨ててしまうのです。
神を神とするのではなく、神を王として神のご支配に服するのではなく、自分が王になって神の上に立ち、神をさえコントロールしようとして、自分の思い通りにならないとなれば神を捨てる。十字架につけられて惨めに死んでいくメシア・救い主ではなくて、力をもって社会を正し、悪を一掃して正義をあらわし、平和をもたらすメシア・救い主でなければ要らないというように主を捨てる。ここに、そのような私たちすべての者の罪の姿が暴かれています。
主イエスが受けた苦しみは、この私たちの罪、高いところから落ちて来るような、私たちの罪を一身に受けている、その苦しみなのです。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言い表すとき、この「ポンテオ・ピラト」は私たち罪人の代表だと言わなければなりません。「ポンテオ・ピラト」という名前・固有名詞は、私たち一人ひとりが持つ名前に置き換えられるものです。ピラトのもとに受けた主イエスの苦しみは、私のゆえに、私の罪のゆえに、私のもとに受けた苦しみです。私のゆえの、私のもとに受けてくださった苦しみ、私のための苦しみです。 誰よりも低いところに立って、主イエスは、私たち人間の罪をすべてを引き受けられた。そうして、十字架へと引き渡されたのです。
今日の説教の題を「どん底に立つキリスト」といたしました。これは私の言葉ではありません。これも先週の父母分級でご紹介したことですけれども、東京神学大学が出しています「東神大パンフレット」というシリーズがあります。その中に、熊澤義信先生がお書きになった『十字架と復活』というパンフレットがあります。
このパンフレットをテキストに昔求道者会をしたことがあるのですが、その中に「どん底に立つキリスト」という項目があります。今日のマルコによる福音書の主イエスのお姿、ユダヤ人たちに裁かれ、痛めつけられ、ペトロに捨てられ、ピラトによって裁かれ、ローマ兵たちから嘲りを受けてばかにされ、十字架につけられ、十字架につけられてなお嘲り罵りを受ける主イエスのお姿。この主のお姿を読み続けていたとき、昔読んだこのパンフレットにあった言葉が思い出すともなく浮かびました。「どん底に立つキリスト」。そのままこの言葉を説教題にしました。
そこで熊澤先生はこのように書いておられます。〈十字架のキリストは、わたしたちよりも数段高いところに立っておられるのではなくて、死や、憎しみや、絶望や、闇などといった、人間のどす黒い現実が渦巻くどん底に立っておられ、そこからわたしたちに語りかけておられるのです。〉
この「どん底に立つキリスト」という項目に「〈わがこと〉としての十字架」という項目が続きます。先週の父母分級ではこの部分の文章をご紹介したのですが、ここでもご紹介したいと思います。最初にこの項目の終わり部分をご紹介します。こういう文章です。〈キャッチボールをするとき、素手で高いところから落ちて来る球を受けとめようとしますと大変痛い思いをしますし、またとても危険でもあります。ところが、たとえて言えば、主イエスは東京タワーのような高いところからものすごい勢いで落ちて行く私たちを、真下に立って、両手を広げてしっかりと受け止めてくださったような姿で、私たちの罪のすべての重荷を受けとめてくださったのです。そのために苦しみに耐え、肉を裂き血を流されたのです。私たちの罪を割引なしにまともに受けとめておられるのが、イエス・キリストの十字架です。〉
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられた主イエスは、ユダヤ人の、ローマ人の、ペトロの、弟子たちの、群衆の、ローマの兵士たちの、道行く人たちの、主と一緒に十字架につけられた二人の強盗の、そしてピラトの、すなわち私たちすべての者の罪のすべて、この私の罪のすべてを、その重みのすべてを全く割引なしにまともに受けてとめて十字架にかかり、肉を裂き、血を流して、私たちすべての者(この私)の罪のための贖いを成し遂げてくださったのです。
この「〈わがこと〉としての十字架」という項目の前半部にはこういうことが書かれています。少し長いですがご紹介します。〈日本人の感覚としては、キリストの十字架は残酷だという印象を受けます。実際わたしがヨーロッパに居りましたとき、日本の人から、至るところにある十字架のキリスト像についてよくこのような印象を聞きました。数年前まである大学の学長をされていた原子物理学のF教授も、そのような考えの一人でした。ところが、先年ヨーロッパに行き、オーストリヤに旅行されたとき、道が二股になっているようなところに、随所に立っている十字架のところに来ると、車を停めてじっと黙祷され、それがあまり度々なのでどうしたわけかと周りで尋ねたところ、教授は次のように答えたそうです。「自分は十字架はずいぶん残酷でどうしてキリスト者がこれを大切にしているか分からなかった。ところが、息子が交通事故で亡くなったとの知らせを、ヨーロッパ滞在中に受けて、自分は今までとは全く違った気持ちになった。自分が、非常に大きな心の痛みを感じるようになった時に、今まで残酷に思われていたキリストの姿が、実はこういう私たちの痛みを担っている姿なのだ、ということに初めて気が付いた」と言われるのです。十字架は、ひとごととしてみると残酷に見えますが、あれをわがこととして受け止め、あの姿が一体誰のためのものであるかがわかって来るとき、全く見方が変わってまいります。そのことなくしては、私たちの人生はあり得ないことになります。パウロが「十字架のことばは、滅びゆく者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには、神の力である」(1コリント1:18)と述べていることを、私たちは改めて考えさせられるのです。〉
キリストは、どん底に立って、私たちの罪の重荷を割引なしにまともに受けとめていてくださる、そのようなメシア・救い主です。そのような私たちの王です。この私の罪のために十字架にかかり、肉を裂き血を流して、この私の罪、自らを高く置いてそこから真っ逆様に落ちて行くような私の罪を割引なしに受けとめてそれを赦し、どん底に落ちてしまったような私を支えていてくださいます。主の十字架の苦しみはこの私のためだということが分かったならば、私たちは、これ以上ないというようなどん底の経験をするときにも、これ以上ないという辛いときを過ごすときにも、そのどん底にキリストがおられるということを知ります。そこでキリストが、私の罪も痛みも悲しみも辛さも、全て担って共に立っていてくださることに気づくことができるのです。
私たちはこんなにきついことはないという経験をします。どう生きたらよいか分からないようなときを生きなければならないことがあります。しかしそのときにキリストの十字架が〈わがこと〉〈わがため〉であると知っているなら、そのどん底に、キリストが十字架につけられた姿で両手を広げて、この私の存在すべてを受けとめていてくださるということを知ることができる。これ以上はないというどん底のその下に、十字架のキリストがいてくださるのです。
この十字架のキリストは、私たちの前に立ち、私たちを導いてくださる復活のキリストです。十字架と復活のキリストが私たちの下から、前から上から、私たちを支え導いて下さいます。このキリストをこそ、私の主、私の救い主、私の王として、生きていきたいと願います。そこに、実に自由で喜ばしい命の道が拓けているのです。