2023年8月13日 特別礼拝説教「出会いとしての眞理」 小倉 義明先生
ヨハネによる福音書第1章40~48節
ペトロの手紙1第1章8~9節
<序>
いつぞやテレビで、イギリスの古物商の話を放映していました。古物商は、ある中年夫婦から倉庫にある古い道具類を引きとってほしいと依頼されます。行って見ると、多くは時代物で商品にはなりそうにない古物でしたが、その下から埃まみれの食器のセットが出てきました。埃をはらい磨いたら、光り出した。ヴィクトリア朝の銀食器だとわかって評判になっている、と言うのです。
今朝は『出会いとしての眞理』という説教題にさせて頂きましたが、<出会い>という言葉、こんにちひどく汚れてしまっていますね。本来は高貴な言葉です。埃をはらい、汚れを拭い去る必要があるのではないでしょうか。
<Ⅰ> キー・ワード<出会う>
さて、ヨハネによる福音書第1章40~48節、ここは主イエスが公生涯に入られた最初期の報道で、弟子となる人々、アンデレ、シモン、ピリポ、ナタナエルに対して、主イエスが召命のお声をかけられた情景であります。この叙述で誰もが目に留まるのは「出会った」という語が続けて出てくる点でありましょう。41、43、45節で5回も出て参りますね。福音書記者は明らかに、意識的にこの語によって、主イエスとの対面の特質を伝えようとしているのではないでしょうか。
<Ⅱ> E・ブルンナー著『出会いとしての眞理』
今朝の説教題「出会いとしての眞理」は、実はスイスの偉大な神学者、E・ブルンナー先生の著書の題名そのものなのです。その書『出会いとしての眞理』(1938)は、キリスト教の真理は人格的な真理であって、モノを扱う時のような客体化され得ない主体的真理である、と言います。それは<われーそれ>の関係で実証的に検証しようとする「名詞的真理」ではなく、<われーなんじ>の人格関係において実存的に体験されるべき「動詞的真理」であって、それは<人格的な出会い>において出来事として私たちに関わる真理である、と説いています。
ブルンナー博士は永年チューリッヒ大学の教授であり(1924~1953)、その間、大学総長も務めた方ですが、1953年に、東京に創設されたばかりの国際基督教大学から招聘を受けます。博士はこの招聘に「私は宣教師として行こう」と応じて来日します。以後1955年まで満2年、教育と講演、各種の協議会に多忙の日々を送られました。
この時、東京神学大学のゼミで用いられたテキストが、ブルンナー教授の『出会いとしての眞理』の英語版だったそうです。そのゼミには大木英夫先生も加わっており、その知遇を得て大木先生は国際基督教大学でブルンナー教授の助手を務めることになります。
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それから6年後の1961年、私は日本基督教団出版部に編集者として働いていました。ある日、上司から分厚い原稿を手渡されました。私は原稿整理から校了まで5回読みました。驚くべき内容でした。目から鱗でした。学術書でありながら、烈々たる熱情が籠っているのです。この本の書名は、『ブルンナー その人と思想』、著者は大木英夫。本書の著書はその「あとがき」の中でこう述べています。「わたしがブルンナーから学んだものは多大であり、しかも根本的な点では深い思想的同一感をブルンナーに対してもっている」「ブルンナーは心からわが恩師と呼べる人であった」「(本書は)激情(パッション)をもって生み出されたブルンナーの証人である。わが国のキリスト教化のため身命を捧げて奉仕したブルンナーの真実の意味と価値とを、恐れることなく大胆に証しするよう、著者みずからが、この小さき証人を激励をもって押し出してやりたいように思うのである」。出会いにおける激情的な感動が籠っていますね。
本書は1962年12月23日に刊行されました。著者の要望だったからです。この日はブルンナー博士の満73歳の誕生日だったのです。このような仕方で私は大木英夫先生との出会いを与えられ、翌1963年のクリスマスに当滝野川教会へ転入させて頂き、翌年の4月に東京神学大学へ入学したのでした。<出会い>は人の生き方を方向づけるのですね。
<Ⅲ> 内村鑑三と矢内原忠雄
<出会い>は激情的な感動を呼び出し、また人の生き方まで方向づける、ということを申しあげました。皆さまにも思い当たるところがおありなのではないでしょうか。
内村鑑三先生については、多くの方がご存知でありましょう。内村鑑三(1861~1930)は札幌農学校の第2期生、在学中に「イエスを信ずる者の誓約」に署名、受洗し、首席で卒業しています。開拓使御用係、次いで東京へ出て来て農商務省水産課に勤務します。結婚に失敗し、その翌月、あわただしく横浜を出帆して渡米します。1884年(明治17)内村24歳の時のことであります。
内村は渡米後、数か月福祉施設で働いたのち、札幌農学校教頭であったクラーク先生の母校アマースト・カレッジに編入します。その翌年(1886)3月8日の日記に彼はこう書いております。「わが生涯におけるきわめて重要な日。キリストの罪のゆるしの力が今日ほどはっきりと啓示されたことはなかった。今日までわが心を悩ませていたあらゆる疑問の解決は、神の子の十字架にこそあるのだ」と。何があったのでしょうか。
この時のことを、38年後の1925年(大正14)の『聖書之研究』誌で詳しく書いています。ある日、内村が大学のキャンパス内を歩いていた時、学長のシーリー先生と出会うのです。内村は胸中の様々な問いや悩みを抱えて、うつ向いて歩いていたのでしょう。シーリー先生は、鑑三、どうしたのかね、と尋ねます。内村は、養護施設で働いたのは、奉仕のわざによって自己の内なるエゴイズムを滅ぼすためでしたが、そのようにいくら努力してもダメなのです、と打ち明けました。ここで内村は「自己の内なるエゴイズム」と言っていますが、内村の別の回顧では「肉体のトゲ」(コリントの信徒への手紙2第12章7節)と言っておりますので、多くの研究者は内村の結婚とその数か月後の破綻がその直接の重荷であったろう、と言っております(内田芳明『現代に生きる内村鑑三』、4頁、35頁)。
苦悩する内村青年にシーリー先生はこう言うのでした。「内村、君は君の内のみを見ている。ご覧、あの美しい夕日を。あの夕日を見るように、君は君の外を見なければいけない。なぜ君は自分を省みるのをやめて、十字架の上で君の罪をあがない給いしイエスを仰ぎ見ないのかね」。
「先生のこの忠告に私の霊魂は醒めたのである」。こうして3月8日の日記に「わが生涯におけるきわめて重要な日」と内村鑑三は書きつけたのでした。その日以後の彼の日記はガラリと変わっていきます。「<罪に死ぬ>ことは、わが罪深い心を見つめることによってにあらず、十字架につけられたまいしイエスを見上げることによって完成されるのだ」(半年後の9月13日)という言葉が繰り返し出てきます。
9年前の札幌農学校時代の受洗時(1878年)に対して、この時を研究者たちは内村の第二の回心と呼んでおります。それほどに自分が根底から変えられるのを導いてくれたシーリー先生を、内村は終生敬慕しました。まさしく<出会い>の経験だったのですね。
内村がシーリー学長と出会った時から26年後(大正元年、1912)のこと。矢内原忠雄という青年がいました。のちに東京大学学長になられた方です。彼はその回想録の中で、このように書いています。
「私が入門して間もなく、翌年1月のことでありますが、先生の愛嬢ルツ子さんが永眠しました。私と同年の19歳でした。その葬儀で先生が感想を述べて、『これはルツ子の葬式ではない、結婚式である。彼女は天国へ嫁入ったのである』と言はれましたが、基督教に全く初心であつた私は、それまでにかかる言葉を聞いたことはかつてありませんでした。しかし先生が戯談を言ってをられるのでないことは、その厳粛極まる悲痛な表情によって疑ふ余地はありません。さらに葬列が雑司ケ谷の墓地につき、柩が穴に下され、先生が一握の土をつかんだ手を高くさし上げて、『ルツ子さん萬歳!』と叫ばれましたとき、私は雷に撃たれたやうに全身すくんでしまひました。『これはただごとではないぞ。基督教を信ずるといふことは生命がけのことだぞ』と私は思ひました。これは今日なほ忘れえない感動であります。」
<Ⅳ> キリスト・イエスを通して神と出会う
以上申し上げた諸事例は、<出会い>が人の一生を方向づける大事件であることを証ししています。人と人との出会いではありますが、実はその根底にあるのはみなイエス・キリストとの<出会い>であります。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったように、みなイエス・キリストを指差しているのです(ヨハネによる福音書第1章29節)。そして、みなイエス・キリストを通して、神と出会っているのです。
ヨハネによる福音書第1章18節を見てみましょう。「神を見た者はまだひとりもいない。ただひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」。主イエスは、神が愛なるお方であることを証しするために人となり給いました。主は人の子として生くる悩みをなめ、自らの生きざまを以て人々に信望愛を教え給いました。そして十字架の死に至るまで御父への信従を捧げ、そして人々に愛とは犠牲であることを証しされたのです。
主イエスは人の子として「全き人」でした。その生き方は「全き神」であられるからこそ成し遂げられました。「全き神にして全き人」これが、聖書が証しする私たちの救い主なのであります。この救い主が私たちのもとにまで来てくださり、出会ってくださっているのであります。このお方と出会うことによって、私たちは神と出会うのであります。
<結 語>
<出会い>という原語「ユーリスコー」には「探し求めて遂に出会った」という含蓄があります。ですから、私たちの側にも「探し求める」生き方が大切なのではないでしょうか。ブルンナー先生も大木先生も、内村先生も矢内原先生も、生きる意味と目的を、「まことの光」「眞理」を、眞剣に探し求めた人たちであったのではないでしょうか。こちらが探し求めていなければ、「見ても見ず、聞いても聞かず」ということになりましょう。だから主イエスは「求めよ、さらば与えられん」と言われたのです。私たちは熱心に求めなくてはと思うのです。
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私たちが求めていると、何が起こるでしょうか。何に出会うのでしょうか。イエス・キリストを通して神の方が私たちを探し求めておられることを知らされるのです。私たちを探し求めておられる神と出会うのです。主イエスが迷い出た小羊を探し求める羊飼いの姿を語られたのは、まさしく革命的なことです。
神の方が私を探しておられる、と! しかり、私たちはその知らせに驚く。そうです。神さまの方が私を探し求めておられるという証しに十分驚くことです。ナタナエルも主イエスの噂を聞いて驚いたのです。フィリポから「ナザレの人、イエスに出会った」と聞かされると、「ナザレのような僻村から何の良い者が出ようか、出るはずがない」と応えています(46節)。けれどもフィリポは「とにかく来て、見なさい」と熱心に奨めるので、しぶしぶ従いて行くと、主イエスの方からナタナエルに語りかけられるのでした。「私は、あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と(48節)。
<いちじくの木>とは、福音書において象徴的な意味を持って登場しますね。「ぶどう園の中に植えられた1本のいちじくの木」について主イエスが語っておられます(ルカによる福音書第13章6~9節)。ぶどう園の中でただ1本だけがいちじくの木、そのいちじくは3年間も果をつけないので、危うく切り倒されるところ、園丁がとりなしたという譬です。そのいちじくの木の下にいたとは、何事かを象徴しているのではないでしょうか。
主イエスがナタナエルを指して「まことのイスラエル人、この人には偽りがない」と言われたのは、正義感が強く、率直で潔癖な人という意味で、謂わばナタナエルの長所を認めておられるのでしょう。けれども、愚直で潔癖な人は、得てして世人から疎まれてその結果、不信感が強く、僻みっぽく、世間に対して拗ねた態度をとる、謂わば欠点をも持つ傾向があります。ナタナエルが「いちじくの木の下にいた」とは、彼がそういった精神状態であったことを暗示しているように思われるのです。ナタナエルは「この人は只者ではない、自分を見抜いておられる」と驚きます。自分が知るよりも前に、この人に知られていると、驚くのです。使徒パウロもそういう経験をしたらしく、「(あなたがたは)知っているのに、否、知られているのに」と言っておりますね(ガラテヤの信徒への手紙第4章9節)。
神の方が私たちを探し求めて下さっていた!そのことを知らされて私たちは驚く。そしてそのような方をこそ私は求めていたのではないかと気づくのです。これが私たちの神との<出会い>であります。この出会いの感激が讃美・告白となり、アンデレやフィリポのように「来たりて、見よ」という<証人>を生み出すのです。ブルンナー先生も大木先生も、内村先生も矢内原先生も、このようにしてキリストの証人になられた人たちです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです(ペトロの手紙1第1章8~9節)」。
教会は証し人の群れです。滝野川教会は120年の間、多くの立派な証人たちを輩出してきました。私たちは、このような先達から「来たりて、見よ」とここへ導かれ、出会いとしての眞理を体験してきました。私たちも「来たりて、見よ」と言う証人でありたい。そう切に願うのであります。