2023年7月30日 主日礼拝説教「救い主の声を聞き分けよう」 東野尚志牧師

詩編 第23編1-6節
ヨハネによる福音書 第10章22-30節

 コロナ禍の中で、新たに始めたことの一つに、聖書通読の呼びかけがありました。聖書を通して読むのです。私たちプロテスタント教会が用いている聖書では、旧約聖書は創世記から始まってマラキ書まで39の書物が収められています。新約聖書はマタイによる福音書からヨハネの黙示録まで27の書物があります。旧約39巻、新約27巻、合わせて66巻の書物からなる聖書をすべて通して読むのです。3年前の4月以降、何度も緊急事態宣言が出され、主の日の礼拝に集まることをも控えなければならないような、厳しい感染状況の中に置かれました。そのような中で、なんとか信仰の生活が支えられるようにと願って、聖書通読を始めたのです。
 第1回の聖書通読は、3年前、2020年の10月1日から始まりました。聖書通読カレンダーを作成して、毎月配付しました。月曜日から土曜日まで、その日に割り当てられた旧約聖書と新約聖書の箇所を続けて読んで行くのです。約1年かけて、聖書の全体を読むという計画でした。第1回の聖書通読は、口語訳聖書に基づいて進められて、2021年の11月29日に終了しました。どれだけの方が参加してくださったのか、実態は分かりません。けれども、参加者の中からも、次は聖書協会共同訳で聖書通読をしたいという声が聞こえて来て、大いに励まされました。そして、昨年、2022年の4月から、教会で用いる聖書が、口語訳から聖書協会共同訳へと切り替わり、皆さんの手元にも、新しい翻訳の聖書が用意された頃合いを見て、昨年のペンテコステ礼拝の翌日、6月6日から聖書協会共同訳による第2回の聖書通読を開始しました。それから1年と2か月を経て、いよいよ、今週の木曜日をもって、聖書全巻を読み終えることになるのです。
 聖書通読カレンダーが配られなくなっても、ぜひ、毎日、聖書を読むという習慣を続けていただきたいと願っています。いや、私自身、ぜひそれを続けて行きたいと、改めて感じています。現代社会には、さまざまな言葉が溢れています。新聞やテレビのニュースだけではありません。パソコンやスマホを通して、ネット上のさまざまな情報や言葉が押し寄せてきます。うっかりすると、この世の言葉の中で溺れそうになるのです。私たちが、どこで言葉を学び、どこで言葉を身につけているかが問われます。主イエスは言われます。「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う」(10章27節)。さまざまな言葉や多くの声が溢れている世界の中で、主イエスの羊として、主イエスの声を正しく聞き分けるために必要なことは、聖書の言葉を読み続け、聖書を通して、神の言葉を聞き続けるということなのだと思います。そうしてこそ、言葉が溢れているこの世界のただ中で、正しく、主の声を聞き分けることができるようになります。主の声を聞き分ける良い耳が養われていくのです。

 ヨハネによる福音書の第10章は、22節から新しい「見出し」のもとで話が始まっています。「ユダヤ人、イエスを拒絶する」とあります。でも、ここから話題がすっかり変わっているわけではありません。ここにも、羊と羊飼いの話が出てくるように、羊飼いのたとえは続いているのです。「良い羊飼い」である主イエスが、私たち羊のために命を捨て、私たちを救ってくださるお方として来てくださいました。それですべてが丸く収まったわけではありません。この羊飼いの声を聞き分けて、羊飼いの後に従って行く羊と、羊飼いを受け入れようとせず、羊飼いの教えに反発して、むしろ、これを殺そうとする者が分けられることになります。まことの良い羊飼いである主イエスが来られたことによって、主イエスに従う羊と、主イエスの羊ではない者が、はっきりと分けられることになるのです。その区別が顕わになります。主イエスと出会い、主イエスの話を聞いていくと、必ず、そこには分裂と対立が起こります。その様子は、きょうの箇所の直前にも描かれていました。
 第10章の19節以下の段落にこう記されています。「この言葉をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。『あれは悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたがたはその言うことに耳を貸すのか。』ほかの者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目を開けることができようか』」(10章19~21節)。「対立」と訳されている言葉は、口語訳聖書では「分争」と訳されていました。主イエスが語られた言葉をめぐって、聞いている者たちの間で意見が対立し、分裂と争いが起こったのです。一方には、主イエスのことを「悪霊に取り憑かれて、気が変になっている」と言う者がいました。しかしもう一方に、「悪霊に盲人の目を開けることができようか」と言う人たちもいるのです。主イエスが、盲人の目を開けられたのは、第9章の話です。主イエスは、道ばたで物乞いをしていた盲人、生まれつき目の見えなかった人を癒やされました。その目を開いてくださったのです。その出来事がなおも、ユダヤ人の指導者であるファリサイ派の人たちの間で、主イエスが誰であるかという理解をめぐってくすぶり続けているのです。

 それを受けて、10章の22節以下、「その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」と始まります。「神殿奉献記念祭」といういかにも堅い言葉が目にとまります。新約聖書の中では、ここにしか出て来ない言葉です。聖書の中には、過越祭、五旬祭、仮庵祭など、祭りの記事がたくさん出て来ます。ほとんどの祭りは、もとは農耕生活の中での種まきや収穫に関連した祭りとして始まったのだと思われます。そこに宗教的な意義づけが与えられて、先祖たちの宗教的な体験が再確認され、世代を超えて受け継がれていくための機会として大切に祝われるようになります。ところが、「神殿奉献記念祭」は、農耕の祭りとして始まったものではありませんでした。そうではなくて、歴史的な出来事に基づく祭りとして、最初から、信仰的な祭りとして大事にされたのです。「神殿奉献記念祭」、神殿をお献げする記念のお祭りですから、私たちの教会で言えば、献堂式に当たるかもしれません。けれども、献堂式が、新しい会堂をお献げする一回的な祭りであるのに対して、聖書に描かれている「神殿奉献記念祭」は、毎年、同じ日に、祝われる大事な祭りでした。
 かつての口語訳聖書では、「宮きよめの祭」と訳されていました。ただし、そのように訳すと、主イエスがエルサレムに行かれ、エルサレムの神殿において、犠牲の動物の売り買いや献金用の貨幣の両替など、いわゆる商売をしていた人たちを神殿の境内から追い出された出来事と紛らわしくなるかもしれません。むしろ、「宮きよめ」という言葉で私たちが思い浮かべるのは、主イエスが神殿の中で行われた、いささか暴力的とも見える激しい振る舞いの方であると思います。
 マタイ、マルコ、ルカの共観福音書によれば、主イエスによる宮きよめは、主イエスの地上のご生涯の最後の一週間、受難週の初めに行われたことになっています。エルサレム入城の翌日の出来事として報告されているのです。ところが、ヨハネの福音書では、ガリラヤのカナでの婚礼の記事に続けて、かなり早い時期に行われています。第2章に記されていました。神殿の境内で商売をする人たちを追い出された後、主イエスは、ユダヤ人たちから問われます。「こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」。すると、主イエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と答えられるのです。ユダヤ人たちには、主イエスの言葉の意味が分かりませんでした。そこに、福音書記者が注をつけています。「イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」。神殿というのは、人々が集まって神を礼拝する場所です。神と人とが出会う場所です。主イエスは建物としての神殿が壊されてしまっても、主イエスご自身が、神と人との出会う場所となってくださるということ、いや主イエスにおいてこそ、私たちは神と出会い、神を礼拝することができるようになると告げてくださったのです。

 同じ神殿に関わることですけれども、ヨハネの福音書の第10章に描かれている「宮きよめ」は、やはり「神殿奉献記念祭」と訳した方がよいのだと思います。ヘブライ語では「ハヌカ」と呼ばれる祭りで、ユダヤ教では、今も大切に守られています。ユダヤ教の暦でキスレウの月の25日から8日間にわたって祝われます。太陽暦では11月から12月にあたります。ちょうど、キリスト教会のアドヴェントからクリスマスの時期に重なるのです。このお祝いをする8日間、8本のろうそくに、一日一本ずつ、明かりを灯していきます。もしかすると、この習慣が、アドヴェントのろうそくとしてキリスト教会に取り入れられたのかも知れません。「光の祭り」とも呼ばれるのです。
 神殿の奉献、ということで言えば、最初の神殿が建てられたのは、ソロモン王の時代でした。ダビデの子であるソロモンが、神の宮としての神殿を建てました。それ以前は、荒れ野の時代と同じように、幕屋の中に聖所が設けられていたのです。ユダヤの国が最も栄えていた時代のことですから、金の装飾をふんだんに用いたとても豪華な神殿であったと言われます。その聖所の奥、至聖所には、神の臨在を証しする契約の箱が置かれていました。ところが、この神殿は370年ほど後、南王国ユダを滅ぼしたバビロニアの王ネブカドネツァルの手で、徹底的に破壊され、宝物や祭具も奪われてしまいます。そして、歴史に名を残すバビロン捕囚が始まったのです。
 その後、バビロニア帝国を倒したペルシアの王キュロスによって、捕囚の民は解放されます。イザヤ書の中で、このキュロスは、ユダヤ人ではないにもかかわらず「メシア」と呼ばれています。解放者、救い主としての意味合いが強いのかもしれません。このキュロス王の勅令によって、捕囚の民のユダの地への帰還が認められただけではなくて、同時に、破壊されたエルサレム神殿の再建も命じられます。帰還した民は、ダビデの血筋に属するゼルバベルと大祭司イエシュアのもと、預言者ハガイ、ゼカリヤの励ましを受けながら、神殿を再建して奉献式を行います。紀元前515年のことです。この神殿が、基本的には、主イエスの頃にもエルサレムに建っていた神殿ということになります。ただし、ヘロデ大王のもとで、46年もかけて、大がかりや修築と拡張工事が行われたことが記録に残っています。

 「神殿奉献記念祭」と呼ばれる「ハヌカ」の祭りが始まったのは、紀元前164年のこととされます。バビロン捕囚の民を解放したキュロスは、ペルシア帝国の王でした。そのペルシアを征服したのが、歴史に名高いアレクサンドロス大王です。30歳までにギリシアからインドにまで及ぶ大帝国を建設しました。そして、優れたギリシアの文化を広めていったのです。アレクサンドロス大王の死後、帝国は分割されて、ユダヤの国はシリアの王の支配下に置かれることになりました。ギリシアの文化がユダヤ人の生活にも入り込んできて、ユダヤ人なのに、ギリシア風の名前をつけることが流行ったりしたそうです。流行りくらいで済めば大きな問題はなかったかもしれません。しかし、シリアにアンティオコス四世という王が即位してから、それは流行りだけでは収まらなくなりました。アンティオコス四世は、自らエピファノスと名乗り、自分を神として崇めることを求めるようになります。そして、ユダヤで少々内紛が起こったのをきっかけにして、厳しい支配と迫害を始めたのです。律法の書は廃棄され、ユダヤ人のしるしである割礼は禁止されました。自分の子どもに割礼を受けさせた者は、捕らえられて死刑に処せられました。エルサレムの神殿にギリシアの神であるゼウスの像を安置して、エルサレム神殿を力ずくでゼウスの神殿に変えてしまおうとしました。この宗教弾圧とも言える厳しい迫害の中で立ち上がったのが、ユダ・マカバイオスという人物でした。そして、約3年に及ぶ激しい戦いを経て、信仰の自由を勝ち取ります。異教の偶像によって汚された神殿をきよめ、整え直して奉献したのが、紀元前164年、ハヌカの祭りの始まりなのです。
 このあたりの歴史は、旧約聖書の続編に分類されている「マカバイ記」の中に詳しく描かれています。ご承知の方も多いと思いますが、聖書協会共同訳は、プロテスタント教会とカトリック教会が共同で翻訳事業に携わりました。それで、二種類の聖書が作られることになりました。私たちが用いている、旧約39巻、新約27巻、合計66巻からなる聖書だけではなくて、カトリック教会が第二正典として重んじている文書を、旧約聖書の続編として、新約と旧約の間に挟んでいる続編付きの聖書もあるのです。カトリック教会では、この続編の文書も、正典と同じように礼拝で用いています。その中には、旧約聖書と新約聖書の間の時期、いわゆる中間時代の歴史を扱っている文書もあるので、とても興味深いものがあります。けれども、私たちプロテスタント教会では、主の日の礼拝において、この旧約聖書続編の言葉を説くことはありません。それは、聖書正典の中に含められていないからです。「外典」と呼ばれます。正典の枠の外にあるわけです。しかし、ヨハネの福音書第10章に記されている「神殿奉献記念祭」の背景を知るためにはとても参考になる文書です。機会があれば、旧約聖書続編の「マカバイ記」を読んでみてくださればよいと思います。また音楽の好きな方であれば、ヘンデルのオラトリオに「マカベウスのユダ」という作品があるのをご存じであると思います。その中にある勝利の調べ「見よ、勇者は帰る」と呼ばれる曲が、スポーツの祭典の表彰式で用いられたりします。とてもよく耳に馴染んでいる調べです。ちなみに、讃美歌130番、主イエスのエルサレム入城を歌う讃美歌は、このメロディで歌われています。

 さて、そのような歴史的な背景を持つお祭り、「神殿奉献記念祭」のときに、主イエスはエルサレムの神殿に上って行かれました。神殿の境内のソロモンの回廊を歩いておられると、すぐに、ユダヤ人たちに取り囲まれて、厳しく問いただされます。「いつまで私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。主イエスはこれまでにも、水をぶどう酒に変えたり、病人を癒やしたり、わずか五つのパンと二匹の魚で大群衆を養ったり、湖の上を歩いたり、不思議な業を行ってこられました。それは人間業とは思えないような、力ある業でした。そして、この直前には、生まれつき目が見えなかった人の目を開いて、見えるようになさったのです。いったい、あなたは何者なのか。メシアなのか、そうであるならはっきり言ってくれ、と言うのです。先には、ユダの民をバビロン捕囚から解放したペルシアの王キュロスが「メシア」と呼ばれたこともありました。アンティオコス四世エピファネスの宗教弾圧をはねのけたユダ・マカバイオスあたりも、メシアとして歓迎されたに違いありません。まさに民族的な英雄です。けれども、いったんは取り戻したかに見えた宗教的な自由も、やがてギリシアに代わって台頭したローマ帝国の支配下で踏みにじられています。ユダヤの民は、メシアの到来を待ち望んでいました。パンを食べて満腹した人たちが、主イエスを王として担ぎ上げようとしたこともありました。ユダ・マカバイオスによる「宮きよめ」を思い起こしながら、エルサレムの神殿は、新たなメシアの登場を待ち望む人たちで賑わっています。そのただ中に、主イエスが姿を現わされた。待ち構えていたように、あなたがメシアなのか、はっきり言ってくれ。そう言って人々は迫ったのです。
 主イエスは答えて言われます。「私は言ったが、あなたがたは信じない。私が父の名によって行う業が、私について証しをしている。しかし、あなたがたは信じない。私の羊ではないからである」。これまで、主イエスご自身が、自分はメシアであると公言されたことはありません。しかしここには、ヨハネの教会がユダヤ人たちに対して、「主イエスこそがメシア・キリストである」と証し続けてきた歴史が重ねられているのだと思います。しかも、主イエスが父なる神の名によって、つまり、父なる神の独り子としての権威によって行われた業そのものが、主イエスこそ神から遣わされた救い主であることを証ししているのです。しかし、ユダヤ人たちは、主イエスの言葉も、主イエスを宣べ伝える教会の言葉も信じようとはしませんでした。それは、彼らが主イエスの羊ではないからだと、主は言われます。そんなふうに言われると、また私たちの中に、むらむらと不安な問いが渦巻いてくるかも知れません。果たして、私は主イエスの羊なのか。それとも、主イエスの羊ではないのか。もしも、もともと主イエスの羊でないならば、どんなに一所懸命になって、主イエスの言葉を聞き分けようとしても、あるいは、主イエスを信じようとしても、無理だと言うことになりはしないのか。主イエスが来られたことで、羊が分けられるのではなくて、予め分けられているところに主イエスが来られたのだとすれば、どうすればよいのでしょうか。

 私たちは、思い違いをしてはなりません。今、私たちが神の招きに応えて、共に礼拝に集い、主イエスの声を聞いているのは、私たちが自分の理解や意志に基づいて、主イエスを自分の羊飼いとして選んだからではありません。そうではなくて、神が私たちを選んで、招いてくださいました。それは、神さまがお決めになったことで、私たちの側には選ばれる理由も根拠も一切ありません。神さまが、私たちを愛して、私たちを命へと招いてくださったからこそ、私たちは今、ここにいるのです。礼拝に連なり、真の羊飼いである主の声を聞いているのです。主イエスが、今、私たち一人ひとりに、私はあなたを知っている。あなたは私のもの、あなたの命は、私が命を捨てて滅びの中から救い出した、と告げてくださっているのです。主は約束して言われます。あなたは私のもの。私はあなたに永遠の命を与える。あなたは決して滅びず、あなたを私の手から奪う者はいない。私たちのために、ご自身の命を捨ててくださった救い主が、よみがえって、今、私たちをご自分のものとして捕らえていてくださるのです。父なる神が私たちを、主イエスの羊、主イエスのものとして選び取ってくださいました。その私たちを、主イエスの手から奪い取ることのできる者は誰もいません。サタンが、私たちの背後からすり寄って、私たちを悪しき道へと誘うとしても、私たちは、主の声を聞き分け、主に従い行くことができます。主が、私たちをご自分のものとして、しっかりと捕らえていてくださるからです。
 主イエスは、ペルシア王キュロスやユダ・マカバイオスのように、武力で相手を打ち負かし、一時的な勝利をもたらすようなメシアではありません。そうではなくて、私たちのために犠牲となって、私たちを罪と滅びの中から永遠に贖い出してくださった苦難のメシアです。そして、目に見える神殿によってではなくて、三日で建て直されたご自身の体において、神さまと私たちを一つに結び合わせてくださるのです。主は言われます。「私と父とは一つである」。主イエスと父なる神は一つであり、主イエスに結ばれた私たちは、この大いなる祝福に満ちた神ご自身の豊かな交わりの中にあずからせていただくのです。主イエスの羊、主イエスに従い行く羊の群れとして生かされる恵みの中で、羊飼いである主の声をしっかりと聞き続けていきたいと思います。