2023年7月2日 主日礼拝説教「あなたの名を呼ぶ主イエス」 東野尚志牧師

イザヤ書 第43章1-7節
ヨハネによる福音書 第10章1-6節

 皆さんは、イエスさまというお方を、どのような方として思い浮かべておられるでしょうか。写真が残されているわけではありませんけれども、もしかしたら、聖書に基づいて作られた映画や、主イエスを描いた絵画などから、知らない間に、主イエスの外見についてのイメージをすり込まれているのかもしれません。今から40年以上前に作られた『ナザレのイエス』という映画がありました。オリヴィア・ハッセーが、母マリアの役を演じて話題になりました。オリジナルは6時間を越えるテレビ映画として制作されたようですけれど、日本で劇場公開されたときは短く編集されて、それでも3時間を越える大作でした。公開されたのは、私が大学1年生の時でした。途中入れ替えなしの映画館だったので、朝から2回繰り返して観たのを覚えています。7時間以上、映画館にいたことになります。背が高く、スマートで、肩まで伸びた金髪、青い目のイエスさまで、当時も賛否両論ありました。イエスさまはユダヤ人のはずです。西洋人ではなく東洋人です。まるで、ヨーロッパの貴族のような風貌に、違和感を抱いた人もいたようですけれど、逆に、憧れを抱いた人も少なくありませんでした。何か理想的なイエスさまの姿を見たような気になったのです。
 以前、別の教会におりました頃、教会学校の夏期学校で、イエスさまの顔を描いてみよう、という少々不遜な企画がありました。子どもたちは、全く自由に、それぞれ、思い思いのイエスさまの顔を描いてくれて面白かったです。怖くて近寄りがたいような、怒った顔のイエスさまを書く子どもはいませんでした。とても同一人物とは思えないような、いろんな顔でありながら、やはりどこか、優しく暖かい表情のイエスさまです。そこには自分たちが思い描くイエスさま像と言いますか、自分たちが期待する理想のイエスさま像が描かれていたと言ってよいのではないかと思います。大人になって、絵を描くことはしなくても、私たちはどこかで、自分の理想とするイエスさま像を追い求めているのかも知れません。そして、実際に聖書を読んでいて、自分の理想どおりのイエスさまの姿に出会うと、うれしくなります。しかし、自分の期待に応えてくれないイエスさまの姿や言葉は、無意識の内に読み過ごしてしまうのかもしれません。

 ヨハネによる福音書の第10章に描かれているイエスさまは、ある意味、私たちの期待どおりの一面を見せておられると言ってよいと思います。イエスさまは、第10章の11節と14節、2回も繰り返して、「私は良い羊飼いである」と言われました。特に、11節では、「私は良い羊飼いである」という言葉に続けて、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語っておられます。私たちは、この言葉を読むと、私たちを罪の支配から救い出すため、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死なれたイエスさまのことを思い起こします。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われたイエスさまは、まさにその言葉通り、良い羊飼いとして、羊である私たちのためにその命を捨ててくださったのです。恐らく、この主イエスの言葉は、多くの人たちにとって、心の支えになっているのではないでしょうか。第10章には、そのような羊飼いと羊の話がたくさん出てくるのです。
 遊牧の生活から身を起こしたユダヤ人にとって、羊はとても身近な存在であったのだと思われます。旧約聖書の中にも、神さまを羊飼いとして描く言葉がたくさんあります。一番よく知られているのは、詩編の第23編だと思います。自らも小さい頃から羊の世話をしていたダビデの詩とされます。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる」と歌います。主なる神が、羊飼いとして私を導いてくださり、豊かな水のあるところに連れて行ってくださる。まさに良い羊飼いである神さまへの信頼を歌う詩編です。「主は私の魂を生き返らせ/御名にふさわしく、正しい道へと導かれる」と続けて歌います。そして、恐らく、私たちが深く心打たれるのは、次のくだりです。「たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める」。死の危険にさらされるときにも、主は共にいてくださいます。だから、災いをも恐れることはないと告白するのです。羊飼いの手にある鞭と杖が慰めとなると言います。鞭は襲ってくる野獣を撃退するためのものかもしれません。また杖は、あの先が丸くなったところで、倒れた羊の首をひっかけて起こしたり、間違った道に行かないように引き寄せたりしてくださるのです。しかし、それだけではないでしょう。時には、わがままで言うことを聴かない羊を打つことがあるかもしれない。しかし、それもまた、羊を導き生かすためなのです。
 詩編第23編は、「私」という個人の歌として歌われています。羊である私を養い守り、導いてくださる羊飼いとしての神さまに対して、深い信頼を歌っています。しかし、誤解をしてはならないと思います。羊は決して、ペットか何かのように一匹だけで飼われているのではありません。本日、招きの言葉として読みました詩編第100編の中では、「主が私たちを造られた。私たちは主のもの。主の民、その牧場の羊」と歌われています。「私たち」、つまり、イスラエルの民全体が、神さまに導かれ養われている羊の群れであると歌っているのです。23編の「私」は、「私たち」という羊の群れの中のひとりとして養われています。聖書は、主なる神とその民であるイスラエルの関係を表わすために、羊飼いと羊の群れというたとえを用いて描くのです。このたとえで、神さまと神の民との関係がよく現されるからです。

 主イエスは、大工の家に生まれて、父ヨセフの仕事を手伝いながら育たれました。イエスさまは、羊飼いの仕事をしておられたわけではありませんけれども、その様子をよく見ておられたのだと思います。だからこそ、ここで、羊飼いと羊の関係をたとえとして用いておられるのです。主は言われます。「よくよく言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く。しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである。」(10章1~5節)。
 当時の社会において、羊の群れは一つだけではありませんでした。羊を守るために、大きな囲いが作られます。昼間は外で、餌や水を求めて導かれた羊たちは、夜になると、囲いの中に戻ってきます。羊たちが襲われないように、夜は囲いの中で守られて眠るのです。夜はその囲いの中に入り、朝にはその囲いから出て行くのですから、囲いの柵には出入り口としての門がありました。そこには門番がいます。門番は、羊が囲いの中にいる間は番をしていなければなりません。羊たちが襲われないように、夜通し番をするのです。囲いの中には、いくつかの群れが一緒に過ごしていて、それぞれの群れにひとりずつ羊飼いがいることになります。朝になると、羊飼いたちがやって来ます。自分の仕事をするためです。門番は、羊飼いと顔見知りですから、羊飼いのために門を開いて中に入れてくれます。囲いの中にはたくさんの羊たちがいるのですけれども、羊飼いは自分の羊をちゃんと知っています。一匹一匹に名前をつけていて、その名前を呼んで連れ出します。恐らく、それぞれの羊の特徴をよく表わしているようなあだ名みたいなものであったと思われます。その名前の付け方にも、愛情が込められていたことでしょう。名前を呼ばれた羊の方でも、自分の羊飼いの声をよく知っています。その声をちゃんと聞き分けて、自分の羊飼いの後についていくのです。
 私たちは、日常生活の中で、羊を目にするわけではありません。動物園に行かないと、実際の羊の姿を見ることはできません。私たちの日常的な感覚からすれば、犬に近いのかも知れません。犬はちゃんと飼い主のことが分かっていて、名前を呼べばどこからでも走ってくる。飼い主以外の声には反応しません。もっとも、犬は群れで暮らすわけではないので、羊とは違います。我が家では、犬を飼ったことがありませんが、猫は2匹います。これがまあ、かわいくて仕方ない。猫は犬と違って気まぐれで、自分が王さま気取りだなどと言われますけれど、我が家の猫は、名前を呼べば、しばらく時をおいて、のっそりと姿を現します。そして、確認するように私の目を見上げてから、膝に駆け上ってくる。やはり、私の声が分かるらしいのです。声を聞き分けて、現れるのです。しかし、猫もやはり、群れを作るわけではありません。やはり、主なる神さまと神の民の関係を表わすのには、羊飼いと羊の群れのたとえが一番よく当てはまるのだと思います。

 ところで、先ほど引用した主イエスの言葉は「よくよく言っておく」と始まりました。これまでにも、何度か出て来ました。「アーメン、アーメン」と始める特別な言い方です。イエスさまは、とても大事なことを語るときに、この表現を使われました。日本語では、「よくよく言っておく」となっていますけれども、原文をみると、「よくよくあなたがたに言っておく」と書かれています。ここでイエスさまが「あなたがた」と言って語りかけておられるのは、明らかに、直前の段落、9章の終わりのところに登場している「ファリサイ派の人々」だと考えられます。9章の物語においては、ファリサイ派の人々が度々登場しました。実は、10章に入ると、「ファリサイ派」という言葉は一度も出て来ません。きょうの段落の結びの6節に「ファリサイ派の人々」と出て来ますけれども、ここは原文では、代名詞で「彼ら」と書かれています。口語訳の聖書では、そのまま「彼ら」と訳していました。共同訳の聖書になって、9章からのつながりをはっきり表わすために、「彼ら」と書かれているのを「ファリサイ派の人々」と訳したのです。主イエスはなぜ、この話をファリサイ派の人たちに向かって語られたのでしょうか。
 聖書の物語が章ごとに区切られて、それぞれに見出しが立てられていると、私たちは、9章と10章を、別々の独立した話のように読んでしまうかも知れません。第9章は、生まれつき目の見えなかった人が主イエスによって癒やされたお話でした。10章に入ったら、もうその話は終わってしまったような気になっているかもしれません。話題が変わって、10章は「良い羊飼い」としてのイエスさまを描いていく、そんなふうに区切って読んでしまいます。けれども、章の区切りは、聖書が書かれた最初からあったものではありません。実は、もとの聖書ではつながっているのです。生まれつき目の見えなかった人は、主イエスに言われた通り、シロアムの池に行って洗ったら、目が見えるようになりました。その日が安息日だったので、律法を厳格に守ろうとするファリサイ派の人たちは、この癒やしの出来事を受け入れようとしません。癒やされて目が見えるようになった人を厳しく尋問して、あたかも、癒やしてくださった主イエスを否定させようとするかのような迫り方をしました。ところが、癒やされた人は、問い詰められる中で、自分を癒やしてくださった方への信仰をはっきりと固めていきます。あの方こそ、神から来られた方であると言い切ったのです。
 その結果、どうなったでしょうか。主イエスによって目を開かれた人は、外に追い出されました。ユダヤ人の共同体から追放されて、社会生活の基盤を奪い取られてしまいました。一匹だけ、群れの中から追い出されたのです。しかしその時、主イエスが再びこの人を見つけてくださいました。そして、この人は、主イエスに向かって「主よ、信じます」と告白して、イエスさまを礼拝する者へと造り変えられたのです。そのようにして、神の業が現れました。神の業が現れたことで、その業が見える者と見えない者が分けられることになりました。自分たちには見えていると思い込んで、自分たちの考える正しさに固執したファリサイ派の人たちには、神の業が見えませんでした。それでも「見える」と思い込んでいる人たちに向かって、主イエスは、「よくよく言っておく」と語り始められたのです。しかしながら、その段落の結びには、厳しい現実が記されています。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」。ファリサイ派の人々は、主イエスのたとえで語られた言葉を、理解しませんでした。理解しようとしなかったのかもしれません。自分たちの権威を脅かす主イエスの存在を認めたくなかったからです。そして、ついには、主イエスを無き者にしようとして、十字架へと追いやることになるのです。

 主イエスは、きょうの箇所で「連れ出す」という言葉を2回用いておられます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く」(10章3~4節)。同じように、「連れ出す」と訳されていますけれど、聖書の原語は違います。最初の「連れ出す」は、中から外へ導き出すという意味合いの言葉ですけれども、後の「連れ出す」は、主イエスに癒やされ、ファリサイ派の言い分に従わなかった人が、外に「追い出された」というのと同じ言葉なのです。ファリサイ派の人たちによって、群れの中から外に追い出された人を、主イエスは再び外に連れ出されたのです。ユダヤ人の信仰共同体の中から追い出された人を、改めて、主イエスが連れ出されるというのです。主イエスにおいて神の業が現されたことを受け入れようとしない偽りの信仰共同体から追い出されたその人を、主イエスは、主イエスを信じ、主イエスの声に従う真の信仰共同体へと連れ出されるのです。この救い主の声を知っている者たちは、まことの羊飼いの後について行きます。まことの羊飼いに呼び出され、導かれ、養われる群れとなるのです。
 本来ならば、ファリサイ派の人たちこそが、神の民の群れを導く羊飼いの務めを託されていた者たちであったはずです。それなのに、自分たちの権威にこだわり、自分たちの正しさにこだわったファリサイ派の人たちは、羊を正しく導くことができなくなっていました。旧約聖書をひもとけば、羊飼いの罪を咎める言葉をいくつも見いだすことができます。神の羊たちを託されたイスラエルの指導者たちは、しばしば、託された羊を食い物にしたり、見捨てたりしました。そういう現実を前に憤られた神さまの言葉が、旧約聖書の中に出て来ます。たとえば、エゼキエル書には、こんな言葉が記されています。神が預言者エゼキエルに語られた言葉です。「人の子よ、イスラエルの牧者に預言せよ。預言して、彼ら、牧者に言いなさい。主なる神はこう言われる。災いあれ、わが身を養うイスラエルの牧者に。牧者は羊の群れを養うべきではないのか。あなたがたは脂肪を食べ、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。あなたがたは弱ったものを力づけず、病めるものを癒やさず、傷ついたものを包まず、散らされたものを連れ戻さず、失われたものを捜し求めず、かえって力ずくで厳しく支配した」(34章2~4節)。
 神の民の世話をする羊飼いの務めを託された者たちが、羊飼い、牧者としての務めを果たしていないことを、神さまは厳しく責めておられるのです。また言われます。「それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。私は生きている――主なる神の仰せ。私の群れは牧者がいないため、略奪に遭い、あらゆる野の獣の餌食となっているというのに、私の牧者は群れを尋ね求めもしない。牧者はわが身を養うが、私の群れを養わない」(34章7~8節)。解説の必要はないと思います。実に辛辣な言葉です。それは、同じように、牧者の名で呼ばれる、現代の牧師たちへの厳しい叱責の言葉でもあります。主なる神の前にくずおれて、深い悔い改めをもって、赦しを請うほかありません。そして、主は言われます。「私は彼らの上に一人の牧者を立て、彼らを養わせる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」(同23節)。この約束を成就するために、神は、ダビデの子孫として、まことの牧者として主イエスを遣わしてくださいました。羊を食い物にするのではなくて、羊のために命を捨てる、まことの良い羊飼いとして、独り子イエスを遣わしてくださったのです。

 主イエスが、羊の名を呼んでくださいます。礼拝の祈りの中で、私もしばしば口にすることがあります。主なる神が、私たち一人ひとりの名を親しく呼んで、礼拝へと召し集めてくださったことを感謝します、と祈るのです。きょうも、そのように祈りました。私たち一人ひとり、主イエスがそのまなざしで捉えてくださり、私たちの名を呼んで、偽りと不義に満ちたこの世界の中から、私たちを神の民の群れの中に連れ出してくださいました。私たちは今、ここで、主によって名を呼ばれ、神の民の群れの中に導き入れられた者たちとして、共に礼拝をささげているのです。主が、私たちの名前を呼んでくださるのは、私たちが主のものとされていることを意味します。ただ注意を引くために名を呼ばれるのではありません。主はご自身のものとして、私たち一人ひとりを愛して、命へと呼び出してくださるのです。
 きょう、福音書に合わせて朗読した旧約聖書、イザヤ書の御言葉は、特に、私の心に深く響いている言葉です。厳しい手術を控えている教会員のために、これまで何度も、この御言葉を読んで祈りをささげてきました。主なる神は言われます。「恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。あなたが水の中を渡るときも/私はあなたと共におり/川の中でも、川はあなたを押し流さない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず/炎もあなたに燃え移らない」(43章1b~2節)。モーセに導かれた出エジプトの民の体験をもとにしているのだと思います。しかし、それはまた厳しい手術を受けようとする者にとって、麻酔をかけられ、意識を失った状態はまさに、深い水の中をくぐるような経験であると言ってよいと思います。自分で自分を守ることができないそのときも、主イエスは共にいて、その存在と命を守ってくださいます。火の中を歩むような厳しい試練のときも、炎に焼かれることのないように、主が私たちの盾となってくださるのです。そして、この羊飼いの声を聞き分けながら、主の後に付いて行く歩みの終わるとき、ついに私たちの地上の命が終わりを迎えるときも、私たちの存在は失われてしまうのではありません。良き羊飼いである主イエスに抱えられるようにして、向こう岸まで、神の国まで運んでいただくことができる。そのように信じ、主の御声に聞き従っていくことは、何と幸いで何と心強いことでしょうか。
 私たちを、主の日の礼拝へと連れ出してくださった主は、この朝も、私たちに告げてくださいます。「恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの」。「私はあなたと共にいる」。アーメン。感謝します。