2023年5月7日 主日礼拝説教「死を超えて生きる」 東野尚志牧師
創世記 第12章1-4節
ヨハネによる福音書 第8章48-59節
先週の火曜日、5月2日の午後1時から、この場所で葬儀の礼拝が行われました。下石神井教会の牧師、小出望(のぞみ)先生の葬儀でした。本来ならば、下石神井教会の礼拝堂で行われるのが自然なことですけれども、礼拝堂の収容人数が限られるので、滝野川教会の礼拝堂を借りたいとの依頼があり、お引き受けしたのです。小出望牧師については、ご存じの方も多いと思います。私や妻ひかりと同じように、神学生時代に、滝野川教会に出席しておられた先生です。そして、滝野川教会出身の安藤恵子姉妹と結婚されました。滝野川教会は、多くの伝道者を送り出しただけではなくて、また多くの伝道者夫人を送り出した教会でもあります。安藤恵子姉妹もその一人でした。恵子夫人は、そのようなつながりを覚えながら、滝野川教会に連絡して来られたのだと思います。
小出望牧師の葬儀は、東京神学大学の同級生であった先生たちが、司式と説教を分担して行われました。司式者の祈り、説教者の言葉、また遺族代表として恵子夫人の挨拶の言葉は、いずれも深く心に響きました。小出先生は、今年に入ってから、肩や腰の痛みを覚えて整形外科に通ってリハビリをしておられたそうです。ところが、そのうちに内臓の病気が分かり、入院して抗がん剤の治療を受けることになりました。入院されたのが4月13日、それからわずか2週間、4月27日未明、天に召されたのです。72歳でした。小出牧師が、下石神井教会で最後の説教をされたのは、4月9日の復活祭の礼拝であったとのことです。体調の優れない中、主の復活の喜びを語られたのです。ご自身の死を覚悟しながら、主イエスの復活に、ご自身の復活の望みを託すようにして福音を語られたのだと思います。罪深い者が、主イエスの死に結び合わされて、主と共に死ぬことによって罪に死に、主と共によみがえらされて新しい命に生きる。罪人が罪赦されて、天の祝宴にあずかるようになる。それは何と喜ばしいことであるか、しかもその罪人の救いを神が喜んでくださる。そういう喜びのメッセージが告げられたというのです。
小出望牧師は、4月9日の復活祭の礼拝において、すべてを語り切って行かれた。そんな思いを抱かせられました。ご自分の死をさえ用いて、死を超える復活の望みを力強く語られたのです。5月2日の葬儀の礼拝は、下石神井教会における小出牧師自身の復活祭のメッセージを思い起こす中で、復活の望みと喜びを伝える証しの場になりました。葬儀に参加したある兄弟が言われました。葬儀の礼拝で、真正面から復活の説教を聞いたのは初めてのような気がした。そこにはまさに、自らの死を前にして、その死を突き抜ける復活を語った伝道者の言葉が響かせられ、復活の望みが満ちあふれたのです。
この世に生まれ出た者は、一人の例外もなく、死の時を迎えます。人によって、早い遅いの違いはあるとしても、誰ひとり逃れることのできない運命、それは、いつかは必ず死ぬということです。けれども、主イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに対して、不思議な言葉を告げておられます。先ほど朗読したヨハネによる福音書第8章51節です。主イエスは言われるのです。「よくよく言っておく。私の言葉を守るなら、その人は決して死を見ることがない」。「よくよく言っておく」。聖書の原語では、「アーメン、アーメン」と語られています。ヨハネによる福音書を読む中で、これまでにも何度か目にしてきた言葉です。もしかすると、私たちは、「アーメン」というのは、最後に言う言葉だと思っているかも知れません。確かに、教会では、お祈りの最後に、皆で「アーメン」と唱えます。また讃美歌の最後にも「アーメン」と歌います。「まさにその通り」、「確かにその通り」、心からの同意を現すように唱和するのです。けれども、主イエスは、これから大切なことを語ろうとされるとき、聞き手の注意を促すかのように、文章の冒頭で「アーメン」と言われます。特に、ヨハネの福音書においては、「アーメン」を2回繰り返して、「アーメン、アーメン」という独特な言い方が用いられています。新約聖書全体の中で25回、すべては、ヨハネによる福音書の中で用いられているのです。
「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」。かつての口語訳聖書では、「よくよく言っておく」と訳されていましたが、その後、新共同訳聖書では「はっきり言っておく」と訳されていました。しかし、それでは、2回繰り返されているニュアンスが良く表せません。聖書協会共同訳では、口語訳の表現に戻って、「よくよく言っておく」と訳されるようになりました。「アーメン」が1回だけのときは「よく言っておく」。2回繰り返されると「よくよく言っておく」。そんな訳し分けがされています。かつての文語訳聖書では「まことにまことに汝らに告ぐ」と訳していました。文語訳が一番、原語の雰囲気をよく現していると言えるかもしれません。
「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」。実は、さきほど朗読した箇所だけでも、この言い方が2回用いられています。最初は、先ほど引用した51節、「よくよく言っておく。私の言葉を守るなら、その人は決して死を見ることがない」。そして、2回目は58節、「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」。どちらも、すんなりとは受け入れがたい、難しい言葉だと言って良いかも知れません。それだけに、「アーメン、アーメン」と繰り返して語られた、主イエスの真剣な言葉を重く受けとめたいと思うのです。
「よくよく言っておく。私の言葉を守るなら、その人は決して死を見ることがない」。「その人は決して死を見ることがない」。私たちの常識ではあり得ないことです。主イエスが、このあり得ないことを実現させてくださるのに必要なのは、私たちが主イエスの言葉を守るということです。少し前に語られた言葉をも思い起こします。2つ前の段落の冒頭、31節と32節にこうあります。「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする』」。主イエスの言葉を守るというのは、主イエスの言葉にとどまるということです。主イエスの言葉、あるいは、神の言葉である主イエスご自身につながっていること、そう言ってもよいと思います。私たちが、主イエスの言葉を信じ、主の言葉にとどまり、主ご自身にしっかりとつながって、主の言葉に包まれるようにしてそれを守っているなら、私たちは、主イエスの本当の弟子になる。そのようにして、真理を知り、真理を生きるとき、その真理は私たちを自由にする、というのです。何から自由にするのでしょうか。51節の言葉で言えば、死から自由にするということでしょう。死を見ることがなくなる。死に縛られることがなくなる。死から自由な者になるというのです。
間違えてはならないと思います。私たちが死ななくて済むようになるということではありません。死なないで生き続けるということではないのです。その意味では、主イエスの言葉を聞いたユダヤ人たちの反応はもっともだと言えます。52節ですぐに言い返しています。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『私の言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。一体、あなたは自分を何者だと思っているのか」(52-53節)。いったい、あなたは何様のつもりなのか。自分はアブラハムよりも偉大な存在だとでも言いたいのか。アブラハムは死んだし、旧約の預言者たちもみんな死んだではないか。死なない者などひとりもいないのに、「私の言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」などというのは、聞くに堪えない傲慢な言葉であり、悪霊に取りつかれているとしか思えない、と言うのです。
果たして、私たちは、ユダヤ人のように反発をせずに、主イエスの言葉を聞くことができるでしょうか。「よくよく言っておく。私の言葉を守るなら、その人は決して死を見ることがない」。この後、第11章に進むと、主イエスが墓の中からラザロを呼び起こすという不思議なしるしが描かれます。そこでも主イエスは、死んだラザロの姉妹であるマルタに対して言われます。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11章25-26節)。しばしば、葬儀の礼拝で読まれる箇所でもあります。しかし、よく考えてみれば、これも不思議な言葉ではないでしょうか。「死んでも生きる」というのはどういうことでしょうか。生きていて主イエスを信じる者は誰も、「決して死ぬことはない」というのはどういうことでしょうか。この言葉を聞くたびに、私たちは、主イエスの言葉を本当に正しく理解しているのでしょうか。せいぜい、肉体は死んでも霊は生きている、というぐらいに受けとめて、納得してしまっているのではないでしょうか。
ここで大事なことは、死という事実を誤魔化してしまってはならないということではないかと思います。一時もてはやされた歌に、「私のお墓の前で泣かないでください」と歌い出す「千の風になって」という歌がありました。なぜ、「私のお墓の前で泣かないでください」と言うのか。「そこに私はいません。眠ってなんかいません。死んでなんかいません。千の風になって、大きな空を吹き渡っています」と歌うのです。肉体は滅びても、風のような霊的な存在になって、いつもあなたを見守っている。あなたと共にいる。だから、泣かないでください、と歌います。信仰をもってキリストを信じている人たちの中にも、この歌が好きだと言う人が少なくありません。この歌で慰められた。この歌で救われた、そういう証しを聞くこともあります。けれども、私たちは間違えてはなりません。これは、主イエスが言われた、「死んでも生きる」とか「決して死ぬことはない」という言葉と相容れるものではありません。それは言ってみれば、霊魂不滅の思想であって、聖書が語る復活の約束とは全く違うことなのです。
どこが違うのでしょうか。決定的なことは、「千の風になって」の歌には、主イエスが全く関わっておられないということです。死んで肉体は滅びても、魂は永遠に生き続けるというだけならば、主イエスは必要ありません。主イエスの十字架と復活なしに成り立ちます。それは、主イエスによらない慰めであり、主イエスによらない救いであり、主イエスによらない命です。
主イエスは、ご自分の言葉を聞いて、それを信じたはずのユダヤ人たちに言われました。「神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」。きょうの箇所の直前の段落の最後の言葉です(47節)。さらに遡れば、44節で主イエスはユダヤ人たちに言われました。「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」。ユダヤ人たちは、「悪魔から出た者」「悪魔を父とする者」と言われて、あなたの方こそ、悪霊に取りつかれているではないか、と言い返しました。それが、きょうの箇所の冒頭の場面なのです。ユダヤ人たちは主イエスに言いました。「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」(48節)。生粋のユダヤ人なら、そんなおかしなことを言うはずがない。異教徒の血が混じった不純なサマリア人か、悪霊に取りつかれているのでもなければ、考えられない、というのです。それは、主イエスをディスるような言葉です。ディスリスペクトですね。リスペクトしないわけですから、尊敬しない、重んじないということです。だから、主イエスは、それに対して、答えて言われたのです。「私は悪霊に取りつかれてはいない。父を敬っているのだ。しかし、あなたがたは私を敬わない。私は、自分の栄光は求めない。私の栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」(49節)。
悪霊は、神を恐れます。けれども、神を敬うことはしません。しかし、主イエスは、父なる神を敬っておられます。その主イエスを、ユダヤ人たちは理解しようとせず、敬いもしないのです。主イエスは、そのようなユダヤ人たちが、悪魔に支配されている、悪魔の子になってしまっていると言われます。私たちは気をつけなければなりません。悪魔は、悪魔の顔をして近づいてくるわけではないのです。むしろ、いつだって、神を装うようにして近づいてきます。だから、私たちは騙されるのです。悪魔は、もっともらしく、それらしい言葉で、語りかけます。心地よい言葉で、私たちを虜にしようとします。ユダヤ人たちにとって、心地よいこと、それは、自分たちが神に選ばれたアブラハムの子孫であり、自分たちは特別に神から愛されているという言葉です。サマリア人は神に憎まれ、異邦人は皆、神に見捨てられて滅びるべき者たちだと思っていました。自分たちは栄光の神の民であると信じている。それが、ユダヤ人たちにとっての心地よさでした。しかし、それは、神を敬っているようでありながら、実は、自分自身を敬っているに過ぎません。自分自身を誇っているに過ぎないのです。主イエスは、そういう人間的な誇りを容赦なく断ち切ります。そして、ユダヤ人たちが自分たちの神だと思い込んでいるその偶像化された神ではない、ご自身の父である神を現されるのです。
主は言われます。「私が自分に栄光を帰するなら、私の栄光は空しい。私に栄光を与えてくださるのは私の父であって、あなたがたはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたがたはその方を知らないが、私は知っている。私がその方を知らないと言えば、あなたがたと同じく私も偽り者になる。しかし、私はその方を知っており、その言葉を守っている。あなたがたの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」(54-56節)。主イエスは、ユダヤ人たちが、信仰の父として尊敬し、自分たちがその子孫であることを誇りにしていた、アブラハムとご自身の関係を示されるのです。「あなたがたの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた」というのはどういうことでしょうか。アブラハムが「それを見て、喜んだ」というのはどういうことでしょうか。すっきりと理解することは難しいかも知れません。けれども、主が言おうとしておられるのは、神の民イスラエルの祖であるアブラハムが主イエスを待ち望んでおり、その希望に生きていたということではないかと思います。
アブラハムは、まだアブラムと呼ばれていた頃に、主なる神の言葉を聞いて、生まれ故郷、父の家を離れて、神さまがお示しになる地へと旅立ちました。先ほど、福音書に合わせて朗読した創世記12章に描かれています。4節には、「アブラムは主が告げられたとおりに出かけて行った」とありました。アブラムは、後に神さまから「アブラハム」という新しい名を与えられるわけですけれども、アブラム、アブラハムが、主の言葉に従って旅立ったことが、神の民イスラエルの原点です。そこからイスラエルの歴史が始まりました。そして、アブラハムが旅立ったのは、主が告げられた言葉を信じたからです。主は約束されました。「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し/あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する人を私は祝福し/あなたを呪う人を私は呪う。地上のすべての氏族は/あなたによって祝福される」(創世記12章2-3節)。アブラハムを召し出した神は、アブラハムの子孫だけを祝福すると言われたのではありません。アブラハムを通して、地上のすべての氏族が祝福されると約束されたのです。アブラハムは、すべての民の「祝福の基」とされたのです。もちろん、それは、約束として告げられただけで、実際にそのしるしを見たわけではありません。けれどもアブラハムは、神の言葉が実現されることを信じて、待ち望みつつ希望に生きたのです。そのアブラハムの抱いた希望を実現するために、父なる神さまは、御子イエス・キリストを、この地上にお遣わしになりました。だからこそ、アブラハムは、主イエスにおいて、祝福の約束が実現される日をはるかに望み見ながら、楽しみにしていたと言われるのです。
けれども、主イエスが、神のもとから来られた方であることを信じないユダヤ人たちは、主イエスの言葉を理解することができずに反論して言いました。「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」(57節)。まことにとんちんかんな応答の繰り返しです。ユダヤ人たちは、アブラハムを父と呼んで、その信仰を受け継いでいるつもりでおりながら、アブラハムが何を信じ、何を望んだのかが分かっていないのです。主イエスは、それに対して答えて言われます。きょうの箇所、2回目の「アーメン、アーメン」です。58節「イエスは言われた。「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」。「私はある」。この言葉は、既に第8章の24節と28節にも出て来ました。出エジプト記第3章の記事を背景にしながら、神の名を告げる言葉として引用されています。神は、すべてのものに存在を与え、すべての者と共にいてくださるお方です。そして今も、その御業を続けておられるのです。「私はある」。それは、主イエスが、万物の創造の前に、神と共におられた神の言であり、神であることを言い表しています。主イエスは、ご自身が、神のもとから遣わされた神の独り子、神と等しいお方、神であることを宣言されたのです。
主イエスは、天地万物が創造される前から、永遠に神の独り子である神として、父である神と共におられました。神が、アブラハムを召し出し、祝福の約束を告げられたとき、そこには独り子である神、主イエスが共におられ、主イエスにおいて実現される祝福、神の救いのご計画が見つめられていました。まことの神である主イエスは、父なる神によって遣わされて、この地上に来られました。それは、アブラハムへの約束を実現するためです。すべての民が、神に背を向けた罪のために、滅びの縄目に捕らわれていました。自分にとって都合の良い心地よい言葉を告げる悪魔に欺かれて、神の祝福から遠く離れてしまっていました。しかし、その私たちすべての罪を取り除き、父なる神のものとして取り戻すために、尊い御子の血が注がれました。御子の命の犠牲によって、私たちの罪が赦され、私たちは神の子として新しく生まれるものとされたのです。死んで墓に葬られた御子は、三日目に復活して墓の中から出て行かれました。天に昇り、栄光を受けられた主は、今、霊において私たちと共にいてくださいます。この復活の主のゆえに、死の力は打ち破られました。私たちは死の力の支配の下から解放されたのです。
主イエスを信じ、主イエスの言葉にとどまり、主と一つに結ばれるとき、私たちは、この救いにあずかることができます。「私の言葉を守るなら、その人は決して死を見ることがない」という御言葉は、その救いを告げています。死ななくなるわけではありません。死を突き抜けて、復活の命に生きる。霊魂不滅ではなく、死者の中からの復活によって、永遠に主と共に生きるようになる。その喜びに満たされて生きることができるのです。