2023年5月14日 主日礼拝説教「神の業が現れるため」 東野尚志牧師

エゼキエル書 第18章20節
ヨハネによる福音書 第9章1-12節

 今月の最後の日曜日は、主日の礼拝に引き続いて、2023年度の定期教会総会を開催します。昨年度の教会の活動を振り返っての報告総会、決算総会となります。本日、58頁からなる報告資料が配付されましたので、教会員の方には、総会に備えて、前もってよくお読みいただきたいと思います。その中にも記しておきましたけれども、2022年度の歩みを振り返ったときに、まず第一に挙げるべきは、新しい翻訳の聖書を導入したということであると思います。コロナのために、3年続けて夏期修養会を行うことができず、愛餐会等の交わりを制限される中で、聖書が新しくなったというのは、教会にとって、とても大きな出来事であったと思います。
 中には、こういう大きな変化を伴うような大事な決定は、コロナ禍の混乱の中でするのではなくて、もっと落ち着いてから、十分に協議をして決めるべきではないかという意見もありました。けれども、すでにコロナが始まる前、私が滝野川教会に着任した2019年の秋、一日修養会で聖書協会共同訳の学びをしました。聖書協会共同訳の主な特徴や翻訳の違いなども取り上げながら、新しい翻訳聖書に親しむ機会を持ちました。そして、その2年後の2021年、コロナの真っ最中でしたけれども、半日修養会で、「聖書協会共同訳の導入に向けて」という主題で学びをしました。さらにはまた、聖書の切り替えを視野に入れながら、口語訳聖書で1年かけて聖書通読を行い、続けて、聖書協会共同訳での聖書通読を呼びかけてきました。
 昨年の4月から、実際に、主日の礼拝や木曜日の聖書研究・祈祷会で用いるようになって、かなり、この新しい翻訳の聖書に馴染んできたのではないかと思います。かつて慣れ親しんできた口語訳聖書の言葉と比べて読むことで、聖書の言葉の理解が広がるという面もあると思います。そして、一つ、目に見える大きな変化として、共同訳聖書では「小見出し」がつけられているので、段落ごとの内容を大きく把握するための助けになっているのではないかと感じています。

 先ほどは、旧約聖書のエゼキエル書第18章20節を朗読しました。朗読したのは、途中の一節だけでしたけれども、18章の頭のところに「小見出し」がついていました。「それぞれの責任」というのです。面白い小見出しだと思います。その18章の1節から4節まで読んでみます。「主の言葉が私に臨んだ。『あなたがたがイスラエルの地について、『父が酸っぱいぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』ということわざを口にしているのは、どういうことか。私は生きている――主なる神の仰せ。あなたがたはイスラエルで二度とこのことわざを口にすることはない。すべての命は私のものである。父の命も子の命も私のものだ。罪を犯した者は、その者が死ぬ」。
 イスラエルの社会において、「父が酸っぱいぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」ということわざが、広く行き渡っていたことを示しています。親が犯した過ちのために子どもが苦しむということです。これは、言い訳のようにも用いられたようです。預言者エゼキエルの時代ですから、バビロン捕囚がその背景にあります。国が滅ぼされて、敵国の捕虜として連れ去られたのです。捕囚の民の中には、自分たちが今こんな苦しみを味わっているのは、先祖たちが神に背いて罪を犯したからだ、と言って、自分の罪を自覚しない者たちがいたといいます。それに対して、預言者エゼキエルに臨んだ主の言葉は、この古いことわざを言い訳にすることを許しません。老いも若きも自分が犯した罪によって裁かれるのであって、親の罪が子に報いるわけではない、というのです。そして、引用した18章20節では、「罪を犯した者が死ぬ。子は父の過ちを負わず、父も子の過ちを負わない。正しき者の義はその人の上にあり、悪しき者の悪はその人の上に帰す」と告げます。まさに、それぞれの責任だというわけです。

 けれども、最近の旧統一協会の宗教二世の悲痛な訴えなどを聞いておりますと、そうも言い切れない現実があることを思わざるを得ません。自分で選んだわけではないのに、親が旧統一協会に入ってしまったために、生まれたときからその教えに縛られ、苦しめられているのは、「それぞれの責任」を超えていると言ってよいかもしれません。祝福二世などと呼ばれながら、現実としては、生まれたときから呪いを受けているようなものです。親は祝福のつもりでいても、子どもには呪いになるというのは何という皮肉なことであろうかと思います。宗教二世が、インタヴューに応えて、この親のもとに生まれてこなければ、もっと違った人生があったはずなのに、と語っていた言葉が胸にささりました。悩んだ挙げ句に、自ら命を絶つ宗教二世も少なくないといいます。命を絶たないまでも、自分で自分を傷つけ、旧統一協会の教えの中で、自分を価値のない者のように思い込んで、悲惨な歩みをしている若者たちがいるのです。
 この旧統一協会の教えの中には、いわゆる因果応報の呪縛も大きな力を持っています。現世における苦しみは先祖の罪の報いだと脅して、人の不幸や不安につけこんで、高価な壺を売りつけたり、高額な献金を促したりしてきたのです。それは、旧統一協会に限ったことではありません。突然の不幸な出来事に直面して、どうしてこんなことが起こるのかと悩む人たちに、その不安な心や弱みを利用するような形ですり寄る新興宗教は後を絶ちません。私たちは、そんな教えに惑わされることはない、と思っているかもしれません。けれども、突然、大きな自然災害や事故に巻き込まれたり、思いがけない重い病が見つかったりしたとき、「どうして」「なぜ」と問わざるを得なくなります。その原因や理由が分からないときには、深い悩みと疑いに捕らわれてしまいます。神さまの愛を信じられなくなったりするのです。

 私たちが日常生活の中でもよく耳にする「因果応報」という四字熟語は、もともとは仏教の教えを表す言葉です。一般的には、現在の不幸や苦難の原因を過去に求めるときに用いられることが多いかもしれません。「因果」というのは、原因と結果のことです。どんな結果にも必ず原因があり、原因なしに起こる結果は一つもないということを意味します。「応報」というのは、原因に応じた結果としての報いが現れる、ということを意味します。まいた種に応じた結果が必ず現れる、というのが、因果応報の教えです。私たち自身の行いが、自分の運命を作っていくと教えるのです。「善因善果」「悪因悪果」とも言います。つまり、善い行いが善い結果、幸せな運命を生み出し、悪い行いが悪い結果、不幸や災難をもたらすというのです。
 お釈迦さまが、最初にこの教えを説いたときには、将来に善い結果をもたらすために、今、善い行いをするようにという励ましの意味が込められていたのかも知れません。けれども、実際には、現在の不幸を嘆きながら、その原因を過去に求めて苦しむことの方が多いと思います。それが人間の性なのかも知れません。原因探し、犯人捜しを始めてしまうのです。そして、自分自身や先祖の過去に縛られて苦しむことになる。しかし、結局のところ、仏教の教えにおいては、この因果応報の法則、いわゆる因果律に縛られた輪廻からの解脱を悟りと呼ぶわけですから、やはり、最終的には、乗り越えるべきものと考えられているのだと思います。

 主イエスの時代にも、一方には、それぞれの責任、という教えがありながら、やはり因果応報の考え方が広く行き渡っていました。主イエスが、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられたとき、弟子たちは主イエスに尋ねたのです。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(9章2節)。このとき、主イエスが、通りすがりに見かけられた、というと、何となく、偶然、目に入ったような印象を与えるかも知れません。「見かけられた」と訳しているのは、直訳すれば「見た」と書かれています。たまたま目に入ったのではなくて、主イエスは、生まれながら目が見えないその人に目をとめて、見つめられたのです。恐らく、目をとめて、立ち止まられたのでしょう。だからこそ、主イエスと一緒にいた弟子たちも、その人に目をとめて、尋ねたのです。
 「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。この人は、生まれつき目が見えませんでした。この後、8節に記されている近所の人たちの言葉によれば、生まれつき目が見えなかったために、自分で働いて生活をすることができず、毎日、道ばたに座って、物乞いをして生きざるを得なかったのです。弟子たちにしてみれば、生まれつき目が見えないというような不幸は、相当大きな罪の結果に違いないという判断をしたわけです。しかも、それが生まれつきだということは、本人の責任とは言えないだろう。それならば、その両親が罪を犯したからであろうか。恐らく、そんなふうに考えて、主イエスに尋ねたのだと思います。この弟子たちのように、病気や障がいを、罪と結びつけて考えることが、人類の歴史の中で数多くの不当な差別を生んできました。それは、病気や障がいから来る不自由や苦しみだけではなくて、そういう不当な差別の中に置かれるという二重の苦しみをもたらします。このような問いの枠組み自体が間違っているにもかかわらず、私たちは、すぐに、この因果応報の考えに捕らわれてしまいます。そして、簡単に、人をその枠組みの中に押し込めて、裁いてしまうのです。

 ところが、主イエスの答えは、弟子たちの思いもよらない言葉でした。私たちの思いをも遙かに超えています。主は言われるのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。本人には罪がないとか、両親には罪がないとか言われたのではありません。罪と不幸とを結びつけて考えるその枠組みそのものを乗り越えて、私たち人間が抱える苦難や不幸に、新たな意味を見いだしておられるのです。私たちは、ともすれば、現在の苦難や不幸を前にして、その原因と責任を求めて、過去へと目を向けます。そして、過去に原因を押しつけて現在の不幸を嘆いたり、原因を特定することができなければその不条理を嘆いたり、神の理不尽な仕打ちに怒りを抱いたりします。誰かのせいにして、誰かを攻撃することで、なんとか自分自身を保とうとするのです。
 ところが、主イエスは、全く別の視点から、私たちの苦難の意味を教えてくださいます。私たちが直面する苦難や不幸の原因を探るのではなくて、その意味と目的を示してくださるのです。苦しみの原因や理由を尋ね求めても、結局、本当のところは分かりません。自分や先祖の過去をほじくり返して、せいぜい自分で納得のいく答えを探し出すだけのことです。それで、苦しみがなくなるわけでもないのです。そこには、全く救いがありません。けれども、その苦難のただ中で、神が、主イエスを通して行ってくださる業へと、主は私たちの目を向けさせようとされます。後ろ向きになって過去へ目を向けるのではなくて、主イエスが関わってくださった現実の中で、そこから始まる新たな未来へと目を向けさせるのです。過去を振り返っていても現実は変わりません。けれども、神の業が現されるならば、その苦難の現実は変えられていくのです。

 私たちは、間違えてはならないと思います。「神の業がこの人に現れるためである」と言われた主イエスは、この後、不思議な仕方で、この人の目が見えるようにしてくださいます。地面に唾をして、その唾で土をこねて、その人の目に塗って、シロアムの池に行って洗うようにお命じになります。この人が、主イエスから言われたとおり、何も見えない中、手探りでシロアムの池に行って、言われたとおり池の水で洗ったら、見えるようになるのです。生まれつき目の見えなかった人が、見えるようになった。だから、神の業がこの人の上に現れた、そんなふうに短絡的に考えてしまうと、それは、この人の救いにはなっても、私たちには何も関わりのないことになってしまいます。現代社会において、また私たちの身に、これと同じような奇跡を期待しても、それは叶えられるものではないでしょう。しかしここで一番大事なことは、この人が主イエスに言われたとおり、主の言葉に従ったということ、そしてこの後、癒やされたこの人自身が、大きく変えられて行くという事実なのです。
 シロアムの池から帰ってきたとき、この人は、確かに、目が見えるようになっていました。この人のことを昔からよく知っている近所の人たちや、その人が毎日、道ばたに座って物乞いをしていたのを見ていた人たちは、びっくりします。そして、この人は、前に座って物乞いをしていた人ではないか、と言って驚いたり、いや本人のはずがない、よく似ているけれど人違いだろう、と言い合ったりします。そのただ中で、この人自身は「私がそうです」と言って証しをするのです(9節)。それまでは、人の注目を集めることもなかった人です。せいぜい、可哀想な人、哀れな人、神の祝福と恵みから漏れてしまった人、そのような同情の目で見られても、注目されることはありませんでした。この人自身、人々の同情に訴えて、ただ黙って施しを得て暮らしていたのです。しかし、今、自分自身の身に起こったことをしっかりと受けとめながら、責任をもって「私がそうです」。「私です」と応えるのです。これは、主イエスが、ご自身を神と等しい方として現された「エゴー・エイミ」「私はある」と訳されたのと同じ言葉です。主イエスとの関わりの中で、主イエスの恵みを受けた者として、「私です」と証しをするようになるのです。

 周りの人たちが驚いて、なぜ目が見えるようになったのかを問いただすと、主イエスがなさったこと、主イエスが言われたことを伝えます。11節には、こんなふうに記されています。「彼は答えた。『イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、「シロアムに行って洗いなさい」と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。』」。この人は目が見えなかったのですから、主イエスの顔も分かりませんでした。でも、その声ははっきり聞きました。そして、周りの人たちの話から、その方が「イエスという方」であるということは何となく分かりました。それで、主イエスに言われたとおりにして、見えるようになった経緯を話しました。けれども、人々から「その人はどこにいるのか」と問われても、「知りません」と答えるしかなかったのです(12節)。隠したわけではありません。それが、正直なところでした。ところが、この後、ファリサイ派の人たちから取り調べを受けていく中で、この人は主イエスのことを「預言者です」と言い表すようになります(17節)。さらに続けて、ファリサイ派の学者の前でも臆することなく堂々と議論しながら、ついには主イエスご自身と出会って、「主よ、信じます」と言って、主の前にひれ伏すようになるのです(38節)。それは、肉の目が開かれる以上に、霊の目が開かれて、主イエスを正しく知る者となったことを証ししていると言ってよいと思います。
 この人は、生まれつき目が見えなかったのに、主イエスによって癒やされて、目が見えるようになって良かった。けれども、同じことは私たちの上には起こらない、と思っていたら、それはいつまでも「ひとごと」です。私たちの救いにはなりません。けれども、主イエスが、「神の業がこの人に現れるため」と言われるとき、それは、この人に語られただけではなくて、弟子たちに告げられ、私たちすべてに告げられた救いの宣言なのです。主イエスは、私たち一人ひとりの上に、神の業が現れるように、そのために、神から遣わされて、私たちの世界に来てくださいました。そして、私たち一人ひとりに目を留めて、私たちと出会ってくださるのです。

 主イエスは、「神の業がこの人に現れるため」と言われた後、実際に癒やしを行われる前に、不思議なことを語られました。「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である」(4-5節)。主イエスは第8章において、仮庵祭の祭りの余韻が残るエルサレムの神殿で言われました。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」(8章12節)。主イエスは、闇の世を照らし、光を与えるお方です。けれども、「誰も働くことのできない夜が来る」と言われます。主イエスが十字架にかけられ殺されてしまう「夜」が来るのです。光が闇に呑み込まれたような暗い夜が来る。ここで主イエスは、はっきりとご自身の十字架を見据えながら語っておられるのです。確かに、夜が来ました。しかし、新しい朝が訪れました。復活の朝が訪れました。私たちは今、夜の闇の中にいるのではなくて、復活の命の光に照らされています。
 主は言われました。「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない」。主は、あえて「私たち」と言われます。そこには、この主イエスの言葉を伝えているヨハネの教会が含まれており、この福音書を読んでいる私たちすべてが含まれています。主イエスは、ご自身が遣わされた業の中に、私たちをも招いていてくださるのです。その業のために、私たちをお遣わしになるのです。

 主イエスは、通りすがりに、生まれつき目の見えない人に目をとめられました。立ち止まって、その人を見つめられました。その主イエスのまなざしは、今、私たち一人ひとりに注がれています。主イエスは、その慈しみ深いまなざしの中に、私たちを捉えてくださり、「神の業があなたに現れるため」と告げてくださいます。たとえ、不自由を身に負うたままであったとしても、病や障がいを身に負ったままであったとしても、主イエスのまなざしの中に捉えられるとき、私たちは、主の前に、他の誰でもない「私」として生きることができます。主に捉えられた者として「私がそうです」「私です」と応える者とされます。神の業の中で生きる者とされるのです。
 つい、厳しい現実の中で、不平不満を口にしてしまう私たちです。病を得て、健康であったときを思い起こしてつぶやきます。年を重ねていく中で、自分の力の衰えを感じながら、嘆きを口にします。しかし、私たちの現実は誰の因果によるものでもありません。「それぞれの責任」、それぞれの罪によって滅びるしかなかった私たちを、主は十字架の贖いをもって救い出し、神のものとしてくださいました。主は、私たちの罪と弱さの中にまで降って来られ、私たちを担ってくださるのです。その救いの恵みの業は、私たちの弱さの中でこそ現されます。神の業が現れるのです。私たちは、なおも罪の闇が支配するかに思われるこの世界のただ中で、主イエスの光に照らされながら、神の業にあずかり、私たちの上に現された救いの業を証ししていくのです。