2023年4月9日  復活主日礼拝説教 「キリストはよみがえられた!」 東野尚志牧師

詩編 第86編11-13節
マタイによる福音書 第28章1-10節

 主イエスが十字架にかけられ、死んで墓に葬られてから三日目の朝、夜が明けるのを待ちかねたように、薄明かりの中を、墓へと急ぐ者たちの姿がありました。マタイはこんなふうに描いています。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」。マグダラのマリアともう一人のマリアと記されています。この二人は、二日前の夕方、十字架の上で死なれた主イエスのお体が、十字架から取り降ろされるのを見ていました。もう動くことのなくなった主のお体が、布にくるまれて、アリマタヤ出身のヨセフの手で、岩に掘った新しい墓の中に納められるのも見届けました。墓の入り口に大きな石が転がされ、ぴったりと蓋がされる様子も黙って見ていました。そして、葬りに立ち会った人たちが皆帰ってしまったあとも、その場を立ち去るに忍びず、しばらく残って、墓の方を向いて座っていたのです。けれども、いつまでもそこに留まり続けることはできませんでした。日没と共に安息日が始まるからです。律法の掟に従って休むためにその場を離れ、丸一日を過ごしました。そして、三日目の朝、恐らく、いてもたってもいられないような気持ちで、主イエスが葬られた墓の様子を見に行ったのです。
 マルコによる福音書によれば、三人の婦人たちが、主イエスのお体に油を塗るための香料を買い求め、これを持って墓に行ったと書かれています。しかし、マタイの告げるところによれば、そのような目的さえどこかへ飛んでしまって、とにかく取るものもとりあえず、墓へと急ぐ女性たちの姿が見えてくるように思われます。墓の入り口は、大きな石が転がしてありますから、女性二人ぐらいの力では、それを動かして中に入ることなどできないでしょう。あるいは、マリアたちは知らなかったかもしれませんけれども、マタイの福音書によれば、埋葬の翌日、墓の石には封印が施され、主イエスの死体が盗まれないように、墓の前には番兵たちが置かれていました。おいそれと墓に近づくことさえできない状態だったのです。けれども、そんなことにもお構いなしに、とにかく、主イエスが葬られた墓の様子が気になったのだと思われます。日没前に慌ただしく墓に葬られてしまったことが気がかりだったのです。掟に従って週の終わりの日の安息日を休んだ後、いてもたってもいられずに、墓へと急いだのです。

 主イエスが葬られた墓には、大きな石で、ぴったりと蓋がされていました。この石は、厳然として、命あるものの世界と死の世界とを隔てています。この石の向こうには、まさに、主イエスの死体があるのです。この石は、死という厳しい現実を象徴しているといってよいのかもしれません。死の力は、まるで万能の力をもっているかのように、私たちに襲い掛かり、私たちの愛する者を奪っていきます。そして、私たち自身も、いつかは、死ななければならないのです。人間であるならば、誰も避けることができない確かなこと、それが、死です。死はまさに、大きな石のように、私たちの前に立ちはだかります。いや私たちの前に立ちはだかるだけではなくて、さらには大きな重しのように、私たちの人生にのしかかり、私たちの望みを押しつぶしていくのです。それは、すべてを否定してしまう虚無の力です。生きることをさえ虚しくしてしまう否定の力です。その力の前に、私たちは全く無力なのです。
 そうであればこそ、普段はなるべく、死を見ないようにして生きているのかもしれません。私たち自身が、死ぬべき存在であることを忘れようとしているのです。私たちの人生が、きょうと同じように、明日も、あさってもそのままで続いていくと思い込んで、その先のことは考えないようにしています。けれども、死の力は突然牙をむきます。思いがけない時に、私たちに襲い掛かってきます。そして、死が自分のこととなったときに、私たちは慌てふためくのです。確かに、頭では、いつか死ぬということが分かっています。しかし、どこかで、それを自分のこととはしないで生きているのではないでしょうか。だから、突然死の病を宣告されると、一切の望みを失ってしまいます。死によって不意打ちを食らうのです。しかし、どんなに忘れようと努力しても、どんなに忘れたつもりでいても、死の力は私たちの命を蝕んでいきます。そして私たちの人生に、暗い影を落としていくのです。やがて、自分の肉体が老いて衰えていくという現実を目の当たりにして、死という終わりを見つめざるを得なくなります。そして、死の力に飲み込まれていってしまうのです。私たち自身の力では、この重しを取り除けることはできません。しかし、主が葬られてから三日目の朝、動くことなどないと思われた大きな石が、わきへと転がされました。

 二人のマリアが墓に着いたとき、大きな地震が起こりました。マタイは、不思議な出来事を記します。「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」。人間の力では、死をわきへ転がすことなどできません。けれども、決して動くことがないかのように私たちの前に立ちはだかっていた石は、転がされるのです。死は転がされた。いやもっと正確に言えば、死という現実は決して動くことがないと思い込んでいた私たちの頑なさが転がされるのです。主イエスの口を通して、何度も何度も復活の予告を聞いてきたにもかかわらず、死の重さに押さえつけられていた私たちの不信仰が転がされるのです。
 本当は、誰もが、死の力に脅かされない人生を求めているはずです。死によっても空しくならない生き方をしたいのです。死に脅かされることなしに、人生を意味あるものとして築き上げたいと願っているのです。しかしそれでも、素直に復活を信じられないのはなぜでしょうか。それは、あまりにもうますぎる話だからではないかと思います。ありそうにないと思われるからです。主イエスの徹底した愛の教えに感動し、しかも自らその愛を貫いて命を捨てられた受難のお姿に涙することはあるしても、復活の話になると、急に冷めてしまう人が少なくありません。現実離れしているように思われるからです。
 使徒言行録は、ギリシアの哲学の中心地、アテネにおける使徒パウロの伝道について記しています。初めのうち、アテネの人々は、パウロの語る新しい教えに興味を示しました。パウロもまた天地創造に始まる神の御業を雄弁に語り、ギリシアの詩人の言葉を引用したりしながら、聞いている人たちを引きつけました。ところが、パウロがキリストの復活について語り始めたとたんに、空気が一変したのです。こう記されています。「死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒言行録17章32節)。これは体のよい拒絶です。「いずれまた」と言って、本当にいずれまた聞きに来る人はいないのです。パウロもそこを立ち去るしかありませんでした。優れた教師としてのイエスの言葉を伝えるだけならば、喜んで聞くのかもしれません。人生を豊かにするような教えや勧めは喜んで受け入れます。主イエスの十字架も、愛の犠牲として見るならば、まさにその愛の教えの結実として尊ぶことができるかもしれません。しかし、復活ということについては、愚かな話のようにしか思われない。常識で考えてあり得ないと思うからです。けれども、そういう頑なな死の力に支配された不信仰が、転がされるのです。

 天使は、転がした石の上に座りました。それは、死の力に対する勝利を表していると言ってもよいと思います。私たちの前に立ちはだかり、私たちの心を閉ざしていた死の力は撃ち破られたのです。ここに登場する天使は、復活のキリストのあふれる力と栄光を映し出すような姿で描かれています。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とあります。その姿は、高い山の上で、主イエスのお姿が変わったときの、あのまばゆい天からの栄光を思い起こさせます。旧約の預言者ダニエルの言葉の中にも、世の終わりに現れる人の子が、光り輝くまばゆい姿として描かれています。死、それは暗黒であり、闇です。しかし、その闇のただ中に、神の栄光が輝きました。神の栄光によって照らし出されて、闇はもはや闇でなくなったのです。使徒パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で言いました。「死は勝利に呑み込まれた」。私たちの前に立ちはだかり、私たちの心をふさいでいた死の力は撃ち破られたのです。
 武器を手にして、死に仕えていた見張りの者たちは恐ろしさのあまり、死人のようになります。しかし、天使は婦人たちに語りかけます。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。「恐れることはない」と書かれていますが、聖書の原文で見ると、主語の「あなたがた」という言葉が強調されています。恐ろしさのあまり振るえ上がった見張りの兵士たちと違って、あなたがたは恐れることはない。あなたがたは恐れる必要はないのだ、と婦人たちに告げるのです。天使はまた「かねて言われていたとおり」と告げました。確かに、主イエスは、いわゆる三度にわたる受難予告の中でも、三日目の復活に言及しておられたのです。十字架の死を告げる言葉があまりに重く、弟子たちには正しく聞かれていなかったかもしれません。けれども、主イエスは繰り返して、殺されて終わりではなく「三日目に復活することになっている」と告げてこられたのです。何か思いがけないことが起こったのではなくて、かねて言われていたとおりの神のご計画が実現したのです。
 福音書は、復活の出来事を、父なる神の全能の力による奇跡として描いています。日本語では、「復活なさった」と訳されていますけれども、厳密に言うと、「復活させられた」と受け身で書かれているのです。主イエスはご自分の力で死の中からむっくり起き上がられたのではありません。父なる神が、御子イエスを死の中から起こされた。よみがえらされたのです。復活によって、十字架の苦しみが虚しいものになるわけではありません。もしも主イエスがご自分の力で死を撃ち破り、よみがえられたのだとすれば、十字架の死は単なる通過点のように思われるかも知れません。三日後には復活することになっているから、一時の苦しみなど何でもないこと、そんなふうに考えるとすればそれは大きな間違いです。十字架の死と復活は主イエスの一人芝居ではないのです。パウロがフィリピの教会に宛てて書き送った手紙の言葉遣いを思い起こすべきです。「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず/かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ/へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました」(フィリピ2章6-9節)。父なる神が、御子を死の中から起こされ、死の中から高く引き上げられたのです。

 主イエスの復活を告げる天使の言葉に促されて、婦人たちが墓の中を見ると、確かに主イエスの遺体の置いてあった場所には何もありませんでした。もちろん、遺体が無いからと言って、それが復活の証拠だというわけにはいきません。実際、番兵たちの報告を聞いた祭司長と長老たちは、弟子たちが夜中にやって来て、こっそり死体を盗んでいったという話をでっち上げます。兵士たちに金を渡して嘘の証言をさせるのです。それを信じたユダヤ人たちも多かったようです。けれども、天使の言葉を聞いた婦人たちは、走り出しました。新たな使命を与えられたからです。天使は言いました。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます」。「あの方は死者の中から復活された」。この重大な、世界全体を揺るがすような使信を託されて、婦人たちは走り出したのです。
 走り出した婦人たちは、恐れながらも大喜びであった、と記されています。一刻も早く弟子たちに伝えなければなりません。復活された主イエスとガリラヤでお目にかかれるというのです。恐らく、弟子たちは、主イエスが十字架につけられ殺されたあと、深い挫折を味わって、なすすべも無く生まれ故郷のガリラヤへ帰ろうとしていたのでしょう。しかし、復活された主イエスは、弟子たちよりも先回りをして、ガリラヤで弟子たちを迎えようとしておられるというのです。婦人たちの足取りはまさに、踊るようであったに違いありません。マルコの福音書においては、婦人たちは恐ろしかったので、だれにも何も言わなかった、と記されています。確かに、恐れがあったでしょう。しかし、その恐れは、死の力を恐れる恐れから、神を恐れ敬う畏れへと変えられます。主イエスの復活を信じ、復活者である主イエスと出会うとき、死の前にひざをかがめて死に仕えるのではなくて、命の主である神を拝み、神に仕える者とされるのです。

 そのとき、弟子たちのもとへと急ぐ婦人たちを出迎えるようにして、復活された主イエスご自身が、婦人たちに現れてくださいました。このように記されています。「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。』」。よみがえられた主イエスの第一声は、「おはよう」と記されています。これは、当時の日常的な挨拶の言葉であったようです。口語訳聖書では、「平安あれ」と訳されていました。ずいぶん雰囲気が違います。何となく、口語訳の方がしっくりくるような思いを抱かれるかもしれません。「おはよう」ではあまりにも軽すぎると思われるでしょう。しかし、むしろ、主イエスが私たちの日常の中に入り込んで来られ、特別な聖なる場所においてではなく、疑いや迷いも渦巻いている日常の中で、私たちに出会ってくださることに大きな意味があるのではないかと思います。主イエスは、深刻そうに悩んでいる私たちに、復活の明るさによってすべての迷いを吹き飛ばすように、「おはよう」と声をかけてくださるのです。
 当時の日常的な挨拶の言葉としては、「シャローム」というヘブライ語の言葉がよく知られています。お聞きになったことがおありではないかと思います。この言葉をギリシア語に訳した言葉も、挨拶の言葉として用いられます。それならば確かに、「平安あれ」と訳してもよかったかもしれません。しかし、ここで用いられているのは、それとは別の言葉です。もちろん「おはよう」と訳すこともできますが、直訳すれば「喜べ」となります。復活された主イエスは、私たちに出会って、まず一言、「喜べ」と語りかけてくださったのです。復活者は私たちと出会って、喜びを命じてくださるのです。

 しかも、それだけではありません。主イエスは、弟子たちのことを、「きょうだいたち」と呼ばれます。男性も女性も含むという意味で、聖書協会共同訳では、ひらがなで「きょうだいたち」と記されるようになりました。しかし、ここでは残念ながら、大事な言葉が訳されていません。原文を見ると、「私の」という言葉がはっきり書かれています。主イエスは弟子たちのことを「私のきょうだいたち」と呼ばれるのです。ご自分を見捨てて逃げ出した者や、三度も主との関係を否定したペトロさえ赦し受け入れて、「私のきょうだいたち」と呼んでおられるのです。主イエスは、私たちがまだ悲しみと嘆きに沈んでいるときに、先回りをして喜びを命じてくださいます。私たちを親しく、ご自身の兄弟姉妹、ご自身の家族として迎え、復活の喜びの中に招いてくださるのです。私たちの側にその条件が整っているからではありません。私たちには一切、そのためのふさわしさを求めずに、私たちの先回りをして、すべてを整えて、私たちと出会ってくださるのです。
 主イエスが復活されたということ。それは、客観的な証拠によって確かめられるような事柄ではありません。確かに、墓は空っぽでした。輝く衣を着た天使が、主の復活を告げました。しかし、いずれも復活を客観的な事実として主の復活を証明する材料にはなりません。けれども、よみがえられた主イエス・キリストと出会うとき、私たちはもはや、主の復活を否定することはできなくなります。失意のガリラヤ、挫折と悲しみのガリラヤは、復活の主に先回りされることによって、喜びに満ちた出会いの場所となりました。この礼拝こそが私たちにとってのガリラヤです。よみがえりの主が私たちを迎えてくださり、私たちと出会ってくださいます。主は、私たちを喜びの食卓に招いてくださるのです。

 地上のあらゆるものが古びていきます。朽ちていきます。私たちの肉体は本当にもろいものです。やがては、自分自身の死の時を迎えます。だれも死を避けて通ることはできません。この死だけを見つめているならば、何の望みもないでしょう。しかし、死が最後の言葉ではありません。死の力をうち破ってよみがえられた主は、今、霊において私たちの間に立たれます。御言葉と聖餐において、ご自身を私たちに与え続けておられます。そして、私たちも、やがては自分自身の死を突き抜けて、よみがえりの朝を迎えることができます。復活の体を与えられて、死の眠りから起き上がる日が来るのです。その時には、先に天へと召された者たちと共に、復活の体において、主の御前で再会することになります。主のご復活を祝う喜びの中で、主が差し出してくださる祝福を味わい、望みを新たにすることができるのです。
 主の復活、ハレルヤ。イースター、おめでとうございます。