2023年4月23日 主日礼拝説教「真理はあなたを自由にする」 東野尚志牧師

イザヤ書 第61章1-4節 
ヨハネによる福音書 第8章31-38節

 主イエスは言われました。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」。「真理はあなたがたを自由にする」。ヨハネによる福音書の中で、特に良く知られている言葉の一つであると思います。この言葉を、標語として掲げている大学や図書館は、世界中に数多くあるようです。身近なところで言えば、埼玉の上尾にある聖学院大学の図書館も、その正面の壁に、この言葉を掲げています。しかも、聖書の原語であるギリシア語で記されているのです。そこには、ラテン語で、PIETAS ET SCIENTIA(ピエタス・エト・スキエンティア)とあり、その下に、ギリシア語で、ἡ ἀλήθεια ἐλευθερώσει ὑμᾶς.(ヘー・アレーセイア・エリューセローセイ・ヒューマース)と記されています。
 ラテン語のPIETAS ET SCIENTIAは「敬虔と学問」と訳されます。英語で言えば、piety(パイエティ)とscience(サイエンス)です。「信仰と科学」と訳すこともできます。そして、ギリシア語の言葉は、まさしく「真理はあなたがたを自由にする」という意味です。ヨハネによる福音書第8章32節に記された主イエスの言葉を、原文のままで掲げています。この2つの標語は、「神を仰ぎ 人に仕う」という建学の精神、スクール・モットーと共に、聖学院大学の姿勢を現しているわけです。

 ところで、このヨハネによる福音書第8章32節の言葉が、東京の永田町にある国会議事堂の隣、国立国会図書館の中にも掲げられているということをご存じでしょうか。国立国会図書館は、日本で唯一の国立図書館です。国会図書館という名前が示しているように、国会議員の活動をサポートするという重要な役割を担っているわけですけれども、国会議員だけではなくて、18歳以上であれば誰でも登録して利用することができます。納本制度というのがあって、国内で刊行されたすべての書籍、雑誌、新聞等の出版物、最近では、電子出版も含めて、すべての出版物を収めることになっています。目に見える地上の建物は6階建てですけれども、地下には、8階までの書庫があるそうです。まさに、日本中の知識の宝庫、そう言って良いかも知れません。1100万冊を超える書物をはじめとして、4200万点もの資料が集められているとのこと。それがこれからも、どんどん増え続けていくわけです。
 この国会図書館本館の2階ホール、図書カウンターの上に、長い帯のような枠組みがあって、その枠の右端に、聖書の言葉がギリシア語で刻まれています。ところが、その左端には、日本語で「真理がわれらを自由にする」と刻んであるのです。ギリシア語では確かに、「真理はあなたがたを自由にする」と書かれているのに、日本語の方は、「われら」になっている。これは、どうやら、日本語の方が先にあったようです。今から75年前、この図書館が設立されるとき、初代の参議院図書館運営委員長で歴史学者でもあった羽仁五郎という人が、ドイツのフライブルク大学の図書館で見た言葉をヒントに、「真理がわれらを自由にする」という言葉を標語のように掲げました。ちなみに、この羽仁五郎という人は、自由学園の創設者である羽仁もと子さんの娘婿にあたります。「自由」という言葉に引かれたのかも知れません。後に、本館の建物を建てるとき、「真理がわれらを自由にする」という言葉が、図書カウンターの上に刻まれることになりました。その際、原典である外国語も一緒に刻むという話になり、たどっていけば、これは新約聖書の言葉だということが分かりました。それで、このヨハネによる福音書の言葉が、その原語であるギリシア語で、「われら」と「あなたがた」が食い違ったままで、同じ枠の右端に刻まれたのです。

 羽仁五郎さんが見たフライブルク大学の図書館の標語は、聖書通りの言葉をドイツ語にして「あなたがた」と書かれていたようです。それを「われら」に置き換えたのは、記憶があいまいであったからか、意図的にであったか、真実は分かりません。けれども、実に日本的な言い換えだと、私は思います。もしも、聖書の言葉をそのまま訳して、「真理はあなたがたを自由にする」と記したら、「あなたがた」と呼びかけてくる相手と向かい合うことになります。福音書によれば、これは、主イエスがご自分を信じたユダヤ人たちに向かって語られた言葉です。それをそのまま持ってくれば、どうしても「あなたがた」と呼びかけているのは誰か、という話になってしまいます。それでは具合が悪いので、出典をごまかして、まるで一般的な標語のように「真理がわれらを自由にする」と言い換えたのです。その場合の真理とは、図書館に集められた膨大な知識の集成によって到達するものということになるのでしょうか。膨大な書物や資料を通して与えられる知識を積み重ね、過去の歴史に学びつつ、知識を増し加えていけば、様々な迷信や捕らわれから解放されて、自由になる、ということなのかもしれません。
 国立国会図書館法という法律の前文には、次のように記されています。「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される」。この法律が制定されたのは、昭和23年、1948年です。日本の敗戦後3年を経てのことです。国体という言葉で天皇制のもとに縛られ、何かに取り憑かれたかのように戦争へと突き進んでしまった戦時体制への大きな反省があったのだと思います。日本国憲法のもとで、民主的な自由と平和を実現しようという切なる願いが込められているのではないかと思われます。

 先週一週間ずっと、「真理はあなたがたを自由にする」という聖書の言葉が頭にあったからかもしれません。先週の金曜日、朝刊を開いたとき、ある新聞広告が目にとまりました。今から14年前、2009年に刊行された書物が、新たに文庫版として出たというのです。先月の末に亡くなった世界的な音楽家、坂本龍一さんの自伝です。その書物の題名が『音楽は自由にする』というのです。その表紙には、ドイツ語でMusik macht frei(ムズィーク・マハト・フライ)と書かれていました。英語で言えば、Music makes freeとなります。そのドイツ語を見た途端に、私はすぐに、もう一つの言葉を思い起こしました。Arbeit macht frei(アルバイト・マハト・フライ)。第二次世界大戦のとき、ユダヤ人や障害者たちが収容された、いわゆる強制収容所の入口に掲げられた言葉です。「労働が自由にする」。「働けば自由になる」。それは皮肉とも言うべきまやかしであって、行き着く先は死でした。確かに、死が解放だと思われることもあります。迫害だけではなくて、重い病に苦しんだ人にとって、死は苦しみからの解放と思われるかも知れません。しかし、それは死の力に飲み込まれたのであって、死から解放されたわけではありません。
 坂本龍一さんは、あのまやかしのような強制収容所の言葉にひねりを加えて、Musik macht frei. 「音楽は自由にする」と掲げたのでしょう。音楽の持つ創造的な自由の力を伝えたかったのだと思います。音楽によって生かされてきた自らの人生を振り返っているのです。確かに、音楽には癒やしの力があります。まやかしの宗教よりは、よほど多くの人に癒やしと慰めを与えると思います。救いを与えると言いながら、いろんな掟で人を縛り、操ろうとする宗教が後を絶ちません。先祖のたたりだと言って人を脅し、マインドコントロールによって人を支配する。宗教とはそんなもの、自分は宗教なんかに縛られず、自由に生きると思っている人も少なくないのではないでしょうか。私たちは、改めて、聖書の言葉に立ち帰りたいと思います。主イエスは言われました。「真理はあなたがたを自由にする」。人を自由にする真理とは何なのか。本当の自由とは何なのか。聖書の言葉のつまみ食いや都合のよい言い換えではなくて、聖書の言葉そのものを、正しく味わいたいと思うのです。

 本日与えられた聖書の箇所は、こんなふうに始まります。「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた」。ここで、主イエスが相手にしておられるのは、ご自分を信じた者たちです。直前の30節を見ると、「これらのことを語られたとき、多くの人がイエスを信じた」と記されています。ユダヤの仮庵祭の間中、主イエスはエルサレムの神殿の中で教えておられました。そこで、主イエスが語られた言葉を聞いて、多くの人が主イエスを信じたというのです。ところが、その主イエスを信じたユダヤ人たちが、主イエスの弟子になったわけではないということが、この後の対話を通して暴露されていきます。主イエスを信じたはずの人たちと主イエスの関係は、この後、どんどん険悪になっていくのです。
 37節を見ると、主イエスは、ご自分を信じたはずのユダヤ人たちに向かって、「あなたがたは私を殺そうとしている」と言われます。さらに、次の段落まで進むと、44節では「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」と主は言われます。つまり、主イエスの言葉を受け入れず、むしろ、自分たちの父である悪魔から聞いたことを行っている、と言われるのです。そして、第8章の終わりに至ると、主イエスを信じたはずのユダヤ人たちが、「石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」と記されます。まさに、主が言われたとおり、主イエスを殺そうとしたのです。この段階では、まだ主イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれます。けれども、最後には、主イエスを信じたはずのユダヤ人たちが、主イエスを十字架につけて殺してしまうのです。どうして、そこまで、関係がねじれてしまったのでしょうか。信じただけでは、まだ何かが足りなかったのでしょうか。

 主イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われました。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」。ここで、主イエスが求めておられるのは、主イエスの言葉に「とどまる」ということです。ただ、聞いて信じた、という過去形ではなくて、主イエスの言葉の中にとどまり続けることを求めておられるのです。信じたにもかかわらず、その信じた方を殺そうとするのは、もう既に、そのお方を信じることから外に出てしまっていることになります。かつて信じたとしても、今信じ、また信じ続けるのでなければ意味はありません。主イエスの教えを聞いて、自分の心に響いた言葉や、納得できた言葉があって、主イエスを信じたつもりになっても、自分の考えに合わないところがあれば立ち止まってしまう。主イエスの言葉に納得できなければ、そこから後は、もうついて行かない、というのでは、主イエスの言葉にとどまっていることにはなりません。たとえ、主イエスを信じたとしても、主イエスの本当の弟子であるとは言えないのです。
 イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた者は、キリスト者と呼ばれるようになります。キリストのものということであり、もはや自分自身のものではなく、キリストのものとして新しく生まれるのです。そうであればこそ、キリストとつながっていなければ、この新しい命は生き続けることができません。主イエスの言葉にとどまるということは、主イエスの愛の中にとどまることであり、主イエスにしっかりとつながっているということです。やがて第15章において、ここでは「とどまる」と訳されている同じ言葉を用いながら、主は言われます。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」(第15章4~5節)。主イエスの弟子とは、主イエスの言葉にとどまり、主イエスにしっかりとつながっている者です。師匠である主イエスの言葉を守り、その教えに従って生きる者です。かつて、この師匠を知らなかった時と同じ生き方を続けることは、もうできません。師匠にならうことによって、当然、その生き方が変わってくるはずなのです。
 私たちの教会は、ディサイプルス教会の伝統に立っています。Disciples of Christ(ディサイプルス・オヴ・クライスト)、まさに、キリストの弟子として、キリストに従う者たちの群れとして生かされています。「キリストの弟子」として、その名にふさわしい生き方をしたいのです。

 主イエスは言われました。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」。主イエスの言葉の内にとどまって、主イエスの本当の弟子となるならば、真理を知ることができる。その真理があなたがたを自由にする、と言われたのです。聞いていたユダヤ人たちは、この主イエスの言葉が、今あなたがたは本当は自由ではない、奴隷になっている、という意味にもなることを、敏感に感じ取ったのだと思います。不満そうに反論しました。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたがたは自由になる』とどうして言われるのですか」。自分たちは神に選ばれた神の民であって、これまで誰かの奴隷になったことなどない、と主張するのです。そこには、強烈な民族としての誇りが現れています。
 しかし実際には、かつて、イスラエルの民は、エジプトで奴隷生活を経験したことがあります。確かに、その苦しい奴隷生活から解放されて自由を味わいました。仮庵祭は、解放された民が荒れ野で神に導かれたことを記念する祭りであったわけです。しかし、その後も、バビロニアによって国が滅ぼされ、多くの民が捕囚の生活を味わいました。この当時にしても、なるほど形の上ではヘロデの王家のもとでユダヤの国として認められてはいましたけれど、実際には、ローマ帝国の支配下に置かれていたわけです。そういう惨めさを味わっておりながら、「私たちは自由だ。誰の奴隷にもなっていない」と誇っているのです。
 けれども、主イエスが言われるのは、そのような政治的な次元の話ではありません。主は言われます。「よくよく言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」。罪を犯す者は、実は、罪の奴隷になっているのだ、ということ。これは、政治的な奴隷状態よりももっと深刻だと思います。政治的、社会的には自由が制限されていても、魂は何者にも支配されず自由である、と言えれば幸いです。けれども、その魂が、罪の奴隷にされており、罪の力に支配されているのです。もしも、罪の力から自由であるというなら、罪を犯さないでいられるはずです。自由な者として、自分の考えも行動も、自分でコントロールできるはずです。しかし実際には、言うべきではないことを口にしたり、してはならないことをしてしまったりするのです。主イエスは、そういう私たちの現実をえぐりだすように、罪を犯す者は、罪の奴隷だと言われます。私たちは、一人も例外なく、罪の奴隷であることを認めざるを得ないのです。

 しかしながら、自らが罪の奴隷となっていることを認めるなら、主イエスの言葉は、私たちに希望を指し示します。主は言われます。「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる」。奴隷は、主人の必要によって家にいることを許されているだけです。その必要がなくなれば、別の主人に売られていくことになります。けれども、「子はいつまでもいる」。なぜなら、家族の一員だからです。主人の役に立つかどうかで運命が分かれる奴隷とは違って、子は家族の一員としてそこにいるのです。父に愛されている子として、父と共に父の家にいるのです。それは、何よりも、主イエスご自身のことです。主イエスは、父なる神の独り子として、天の住まいにおいて、父なる神と共におられました。父の家から出る必要などなかったのです。それなのに、主イエスは、父のもとを離れ、この地上に来られました。それは、罪の奴隷となって苦しんでいる私たちを、罪の支配から救い出すためです。死の力に支配されて望みを失っていた私たちを、死の支配から解放するためです。そのために、ただ一人、生まれながらに自由な子である神の御子が、父の家を出て、この地上に来てくださったのです。
 「真理はあなたがたを自由にする」。この言葉と同じくらい、いやもっと良く知られている言葉があります。宗教改革者ルターが、小聖書、と呼んだ言葉です。聖書が告げる福音のエッセンスと言ってよいかもしれません。この福音書の第3章16節の言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。罪と死の力に支配されて、滅びを刈り取るしかなかった私たちを救い出すために、神はその愛する独り子を世に遣わしてくださいました。私たちの罪の償いのため、十字架の死に引き渡されました。それほどに、神は世を、私たちを愛してくださったのです。私たちが、人となって私たちの間に宿られた御子を信じ、滅びから救い出されて永遠の命を得るために、父なる神は、大切な独り子を与えてくださいました。御子の命を与えてくださったのです。

 使徒パウロがローマの教会に宛てて書いた手紙の言葉を思い起こします。ローマの信徒への手紙第8章15節と16節の言葉です。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます」。自由な子である主イエスを信じ、主とひとつに結ばれる洗礼を受けた者は、もはや奴隷ではなく、子としての身分を与える霊を受けて、「アッバ、父よ」と呼ぶことができるようになります。主イエスの命をいただいて、主イエスと同じように、自由な神の子とされていることを知るのです。
 主は言われました。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」。「真理はあなたがたを自由にする」。この真理とは、主イエス・キリストご自身のことだと言って良いでしょう。私たちが、自分の心に響く言葉や自分に納得できる言葉だけでなく、私たちの耳に逆らうような厳しい裁きの言葉も含めて、主がお語りになる言葉に真剣に耳を傾け、主の言葉の中にしっかりととどまり、主イエスの本当の弟子となるならば、私たちは、主イエスのことをさらに深く知るようになり、主イエスが、私たちに、神の子としての自由を与えてくださるのです。主の言葉が、私たちの中に深く宿り、私たちを新しくし、神の子とされた私たちを通して豊かに響き出るようになることを、心から祈ります。