2023年4月2日 棕櫚の主日礼拝説教「あなたを独りにしない」 東野尚志牧師
聖書 ヨハネによる福音書 第8章21-30節
出エジプト記 第3章13-14節
2023年度の最初の主の日を迎えました。きょうの礼拝において、先週の教会総会で選ばれた新しい役員を含めて、2023年度の役員会を構成する方たちの任職式を行います。引き続いて、教会学校教師の任職式も執り行います。これをもって、新しい年度の奉仕の体制が整うことになります。午後には、2023年度の最初の定例役員会を行います。そのようにして、新しい年度の歩みが始まるのです。
今年はその始まりが、受難週に重なることになりました。主イエスが地上の生涯の最後のとき、捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられ、死んで墓に葬られた、その最後の一週間をなぞるようにして、特別な週を過ごすのです。きょうは、その最後の一週間の始まりの日、棕櫚の主日を覚えています。ヨハネによる福音書には、主イエスがエルサレムの都に入られるとき、群衆がなつめやしの枝を持って迎えに出たと記されています。この「なつめやし」が以前の口語訳聖書では「しゅろ」と訳されていました。そこから、「棕櫚の主日」と呼ばれるようになったわけです。
木曜日の夜には、礼拝堂において特別祈祷会を行います。これも、ヨハネの福音書によれば、その夜、主イエスは食事の席から立ち上がって、弟子たちの足を洗って行かれました。それで、洗足木曜日と呼ばれるようになりました。またその食事の中で、聖晩餐が制定されたことを覚えて、祈祷会の中で共に聖餐にあずかります。ぜひ、多くの方にご出席いただきたいと願っています。出席することができない方も、心を合わせ、祈りに覚えていただければ幸いです。そのようにして、共に、受難週の祈りを深めながら、主の十字架が私たちの罪のため、私たちの罪のための身代わりの死であったことを覚えつつ、復活の祝いに備えたいと思います。
棕櫚の主日にあたって、それに合わせて聖書の箇所を選ぶのではなくて、ヨハネによる福音書の続きのところを読みました。しかし、ここにも、十字架へと進んで行かれる主イエスのお姿が描かれていると言ってよいと思います。きょうの箇所の冒頭で、主イエスは言われます。「私は去って行く。あなたがたは私を捜すだろう。だが、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行く所に、あなたがたは来ることができない」。「私は去って行く」と言われたのは、主イエスが、十字架の死を目指して歩んでおられることを示しています。これまでにも、主イエスは、弟子たちから離れ去ることについて語ってこられました。ご自身をお遣わしになった方のもとへ帰る、とも言われました。そして、主イエスが行かれる所に、弟子たちは来ることができないと言われたのです。なにか取り残されるような不安と寂しさを感じさせる言葉だと思います。
そして、ここでは、さらに私たちの思いをかき乱すような言葉が語られています。主は言われるのです。「だが、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」。それは、何とも恐ろしい響きの言葉ではないでしょうか。しかも、冒頭の21節で語られただけではありません。この後、さらに24節でも2回繰り返しておられます。「だから、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになると、私は言ったのである。『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」。つまり、きょう読んだ段落の中で、主イエスは3回も繰り返して、「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」と告げておられるのです。マルコをはじめとする共観福音書においては、主イエスが3度繰り返して、ご自分の十字架の死について予告をされたということが、印象深く語られています。しかし、それとは別の意味で、主イエスが私たちの死について、しかも、自分の罪のうちに死ぬということを3度も繰り返して語っておられるというのは、よほどのことではないかと思うのです。
「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」。この言葉があまりにも強烈なインパクトを持っているので、最初は、きょうの説教題を「自分の罪のうちに死ぬ」というふうにつけようかと思いました。けれども、すぐにそれを自分で打ち消しました。確かに、インパクトがあります。けれども、これを説教題として目にしたとき、だれもそんな話を聞きたくはないだろうと思いました。「自分の罪のうちに死ぬ」。そこには救いがありません。確かに、誰も死を避けて通ることはできません。今はこのようにして、共に礼拝に集い、聖書の言葉を聞いている私たちも、いつかは自分の死の時を迎えることになります。イエスさまを信じたら、死なない人間になるということではありません。やはり、私たちも、地上の命の終わり、死のときを迎えるのです。私たちが死んで葬られるとき、たとえば葬儀の司式をする牧師が「この人は自分の罪のうちに死んだ」と言ったらどうでしょうか。残された者たちは、悲嘆に暮れることだと思います。腹を立てるかもしれません。それくらい厳しい言葉です。心に突き刺さるような言葉です。いったいどうしたら、私たちは、自分が死んだとき、この人は「自分の罪のうちに死んだ」などと言われないで済むようになるのでしょうか。
私たちが悩んでも、どうすることもできません。むしろ、私たち自身よりも、私たちが罪のうちに死んでしまうことのないように、私たちのための悩んでくださった方がおられます。すべての命の造り主である神さまは、私たちが自らの罪のうちに死んで、永遠の滅びに落ちてしまうことのないように、大切な独り子であるイエスさまを、この地上に遣わしてくださいました。何の罪も犯したことのない方、ただひとり、自分の罪のうちに死ぬことのないお方に、私たちの罪を負わせて、私たちの身代わりとして、罪のうちに死なせようとなさったのです。私たちが自分の罪のうちに死ぬことのないように、主イエスは、私たちの罪をすべてご自身に引き受けて、罪のうちに死んでくださいました。それこそが、主イエスの十字架の意味だと言ってよいのです。そのことが本当に分かったなら、「私は去って行く」と言われた主の御心、その決意を正しく受けとめることができるのだと思います。
けれども、主イエスの言葉を聞いていたユダヤ人たちは、その意味するところを理解することができませんでした。そしてここでもまた、とんちんかんなことを口にします。22節です。「『私の行く所に、あなたがたは来ることができない』と言っているが、まさか自殺でもするつもりなのだろうか」。どうして、ここで自殺の話になるのか、ユダヤ人たちの心の動きがお分かりいただけるでしょうか。当時のユダヤ人たちも自殺は恐ろしい罪であると理解していました。それは、命の造り主であり、命の支配者である神に対する反逆であると考えられました。命は私たちのものではありません。私たちは、自分の意思で生まれてくるのではないように、自分の意思で死ぬことも許されてはいないのです。だから、自殺をするようなひとは、神から呪われると考えられました。カトリック教会では長く、自殺者の葬儀は教会では行えない、と考えたくらいです。恐らく、ユダヤ人たちは、主イエスが「私の行く所に、あなたがたは来ることができない」と言われたことを、自分たちがついて行くことができないくらいの呪われた死の世界に行こうとしている、つまりは自殺の死を意味しているのではないかと考えたのです。
通常、死んだ者たちの行く所とされる陰府は、この世よりも下にあると考えます。だからこそ、陰府に降る、という言い方をします。しかし、自殺した者は、さらにその下にまで落とされる。下の下にまで下る。だから、主イエスが自分たちはついて来ることのできない所に行く、と言われたのを、自殺でもするつもりかと勘違いしたのです。自殺、自死ということをどのように捉えるかについては、別の機会にもっと丁寧に考える必要があると思います。主の救いの御手は、そこにも及んでいると私は信じます。しかし、このユダヤ人たちの勘違いは、ユダヤ人たちの考え方をよく現しています。だからこそ、主イエスは、このとんちんかんな答えをしたユダヤ人たちに、言われたのです。23節です。「あなたがたは下から出た者だが、私は上から来た者である。あなたがたはこの世の者であるが、私はこの世の者ではない」。ユダヤ人たちは、自分たちが上にいるつもりで、主イエスが下に下って行くので、ついていけないと思っている。けれども、それは話が逆なのです。主イエスが上におられて、ユダヤ人たちの方が下にいるのです。
「下から出た者」「上から来た者」というのを、新共同訳聖書では、「下のものに属している」「上のものに属している」と訳していました。つまり、お互いの属している世界が違うと主は言われるのです。だから、話がかみ合わないのです。主イエスは、この世ではない上のもの、つまり天に属しておられ、天から降って来られた方です。そのお方が語られる言葉は、この世に属し、この世の論理に縛られている者たちには通じないのです。
それならば、どうしたら、主イエスの語られる言葉が分かるようになるのでしょうか。主は言われます。24節です。「だから、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになると、私は言ったのである。『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」。ここでもまた、不思議な言葉が語られています。「『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」。主イエスはそう言われました。これは、ひっくり返して言えば、「私はある」ということを信じるならば、自分の罪のうちに死ぬことはなくなる、ということにもなります。主イエスを正しく知り、主イエスを信じるための鍵になる言葉、それが「私はある」と訳された言葉なのです。
共同訳の聖書になって、「私はある」という言葉がくっきりと示されるようになりました。「私はある」と訳されているのは、英語で言えば、I AMにあたります。それだけの実に単純な言葉です。けれども、聖書においては、特別な意味を持つとても大切な言葉です。きょう、新約聖書と合わせて読まれた旧約聖書の箇所、出エジプト記第3章14節の言葉を下敷きにして語られています。主なる神が、モーセを召し出して、イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から解放するために、モーセをエジプトに遣わされる場面です。そのとき、モーセは、イスラエルの民から、お前を遣わしたという神は誰だ、その名は何と言う、と問われたとき、何と答えるべきかを神に尋ねました。神は答えて言われたのです。「私はいる、という者である」。さらに言われました。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと」(出エジプト記第3章14節)。新共同訳聖書では、ここもまた「わたしはある」と訳されていたのですけれど、聖書協会共同訳になって「私はいる」という訳語になりました。「私はある」というのでは、ただ存在を強調するだけのように聞こえるかもしれないけれども、ここで言われているのは、神がただ存在するだけではなくて、神がモーセと共におられるということを現すために、出エジプト記においては「私はいる」という訳語を採用したと言われます。神はモーセに言われるのです。私はいる、私はあなたと共にいる。
ここで大事なことは、「私はいる」と訳された言葉は、神さまご自身が、ご自分の名前をお示しになった言葉だということです。「私はいる」という名前によって、神さまは生きておられ、確かにモーセと共におられ、御心に従って救いの御業を行う方であることが示されているのです。その御業のために、神はモーセをお遣わしになりました。主イエスが、ご自分のことを「私はある」と言い表されたとき、そこにも主の救いの御業が行われようとしていることを告げておられるのです。父なる神の独り子である主イエス・キリストが、神のもとからこの世へと遣わされ、神に背いた罪のために、自らに滅びの死を招いた者を救おうとしておられるのです。神と人との間を引き裂いてしまった人間の罪を、独り子である神がすべて引き受けてくださり、引き裂かれた関係を回復させてくださるのです。自分の罪のうちに、孤独な死を死ぬほかなかった者を、神との生きた交わりの中に取り戻してくださるのです。「私はある」という旧約聖書以来の神の名を示すことによって、主イエスは、ご自分が何者であり、何をしようとしておられるかをはっきりと示されたと言ってよいのです。
「私はある」。この大事な言葉を、主はもう一度繰り返しておられます。28節です。「そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに、話していることが分かるだろう」」。「人の子を上げたとき」と言われます。「人の子を上げる」とか「人の子が上げられる」というのは、ヨハネによる福音書独特の言葉です。この「上げる」という言葉で、ヨハネが現そうとしている第一のことは、十字架に上げる、十字架に上げられるということです。私たちすべての罪をその身に背負って、神に呪われた者として、十字架に上げられるのです。しかし、ヨハネは同じ「上げる」「上げられる」という言葉で、栄光の座に上げられることを重ね合わせています。ヨハネ福音書にとって、そして、私たちすべてにとって、十字架は敗北のしるしではありません。十字架こそは、神が私たち人間の罪に勝利され、私たちを罪から解放してくださった勝利のしるしです。主の十字架は、天と地をつなぐ救いのしるしです。だからこそ、代々の教会は、屋根の上に高く、天を指し示すように十字架を掲げているのです。
主は言われます。「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに、話していることが分かるだろう」。さらに、続けて言われます。「私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を独りにしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」。独り子をこの世にお遣わしになった神と、神の御心を行うためにこの世に遣わされた御子は、信頼に満ちた交わりの中におられます。だからこそ、十字架に上げられることは、栄光に上げられることをも意味しているのです。そして、主イエスは、自分の罪のうちに滅びるしかなかった私たちをも、父なる神との交わりの中に招き入れ、私たちを遣わしてくださるのです。父なる神が御子を遣わされたように、御子イエスが私たちを遣わしてくださいます。主は言われました。「私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を独りにしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」。それは、主イエスご自身のことであると同時に、主によって遣わされた私たちに与えられる恵みでもあります。私たちをお遣わしになった主イエスが、いつも私たちと共にいてくださいます。主イエスは、決して私たちを独りにしてはおかれません。私たちが主イエスの御心に適うことを行うからです。
自分の罪のうちに死ぬほかなかった私たちを、主イエスは、ご自分の命を犠牲にして死の支配から救い出してくださいました。十字架と復活の主が、私たちに約束してくださいます。あなたを独りにしない、そう言って、いつも私たちと共にいてくださるのです。遣わされた者は、決して、孤独ではありません。遣わしてくださった方が、いつも共にいてくださいます。そして、私たちを滅びの中から救い出してくださっただけではなくて、この私たちを通して、全世界に救いの御業を広めて行こうとされるのです。私たちが、主を信じる者となるように、主を信じる者がさらに起こされていくように、主の霊が、私たちの間に力強く働いてくださいます。主が私たちのために備えてくださった、命のパン、救いの杯にあずかり、新たな力と望みに満たされて、それぞれの働きの場へと遣わされてまいりましょう。