2023年3月26日 受難節第5主日礼拝説教「世の光、主イエス」 東野尚志牧師

ヨハネによる福音書 第8章12〜20節
詩編第36編6〜10節

 主イエスは言われました。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」。「私は世の光である」。主イエスがご自身のことを、たとえをもって言い表された言葉です。ヨハネによる福音書の中には、同じような言い方で、主イエスがご自身のことを示された言葉が何度か出てきます。第6章においては、「私は命のパンである」と言われました。そして言われたのです。「私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」。かつてイスラエルの民は、神から遣わされたモーセによって、エジプトの奴隷生活から解放されて荒れ野へと出て行きました。荒れ野で食べ物がなく飢えたとき、神は、天からマナという不思議な食べ物を降らせてイスラエルの民を養われました。その出来事を踏まえながら、主イエスはご自身のことを、「天から降って来て、世に命を与える」神のパンであると言われたのです。
 第6章で「私は命のパンである」と言われ、第8章では「私は世の光である」と言われました。そして、この後も、第10章で「私は羊の門である」と言われ、さらに、「私は良い羊飼いである」とも言われます。第11章ではラザロが葬られた墓の前で、姉妹のマルタに向かって「私は復活であり、命である」と宣言されます。また第14章では、弟子のトマスの問いに対して「私は道であり、真理であり、命である」と言われるのです。そして恐らく、最もよく知られているのが、第15章の言葉だと思います。主はご自身について言われます。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」。ここまで、数えてみれば七つあります。福音書記者ヨハネは、七という完全数を意識したのかも知れません。そのいずれも、主イエスがどのようなお方であるのかを示す大事な言葉です。そして、それぞれの表現の背後には、そのようなたとえを用いられた状況があるわけです。

 第6章で、主イエスが「私は命のパンである」と言われたときは、荒れ野で民が養われた天からのパン、マナのことが話題になっていました。それならば、第8章において、主イエスが「私は世の光である」と言われたとき、そこにはどのような状況があったのでしょうか。きょうの箇所は、こんなふうに始まっています。「イエスは再び言われた。『私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。』」。「再び言われた」と書かれています。それは、どこにつながっているのでしょうか。前には何と言われたのでしょうか。
 この状況を正しく理解するためには、大きな括弧でくくられている第7章53節から第8章11節までの記事が、最初からここにあったのではなくて、後からこの場所に挿入された物語なのだということを思い起こす必要があります。姦淫の現場で取り押さえられ、主イエスの前に引き連れられてきた女性に対して、ファリサイ派の人たちは、モーセの掟を引き合いにしながら、厳しい裁きを求めました。石打ちの刑にしようと主イエスに迫ったのです。ところが、主イエスが語られた言葉を聞いて、一人去り、また一人去り、あとには、主イエスと女だけが残りました。主イエスは、「私もあなたを罪に定めない」と言って、この女性の罪を赦されたのです。前回詳しく読んだところですから、繰り返すことはしませんが、これだけで独立して味わうことのできる、とても感動的な物語です。しかし、この物語が後の時代の挿入であるとするなら、8章12節以下のきょうの箇所は、直前の段落を飛ばして、7章の話から続いていることになります。

 第7章の2節には、「時に、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」とありました。この仮庵祭は、もともとは秋の収穫祭を下敷きにしながら、モーセに導かれたイスラエルの民が、自らの罪のために、40年もの間、荒れ野をさまようことになった出来事を記念する祭りになりました。荒れ野をぐるぐると旅するのですから、立派な家を建てる訳にはいきません。移動式のテント生活です。その日々を覚えて、一週間、仮小屋を建ててそこで生活したのです。その際、荒れ野の生活で大事なのは水を得ることです。神は、苦くて飲めない水を飲めるようにしたり、岩から水を出したりして、イスラエルの民に水を与えられました。だから、仮庵祭の中では、一週間毎日、池から水を汲んで神殿の祭壇に注ぐという儀式が行われていました。仮庵祭は水の祭りでもあったのです。そういう儀式が一週間繰り返された最後の日に、主イエスは神殿の境内で、大きな声を出して叫ぶように言われました。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる」。
 ヨハネは、この主イエスの言葉を聞いた人たちの間に対立が生じた、と記しています。群衆の間で、主イエスこそは約束のメシア救い主かもしれないと言う人がいるかと思えば、メシアはダビデの村であるベツレヘムから出るのだから、ガリラヤの田舎から出て来た男がメシアであるはずがないという人たちもいました。さらには、ユダヤ人の指導者たちの間でも、主イエスが誰なのかということを巡って、論争が起こります。以前に、夜、主イエスのもとを訪ねて教えを請うたことのあるファリサイ派の議員、ニコデモが再登場して、主イエスを弁護するような発言をしたかと思えば、他の学者たちからやり込められる、というようなことが起こりました。そこから、きょうのところにつながります。つまり、あの「生ける水」についての主イエスの言葉を踏まえて、「イエスは再び言われた」となるのです。先には、水についての宣言でした。そして、今度は、光についての宣言です。

 実は、ここにも、盛大に祝われた仮庵祭の余韻が残っていたと考えられます。確かに、40年もの長きにわたって荒れ野をさまよう中で、神さまの守りと導きを象徴するものの一つが水でした。人は水なしに生きていくことはできないからです。そして、荒れ野の旅において、もう一つ大事なものは光でした。荒れ野の旅を記した出エジプト記の最後には、こんなふうに記されています。「旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火があるのを、イスラエルの家は皆、目にしていたからである」(出エジプト記第40章38節)。しばしば、雲の柱、火の柱、ということが言われます。荒れ野を行く民と、神がいつも共にいてくださった、その目に見えるしるしが、雲の柱と火の柱でした。神のご臨在を現す雲を再現するのは無理な話でしたけれども、夜には、燭台に火を灯すことで、火の柱を現すことができました。つまり、仮庵祭は、水の祭りであると同時に、火の祭りでもありました。夜には、エルサレムの神殿の境内、四つの高い塔の先に油を入れた器を置いて、それに火をつけたというのです。暗闇に覆われたエルサレムの町のどこからでも、その火を見ることができました。火の柱が、夜の闇に沈んだエルサレムの町を照らしたのです。そのようにして、荒れ野の旅路を思い起こしながら、神が今も自分たちと共におられることを受けとめようとしました。水と火、これが仮庵祭の大事なアイテムであったのです。
 一週間にわたって、仮小屋を造ってそこに住むだけではなくて、毎日、池から水が汲まれ、毎晩、火が掲げられて、荒れ野の旅路における主の守りを記念しました。神の水に潤され、神の光に導かれる。そうであればこそ、何もない不自由な荒れ野の生活も耐えることができました。いにしえの先祖たちの荒れ野の旅を記念して、水と光の祭りとして仮庵祭を祝ったユダヤ人たちは、あの詩編の言葉を思い描いていたのかもしれません。主の僕ダビデは歌いました。「神よ、あなたの慈しみはなんと貴いことでしょう。人の子らはあなたの翼の陰に逃れます。彼らはあなたの家の豊かさによって満ち足り/あなたの喜びの川に渇きを癒やします。命の泉はあなたのもとにあり/あなたの光によって、私たちは光を見ます」(詩編第36編8-10節)。その祭りのクライマックスにおいて、主は言われたのです。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる」。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」。昔の先祖たちの経験を懐かしんでいるだけでは足りません。今、ここにおられる主イエスこそが、命の水を与える方であり、闇の世を照らす命の光であると宣言されたのです。
 確かに、現代を生きる私たちの魂も渇いており、私たちも闇のような世にあって光を求めています。救い主が、命の水で潤してくださり、命の光で明るく照らしてくださることを願っています。明るい未来を思い描くことができずに、不安や絶望に押しつぶされそうになるのです。どんなに頑張って働いても、日々の生活は少しも楽になりません。会社に行けば、そりの合わない嫌な上司がいる。あるいはまた、訳の分からないことを言う部下がいて、ちょっとたしなめると、パワハラだと騒ぎ立てる。家に帰ってもくつろげるような居場所がない。あるいは立場が変われば、一日中、家の仕事や子育てに追われながら、やっと帰ってきた連れ合いは、その労をねぎらい、手伝ってくれるどころか、何にもしないでただ座って待っているだけ。つい言い争いが起こります。誰も自分のことを分かってくれない。そういう不満がたまって爆発しそうになります。教会でもそうです。牧師が分かってくれない、教会員が分かってくれない。あげく、神さまはちっとも私のことを分かってくれない。カラカラに干からびたようになって、望みの光が見えなくなります。政治にも経済にも光が見えない。容赦なく災害や不幸が襲ってきます。一年以上続く戦争もなかなか収まりません。暗いニュースばかり続く中で、いっとき、WBCの優勝、選手たちの活躍に心躍らせ、この世界も捨てたものではない、と感じても、また過ぎ去ると、現実に引き戻されてしまいます。
 「私のもとに来て飲みなさい」と言われても、ほんとに大丈夫かなあ、と不安がよぎります。「私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」と言われても、そんな都合のいい話、ほんとに信じて良いのかと首をかしげる。この世の中には、人の不安や不幸につけ込んでくる宗教がたくさんあるからです。騙された経験を持つ人も少なくありません。いつの間にか洗脳されて、身ぐるみ剥がされていたということも起こります。あまり深入りせずに、良さそうな教えだけつまみ食いして、自分がそこそこ満足できればそれでよい。今の時代、宗教に対する恐れや諦めが深く澱んでいるのではないでしょうか。どうしたら、誘い文句に騙されずに、本物を見極めることができるのか。二千年前、主イエスの言葉を聞いた人たちの間にも、そのような疑いを抱いた人たちがいたのです。

 仮庵祭で盛り上がった神殿の境内で、主イエスの言葉を聞いたファリサイ派の人たちは言いました。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」。神さまのご臨在を記念する祭りの中で、まるで、自分こそが命を与える神であると言うような主イエスの言葉を聞いて、カチンときたのかも知れません。いったい何様のつもりか、と思ったのでしょう。「自分で言っているだけでは信用できない。ほかに誰か、確かな証人がいるのか」と問うたのです。考えてみれば、今の時代にも、自分はキリストの再来であると宣伝したり、自分こそが救い主だと語る怪しげな教祖が現れたりします。それをそのまま信じたら、取り返しのつかないことになります。献金と称して財産を巻き上げられ、家族の信頼を失い、果ては家庭崩壊、子どもからも恨まれることになります。その意味では、ファリサイ派の人たちの言い分も、一理あるのかもしれません。けれども、主イエスは、それに答えて、さらに不思議なことを言われました。
 主は言われます。「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたがたは、私がどこから来てどこへ行くのか、知らない」。主イエスは、ご自分がどこから来てどこへ行くのかを知っていると言われます。それはつまり、ご自分がなぜここにいるのか、何のために生きているのかを知っているということです。私たちは、いつもそのことで迷います。何のためにここにいるのか、何のために生きているのか、が分からなくなるのです。だからこそ、誰か自分以外に、自分のことを証ししてくれる存在を必要とするのです。けれども、主イエスは違います。主イエスは、ご自分がどこから来て、どこへ行くのかを知っておられます。何のために、この世に来られたのか、何をするためにこの世に生まれたのかを、主イエスははっきりと知っておられました。ヨハネによる福音書は、最初からそのことを証ししてきたのです。
 ヨハネによる福音書は、その冒頭、初めから神と共にあった神の言が、肉となってこの地上に来られたことを告げていました。また洗礼者ヨハネは、人となられた神の独り子こそは、世の罪を取り除く神の小羊であると証ししました。その意味では、主イエスには、ヨハネの証しがあるとも言えます。しかし、主イエスはそれよりも、ご自身を遣わされた父なる神と共にあり、父なる神の証しがあることを告げられます。そして、まるで信じようとしないファリサイ派の人たちを突き放すかのように、言われるのです。「あなたがたは、私も私の父も知らない。もし、私を知っているなら、私の父をも知っているはずだ」。ファリサイ派の人たちは、主イエスのことを知らないから主イエスの父のことが分からず、主イエスの父のことを知らないから、主イエスのことを理解できません。言い換えれば、主イエスのことを知れば、主イエスの父を知ることができ、主イエスの父を知れば、主イエスのことを理解することができるのです。何か、同じところをぐるぐる回っているような感じで、よく分かりません。信じて、主イエスと主イエスの父との交わりの中に飛び込んでしまう以外、この謎は解けないのだと思います。信じて、飛び込むとき、聖霊なる神の働きによって、この交わりの中に生きる者とされるのです。

 主イエスは言われます。「あなたがたは肉に従って裁くが、私は誰をも裁かない」。恐らく、この言葉のゆえに、あの姦淫の女の物語がこの直前に挿入されたのだと思います。主イエスは罪を犯した女に言われました。「私もあなたを罪に定めない」。ただ一人、本当に罪を裁くことのできる方が、その罪を背負って、罪の赦しを宣言されたのです。ヨハネの福音書は、以前にも、裁きについて語っています。宗教改革者ルターが、「小聖書」、小さな聖書と呼んだ救いの言葉に続けて、裁きを告げたのです。3章16節以下です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。その後に続きます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである」。
 主イエスは、世を照らす光として来られました。その光は、救われる者には命の道を示す光です。しかし、それは同時に、罪を顕わにする光でもあります。だから、私たちは、光を求めるだけでなく、同時にまた、光を恐れるのです。私たちの闇、私たちの罪や汚れが照らし出されるからです。それは、恥に満ちた、苦しくつらい経験です。けれども、自らの闇を見つめ、罪を認めることなしには、罪の赦しを受けることはできません。私たちが、自分自身の罪、自分の内に潜む闇に目を背けていたら、光に近づくことはできません。しかし、この光に近づき、光にさらされるとき、私たちもまた、命の光を持つ者とされる。この主イエスの光を照り返していく者とされる。自らの闇が暴かれ、光へと変えられていく。
 主イエスは、仮庵祭の興奮がまだ続く中で、再び言われました。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」。私たちは、命の光を持つ者として、この闇の世へと遣わされていくのです。自らの罪を深く知る者として、自らの罪を恥じ、それを悔い改めた者として、そして、なによりも、主イエスの十字架によって罪赦された者として、罪の赦しの光を放ち、罪の赦しの恵みを映し出す者として、この世へと遣わされていくのです。私たちがきれいに装っている義人のような姿においてではなく、罪に破れた、まことに罪深い、しかし、その罪を赦された者としての姿においてこそ、教会が宣べ伝える命の言葉が証しされ、教会が照らし出す命の光が溢れるのです。