2023年3月19日 受難節第4主日礼拝説教 「主イエス・キリストに仕える」 堺 正貴神学生
ローマの信徒への手紙第15章1〜21節
イザヤ書第 52章13〜15節
聖書には自然の関係が逆転されてしまう例が様々に描かれています。創世記では、弟のヤコブが兄のエサウから長男の権利と父からの祝福を奪います。そこには、エサウの失敗やヤコブのずるがしこさが関与しているように思えます。けれども、二人が生まれたとき、すでに、兄は弟につかえるようになると母のリベカは神様に告げられています。
また、ヤコブが、息子ヨセフの子どもたち、兄のマナセと弟エフライムを祝福するエピソードがあります。ヤコブは祝福する際、腕をわざわざ交差させて、右手を弟エフライムの頭の上に置きます。ヨセフが「お父さん、そうではありません。こちらが長男ですから、右手はこちらの頭においてください」(創 48:18)と注意します。けれども、父ヤコブは言うことを聞きません。弟の方が兄より大きくなるといいます。自然の秩序をこのように逆転させるものは、神様の自由です。神様の自由は、決して人間の思いに束縛されないことを聖書は繰り返し説くのです。かつて自然法を時代の社会秩序と結びつけて、神様でもその秩序は変えることはできない、そういう議論がなされました。けれども、聖書はしばしば、こうであってはならない、こうであるはずだ、という人間の思いを打ち砕くのです。マタイ福音書の冒頭で、洗礼者ヨハネが、こう言います。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがお出来になる」(マタイ 3:9)。また、イエス様はこうおっしゃいました。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ 20:16)。
パウロは、神様の自由によるこのような逆転を、生き抜いた人でした。いや、生き抜いただけではなく、パウロの死後、まさに神様の自由によって、そのような聖書の歴史の一部にさせられてしまった人でした。死後のことですから、パウロの与り知らないことです。けれども、そのような確信をすでに神様の恵みによってパウロは知らされてしまっていたようなところもあります。パウロ自身の言葉を引用しましょう。
第一コリント 15 章 9 節-10 節「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって、今の私があるのです。そして、私に与えられた神の恵みは無駄にならず、私は他の使徒たちの誰よりも多く働きました。しかし、働いたのは、私ではなく、私と共にある神の恵みなのです」。
今、外国語で、定冠詞をつけて使徒というと基本的にはパウロその人を指すことになります。英語なら、TheApostle、ドイツ語なら Der Apostel です。
教会を迫害していたパウロ。使徒と呼ばれる値打ちのないもの、使徒たちの中では最も小さな者であったパウロ。それが、いつしか使徒の中の使徒になってしまったのです。パウロ自身はそのことを知るよしもない。けれども、パウロ自身、どの使徒たちよりも多く働いたと誇っている。この言葉のうちに、パウロは将来の自分の位置づけを予感していたのではないかとも思えます。
どの使徒たちよりも多く働いた。その誇りは、ありえないことを起こした神様の恵み、神様の自由な恵みに対する誇りへとただちに高められます。「働いたのは、私ではなく、私と共にある神の恵みなのです」とパウロは言うのです。
本日与えられました聖書箇所において、パウロは、私のきょうだいたちと呼びかけます。聖書協会共同訳では、ただ、「きょうだいたち」になっています。それは、「私の」が抜けている写本があって、その方をパウロのオリジナルと判断したからでしょう。口語訳では「私の兄弟たち」となっています。きょうだいたちという言葉は、ローマ書で19 回出てきますが、「私の」がついているのは、今回の箇所含め全部で 3 回です(他二回は 7:4、9:3)。今回のこの箇所は文脈からいって、パウロが特別な暖かさを込めてきょうだいたちと語っているように思えます。ですから、ネストレ―アーランドの最新 28 版が、「私のきょうだいたち」の方がオリジナルであると判断したことに私は同意します。
「私のきょうだいたち」。不思議な言葉です。ローマの教会はパウロが設立に関わったものではありません。確かに、そこにはパウロが知っている人々もいました。しかし、多くのローマの信徒たちとは何の面識もなかったのです。それにもかかわらずパウロは愛をこめて呼びかけます。「私のきょうだいたち」と。
何がそのようにパウロに言わせているのでしょうか。神様の恵みなのです。あの石ころからアブラハムの子を作る神様の自由の働きです。なんの自然の結びつきもない人々、血縁もなければ、地縁もない人々を呼び集める神様の自由が働いています。そうして、パウロは、見知らぬ異邦の人々に対しても、私のきょうだいたち、そう呼びかける者へと変えられてしまったのです。その恵みについて、本日お読みした聖書箇所では、15節に「私が神から恵みをいただいて」と書いてあります。原文を直訳すると、「神から私に与えられた恵み」です。「与えられた」と受け身です。パウロの意志を超えて与えられたもの、それが恵みです。教会を迫害していたパウロは、この恵みによって、異邦人たちのためにイエス・キリストに仕える者となりました。パウロが、イエス・キリストに属する者を迫害していたのは、律法を守らない異邦人を自分たちの神の救いに与らせていたからでした。使徒言行録では、神殿でパウロを捕えようとして、ユダヤ人たちが、こう叫びます。「イスラエルの人たち、手を貸してくれ。この男は、民と律法とこの場所に背くことを、至るところで誰にでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった」(使徒 21:28)。
パウロもかつては同じ立場だったのです。ところが今や、まったく正反対に、イエス・キリストの許へ異邦人を呼び集める者へと新しく創造されてしまったのです。
本日の聖書箇所冒頭 14 節に戻りましょう。きょうだいたち、にはあえて私の、とつけてお読みます。「私のきょうだいたち、あなたがた自身は善意に溢れ、あらゆる知識で満たされ、互いに相手を戒め合うことができると、この私は確信しています」。これをもう少し原文に忠実に読みますと、こうなります。「私自身もまた、あなた方についてこう確信しています。あなた方自身もまた善意に溢れ、あらゆる知識で満たされ、互いに相手を戒め合うことさえできると」。「私自身もまた」と「あなた方自身もまた」とが呼応して独特の意味合いを帯びています。要するに、ローマの信徒の人々が、善意に溢れ、あらゆる知識で満たされ、互いに相手を戒め合うことさえができるということは普通のことではありません。そしてそのことを確信することも同じように普通のことではないのです。すべて神の恵みのしからしめるところです。
善意に溢れ、あらゆる知識で満たされていれば、お互いに相手を戒め合う必要はなさそうなものです。しかし、お互いに戒め合うことができるためには、善意で溢れ、あらゆる知識で満たされている必要があるとパウロは言いたいようです。「お互いに戒めあうことさえできる」と「さえ」という強調が原文では入っています。お互いに戒め合うことができるほど、善意と知識に溢れている、そういってもいいでしょう。
その善意と知識の根源は、自分たちは、主イエス・キリストのものであるということから来ているのです。けれども神様の恵みによって救われた者でも、しばしば自分が主イエス・キリストのものであるということ、つまりイエス・キリストを中心にする、ということを忘れてしまうことがあるものです。もっとも重要な信徒のアイデンティティにも拘わらず、つい忘れてしまう、そんなことがあるのではないでしょうか。そんなときには、あまりにも自分にとって当たり前のことになっていたので、つい忘れてしまった、そんな言い訳をしたくなったりするものです。
イエス様を中心にせず、つい自分を中心にしてしまう。その時に、お互いばらばらであった者たちが、私のきょうだいよ、と呼びかけ合うあの愛が退いてしまのです。私たちのために十字架にまでついてくださったイエス様の愛に生きようとする思いが忘れられてしまいます。そして教会に集ったすべての信徒たちが、あのイエス様を主としイエス様に愛され、イエス様を愛している仲間であるということが忘れ去られてしまいます。そのとき、お互いの間に疑いや怒りが生まれるのではないでしょうか。分裂や争いが生まれるのではないでしょうか。
けれども、パウロは、確信します。「あなたがた自身もまた善意に溢れ、あらゆる知識で満たされ、互いに相手を戒め合うことさえできる」。もし、イエス様を主とするということをふと忘れることがあっても、戒めを受ければ、すぐに思い出すことができるはずです。ああ、そうかと納得させられる。そのような恵みを十二分に受けている。それはまったく普通の事ではない。神様の力以外の何物でもない。
そして、パウロのこのやはり普通ではない確信もまた、神様の力を信じることから来ています。その根拠は自分自身が徹底的に経験済です。イエス・キリストを十字架にかけることに正しさしか覚えない自分を神さまはイエス様の愛に生きられるように変えてくださった。その恵みです。その恵みによって確信させられているのです。実は、ここで確信すると言う言葉は、説得する、確信させるという意味の動詞の受け身の現在完了です。ギリシア語の現在完了は過去に起きたことがそのまま現在まで継続している、そういう用法が多いのです。受け身ですから、主イエス・キリストを通した神様の力によって確信させられている。その確信の起きた時期は、実に、パウロの回心にまでさかのぼるのではないでしょうか。
パウロは、復活されたイエス様と出会い、イエス様を迫害する自分の罪が赦されて、イエス様をキリスト、主として信じるようになりました。そうして、このイエス様を信じる群れがどのようなものなのかを知らされたのです。イエス・キリストを主とする兄弟姉妹たちに、確信を持たせられた。その一人一人を主イエス・キリストが慈しみ愛し自分のものにされたゆえに、確信を持たせられた。いかなる人々の罪も欠点も貫いてイエス様が捉えてくださっている愛によって確信させられた。その一人一人にパウロ自身の身に起きたことが起きている。神様の力が満ち満ちている。そのことによって、あなたがた自身もまた、善意に溢れ、あらゆる知識で満たされているはずである。同じように、私自身もまた、あなた方にそのようなことが起きていることを、神様の力によって確信させられているとパウロは言うのです。
パウロは様々な経験をしてきました。けれども、回心の時以来確信させられたことは、今もなお続いている。イエス・キリストの愛が離さないから続いているのです。
このような確信ゆえに、パウロは、「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」ということができました。互いに戒め合うことができる人々に、その前提となる主イエス・キリストの救いの業を改めて思い起こしてもらおうと、実に大胆に書いてきたというのです。「神さまから私に与えられた恵みゆえに、記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」という。この恵みゆえ、ということの意味は今まで述べてきたとおりです。
なぜ、記憶を新たにしようとしたのか。パウロに与えられた恵みとは、異邦人のためにイエス・キリストに仕え、祭司として神の福音に仕えるためのものだと言います。そして、そのように仕える目的は、異邦人が、神さまが喜ばれる、供え物となるようにするためだとパウロは言います。神様に喜ばれる供え物になるとは、聖霊によって神様だけのものへと選び分けられることです。パウロは、ほんとうに異邦人のためにキリストに仕えることができるなら、そこには聖霊が働くしかないことを知っています。やはり自分の力ではないのです。
本来、異邦人は、汚らわしく神殿には近づくこともできない存在でした。それは、先ほど、使徒言行録の記述を引用したとおりです。けれども、パウロは、その異邦の民を神さまへの聖なる捧げものにするのだといいます。つまり、神様の福音を宣べ伝えるというのは、単なる知的な伝達ではないのですね。それまで神様のことを知らなかった民が神様に喜ばれる捧げものになるよう産みの苦しみを担うことです。忍耐強く、キリストによって救われるということがどのようなことなのか、絶えず記憶を新たにしてもらう。そのことについてパウロはガラテヤ書 4 章 19節でこう言っています。「私のこどもたち、キリストがあなたがたのうちに形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」。
キリストがあなたがたのうちに形づくられる。それが神の福音に仕える祭司としての役目だというのです。そうやって教会を形成してゆく。すると、その異邦人たちはもはや単に、神様に喜ばれる供え物になるだけではない。異邦人たちのする供え物が神様に喜ばれるようになる。聖書協会共同訳では、異邦人が、供え物となると訳されている。それを原文の語順でいうと「供え物の異邦人」となっている。これは異邦人を供え物にすると言う意味か、異邦人による供え物かどちらかの意味にとれる言葉なのです。第一義的には、異邦人を供え物にするという意味だとされてきました。しかし、異邦人が行う供え物、という意味も含まれているのではないかとも言われてきました。二重の意味を取ろうとする解釈もあるのです。神殿に入れさえしなかった異邦人が神様に喜ばれる存在となって、さらにその人々の献身もまた、聖霊によって聖なるものとされて、神様に喜ばれるようになる。そこまで、異邦人のうちに、イエス・キリストの形を作り上げることが、異邦人のためにキリストに仕えることである。祭司として、神様の福音に仕えることであるとパウロは言っているというのです。
パウロは、ここで神殿や祭司のイメージを使って、パウロの仕える神は、パウロもその一人であるユダヤ人たちが信じてきた神様であることを言おうとします。つまり、イエス・キリストにあって、異邦人もユダヤ人もない。皆、同じイエス・キリストに仕え、同じ神様に仕えている、パウロはそう言いたいのです。パウロが知らなかった言葉を用いれば、父・子・聖霊の三位一体の神様に仕えるのです。パウロは、ローマの信徒たちにそのことを改めて思い起こしてほしかった。ローマの教会では、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間に対立があったのです。ローマ教会は、ユダヤ人キリスト者から始まりましたが、今は異邦人キリスト者の勢力が大きい。しかし、同じ主イエス・キリストを仰ぐ限り、信徒の一人一人のために主イエスは命を捧げてくださったことを思い起こす限り、その対立はなくなるはずです。パウロは、ユダヤ人も異邦人もないということを示すために、かつてのユダヤ人の保守中の保守であった者として、異邦人伝道に遣わされたと信じています。徹底した逆転を起こされてしまったと信じています。それが可能になったのはキリストがパウロを通して働かれているためです。キリストの自由がパウロを支配しています。このキリストの自由がパウロをエルサレムからイリリコンまで走らせています。キリストの名が唱えられていないところで、福音を告げ知らせるために走らせています。そのことでかつての仲間からどれほど非難を受けようとも、もうパウロは意に介しません。裏切者のように扱われても、パウロは神様に仕えることに関して、キリストにあって誇りをもっています。キリスト教徒を迫害することでキリストを迫害していたパウロにキリストが出会って捉えてくださった。そのキリストの愛によって神様の愛を知ったからです。
人間の愛が、しばしば他人を排斥するのとはまったく逆に、神様は、敵をも愛によってとらえようとします。私たちが壁を作ろうとするのとは反対に、壁を壊してしまわれます。その神様の愛と自由によってパウロは動かされています。パウロはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間にいざこざのあるローマの教会を主イエス・キリストにあって一つにしようとします。そしてさらに大きく、異邦人教会とユダヤ人キリスト者の群れであるエルサレム教会に一致をもたらそうとしています。そのために、パウロが種をまいた異邦人キリスト教会からの献金をエルサレム教会に捧げようとしています。パウロは、ローマの信徒たちにそのことがうまくいくように祈ってくださいと願います。私と一緒に戦ってくださいとまで言います。そのような願いの中でローマの教会も対立を超えるはずです。さらに、ローマ教会の助力を得て、イスパニアの地へとさらなる異邦人伝道を続けようとしています。キリストの愛において、民族も身分も関係がないからです。私たちは、パウロと同じ確信を持たせられているはずです。
民族も身分も関係ない。そのような自由の最も鋭い表現は、パウロにとって異邦人のためにイエス・キリストに仕えるということでした。ここで仕えるとは、民、人民と働くという言葉を組み合わせた動詞です。つまり、元来、公の僕、公僕のことを意味しています。キリストを頭とする国で、その国の民のために働く。または、その国の民にするために働く。それはイエス・キリストの教会に仕える祭司として働くということと同じであります。そして、一人一人の信徒を祭司の務めを果たすことができるほど育てるということでありました。イエス・キリストが頭となる国では、主であるものが僕となるそのような逆転が起こるところです。
本日与えられました旧約聖書の箇所も想像を絶する逆転を示していました。イエス・キリストの出来事を指し示している箇所です。十字架につけられ最も惨めに死んだ者が、神様によって最も高められるということが起きました。この方こそ王の中の王でした。それを知った者たちは声を上げることもできないほど驚きます。しかし、その逆転は逆転のための逆転ではない。愛が一貫して支配しています。私たちの罪深さ、私たちがほんとうは高くないのに自分を高くして当然と思っているその罪深さゆえに、逆転に思えることがある。この地上では罪が支配しているのに、イエス様の国では愛が支配している。私たち人間こそ、かってに神様の秩序を逆転させていたのです。
パウロを新しく作り直してしまった神様の自由と愛は、その後もずっと働き続けています。この日本にもキリスト教を伝えようと多くの人々が訪れ、教会が建てられました。多くの宣教師たちが日本を愛し、自分たちを嫌う日本人を愛し、日本のために尽力しました。滝野川教会も、聖学院もそうしてできました。その神様の力は、いまもなお見える力で働いています。私たちを捉え、教会の礼拝へ招くという形で働いています。そして、私たち一人一人がイエスキリストに仕えるよう招かれています。その捧げものが神様に喜ばれるものとなるように招かれています。
パウロはイエス様を主とする者のありようを、この 15 章の冒頭で、こう表現しています。まず 1 節から 3節をお読みします。「私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。おのおの、互いを築き上げるために善を行い、隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自身を喜ばせようとはなさいませんでした。『あなたを阻止る者のそしりが、私に降りかかった』と書いてあるとおりです。」。そしてこう続きます。5 節から 7 節「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」
受難節の中、主イエス・キリストの十字架までの歩みを覚えつつ、イエス・キリストに仕える者としての思いを新たにしたい。私たち自身の力ではなく、私たちを主イエス・キリストへと導いてくださった神様の力を信じて、諸教会に集う人々を私の兄弟姉妹と呼ぶほどの愛に生きたい。そして全世界がイエス・キリストの下に集められ、この地にほんとうの平和がもたらされるために、神様は私たちを用いたがっていることを改めて思い起こしたいと思います。