2023年3月12日 受難節第3主日礼拝説教「あなたを罪に定めない」 東野尚志牧師
申命記 第17章2-7節
ヨハネによる福音書 第8章1-11節
先週の金曜日の午後、三鷹にある東京神学大学に出かけました。私たち滝野川教会から送り出した堺正貴神学生の卒業式に立ち会うためです。私が東京神学大学を卒業したのは、1989年ですから、もう今から34年前のことになります。その頃は、毎年、どんなに少なくても20名前後、多いときは30人近くの卒業生がいたと記憶しています。けれども、今年、大学院の修士課程を経て、伝道の第一線に遣わされていくのは、堺神学生を含めて 10 名です。しかも、そのうちの二人は、他の教団からお預かりしていた学生であって、日本基督教団の教会に遣わされるのは8人だけであると知らされてびっくりしました。とても全国の諸教会からの要請に応えられる人数ではないと思ったのです。
日本基督教団の教会に遣わされる8人のうち、2人は神奈川教区の教会、1人は関東教区埼玉地区の教会、そして3人が東京教区の教会に派遣されます。つまり、首都圏に6人、後の2人が地方教区になるのです。1人は奥羽教区の秋田地区、そして、もう一人、堺正貴神学生が四国教区の香川分区にある教会に遣わされます。主任牧師のいる教会に、担任教師として遣わされる人たちは、主任牧師のもとで学びながら仕えていくことができます。けれども、いきなり主任者として遣わされる教師たちは、赴任したらすぐ、毎週の礼拝説教や祈祷会の奨励を一人ですべて担当することになります。毎週の礼拝で、どの聖書を取り上げて説いていくのか、ということも考えなくてはならないわけです。突然、葬儀も入ってきます。4月から、待ったなしの伝道者生活が始まるのですから、大変なことと思います。
私自身は、最初に赴任した教会には主任牧師がおられ、副牧師もおられて、3 人目の伝道師でしたので、いろんなことをじっくり学ぶことができました。その頃から、ずっと気になっていたのが、ヨハネによる福音書でした。実は、伝道者になる前から、いつかは、ヨハネによる福音書をきちんと学んで、説いてみたいと思っていました。神学生としての最後の年、説教学担当の先生から紹介されて、ある教会に何度か説教奉仕に伺う機会がありました。そのとき、ヨハネによる福音書の中から、気になる箇所を選びながら、数回の説教に挑んだのです。言葉の奥深さを感じながら、時の捉え方が独特で、他の福音書と違っていることに魅力を感じていました。ヨハネの福音書の中から数箇所を選んで説教をしていく中で、気になりながら、最後まで選ぶ決心がつかなかったのが、実は、きょうの箇所でした。あれから30数年を経て、ヨハネによる福音書第8章の物語を読むことになりました。感慨深いものがあります。
私が神学校を卒業する2年前に、新共同訳聖書が刊行されました。1987年のことです。ご承知のように共同訳聖書になってから、聖書の本文にはなかった「小見出し」が付くようになりました。1987年に刊行された新共同訳聖書では、ヨハネによる福音書第7章53節から第8章11節までが一つの段落として大きな括弧でくくられていて、そこに「姦通の女」という小見出しが掲げられていました。ところが、ある時からその小見出しが変更になりました。「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉に変わったのです。改めて、日本聖書協会のホームページで調べてみると、最初に新共同訳聖書が刊行されてから9年後に、小見出しが変更されていました。「姦通の女」から「わたしもあなたを罪に定めない」に変わりました。そして現在、私たちが手にしている聖書協会共同訳の聖書では、「姦淫の女とイエス」となっています。
この小見出しの変遷の背後に、どのような事情がからんでいるのか詳しいことは分かりません。けれども、なかなか面白いことだと私は思いました。最初は、センセーショナルに登場する「姦通の女」にスポットが当たっています。衝撃的な物語です。けれども、この物語の主人公は、決して、姦通の現場を取り押さえられた女の人ではありません。むしろ、主イエスがこの女性にかけた言葉こそが、大事なのだということでしょう。主は言われます。「私もあなたを罪に定めない」。しかしまた、この言葉が告げられた状況が大事です。罪を犯した現場を抑えられ、その罪が厳しく裁かれようとする女性とその女性に赦しを告げる主イエスの間の物語として、一番新しい聖書では「姦淫の女とイエス」という見出しに落ち着いたのです。
ヨハネによる福音書の中で、この段落が大きな括弧でくくられているということについても、一言触れておく必要があると思います。これは、底本として選ばれた年代の古い有力な写本には、この物語が記されていないということを表わしています。ヨハネがほかでは用いていない単語や表現が出てくることもあって、この物語は、もともとはヨハネによる福音書の中には含まれておらず、後になって、この位置に挿入されたものだと考えられているのです。確かに、ヨハネによる福音書の流れからすれば、唐突な印象を与えます。むしろ、この物語を飛ばして、第7章の52節から第8章の12節につないで読んだ方が、仮庵祭を背景とした物語として、スムーズにつながります。もっとも、この挿入された物語自体は、古くから知られていたようです。ルカによる福音書の21章の終わりに、この物語を置いている写本もあるそうです。内容的にも、ルカの描き方に似ていると言われたりもするのです。しかし、最終的には、ヨハネによる福音書のこの箇所に挿入され、私たちは、その形の聖書を、正典として読んでいるのです。
恐らく、この物語がこの位置に挿入されたのは、「裁き」というモチーフが共通しているのだと考えられます。ユダヤ人の指導者たちは、律法の専門家であり、神の言葉である律法を忠実に守って生きようとしていた人たちです。律法を守って生きるのが正しい人間であり、律法に違反するのは罪人であるというふうに、はっきりと分けていました。最高法院の議員でもあったとすれば、まさに、律法によって人を裁く権威を持つ人たちです。第7章の物語において、ユダヤ人の指導者たちは、律法を軽んじていると思われる主イエスを断罪し、殺そうと企んでいたのです。
きょうの物語に登場するのは、姦淫の現場を取り押さえられた女性です。どういう境遇の人であったのかは分かりません。自分に夫がいるのか、妻のいる男性と関係を持ったのか、あるいは男性も女性も、それぞれに婚約者か結婚相手がいたのに、その相手を裏切っていたのか、詳しい事情は分かりません。しかし、それは明らかに、十戒の第七の戒めに背くことでした。すべての戒めの原点となる十戒において、「姦淫してはならない」と告げられています。この女性がしたことは、神の戒めに背く罪であり、裁かれるべき罪であることは、弁解の余地がありません。この女性の裁きについて、主イエスはどのように判断するのか、ユダヤ人の指導者たちは、主イエスに厳しい問いを突きつけようとしました。なんとかして、主イエスを追い詰めようと躍起になっているのです。
一週間続いた仮庵祭が終わった後、人々はおのおの自分の家に帰っていきました。それぞれの日常生活の場へと戻っていったのです。けれども主イエスはひとり、父なる神との交わりの中で祈るために、オリーブ山に行かれました。恐らく、エルサレム滞在中は、オリーブ山のどこかを祈りの場にしておられたのだと思われます。オリーブ山で祈りの夜を過ごし、朝早く再び神殿の境内に入られると、民衆がまた主イエスのもとに集まって来ました。その人たちに向かって、主イエスは座って教え始められたのです。するとそこへ、律法学者たちやファリサイ派の人たちが近づいていてきました。一人の女性を引き連れています。聖書には、「姦淫の現場で捕らえられた女」と記されています。現行犯ですから、言い逃れの仕様はありません。誰がその現場を取り押さえ、捕まえたのかは分かりませんけれども、この女性を連れてきたのは、律法学者やファリサイ派の人たちでした。捕らえられた女性を真ん中に立たせて、主イエスに問うたのです。「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。
「先生」という呼びかけは何とも慇懃無礼です。主イエスのことを、神の道を説く教師と見なして、教師であるなら、罪を犯した女性に対して、律法に基づく裁きをはっきりと告げるべきだという圧力をかけているのです。確かに、旧約聖書の律法には、厳しい裁きが告げられています。レビ記20章10節には、こう記されています。「人が他の人の妻と姦淫するなら、すなわち隣人の妻と姦淫するなら、姦淫した男も女も必ず死ななければならない」。また申命記22章22節にも記されています。「ある人が夫のいる女と寝ているのを見つけられたならば、その女と寝た男もその女も、二人とも死ななければならない。こうしてあなたは、イスラエルの中から悪を取り除きなさい」。そのような掟の言葉を根拠にして、死刑判決を確認しようとしているわけです。
ところが、ここで、腑に落ちないことが一つあります。律法は厳しく、「姦淫した男も女も必ず死ななければならない」「二人とも死ななければならない」と命じています。けれども、捕らえられ、引き連れられてきたのは、女性だけでした。いったい、相手の男性はどこへ行ったのでしょうか。この女性を連れてきた律法学者もファリサイ派も、全員男性です。同性である男は見逃したのでしょうか。この人たちが根拠にしているはずの律法には、確かに「姦淫した男も女も」「二人とも」と記されているのです。そうであるにもかかわらず、女だけを連れてきて、しかも、「こういう女は石で打ち殺せ」と命じられていると言って、ただ女性だけの裁きを求めています。つまり、律法を重んじよと言いながら、言葉通りに厳格に実行しようとしているわけではないのです。なぜなら、最初から律法通りにすることが目的ではないからです。それは、建前であって本音は別でした。律法学者やファリサイ派の人たちが、この女性を連れてきた意図、その目的は、6節にあるように「イエスを試して、訴える口実を得るため」であったからです。
モーセの律法を都合の良いように引用した後、彼らは言いました。「ところで、あなたはどうお考えになりますか」。原文では、「あなたは」という言葉が強調されています。モーセはこのように命じた。さあ、あなたは何と言うのか、と答えを迫っています。罠にはめるためです。つまり、主イエスが、死刑にせよと言おうが赦してやれと言おうが、どちらでも良かったのです。罪を犯した女性が死のうが生きようが、どうでもよかったのです。もしも、主イエスがこの女性を赦してやれと言われたら、それこそ、主イエスは律法に反することを教えたと言って最高法院に訴えることができます。しかしまた、もしも、主イエスがこの女性を石で打ち殺せと言われたら、ユダヤの国を支配していたローマ帝国に対して、総督の許可もなしに死刑を命じたと言って訴え出る口実を与えることになります。確かに、主イエスは、最後には、ローマ帝国への反逆罪として十字架刑に処せられることになるのです。けれどもまた、愛と赦しを説いておられた主イエスに対して、多くの人たちが失望することになったかもしれません。どちらであっても、結果的には、主イエスに決定的なダメージを与え、無き者にできると踏んだのです。
悪意に満ちた問いを突きつけたユダヤ人たちは、勝ち誇っていたかも知れません。ところが、その問いに対して、主イエスは背を向けるようにしてかがみ込んで、指で地面に何かを書いておられたというのです。さすがの主イエスもすぐに答えることができずに、時間稼ぎをしておられるのでしょうか。その様子を見たユダヤ人たちは、内心、ついに主イエスを追い詰めたとほくそ笑んでいたのではないかと思います。このとき、主イエスは地面に何を書いておられたのか、多くの学者たちが議論をしてきました。罪を犯した哀れな女性を利用してご自分を訴えようとしているユダヤ人たちの罪を書き記しておられたと考える人もいます。預言者の言葉を記しておられたと考える人もいます。実際には、何を書いておられたのか、本当のところは分かりません。けれども一つはっきり言えることがあります。主イエスは、自分を陥れようと躍起になっている人たちに顔を背けておられるということです。罪を犯した女性を自分たちのたくらみのためにさらし者にしながら、自分たちの正義を振りかざして、人を陥れようとするその醜い姿に顔を背けられたのです。
このとき、主イエスはかがみ込んでおられます。それは、この仕組まれた裁きの場で、裁かれようとしている女性だけではなくて、自分たちの権威を守るために、他者の罪を暴き、その罪を利用して主イエスを殺そうと計る者たちの計り知れない深い罪の重荷に押しつぶされそうになりながら、そのすべてを背負うようにしてかがみ込んでおられるのではないかと思います。確かに、律法に背いて姦淫の罪を犯した女性が引き出されています。モーセの律法によれば死刑に値する罪を犯した女性が連れて来られたのです。けれども、相手の男は連れて来ない。律法によってこの女性を裁くことは正しいと主張している律法学者とファリサイ派の人たちは、律法を盾にして、主イエスを罠に陥れようとしていながら、実際には律法を自分たちに都合良く解釈して利用しているだけです。何という偽善でしょうか。さらに、その場にいる群衆もまた、ことの成り行きを興味本位に見守っているのです。その腐れきった人間の罪に押しつぶされそうになりながら、そのすべてを主は担おうとしておられるのです。
「さあ、どうする。どうする」。しつこく詰め寄る人たちに迫られながら、主イエスはついに身を起こされます。そして、口を開いて言われました。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。それだけ言うとまた、身をかがめて地面に書き続けられたというのです。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。これは、だれも予想していなかった言葉であったと思います。律法学者たちやファリサイ派の人たちは、律法の定めを盾にとって、二者択一で迫ったつもりでした。掟に記された通りに、姦淫の罪を犯した女性を石で打ち殺せと言われるか、それとも、律法の掟を乗り越えて、赦してやれと言われるか、そのどちらかしか考えられませんでした。そして、どのどちらの答えであったとしても、主イエスを追い詰めるための用意を整えていたのです。ところが、主が口にされたのは、思いもしない答えでした。訴えていた人たちはもちろんのこと、興味本位でことの成り行きを見物していた人たちも、他人の罪ではなく自分自身の罪を問われることになりました。主イエスの言葉は、それまで、外に向かっていた目を、自分自身の内側に向けさせたのです。それまで騒ぎ立てていた人たちも、沈黙せざるを得なくなりました。
主イエスは、決して、この女性が犯した罪をないがしろにされたわけではありません。その罪は、神の前に、確かに罪として、裁かれなければならないものであることを、主イエスは認めておられます。それを大目に見るとか、なかったことにするとか言っておられるのではありません。そうではなくて、その罪を裁く資格、その罪を裁く権威が誰にあるのかを問うておられるのです。果たして、罪人が罪人を裁くことができるのか、と問われるのです。主イエスの言葉は、決して、ぐうの音も出ないように、相手をねじ伏せて従わせるような言葉ではありませんでした。罪の裁きを声高に求めた人たちとは対照的な、静かな声であったと思います。静かに、しかし聞く者たちの魂を揺さぶる声でした。そして、その場にいた者たちに、自分は正義を振りかざして他者の罪を裁くことのできるような者ではなくて、むしろ、自らもまた、神の前に赦しを求めるしかない罪人の一人であることを思い起こさせたのです。
「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。主イエスがそう言われた後、どのくらいの沈黙が続いたのか分かりません。その沈黙の中で、「年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った」と記されています。「年長者から始まって」とあるのが、人間の真実をよく表わしていると思います。人が生きていくということは、罪を重ねていくことです。年を重ねれば重ねるほど、自分自身の罪深さにおののくようになります。光に照らされれば照らされるほど、自分自身の内にある罪の闇に気づかせられるのです。しかし、自らの罪に気づいたとは言っても、主イエスの前にくずおれて、涙を流しながら自らの罪深さを悔いたわけではありませんでした。「一人また一人と立ち去って」行ったのです。自分の内にあるどす黒い闇を見つめることに耐えられずに、その場を立ち去っていきました。私たちは、十字架の赦しなしには、自分の罪を本当に見つめることができないのです。あまりにも恐ろしく、おぞましく、罪と向き合うことができないのです。手に握りしめていた石をそっと捨てて、その場を立ち去ることしかできませんでした。そして、ついに、その場に残ったのは、主イエスと女性だけになりました。
この女性もまた、自分自身の罪深さと向き合っていました。もちろん、自分なりの言い訳や恨み言もあったと思います。私たちはいつも、自分の罪の言い訳を見つけようとします。周りのせいにして、自分を正当化しようとします。この女性にだって、罪を犯したことについて言い分があったはずです。愛する人に裏切られて愛を信じることができなくなっていたのかも知れません。あるいは、自分だけを残して逃げてしまった相手の男性に対する恨みを募らせていたかも知れません。自分を利用して、石打ちにしようとしたユダヤ人の指導者たちを見返してやりたいと思ったかも知れません。もしも、そういうことだけを考えていたのなら、もう自分に石を投げようとする者たちがいなくなったのですから、こっそりその場を立ち去ることもできたと思います。主イエスはかがんで地面に書き続けておられたのですから、気づかれずに、そっと逃げることもできたはずです。けれども、そうはしませんでした。主イエスは、ほかの人たちとは違う、ということを感じていたからだと思います。いや、主イエスこそは、ただ一人、本当に罪を裁く権威を持っておられる方であることを感じたのだと思います。
主イエスは、身を起こして言われました。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。女は答えます。「主よ、誰も」。主よ、あなた以外には誰もいません。そう言いたかったのではないでしょうか。そして、ただ一人、罪を裁くことのできる方の前に身を向けたのです。主は言われました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」。主イエスは、この女性の罪をもみ消したわけではありません。あるいは、律法を無視したり、否定したりして、この女性の罪の現実を認めてやったというのでもありません。罪は裁かれなければならないのです。主イエスが、「私もあなたを罪に定めない」と言われたとき、その罪のための裁きは、主イエスご自身が引き受けてくださったということなのです。主は言われるのです。あなたの罪は、私が引き受ける。私は、あなたの罪を贖うために、十字架にかかるのだ。私の命の犠牲によって、あなたは罪の赦しと新たな命を得ることができる。だから、さあ、安心して行きなさい。もう罪を犯してはいけない。もう道を誤ってはいけない。
私たちは主の日ごとに、礼拝へと召し出され、まことの裁き主の前に立って、罪の裁きではなく、罪の赦しの恵みを受けて、この世へと遣わされていきます。主は「行きなさい」と言って私たちを送り出してくださるのです。その道は、死に至る罪と滅びの道ではありません。死を突き抜けて、父なる神のもとへと至る真の命の道です。主イエスご自身が、十字架の死と復活によって、赦しと救いの道を切り開き、命の道そのものとなってくださったのです。「行きなさい」と言われる主の言葉に励まされ、支えられて、共に、この命の道を歩んでいきたいと願います。