2023年2月26日 受難節第1主日礼拝説教「生ける水が流れ出る」 東野尚志牧師
イザヤ書 第44章1-5節
ヨハネによる福音書 第7章37-39節
皆さんは、滝野川教会のホームページをご覧になったことがあるでしょうか。「滝野川教会」で検索すれば、すぐに開くことができます。パソコンの画面で見ると、少し小ぶりですけれど、聖餐で用いるぶどう液のワインレッドを基調にした画面が、滝野川教会らしさをよく現しています。最初のページを開くと、教会の写真と聖書の言葉、そして、主な項目が記されています。その項目をクリックすると、該当するページに移動することができるわけです。教会員の方たちが見るだけではなくて、教会を探している人が、検索してたどり着くこともあります。初めての方を意識してのことでしょう、最初のページに掲げられている聖書の言葉は、よく知られた招きの言葉です。「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。マタイによる福音書第11章28節に記された、イエスさまの言葉です。改めて読んでみたら、これは口語訳聖書の言葉のままでした。案外、こういうところは、気がつかなかったりします。手直しの必要なところも出て来ました。
実は今、この慣れ親しんだホームページを再構築するプロジェクトが進んでいます。現在のサイトは、今から18年ほど前に設計されたものです。とても素敵なデザインですけれども、それぞれのページが固定されているので、スマホの画面で見ると小さくなって文字が読みにくくなります。もちろん、簡単に指で広げて拡大できますけれど、そうすると、画面からはみ出すので、動かしながら読まないといけなくなります。このホームページが作成された頃は、いわゆるガラケーが主流で、スマホなどはなかった時代です。パソコンの画面で見るのが前提でした。しかし今はむしろ、パソコンよりもスマホで検索してホームページを見る人の方が多くなりました。小さな画面でも見やすい表示ができるように、ホームページを再構築しようとしているのです。それはやはり、教会のホームページが、初めての人たちにとって、最初の入口になることを強く意識しているからです。
新しく準備をしているホームページは、画面の大きさに合わせて、写真と文字の位置が変わったりして、スマホでも見やすく表示されるようになります。しかしそこでも、最初のページに掲げられる聖句は、あの招きの言葉です。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」。もちろん、聖書協会共同訳です。初めて、ホームページで教会を訪れる人に、自分は招かれている、ということを受けとめてほしいのです。その意味では、こうして実際に集まっているリアルな教会においても、初めて訪れる人たちが、自分は招かれていることを感じてもらえるように、心がけなければなりません。けれども、初めて訪れる人たちだけではないはずです。長く教会に来ている人たちも含めて、礼拝につながるすべての者たちが、この朝、主イエス・キリストによって招かれて、ここにいます。私たちは、主イエスに招かれて共に集い、主の言葉に導かれ、主の食卓に養われる群れなのです。
「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」。この言葉とも響き合うような招きの言葉が、この朝、私たちに告げられています。主イエスは言われました。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」。ヨハネによれば、「祭りの終わりの大事な日」に、主イエスは、立ったまま、大声で言われました。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」。それは、どんな場面であったのでしょうか。時は、ユダヤ教の三大祭りの一つで、最も盛大に祝われたという仮庵祭の最後の日でした。場所は、エルサレムの神殿です。仮庵祭は、ユダヤの暦で第七の月、今の暦では9月から10月にかけての頃、秋の収穫を祝う祭りとして行われていました。第七の月の十五日から一週間にわたって、ユダヤ人は、仮庵、つまり仮小屋を建ててそこに住んだのです。もともとは、収穫の時に、農夫たちが、畑に仮小屋を建てて寝泊まりしたことから始まったもののようです。しかし、後にはそこに、歴史的な意味づけが加えられました。
もともと大麦の収穫祭であった春の祭りの除酵祭が過越祭と結びついて、イスラエルの民のエジプト脱出を記念する祭りとして祝われるようになりました。そして、小麦の収穫を祝う初夏の祭りであった刈り入れの祭りが、七週祭、五旬祭とも呼ばれ、エジプトを脱出したイスラエルの民が、シナイ山で神から律法を与えられたことを記念する祭りとして祝われるようになりました。さらに、秋の収穫祭であった仮庵祭は、エジプトから解放されて約束の地を目指したイスラエルの民が、40年にわたって荒れ野を旅した間、移動の可能なテント生活をしたことを記念する祭りとして祝われるようになりました。祭りを通して、神の民としての信仰と歴史を、子々孫々、伝えていったのです。
ユダヤ人の最大の祭りであった仮庵祭は、秋の収穫を感謝するだけではなくて、主なる神によって荒れ野の旅を守られ導かれた救いの恵みを覚える祭りとして祝われるようになっていました。この祭りにおいて、もともとは、翌年の春の収穫のために秋の雨を願う意味で、雨乞いのような水の儀式が行われていたと伝えられます。それが、歴史的な意味づけと共に、何もない荒れ野の生活で天からのパンを与え、岩から水をわき出させるという奇跡によって、40年もの間、イスラエルの民を養ってくださった神に対する感謝を表わす儀式として整えられることになりました。
仮庵祭が祝われる七日の間、祭司は毎日、金の器を持って、町の外にあるにシロアムの池に水を汲みに行きます。祭司の後には、仮庵を作る材料でもある木の枝を手に持った群衆がついて行きます。その間、群衆は、イザヤ書の第12章にある言葉を歌いながら行進するのです。「主よ、私はあなたに感謝します。あなたは私に怒りを向けられましたが/その怒りを去らせ、慰めてくださいました。見よ、神は私の救い/私は信頼して、恐れない。主こそ私の力、私の歌。私の救いとなってくださった」(1-2節)。その後にこう続くのです。「あなたがたは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む」(3 節)。祭司を先頭にした行列は、賛美の歌を歌いながら神殿に戻ってきて、シロアムの池で汲んだ水を祭壇に注いだのです。
七日間にわたって水の祭りを続けて来て、八日目にあたる最後の日、主イエスは、立ち上がって、大声で叫ばれました。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」。確かに、水は、農作物を豊かに実らせるためになくてはならないものです。そして何よりも、水は、人が生きていくために、なくてはならないものです。人間の体の60パーセントは水だと言われます。この水分量が減っていくと命に関わります。そうならないように、人は渇きを覚えます。喉が渴くのは、水を求める体の訴えです。命の訴えだと言ってもよいと思います。この体が覚える渴きは、古来、多くの宗教において、救いを求める魂の渇きのたとえとして用いられてきました。体に水が補給されなければ、血液のめぐりも悪くなり、そのままだと死に至ります。同じように、私たちの魂も、満たされないままに渇き続ければ、命の流れが止まって死に至るのです。
「渇いている人は誰でも」と呼びかけられるとき、主イエスは、私たちの魂が、救いを求めて渇いていることを知っておられます。そして、その渇きが癒やされるために、主イエスのもとに来て飲むようにと招いておられるのです。主は言われます。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」。「誰でも」と言っておられます。そこに例外はありません。主イエスは、旧約聖書のイザヤ書の言葉を思い浮かべておられたのだと思います。預言者は主なる神の言葉を伝えています。「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。金のない者も来るがよい。買って、食べよ。来て、金を払わず、代価も払わずに/ぶどう酒と乳を買え」(55章1節)。主なる神は、渇きを覚えている者をご自分のもとに招いて、水を与えようとしておられます。「金のない者も来るがよい」と言われます。「ぶどう酒と乳を買え」と言いながら、「金を払わず、代価も払わず」と言われるのです。すべてはただで与えられます。何の資格も要りません。祭司が行う水の儀式に恭しく連なる必要もありません。求められるのはただ一つ、主イエスのもと来ることです。主イエスのもとに来れば、ただで、命の水、救いの水を飲むことができるのです。しかも、主イエスが与えてくださる水は、ただいっとき、渇きを癒やすだけの水ではありません。
主イエスは言われます。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる」。主イエスが与えてくださる水を飲んで、主イエスを信じる者は、「その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる」と約束してくださるのです。この言葉は、同じ福音書の第4章において、主イエスが、サマリアの女性との対話の中で語られた言葉を思い起こさせます。旅の途中、サマリアの井戸のほとりで、渇きを覚えて休んでおられた主イエスが、真っ昼間、水を汲みに来た女性に対して「水を飲ませてください」と声をかけられたことから、二人の対話が始まりました。何度かやりとりをした後で、主イエスは、相手の女性に言われました。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(4章14節)。
主イエスが与えてくださる水は、ほんのいっとき、渇きを和らげるだけのものではありません。時間が経てば、また渇きを覚えるようなものではないと言われます。主イエスが与えてくださる水は、それを飲む者を、もはや決して渇くことのない者とするからです。主イエスの水は、それを飲んだ人の内で尽きることのない泉となって「永遠の命に至る水が湧き出る」と言われるのです。第7章の言葉と合わせて読むならば、主イエスの与える水を飲む人、すなわち、主イエスを信じる者は、その人の内から湧き出る水が、「川となって流れ出るようになる」ということになります。いったいそれは、どういうことを意味しているのでしょうか。
主イエスは言われました。「私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる」。ここで主イエスが「聖書」と呼んでおられるのは、もちろん、「旧約聖書」ということになります。主イエスが地上を歩んでおられときには、まだ「新約聖書」は書かれていないわけです。主イエスは、聖書をよく読んでおられ、しばしば、聖書からの引用をなさいます。けれども、ここで「聖書が語ったとおり」というのが、具体的にどの箇所を指しているのか、はっきりしないのです。いくつか、候補として考えられる箇所はあります。きょう、福音書の言葉と合わせて朗読したイザヤ書第44章も候補の一つです。主なる神は言われます。「私は乾いた所に水を/乾燥した土地に流れを注ぐ。私はあなたの子孫に私の霊を/あなたの末裔に私の祝福を注ぐ」。ここは、「水を注ぐ」という言葉と、「私の霊を注ぐ」という言葉が重ねて語られているので、大事な箇所です。あるいは、同じイザヤ書の第58章11節を思い浮かべることもできます。「主は常にあなたを導き/干上がった地でもあなたの渇きを癒やし/骨を強くされる。あなたは潤された園のように/水の涸れない水源のようになる」。「水の涸れない水源」という表現は、そこから川が流れ出るイメージにつながるわけです。
あるいはまた、ゼカリヤ書14章8節を指摘する人もいます。こう記されます。「その日になると、エルサレムから命の水が流れ出てその半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ夏も冬も流れ続ける」。そのようにして、エルサレムから流れ出た命の水が、世界中を潤していくというのです。特に、ゼカリヤ書においては、仮庵祭についても触れています。主の日、つまり、世の終わりの救いの完成のときには、敵対していたすべての国の者たちがエルサレムに上ってきて、主なる神を礼拝し、仮庵祭を祝うというのです。そのとき、エルサレムから、夏も冬も尽きることのない「命の水」が流れ出て、全世界を潤していくというのです。
引照付きの聖書を見ると、いくつもの旧約聖書の箇所をたどることができますけれども、特に心に残るのが、エゼキエル書47章の御言葉です。預言者エゼキエルは、天使に導かれて、新しい神殿の幻を見せられます。その神殿の敷居の下から水がこんこんと湧き出て来て、その水が神殿の東西南北、つまり四方八方に広がって、どんどん水かさも増していくのです。途中を読んでみます。エゼキエル書47章3節以下です。「その人は、手に測り縄を持って東に出て行き、一千アンマを測り、私に水の中を渡らせた。すると水はくるぶしまであった。彼はさらに一千アンマを測って、私に水の中を渡らせると、水は膝に達した。さらに彼は一千アンマを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川となった」(3-5節)。「アンマ」というのは、ひじから中指の先までを基準にした長さの単位で、約45センチで換算されます。かつては、「キュビト」と訳されていた単位です。一千アンマというと、450メートルということになります。最初に450メートルを計ったときの水かさがくるぶしまでで、さらに450メートルごとに、膝から腰へと水かさが増していって、ついには泳がなければ渡れないほどの高さになり、一つの川になったというのです。
天使が川岸に連れ戻してくれると、川の両岸にはたくさんの木が生えていたといいます。そして天使が預言者に告げるのです。「これらの水は、東の地域に流れ出てアラバに下り、海、すなわち汚れた水の海に入る。するとその水は癒やされる。川が流れて行く所はどこでも、そこに群がるすべての生き物は生き、魚が非常に多くなる。この水が入ると、そこの水が癒やされ、この川が流れる所では、すべてのものが生きるからである」(8-9 節)。エルサレムの神殿から流れ出た水が、汚れた水の海に入ると、その水が癒やされる。そして、そこに群がる生き物は生きるようになり増え広がる。それはまさに「命の水」です。そして、最後に記されます。「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉は枯れず、絶えず月ごとに新しい実をつける。水が聖所から流れ出ているからである。実は食用となり、葉は薬用となる」(12節)。
この壮大な幻と重なり合うのは、ヨハネの黙示録が記している光景です。黙示録の22章1節以下に記されています。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす。もはや呪われるべきものは何一つない」(1-3節)。主イエスは、「聖書が語ったとおり」と言われたとき、エゼキエルが幻として描き、やがて黙示録が救いの完成として描くことになる光景を思い浮かべておられたのではないでしょうか。その救いが、ご自身において、ご自身の十字架と復活を通して実現されることを望み見ておられたに違いないのです。
ヨハネによる福音書は、主イエスが最初にエルサレムの神殿に上って行かれた時、神殿の境内で商売をしていた人たちを鞭で追い払われたことを記していました。そのときのユダヤ人たちと主イエスのやり取りの中で、しるしを求めるユダヤ人たちに、主は言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2章19節)。これもまた、主イエスの宣言です。主イエスが誰であるか、何のために来られたのかを明らかにされた言葉でした。けれども、この時点では、聞いていた者の中で誰一人、理解することのできない言葉でもありました。そこに福音書記者は但し書きを記しました。「イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(2章21-22節)。あの預言者エゼキエルが見た幻の神殿は、主イエスのお体を指していると言ってもよいのではないでしょうか。エルサレムの神殿から流れ出た水、それは、主イエスのお体から流れ出る水です。ヨハネは、主イエスが十字架の上で息をひきとられ、兵士の一人が槍で主イエスの脇腹を刺したとき、「すぐ血と水とが流れ出た」と記されています(19章34節)。血は、罪の贖いのための血です。そして、水は、まさに命の水、命を与える水なのです。
主イエスのもとに来て、命の水を与えられた者たちは、主の体である教会に加えられて、教会を造り上げていくものとされます。そして、さらにこの教会から、命の水が流れ出て、渇いた世界を潤し、命が宿ることもなかった死の海の汚れた水をも癒やし、命に溢れさせるようになっていく。それこそは、主イエスが教会に対して与えられた、大いなる約束だと言ってよいのだと思います。主イエスが与えてくださる生ける水に潤された者たちは、この水をさらに溢れさせ、この世界に流れ出ていく川を作り、主イエスご自身の救いの御業のために用いられていくのです。
ヨハネによる福音書は、水の祭り、仮庵祭が祝われた神殿の中で、主イエスが、声を大にして叫ぶように宣言された約束の言葉を記した後、ここにも但し書きを記しています。「イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである」(7 章39節)。主イエスが栄光を受けられるというのは、主イエスが十字架につけられ復活される時を指しています。復活された主イエスは、集まっていた弟子たちの前にご自身を現されました。そのときの様子を、ヨハネは次のように記しています。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(20章21-23節)。
主イエスが栄光をお受けになった時、主は弟子たちに、聖霊の息吹を与え、弟子たちの群れ、すなわち、教会に、大切な使命をお与えになりました。罪の赦しの権能です。主イエスがお与えになる命の水は、私たちの罪を洗い清める洗礼の水となり、罪の赦しと癒やしを与えます。主イエスの招きを受けて、主のもとに集まった者たちは、洗礼の水に洗い清められ、聖餐の食卓で命のパンと救いの杯を受ける者とされます。そのようにして、決して枯れることのない、永遠の命の水に潤されて、この水をさらに流れさせ、この水で世界が潤されるように、この世へと送り出されていくのです。主の食卓に養われ、聖霊の息吹と共に、この世へと送り出されていく。それこそが、礼拝の中から遣わされていく私たちの姿だと言ってよいのではないでしょうか。
主は私たちを招いてくださいました。主は私たちに命の言葉を与えてくださいました。そして、主は私たちに命の糧として、ご自身の体であるパンとご自身の血であるぶどう液を与え、私たちに新たな命に満ち溢れさせてくださいます。そのように満たされた私たちを、命の水と共に、川の流れのように、この世へと送り出してくださるのです。飢え渇いているこの世界が、命の水によって潤され、真の命の主である方を知ることができるように、信じる者となるように、主イエスはそのように願いながら、私たちを送り出し、すべての者を招いていてくださいます。主の招きに応えて、さらに多くの者たちが共に集い、心から神の御名を讃美し、終わりの日の完全な礼拝を望み見ながら、主の日から主の日へ、礼拝から礼拝へと歩み続けることができるようにと願い祈ります。