2023年2月19日 主日礼拝説教「気をつけて、慌てずに」 東野ひかり牧師
マルコによる福音書 第13章3~13節
イザヤ書 第25章6~10a節
先週(2月12日)の説教でも語られましたが、今年に入りましてから、私たちの教会では相次いで信仰の仲間を天に送っております。先週の14日もこの礼拝堂でひとりの兄弟のご葬儀が行われました。その前の週にはひとりの姉妹のご葬儀がこの場所で行われました。そして、これはあまり度々あることではないと思いますけれど、このお二人とも、日曜日を挟んで、そのお棺を牧師室にお預かりしました。先々週の日曜日も、先週の日曜日も、礼拝の後、多くの方が牧師室にお入りになって、召された姉妹に、また兄弟に、お別れをなさいました。
棺の中に納められた親しい方とのお別れ、それは厳しい悲しみのときですが、そのとき私たちは、悲しみの中に覚えさせられるのではないかと思います。いずれは自分もこのように棺の中に身を横たえることになると。厳粛な思いで、そのことを覚えさせられるのではないかと思います。葬儀のときというのは、私たちが、自分の死、自分の「終わり」を覚えさせられるときでもあります。
しかし同時に、葬儀のときというのは、死がすべての終わりではないということも覚えさせられます。この度の続きました葬儀の礼拝の中でも、また、その前に行われた納棺の祈りや、それらの合間に持たれました祈祷会、主の日の礼拝におきましても、牧師が繰り返し口にいたしましたのは、「死が最後の言葉ではない」ということでした。何度も何度も、「死が最後の言葉ではない、死が終わりではない」と、ほとんど口癖になっているかのように口にしておりました。死が最後の言葉ではない。死が終わりではない。死を突き抜けて、甦りの朝が来る、復活の朝が来る。葬儀は、そのことを覚えるときでもあります。葬儀は、私たちにとりまして、愛する家族や親しい友との厳しい別れのとき、辛い悲しみのときです。そして自分の死を厳粛に覚えさせられるときです。しかし同時に、死を貫き、死を超えて私たちに与えられている希望、望みへと、涙にぬれた目を涙流れるままに高く上げさせられるときであると思います。
今朝私たちに与えられました聖書は、マルコによる福音書の第 13 章の最初のところです。このマルコ福音書の第 13 章というのは《小黙示録》という別名を持っております。新約聖書のいちばん最後にありますヨハネの黙示録と同じように、ここには〈世の終わり〉についての言葉が記されている、ということから、《小黙示録》と呼ばれております。
「黙示録」という言葉は、新約聖書が書かれた言語であるギリシャ語では、アポカリュプシスと言います。英語では Revelationです。ともに「覆いをとる」「隠されていたものが現わされる」という意味の言葉です。〈世の終わり〉についての覆いが取られて、その秘密が明かされた文書、それが黙示録と呼ばれるものです。ヨハネの黙示録には、長老ヨハネが不思議な幻によって示された〈世の終わり〉についての言葉が記されています。マルコの第13章は、主イエスが集中して語ってくださった〈世の終わり〉についての言葉が大切に記されているところです。
しかしこの第13章を読みますと、すぐに分かりますことですが、ここには世の終わりがどのようにして来るのか、それがいつであるのか、ということがつまびらかに事細かく記されているわけではありません。〈世の終わり〉について、私たちが、もしかすると興味を持ち、ある意味で期待するような仕方では書かれてはいないのです。世の終わりの「徴」については、いろいろなことが語られています。けれども世の終わりが、いつ、どのように来るのか、ということについては、はっきりとは語られていないのです。32節には、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」とあります。御子主イエスでさえもそれがいつであるのか知らない、と言われているのです。
先ほどは讃美歌第2編の58番を共に歌いました。その4番で「いずれの日さかえもて、地にあらわれたもうや。知るをえず知るはただ、『そなえよ』とのみことば」と歌いました。〈主イエスは、いつ、栄光のお姿で来られるのでしょう。私たちは何も知らない。知っているのはただ、主が言われた「そなえよ」というみことばだけです〉と、そう歌いました。この第13章で主イエスが繰り返し語っておられますのは、「気をつけなさい」ということです。「気をつけなさい。気をつけていなさい。」という言葉が5節と9節に繰り返されています。それだけではなく、23節、33節にも記されます。 33節には「気をつけて、目を覚ましていなさい」とあり、33~37節では「目を覚ましていなさい」という言葉が繰り返され、目を覚まして、主人がいつ帰って来てもよいように備えていなさい、ということが語られています。この第13章において主イエスが繰り返し語っておられるのは、「気をつけていなさい、主がいつ来られてもよいように、目覚めて備えていなさい」ということであるのです。
今日(2月19日)の週報に、2月11日に行われました拡大役員研修会の報告が載っております。そこにも記されていますけれども、2023年度に私たちの教会がどういうことを学んでいく必要があるか、ということを話し合いましたとき、「死への備え」ということが大切な学びの課題になるのではないか、という話題が出されました。それは、はじめに触れましたように、今年に入ってから私たちの教会の仲間が相次いで天に召された、そしてその中のおひとりは、教会でご葬儀をすることができなかっただけではなく、さまざまなご事情のために仏式でのご葬儀となりました。このようなことがありましたことから、特に家族の中で自分ひとりだけがキリスト者である、というような場合、自分の葬儀をどうしてほしいかということ、自分の終わりをどのように迎えるか、ということ、そのようなことを、キリスト者ではない家族にもきちんと伝えておく必要があるだろう、そういうことを共に学ぶ、そして、教会員のエンディングノートのようなものを作り、家族と教会で持っておく、そういう備えをするための学びができたら良いのではないか、というような話題が出たのです。
そして、そういう主題で夏期修養会をしてもよいのではないか、ということもちらっと話されました。けれどそのとき、「死への備え」という主題は、若い人たちにはあまり興味のないことなのではないかという意見が出されました。私も、そうかもしれないな、と思いまして、夏期修養会の主題としてはどうなのだろうかと思っておりました。そうしたことが話されていましたとき、研修会に出席しておられた方の中では多分一番お若い方だったのではないかと思うのですが、その方が手を挙げられまして、こういう意味のことをおっしゃいました。「死に備えるということは、今をどう生きるかということにつながるから、若い人にも有意義な学びになるのではないか」。研修会での話し合いはそこまでで、夏期修養会の主題についてはまだ何も決まっておりませんが、私はその方がおっしゃった、「死に備える」つまり私たちの人生の終わり、私たち一人ひとりの終末に備える、ということは今をどう生きるかにつながる、ということは、まことにそのとおりだと、このことは本当に大切なことだと、改めて思わされたことでした。
「終末論」ということを申します。終末論というのは、文字通り、終末のこと、世の終わりのことを論じること、と思いがちです。けれども、終末論というのは、今をどう生きるかという「倫理学」と深く結びつくものです。主イエスが、このマルコの第13章で語っておられるのは、まさにそのような終末論だと言ってよいと思います。この主イエスが語っておられる終末論は、世の終わりがいつ来るか、どのように来るか、ということに焦点があるのではなくて、終わりに備えて今をどう生きるか、ということに焦点があるのです。このことは、私たちが〈世の終わり〉ということを考えるとき、また〈自分の人生の終わり〉ということを考えるときに、とても大切なことだと思うのです。
「死に備えるということは、今をどう生きるかということと結びつく」。まことにそのとおりなのです。そしてここで、主イエスが私たちに求めておられるのも、今をどう生きるか、ということなのです。
今日の説教の題は、「気をつけて、慌てずに」とつけました。5節と7節の主イエスの言葉をうつした題です。先ほども申しましたように、この第13章には「気をつけなさい、気をつけていなさい」という言葉が何度も繰り返されます。主イエスはまことに切実に、弟子たちに、また私たちに、「気をつけていてほしい」と願っておられるのです。
それにしても「気をつけて」というのはとても日常的な言葉です。私たちは毎日の生活の中で、挨拶として、「どうぞお気をつけて」「気をつけてね」「慌てて転ばないように気をつけてね」などと互いに言葉を交わします。相手の無事を願ってそう言うのです。別れ際に「どうぞお気をつけて」と言います。出かける家族に「いってらっしゃい、気をつけてね」と言います。先週は一週間、教会の外看板にこの説教題が貼られていました。教会が、道行く人たちの無事を願って「どうぞお気をつけて、慌てないで、足元お気をつけて」と、ずっと挨拶を送っていたような感じになっていました。
しかし、誰よりも、私たちが無事であるように願っておられるのは、道行く人たちの無事を願っておられるのは、主イエスなのです。主イエスは、「気をつけなさい、気をつけていなさい」と、繰り返しお語りになって、37節にはっきり語られていますように「すべての人」が、無事であることを願っていてくださるのです。それは言い換えれば、すべての人にとって「死が最後の言葉ではない」ということが真実のこととなるようにと、主イエスは願っておられるということです。すべての人が、滅びではなく、救いに与ることができるようにと願っておられるということです。主イエスは、私たちの、すべての人の命が無事であるようにと、願っていてくださるのです。
そのために、ここで繰り返し「気をつけていなさい」と言われるのです。「気をつけて」という言葉のもともとの意味は、単純な「見る」という言葉です。「気をつけて」というのは、「目を開いてよく見て」ということです。主イエスは私たちに、「気をつけて、よく見て」、今の時を生きるようにと言われるのです。それは「目覚めているように」ということでもあります。目を閉じていてはいけないのです。また、見るべきではないものに目を奪われてもいけないのです。目を開いて、目覚めて、見るべきものをしっかり見て、足元確かに、無事に歩みなさいと言われるのです。
どうして、そのように「気をつけて」と、「しっかり見て」と、おっしゃったのでしょうか。
この第13章には世の終わりの「徴」として、いろんなことが語られます。いろんなことが語られますが、ひと言で言えば、世の終わりの徴は、「大きな苦しみ」だということが言われているのです。
「偽メシア、偽キリスト」「偽預言者」、主イエスの名をかたる者が大勢現れて、多くの人を惑わす、ということから始まりまして、戦争、戦争の噂、民族間の対立、国と国の対立、方々に起こる地震、飢饉があること、そして、弟子たちには、キリスト者たちには、ふりかかる厳しい、激しい迫害があることが語られます。これらはみな、まことに大きな苦難です。苦しみです。さらに、14節以下を見ますと19節にこうあります。「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来る」。終末の時の徴として、筆舌に尽くしがたいほどの大変な苦しみ、苦難が来る、と言われているのです。
ここに記されていることは、実際に弟子たちが、またマルコによる福音書の最初の読者たちが経験していたことでありました。偽メシアの出現も、戦争や飢饉も、そして厳しい迫害も、実際に経験されたことでした。兄弟が兄弟を、親が子を、子が親を、迫害する者たちに引き渡し、死に至らしめた、そうやって仲間たちが殺されていった、そういうことを、マルコの教会の人たちは自分たちの中に経験していたのです。
弟子たちが生きた時代、マルコの教会の人々が生きた時代から、現代の私たちの時代まで、2000年近い時が経っています。しかしここを読みますと、皆さまもお思いになられるでしょう、ここに書かれている「終末の徴」は、まさに今、私たちも経験していることだと。私たちは、今、幸いにして信仰のゆえに殺されるというほどの迫害の中には生きていないと言えます。けれども、偽メシア、偽預言者は次々といろんなところに現れています。戦争が起こっています。戦争の噂は、今現在、切実な問題です。民族間の対立、紛争が止むことはありません。大きな地震は繰り返し起こり、飢えや貧困は私たちの身近にあります。加えて疫病が私たちを苦しめています。命を脅かされるほどの厳しい迫害はないかもしれませんけれども、信仰のゆえに、家族の間に対立や軋轢や亀裂が生じる、ということを私たちは経験することがあると思います。
いつの時代も、弟子たちの時代も、マルコの教会の時代も、そして、私たちが生きている今も、〈終末の前〉であるのです。惑わしがあり、そしてさまざまな苦難が、大きな苦難が絶え間なくあるのです。そしてそれらの苦しみの中で、私たちも惑わされてしまうのです。「惑わす」という言葉は、「迷う」とも訳される言葉です。羊飼いのもとから迷い出る羊のたとえにおいても同じ言葉が用いられます。私たちは、しっかり見ていなければならない羊飼いを見失ってしまうのです。そして迷い出てしまう。苦しみが、悲しみが、あまりに大きくて、私たちの目はその大きな苦難の方にばかり向いてしまう、見るべきお方を見失ってしまう、迷ってしまうのです。そして、迷った先にあるのは、滅びなのです。
だからこそ、主イエスは、繰り返し繰り返し、気をつけなさい、目を開いてしっかり見なさい、目覚めていなさい、あなたがたはみな、滅んではならないのだからと、語ってくださるのです。
7 節をもう一度見ますと、「戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない」とあります。「それは必ず起こる」。この言い方は、それは必ず起こることになっている、神がそう定めておられる、という言い方です。神の必然を表す小さな「デイ」という言葉がここにあるのです。主イエスが最初にご自身の受難と復活を予告なさったときにも用いられた言葉です。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(8:31)。これと同じ言い方がここでなされているのです。
私たちは、戦争の噂を聞くだけで慌てます。ロシアが核を使うのではないか、第三次世界大戦になるのではないか、そんな不安に駆られます。戦争や災害が起こり、そこでたくさんの人が亡くなり、多くの人が苦しみ呻くその姿を目にするとき、私たちの心はかき乱されます。慌てふためきうろたえます。神がおられるのならどうしてこのような苦しみを与えるのかと、神を疑い始める、信仰の目が塞がれてしまうのです。
けれどもここで主イエスは言われます。「慌てるな」と。「それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。」「これらは、産みの苦しみの始まりである。」苦難は必ず起こる。必ず起こることになっている。戦争や災害が起こるのは、ある意味当然のことなのだから、慌てるな、と言われる。そして「まだ世の終わりではない」のだと言われるのです。苦難が、悲劇が、最後ではない、それが最後の言葉ではない、と言っておられるのです。そしてこれらの苦難は、「産みの苦しみの始まり」だと言われるのです。
「産みの苦しみ」、出産の苦しみ、それは確かに、ひとりの女性にとってこれまでに経験したことのない激痛です。苦痛です。しかし「産みの苦しみ」は、それがどんなに激しい痛みであり苦痛であっても、いつまでも続くものではないのです。新しい命の誕生と共に必ず終わるのです。喜びをもって終わるのです。私たちが出産の苦しみに耐えることができるのは、苦痛の先に、新しい命の誕生があるからです。苦痛の先に、喜びがあることが分かっているからです。もちろん、そうではない辛い結果になる出産の苦しみもあります。しかしたとえそうであっても、出産の苦しみというのは、永遠に続く苦しみではないのです。必ず「終わり」があるのです。そして、主イエスがここで語っておられる「終わり」は、決して不幸な結果に終わる「終わり」ではないのです。決してそうではありません。
10 節にはこうも言われるのです。「こうして、まず、福音がすべての民族に宣べ伝えられねばならない。」ここにも、あの神の必然を表すデイが使われています。激しい迫害の中で、家族が互いを裏切り合うような苦しみの中で、しかし、その苦しみが、憎しみが、終わりではないのです。迫害を受けながら、その中で「証し」がなされる、そうして「福音」が、「喜びの知らせ」が、すべての民族に「宣べ伝えられねばならない」、必ず宣べ伝えられることになる、そう言われているのです。さらにそのとき、迫害の中で、大きな苦しみの中での「証し」の言葉、語るべき言葉は聖霊が与えてくださる、つまり神ご自身が共にいてくださって語ってくださる、だから心配しなくてもよい、何も心配する必要はないということも、言ってくださっているのです。11 節「連れて行かれ、引き渡されたとき、何を言おうかと心配してはならない。その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」
この「心配してはならない」という言葉は、「前もって、あれこれと心配する」という意味の言葉です。主イエスは言ってくださるのです。あなたがたには聖霊が与えられる、神ご自身の霊が与えられると。すなわち、「神が共にいてくださる、そして私も共にいる」と。だから何の心配もしなくてよい、あれこれと先走って思い煩わなくてよい、神が働いてくださるのだからと、言ってくださっているのです。
ここに言われているのも、迫害の苦しみが、そこで受ける憎しみが、最後の言葉ではないということでありましょう。神ご自身が、証しする言葉を与えてくださる、神ご自身が、聖霊が、語ってくださる。そのようにして、迫害を超えて、苦しみを超えて、憎しみをも超えて、福音が、喜びの知らせが、すべての民族に、すべての人に、宣べ伝えられる、必ずそうなると言われているのです。迫害の苦しみが、被る憎しみが、最後の言葉ではない、福音が、喜びの知らせが、最後の言葉なのです。
そして13節にこう言われるのです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」ここに「最後」は「救い」だと言われています。最後の言葉は、「救われる」なのです。
しかしその救いに至るまで、「耐え忍ぶ」ことが必要です。「耐え忍ぶ」、忍耐する、ということは、辛いこと、苦しいこと、そのように私たちは思います。「耐え忍ぶ」と聞きますと、歯を食いしばって我慢することと思うかもしれません。
ここでの「耐え忍ぶ」という言葉は、ヒュポメノーという言葉です。ヒュポというのは、「何かの下に」という意味です。メノーというのは、これは、ヨハネによる福音書が特に愛して用いる、あの「とどまる」という言葉です。忍耐するというのは、「下に、とどまる」という字なのです。何の下にとどまるのでしょう。さまざまな答えがあるかもしれません。けれどここでは、31 節を見てみたいと思うのです。こうあります。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」
天も地も崩れる、滅びうせるときが来る。すべてが滅びる、崩れ落ちるときが来ます。しかし、主イエスの言葉は、決して滅びない、と約束されています。忍耐する、耐え忍ぶというのは、この「決して滅びない」と言われる主の言葉のもとに、固く踏みとどまるということなのではないでしょうか。主の言葉、それは、喜びの知らせです。福音です。喜びの言葉を聞き続けるのです。目を開いて、それを語ってくださったお方を見つめ、その声が語る言葉を聞き続けるのです。
それはこういう声・言葉です。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(8:31)。主イエスは、この後、この言葉のとおりに、苦しみを受け、十字架につけられて殺されます。そして、私たちを苦しめるすべての罪の棘も、死の力も、その足の下に踏みつけてくださって、墓を破って、お甦りくださったのです。「天地は滅びる」が、最後の言葉ではないのです。死が、墓が、最後の言葉ではないのです。「復活することになっている」「救われる」、それが、最後の言葉です。
私たちは、この世では苦難があるのです。生きることは苦しみを味わい続けることです。いつも新たに涙を流さなければならないことが続くのです。けれどもその苦しみの道、悲しみの道は、主イエスが既に歩んで、主イエスの足跡がつけられている道なのです。そしてその道は、死を突き抜けて、復活の命へと向かっているのです。私たちは、この主イエスをしっかりと見つめて、主イエスの声をしっかりと聞き続けて、「気をつけて、慌てずに」、この喜びの道を、励まし合いながら、歩んで行くことができるのです。