2023年2月12日 主日礼拝説教「メシアはどこから来るのか」 東野尚志牧師

イザヤ書第61章1-4節
ヨハネによる福音書第7章25-36節

 年が明けてから、教会員の逝去の知らせが続いています。1月7日に、103歳で天に召された姉妹は、教会との連絡が途切れて別帳会員になっていました。私は、直接にお会いしたことがなく、教会にもほとんど情報がありませんでした。ただ分かったことは、女子聖学院の中学生であったときに、当時、女子聖学院院長であられた平井庸吉先生から洗礼を授けられたということでした。やがて太平洋戦争が始まり、学校教会に対して閉鎖の命令が出て、何人かの仲間たちと一緒に、滝野川教会に移ることになったのだと思われます。そういう事情もあって、教会の礼拝に出られたことはほとんどなかったのです。それでも、ご自分の最後は、教会で葬りをして欲しいという願いをもっておられて、それを家族に伝えておられました。すぐに、教会にご連絡があり、最後は、家族葬の形ではありましたけれど、教会の小礼拝堂において、礼拝として整えられた葬儀を通して、神さまのもとに送ることができました。
 そして、1 月最後の日曜日、教会では会計部の一員として長く奉仕された兄弟の訃報が届きました。残念ながら、教会に直接ご連絡があったわけではありません。男子の聖学院中高の同窓生の間の連絡が、たまたま教会の役員である方のところに届いて、私にもお知らせくださいました。前日の土曜日、1月28日、84歳で天に召されたとのことでした。お母さまも二人のお姉さまも忠実なキリスト者でした。家族の祈りの中、特に、熱心に祈っておられた下のお姉さまの死によって、洗礼に導かれました。ご自身は、家族を信仰に導けずにいることを反省していると教会の記念誌に書いておられました。葬儀については、残された娘さんと会社関係の方で相談されて、数年前に亡くされたお連れ合いの葬りに合わせられたのではないかと思います。南青山の寺院において、仏式で葬儀を行うことを知らされました。2月1日の水曜日の夜、教会からのお花料を持参して、お通夜に参列しました。少し早く着きましたら、式場の案内係の方が、わざわざ声をかけてくださって、柩の中のお顔を見てお別れすることができました。生前は、とてもエネルギッシュな方のような印象をもっておりました。しかし、やせてほっそりしたお顔を見ながら、仏式に整えられた式場でしたけれど、心の中で、すべてを神さまに委ねる祈りをしました。連絡を取り次いでくださった役員ご夫妻が、一緒にお通夜に参列してくださったことも、私にとっては大きな慰めになりました。

 翌日2月2日に、遠方にお住まいの姉妹が天に召されたことは、後になって知らされました。2月4日の土曜日、お身内だけで教会式の葬りをされたことを、5日の主日の午後、ご子息が知らせてくださったのです。86歳でした。
 その方の葬儀が行われた同じ4日の土曜日、家族ぐるみで教会の親しい仲間である姉妹が、79歳で天に召されました。その日の内に教会にお体を移動して、礼拝堂で納棺の祈りを行い、柩は牧師室に移動しました。翌日の日曜日、つまり先週の日曜日には、礼拝が終わった後、大勢の教会の仲間たちが、順に牧師室に入って、お顔を見てお別れをしてくださいました。2月8日の水曜日に礼拝堂で葬儀を行いました。葬儀自体は家族葬の形をとりましたので、日曜日に多くの教会の仲間たちとお別れができて、本当に良かったと思います。信仰篤いお母さまのもと、幼児洗礼を授けられ、19 歳で信仰告白をされました。その後、滝野川教会の教会員である男性と結婚して、以来半世紀以上、忠実に教会員として歩んでこられました。ご自身も立派にキリスト者の家庭を築かれました。納棺のときも、日曜日のお別れのときにも、お孫さんたちが泣きじゃくっておられた姿が心に残っています。お孫さんたちから慕われていました。それは、お孫さんたちに深い愛情を注いでおられたからこそだと思います。家族と教会の仲間たちを愛し、家族や教会の仲間たちから深く愛された人であったと思います。
 その葬儀の翌日、2月9日の木曜日に、ひとりの兄弟が天に召されました。2年前に同じく教会員であったお連れ合いを天に送られて、つらく寂しい日々を送ってこられましたが、礼拝に顔を見せてくださるようになっていました。72歳でした。翌日の金曜日に、この場所で納棺の祈りを行い、今、柩は牧師室にお預かりしています。職場で出会って結ばれたお連れ合いと、今から26年前、夫婦で一緒に洗礼を受けられました。お子さんが教会学校に通う中、父母のための分級を通して、夫婦そろって信仰に導かれた方でした。今週の火曜日、2月14日に、この場所で葬儀の礼拝を行います。召された兄弟にとって、その肉体をもってする最後の礼拝となります。礼拝の中から神さまのもとに送ります。共に礼拝をもってお別れしたいと思われる方は、火曜日の葬儀にお出でいただければと思います。

 葬儀に備えていくとき、牧師にとって大事なことは、もちろん、葬儀の礼拝の説教を準備することですけれど、それと合わせて行うべきこととして、葬儀の式次第を作る務めがあります。よほど大きな葬儀でない限り、式次第はほとんど私が自分で作ります。特に、コロナのために、教会でも家族葬の形が多くなってからは、20部、30部くらいは、印刷して組み合わせるところまで自分でします。式次第の原稿が整うのがいつもギリギリのタイミングになるので、業者や人に頼めないという事情もあります。一番時間をかけて準備するのは、故人略歴の原稿を作ることです。遺されたご家族から、もとになる資料をいただいて、教会に残されている情報などを組み合わせながら、故人略歴の文章にまとめて行くのです。
 故人略歴の文章を書き上げたときに、不思議な感覚を抱くことがあります。一度も直接には会ったことのない方であったとしても、ご家族から思い出をうかがったりしながら、略歴をまとめているうちに、何かその人のことを以前からよく知っているかのような、その人の生涯を追体験しているような感覚になるのです。最終的には、字数の限られた中で、短い文章にまとめることになるのですけれども、その背後には文章化していないたくさんの情報があり、いや本当は、そんな情報では受けとめ切れていない、ひとりの人の人生の物語があるわけです。それを及ばずながらたどるようにして、生まれたときから、どのように育ち、どんなことを学んで、どんなふうに人と出会って、家庭を築き、あるいは仕事をして、何を求め、何をなし、どのようにその生涯を終えたのか、その人生の物語を、短く要約しているわけです。そして、それを読む人は、召されたその人が、どのような人生をたどられたのか、それを思い浮かべ、場合によっては思い起こす手がかりとすることができるのです。

 短い間に、何人もの故人略歴をまとめながら、改めて思いました。それぞれの人生の歩みの中に、主イエス・キリストとの出会いが刻まれ、洗礼の日付、信仰告白の日付が記されることで、その人の人生は、天とつながる歩みとして、捕らえ直されていくことになります。それまでは、目に見えるこの地上の世界の中で、さまざまな人間関係の中で生きてきた人が、洗礼を受けることによって、天を仰ぎ、天からのつながりの中で生きる者となるのです。受洗までの日々は、洗礼に向けて、洗礼へと導かれるための備えの日々であったということが分かるようになります。そして、洗礼を受けたところから、まさに、天に国籍を持つ者として、やがては天へと帰るべき者として、その目指すところがはっきりと示されることになります。神に属する命は、神のもとから来て、神のもとへと帰るのです。
 死というのは、確かに、地上の命の終わりです。地上における関係が容赦なく断ち切られてしまう時です。そこには、私たちには越えることの出来ない断絶があります。けれども、洗礼において、主イエス・キリストと一つに結ばれた命は、死によっても空しくなることはありません。十字架の上に死んで、死の力を打ち破ってよみがえられた主イエス・キリストは、死の向こうにまで突き抜けて、復活へと至る命の道を開いてくださいました。そして、よみがえられた主は、弟子たちに現れてくださり、40日目に、弟子たちの前で、天へと昇って行かれました。天の父なる神のもとに帰られたのです。
 だから、洗礼を受けて、主と一つに結ばれている者にとって、死は決して、最後の言葉ではありません。死ですべてが終わってしまうのではありません。死を突き抜けて、復活の時を待ち望みながら、主イエスのおられる天へと迎え入れられるのです。天、それは、主イエスが、そこから降って来られたところです。そして、主イエスがそこへと帰って行かれたところです。さらに、主イエス・キリストは、そこから、ご自身の霊である聖霊を送ってくださり、いつでも霊において、私たちと共にいるようにしてくださいました。そして、終わりの日には、キリストは目に見えるお姿で、天から再び降って来られます。福音書を通して、私たちは、主イエスの「どこから」「どこへ」を知るのです。

 きょうの礼拝の説教題は、「メシアはどこから来るのか」としました。先ほど朗読したヨハネによる福音書の箇所には、「メシア」という言葉が、3回繰り返して出てくるのです。「メシア」というのは、ヘブライ語で、「油注がれた者」を意味する言葉です。それを、新約聖書が書かれたギリシア語に訳したのが、「クリストス」、つまり「キリスト」という言葉です。メシア、すなわち油注がれた救い主であるキリストは、いったい、どこから来られるのか、そして、どこへ行かれるのか、ということが問われています。ユダヤ人たちはそれを知りませんでした。いやむしろ、どこから来て、どこへ行くのか、誰も知らないことがメシアのしるしだとさえ考えていたようです。けれども、主イエスこそが、約束のメシア、つまり救い主キリストであるということを知っており、信じている私たちは、主イエスがどこから来られ、どこへ行かれるのかを知っています。主イエスは、ご自身を遣わされた父なる神のもとから来られ、父なる神のもとへ帰られるのです。ところが、今から二千年前、主イエスと出会ったユダヤ人たちは、歴史の中に宿ったイエスというお方が、本当に待ち望まれた約束のメシアなのかどうか、神によって油注がれた救い主キリストであるのかどうか、信じ切ることができずに迷っていたのです。
 時は仮庵祭の祭りのまっただ中です。エルサレムの都は、国中から巡礼者として集まったユダヤ人たちで賑わっています。主イエスは、エルサレム神殿の境内において、集まった人たちに教えを語っておられました。その姿を多くの人たちが目にしたのです。なんの咎めも受けずに、主イエスが教えておられるのを見て、人々は疑問を抱きました。7 章 25節にあります。「さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者がいた。『これは、人々が殺そうと狙っている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、まさか本当に認めたのではなかろうか』」。なるほど、もっともな問いであるかも知れません。安息日の律法を破り、ご自身を神と等しい者として現された主イエスは、ユダヤ人の指導者たちに目をつけられ、命を狙われるようになりました。自分たちの指導者が企んでいることを、ユダヤ人たちも知っていたのです。それなのに、そんなことお構いなしに、主イエスは、神殿の境内で、「公然と」話しておられる。誰も恐れず、全く大胆に、また自由に、群衆に教えておられる。その姿を見て、人々はいぶかしく思いました。お偉方たちは、この人を殺そうと狙っていたはずなのに、こんなに自由に、公然と話をしているというのは、事情が変わったのだろうか。お偉方たちが見逃しているということは、もう大っぴらに認められていることなのだろうか、そんなふうに考えたのです。そして、言いました「議員たちは、この人がメシアだということを、まさか本当に認めたのではなかろうか」。

 しかし、すぐにまた別の問いが起こります。「しかし、私たちは、この人がどこの出身かを知っている。だが、メシアが来られるとき、それが、どこからか知っている者は一人もいない」。主イエスの素性について、多くの人たちが知っていたということが分かります。祭りのために集まった人たちの中には、ガリラヤ出身の人もいたと思われます。「ああ、あのイエスという男のことはよく知っているよ。ガリラヤのナザレの村の大工の息子だよ。お父さんのヨセフは早くに亡くなって、長男として、大工の仕事を継いだはずなのに、なんか最近おかしくなって、家を飛び出して変な仲間を連れて放浪しているんだ」。そんなふうに紹介する人がいたかもしれません。要するに、主イエスが、ガリラヤ地方のナザレ出身だということは知れ渡っていました。それは、人々が期待していたメシアの姿とは違ったのです。
 メシア・救い主は、普通の人間とは違うはずだ。神のもとから来るとすれば、それにふさわしい何かがあるはずだ。神秘的なヴェールに包まれている方が、何となくありがたい気がする。どこの出身かも分かっているような、ただの人間が救い主・メシアであるはずがない。そういう結論に達したわけです。そういう混乱は、祭りの初めから起こっていました。前回読んだ7章の12節にはこうありました。「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた」。主イエスはどういう人なのか、主イエスについての評価は定まらずに、分かれていたのです。それがここに至って、主イエスは、メシアなのか、そうではないのか、救い主なのか、それともただのペテン師なのか、そういう問いへと深まったと行って良いと思います。肯定的な反応もあり、否定的な反応もありました。いずれにしても、主イエスの言葉に触れて、主イエスというお方を前にするとき、だれもが皆、このお方に対して「イエス」と言うのか「ノー」と言うのか、その態度決定を迫られることになるのです。そして、主イエスについての判断は分かれます。時には対立が生じるようになります。
 主イエスが誰なのか、ということは、これまでにも繰り返し問われてきました。その問いが、ついにここから、究極の問いとして示されたことになります。この方はメシアなのか、その問いがあからさまに問われて行くのです。

 人々が、主イエスはメシアなのか、それともメシアではないのか、さまざまに議論をしている中に、びっくりするような大きな声が響きました。誰かと思って見ると、当のイエスさまが、大声を出されたのです。28 節にこうあります。「イエスは神殿の境内で教えながら、大声で言われた。『あなたがたは私を知っており、どこの出身かも知っている。私は勝手に来たのではない。私をお遣わしになった方は真実であるが、あなたがたはその方を知らない』」。大声を出されたイエスさまの姿を、私たちの心に刻んでおきたいと思います。ある人は、イエスさまは腹を立てておられるのだと言います。ご自身のことをあれやこれやと噂する人たちを前にして、確かに、腹を立てられたのかも知れません。けれども、それは、天から響くような大きな声だと言って良いのかも知れません。この地上の混乱のただ中に、天から大きな声が響くのです。
 主イエスは言われます。あなたがたは、確かに、私のことをよく知っている。逃げも隠れもしない。私の素性は皆に知られている。どこから来たか、どこの出身か、あなたがたはよく知っている。けれども、あなたがたが知らないことがある。「私は勝手に来たのではない」。そう言われたのです。「私は勝手に来たのではない」というのは分かりやすい日本語訳だと思います。原文を直訳すると「私は自分自身から来たのではない」となります。同じような言い方が前にも出て来ました。7章の17節です。主イエスは言われました。「この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである」。「私が勝手に話している」というのは、直訳すれば、「自分自身から話している」と書いてあります。つまり、主イエスの教えは、神からのものなのか、それとも自分自身からのものなのか、それは、神の御心を行おうとする人には分かるはずだ、主はそう言われたのです。

 ここでも、同じです。主イエスは、自分自身から来られたのではなくて、父なる神から遣わされて、天から降って来られたのです。なぜそれが分からないかと言えば、主イエスをお遣わしになった方を、本当には知らないからです。主は言われます。「私をお遣わしになった方は真実であるが、あなたがたはその方を知らない。私はその方を知っている。私はその方のもとから来た者であり、その方が私をお遣わしになったのである」。真実である方、真理そのものである方、生きておられる神を知らない。だからこそ、神の御心である真理を行おうともせず、神のもとから来た真理そのものである者をも受け入れず、不真実の中に、偽りの中に捕らわれている、主はそう言われるのです。私たちが生きているこの世界も、真理である神を知らないからこそ、偽りの中に捕らわれて、不真実に満ちているのではないでしょうか。
 ユダヤ人たちは、自分たちこそ、神を知っている、特別な選ばれた民だということを誇りにしていました。異邦人たちは神を知らない。けれども、自分たちは、神の御心を記した神の言葉である律法を持っており、神を知っていると自負していました。だから、主イエスの言葉を聞いて心中穏やかではありません。「人々はイエスを捕らえようとした」とあります。しかし、「手をかけることはできなかった」というのです。主イエスが、上手にすり抜けて、逃げてしまわれたから、というのではありません。福音書は、ここでも不思議な、しかし、重みのある言葉を告げています。「イエスの時はまだ来ていなかったからである」と言うのです。主イエスをお遣わしになった神ご自身が定めておられる時、主イエスが十字架と復活において、その救いの御業を果たされる時は、まだ来ていなかったのです。時を支配しておられるのは、神さまです。本当の意味で、歴史を導いておられるのは、父なる神さまなのです。

 主イエスについての噂は、なお続いています。群衆の中には、主イエスを信じる者たちも大勢いたようです。「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」。そのように言う人たちもいました。そういうささやき声が、主イエスを殺そうとしていたユダヤ教の指導者たち、ファリサイ派の人たちの耳に届きます。このまま見過ごしにするわけには行きません。自分たちの権威が揺らぎます。そこで、祭司長たちを動かして、下役を遣わしました。下役というのは、神殿警備の役人であり、祭司長たちの命令のもと、主イエスを捕らえるために遣わされたのです。しかし、主は言われます。「今しばらく、私はあなたがたと共にいる。それから、私を遣わした方のもとへ帰る。あなたがたは、私を捜しても、見つけることがない。私のいる所に、あなたがたは来ることができない」。この言葉を聞いたユダヤ人たちは、主イエスの言っておられる意味がよく分かりませんでした。それで、捕まらないように、離散しているユダヤ人たちのところ逃れて行って、異邦人を相手に教えようというのか、そんなふうに考えたというのです。
 主イエスは、これまで、ご自分がどこから来られたのか、ということを繰り返し語ってこられました。そして、ここでは、はっきりと、ご自分がどこへ行こうとしておられるのかを語っておられます。ご自身をお遣わしになった方のもとへ帰る、と言われるのです。それは、主イエスが十字架にかけられ殺され、よみがえって、父なる神のもとへと帰られる時、そして、主が栄光をお受けになる時です。主は言われました。「私のいる所に、あなたがたは来ることができない」。突き放すような、別れの言葉です。ユダヤ人たちは、この言葉を理解することができず、ただ、主が言われた言葉をそのまま繰り返して、途方に暮れています。そして、ここでの話は、ぷっつり途切れたままになります。この後、場面は変わってしまうのです。けれども、やがて、主イエスご自身が、この言葉を裏返すようにして、弟子たちに語られた言葉を、私たちは聞くことになります。

 愛する者とのつらい別れの時、もはや動くこともなく、物言うこともない体を前にして、葬儀の準備を始めるとき、私がしばしば、朗読する言葉があります。ヨハネによる福音書第14章の言葉です。主は言われます。「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」。愛する者との悲しい別れに直面して、心騒がせている者たちに、主は、「心を騒がせてはならない」と言われます。「心を騒がせる必要はない」と言われるのです。なぜなら、あなたがたのために場所の用意をしに行くのだ。そして、場所の用意ができたら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える、と約束してくださいました。
 確かに、地上にあっては、突然の愛する者との別れを前に途方に暮れる時です。けれども、主は、天にある父なる神のもとに、愛する者のための場所の用意ができたからこそ、この時を定め、迎え入れてくださるのです。第7章においては、「私のいる所に、あなたがたは来ることができない」と言われた主が、「こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」と語りかけてくださいます。主イエスは、天に国籍を持つ者に、その帰るための場所を用意しに行かれたのです。そして、その備えられた場所に、愛する者を迎え入れて、「私のいる所に、あなたがたもいることになる」と語ってくださいます。死によって、地上のつながりは断ち切られても、私たちの間から取り去られた大切な命は、天に迎えられ、主と共にいるのです。そのために、主は父なる神のもとへ行かれ、また帰って来てくださいました。愛する者の葬りの礼拝を行うとき、この主イエスの言葉を信じて、死によっても、空しくなることのない、復活の命の望みの中に、大切な人を委ねたいと思います。主が与え、主がとられました。主の御名はほむべきかな。アーメン。