2023年12月17日 アドヴェント第三主日礼拝説教「義の太陽が昇る」 東野ひかり牧師
マラキ書第3章19~24節
マタイによる福音書第11章2~10節
今朝は、旧約聖書の最後の書であるマラキ書を中心に、アドヴェント第三主日の御言葉を共に聴いて参ります。
今年のアドヴェントの礼拝では、伝統的な聖書日課から聖書の箇所を選んでおりますことは、既に尚志牧師がアドヴェント第一主日の礼拝の中で述べておりましたが、本日のマラキ書とマタイ福音書第11章の洗礼者ヨハネの箇所も、伝統的に待降節の礼拝で読まれてきた御言葉です。
今日の説教のために、私は改めてマラキ書という書物をはじめから読み直し学び直しました。皆さまは、この旧約聖書の最後の書物、マラキ書、という書について、どのような書だと思っておられるでしょうか。あまり読んだことがない、という方も多いかもしれません。マラキ書ということでまず思いますのは、「洗礼者ヨハネ」のことを預言した書、ということでしょう。第3章1節で語られる「主の道を整える使者」というのも、第3章23節に語られている「預言者エリヤ」というのも、洗礼者ヨハネのことだと福音書は語っております。
マタイ福音書第11章10節は、洗礼者ヨハネについて語りながら、はっきりこのように書いています。「『見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。 彼はあなたの前に道を整える』 と書いてあるのは、この人のことだ。」マラキ書というのは、洗礼者ヨハネのことを預言した書です。そして「義の太陽」としての救い主、主イエス・キリストを指し示した書です。そのようにして、旧約聖書の最後にあって、新約聖書への橋渡しをしているとても大切な書物です。そのようにとらえている方は多いのではないかと思います。
また、もっと詳しくマラキ書をお読みになっている方は、マラキ書は〈正しい礼拝がささげられていない、ということを問題にした預言書〉ということもご存知でしょう。預言者マラキは、神殿に仕え、礼拝に責任を持つ祭司たちの堕落、腐敗ということを問題としています。祭司たちに対する厳しい言葉が語られています。ですから、マラキ書というのは、神さまの厳しい裁きを語っている書、そのようにお感じになる方も多いと思います。
マラキ書が、「義の太陽が昇る」と主イエスを指し示すとき、主イエスは、「義の」太陽です。神の義を、神の正しさを明らかにされる、そういう救い主、メシアとして来られるお方、マラキ書はそのように主イエスを指し示しています。
私自身のマラキ書のとらえ方も、おおよそ今申しましたようなものでした。けれども今回、このようなとらえかただけでは、少し足りなかったのではないかということを、気づかされたように思っております。
このマラキ書を改めて学ぶ機会を与えられまして、これまで読み過ごしていたことに気づかされ、大変驚いた言葉がありました。マラキ書の冒頭の言葉です。冒頭、と言いましても、第1章2節からこの書の本文が始まりますから、1章2節の最初の言葉ですが、こう書かれています。「私はあなたがたを愛してきた—主は言われる。」
何をそんなに驚くのか、と思われるかもしれません。聖書が神の愛を語るのは珍しいことではないではないか、と思われるかもしれません。けれど、私は、このマラキ書の冒頭が、このような、神さまの愛の告白のような言葉だったということにこれまで気づいていなかったのです。読み過ごしてきていたのです。
元の言葉、ヘブライ語の聖書で見てみますと、最初に来ているのは「愛する」という言葉です。マラキ書は、「私は愛してきた、そして今も愛している、あなたがたを」というように書き始められているのです。神さまが、その民に向かって愛を告白する言葉からこのマラキ書は始まっている。そのことに改めて気づかされ、驚きました。マラキ書は、神の義だけではなくて神の愛をその初めから語っていたのだと気づかされたからです。これも本当は驚くことではないのかもしれません。神さまは本来、義なるお方であり、そして愛なるお方なのです。けれど、驚きました。心動かされる経験をいたしました。
そして改めて、「義の太陽が昇る。その翼には癒やしがある。」という御言葉に深く頷かされました。イエス・キリスト、主イエスこそ、「義の太陽」です。そして「その翼には癒やしがある」と指し示されている。義の太陽が昇ったら、その翼(=太陽の光、光線)によって、光に照らされた者は、裁かれ、焼かれて滅ぼされる、というのではないのです。そうではなくて「その翼には癒やしがある」。マラキはそのように指し示しました。
義の太陽は、「義の」太陽ですから、正しいものは正しい、悪いものは悪い、と、明らかに照らし出す太陽であるに違いありません。けれど、その太陽の光、翼は、照らし出したものを、打ちのめすのではなくて、癒やす。そういう義の太陽なのです。
このマラキ書の冒頭に、神の愛が語られている。だからこそ、「義の太陽の、その翼には癒やしがある」と、示されているのではないかと頷かされる思いがしました。
マラキ書の民、神の民と呼ばれるイスラエルは、神を侮り、傷のある犠牲の動物をささげて礼拝しようとするような、そういう民です。3:14には「神に仕えること(=神を礼拝すること)はむなしい」とあります。口語訳聖書は、ここを「神に仕えることはつまらない」と訳していました。神に仕えること・神を礼拝することはつまらない。強烈な言葉です。しかし神の民は、そう言ってのけたのです。そのような民を、神は「愛してきた、今も愛している」。この書の冒頭で、そう告げてられているのです。「私はあなたがたを愛している」。冒頭に告げられた神の愛は、このマラキ書を貫いているということを読み落としていましたのは、ほんとうにうかつだったと思います。
マラキ書の小さな説教集が手元にあり、それを読みながら、今日の説教に備えていました。そこにこういうことが記されておりました。
〈マラキ書は、ご存知のように旧約聖書の最後の書物です。けれども、この最後の書物のいちばん初めに出ている愛という言葉は、旧約聖書全体の特徴をなすものです。旧約聖書では、新約聖書に示されているのと同じ愛の神が語っておられます。「神は愛である」という言葉は、ヨハネの第一の手紙が最初ではありません。神は初めからイエス・キリストの御父であられます。創世記からマラキ書に至るまで、神がわれわれ人間に語り、また、行なってくださった事がらの内容となっているのは、この章の初めにある三つの単語で要約されているものに他なりません。「わたしは、あなたがたを、愛している」。〉(『預言者ハバクク・マラキ』W.リュティ、宍戸達訳)
私たちは、時々こう思ってしまうのではないでしょうか。旧約聖書に出てくる神さまは、裁きの神さま、厳しくて怖い神さま、新約聖書の神さまは、イエスさまの父なる神さまで愛の神さま、優しい神さま。そんなふうに、旧約の神と新約の神と、違う神さまのように思ってしまう、旧約聖書を読んでいるとそう思えてきてしまう、ということがあるのではないかと思います。私もそう思うことがあるのです。神さまはおひとり、旧約の神も新約の神もない、おひとりの神さまだと分かっておりましても、例えば聖書通読で、苦労しながら一所懸命旧約聖書を読み進めて参りますと、新約聖書の神さまはいいのだけれど、どうも旧約の神さまは残酷なことを平気でなさる恐ろしい神さまだとというように思って、旧約の神さまは恐いと思ってしまう。ある旧約学者がそういう旧約の神には時に辟易することがあるという意味のことをどこかで書かれていましたが、旧約学者でさえそんなふうに思うことがあるのですから、私たちが旧約聖書を読んで、旧約の神さまは何だか嫌だわ、と思うのも無理もないのかもしれません。
けれども、このマラキ書の冒頭の言葉は、旧約の神さまは新約の神さまと同じ愛の神さま、イエス・キリストの父なる神さまだということを、まことにはっきり示してくれているのです。
しかし、預言者マラキは、「私はあなたがたを愛してきた(今も愛している)」この神の愛の告白に対する、実に、これも驚くべき民の答えを記します。「しかし、あなたがた(イスラエル)は言う/「どのように愛してくださったのか」と。」
イスラエルの人々は、神の愛に対して、その愛に感謝して私たちもあなたを愛します、と応答したのではなくて、「神は私たちを愛しているって?いったいどのように愛しているというのだ」と答えたというのです。これが神の民の、神の愛に対する答え方だったと告げるのです。これもまことに驚くべきことです。けれども私は、ここに、このような民の姿に、今の私たちの姿が映し出されているのではないかと、しきりに思われてなりませんでした。
先ほどご紹介したマラキ書の説教集は、このように答えるイスラエルの人々のことを、〈絶望者たち〉と呼びます。絶望している人たち。神の愛に、また神の義・神の正しさに、神ご自身に、絶望している〈絶望者たち〉。そう呼ぶのです。
マラキの時代、イスラエルの人々は、バビロン捕囚からは解放されたものの、依然としてペルシヤ帝国の支配下にありました。ソロモンの神殿に比べれば、悲しいくらいお粗末ではありましたが、神殿も再建されていました。礼拝もささげられていました。けれども、約束され、期待されたイスラエルの繁栄は訪れなかった。そればかりか、人々は貧しいままであり、さらにその上、天災が襲いました。干ばつやバッタの襲来による凶作、そして飢饉が襲ったといいます。神の民は、神に対してひどく落胆した、絶望したのです。
神さまが、「私はあなたがたを愛してきた、そして今も愛している」そう言われても神さまの愛を信じられなくなっていました。「いったいどのように愛してくださるというのか」という、それが正直な言葉であったのでしょう。
神殿に仕える祭司たちまでも、神を侮り始めていました。神に献げる献げ物に、傷のある動物を平気で使うようなりました。神さまは、こういうことをされても何も言われない、愛してもくれなければ、怒りもしない。神を礼拝することなど、本来どうでもよいことなのだ。形だけ献げ物を献げていればそれでよい。献げるものなど何だってよい。礼拝なんて無意味なのだ。これが、神の民の本音になっていた、そのような民の姿が浮かび上がってきます。
私たちは、このような神の民の姿、おざなりな礼拝、適当に礼拝する姿、結局神さまは愛してくれもしなければ怒りもしない、神さまは生きておられない、神は死んでしまったと、神は私たちを見捨てたと、そのように絶望する絶望者たちの姿を、自分たちと無関係だ、私たちはここまでひどくはない、というように、皆さまは思われるかもしれませんが、そうだろうかと、私は思うのです。
ある人は、マラキの時代の神の民は、〈信仰の倦怠〉に陥っていたというように表現していました。〈信仰の倦怠〉。この言葉は、私にはぐさりとくるものがありました。また別の注解者は、このように言いました。〈マラキの時代のイスラエルは、神を待つことにも、神に従うことにも、神の愛に応えて神を愛することにも、愛に生きることにも、疲れ果てていた。〉さらに言うなら、祈ることにも、信じ続けることにも、疲れ果てていたということでしょう。信じることに、礼拝することに、祈ることに、愛することに、従うことに、神の言葉を聞くことに、疲れ果てている。この言葉も、私にはぐさりとくるものがあります。
皆さまはどうでしょうか。聖書を読んでいるといつも思い出す言葉があります。「聖書は鏡だ」という言葉です。聖書は私たちの姿を映す鏡。ここに私たちの姿が映し出される。マラキの時代の神の民に、今の時代の、私たちの姿が映っているような気がするのは、私だけでしょうか。
「あなたがたは言っている。「神に仕える事はむなしい。(つまらない) そのつとめを守っても、また、万軍の主の前を嘆きつつ歩いても、何の益があろうか。」
形の上では礼拝をささげている。けれど心の中では、礼拝することはむなしい、つまらない、もう疲れた、とつぶやいている。それは、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。
〈この絶望者たちに属さないひとなど、いったいどこにいるでしょうか〉と、先に引用した説教者は問いかけておりました。
旧約聖書には、その全体を通して、いたるところで、「神の愛が分からない、神の義が見えない。なぜ神は黙っておられるのか、何もしてくださらないのか、神はわれわれを見捨てたのか」と訴える声が響いています。詩編を読んでいると、幾度もそのような言葉に出会います。詩編44編(44:24-27)には、このような言葉があります。「我らの主よ、目覚めてください。 なぜ、眠っておられるのですか。 私たちを永遠に捨て置かず 起き上がってください。 なぜ、御顔を隠されるのですか。 私たちの受けている苦しみと受けている虐げをお忘れですか。…立ち上がり、私たちを助けてください。…」
私たちも、同じように訴えるのではないでしょうか。神さま、眠っておられるのですか。起きてくださいよ。立ち上がってくださいよ。私をお忘れになったのですか。助けてください。愛を示してください。あなたの義を、正義を、公正を、憐れみを、あなたが生きておられることを、示してください。私たちもそう訴えるのではないでしょうか。そして、神にこう言いたいのです。「わが主よ、あなたはいつこの世に平和をもたらしてくださるのですか」。
けれども、神さまは、そのような民に対して、ずっと語りかけ続けておられるのです。恋人に愛をささやくように、ずっと語りかけ続けておられる。この預言書の最初からずっと。この民に、私たちに。「私はあなたがたを愛してきた。今も愛している。私は、あなたがたを愛している。I have loved you. 」
神さまの愛というものを、イスラエルの人々も、また私たちも、ほんとうによく分かっていない、理解できない。改めてそう思わされます。神さまが私たちを愛していてくださる、というとき、私たちが期待するのはこういうことなのではないでしょうか。
〈快適に整えられた世界を通して、神はわれわれを愛すべきである。健康な体ということでもって、神は我々を愛さねばならない。気持ちの良い家族のだんらんによって、また、成績の良い子どもを通して、神は我々を愛さねばならない。十分に満足感を与えてくれるような職業をあてがって、神は我々を愛さねばならない。もしもそのように愛してくださらないなら、あなたは愛の神ではない。〉(リュティ)
私たちは、自分の流儀にしたがって神が私たちを愛してくれることを求めているのではないでしょうか。その流儀から外れた愛は愛ではないと、神に対して要求しているのかもしれません。
けれど神さまは、神さまの流儀で、その民を、私たちを愛されます。神の愛し方は、私たちの気に入るような愛し方ではないのかもしれない。しかしその神の愛し方は、その民のために、私たちのために、どんな犠牲をもいとわないという愛し方です。
それは、ヤコブ(=イスラエル)を愛し、エサウ(=エドム)を憎んだ、という愛し方です。偏愛と言ってもよいような愛し方なのです。神の愛は博愛ではない。愛する民にひどく偏って愛される愛です。愛する者を愛するがゆえに、憎む者は憎む、そういう愛し方なのです。えこひいきのような愛し方と言ってもよいのではないかと思います。それは、私たちには理解することが難しい愛し方なのではないかと、そう思うのです。
もう7,8年前のことになるでしょうか。私どもの親しい牧師の就任式に出席いたしましたとき、出席の者たちに、その牧師家族の自己紹介が載った教会報が配られました。その牧師は、自己紹介の中にこういうことを書いていました。「私は、神さまから随分えこひいきされていると思う」。その言葉を読みましたとき、最初私は、ちょっとあきれた気持ちになって、「恥ずかしげもなくよくこんなことが書けること、この先生らしいけれど」というように思いました。けれど、その牧師の自己紹介文の隣りに、奥さまの自己紹介文が載っていて、こんなふうに書かれてあったのです「夫は、自分は神さまからえこひいきされていると言っているが、私の方がえこひいきされていると思います」。この奥さまのことも、私どもはよく知っております。そして、この牧師はこの奥さんがいるからやっていけるというようにいつも話しておりました。とってもすばらしい奥さまなのです。
この牧師の文章だけを読んでいたら、もしかしたら私は、困ったものだというように思ってしまっただけで終わっていたかもしれません。奥さまの文章を読んで、はっと思ったのです。神さまに愛されているということを、ほんとうに自覚している人、本気で自分は神さまに愛されている、と思っている人というのは、「自分は誰よりも神さまにえこひいきされている」と、こういうふうに思える、思うのかもしれない、そう思い直しました。
私たちは、こんな自分を神さまはどうして愛してくれるだろうか、というように思ってしまうこともあるかもしれません。神さまの愛が分からないというのは、自分をこんな大変な目に遭わせる神さまの愛が信じられない、という場合もありますけれど、他方で、こんな自分なんかを神さまは愛してなんて下さらない、というように、そういうふうに拗(す)ねた思いになって、分からなくなっている、ということもあると思うのです。私などは、どうもそういうところがあります。すぐ拗ねるのです。そういうふうにも、私たちは、神さまの愛が分からなくなると思います。
けれども、私は神さまに愛されている、神さまは私を愛していてくださると本気で信じるとき、神さまは誰よりも私のことをえこひいきしていてくださる、そう思う、そう思えるものなのではないか、と教えられました。
神さまは、イスラエルを、罪深い私たちを、えこひいきして愛する神さまです。だからこそ、独り子までも、私たちの救いのためにお与えになったのです。だからこそ、この救い主の先触れとしての洗礼者ヨハネを、使者を遣わされたのです。
「どう愛しているというのか」「裁きの神は、正しい神は、どこにいるのか」「神に仕えることはつまらない」そう言う神の民、そして私たち。そして、こんな自分なんか、神さまが顧みて愛してくださるはずがないと拗ねる私たち。そういう私たちに、神さまは愛と義の使者を遣わしてくださる。そして「悔い改めて立ち帰れ、神に立ち帰れ」と呼びかけてくださいます。神さまは、「私は、あなたがたを愛している」と、最初に言ってくださる神であり、「今も愛している」と言い続けてくださる神だからです。
神さまは、先触れの使者として洗礼者ヨハネを遣わしてくださいました。そして続いて「義の太陽」を昇らせて下さいました。その翼で私たちの罪を癒やしてくださいます。飼葉おけに寝かされ、十字架につけられる義の太陽の、その翼の光は、罪人を焼き尽くし、滅ぼし尽くすのではなく、神に逆らう罪人を赦し救う、救いの光です。洗礼者ヨハネは、この人こそ「来るべき方」、来るべきメシアと知らされ、「義の太陽」である主イエスを指差した人でした。ここに、神の義と神の愛がある、と指差した人でした。
私はこんな気持ちになります。皆さまと一緒に声を合わせて、神さまに言いたい気持ちになる。神さま、あなたはちょっとおかしい。こんな私を、私たちを、こんなにもえこひいきして愛してくださるなんて、ちょっとおかしい、よく分かりませんよ。でも、神さま、ありがとうございます。義の太陽を昇らせてくださって、その翼の陰に私たちを憩わせ癒やしてくださって、ありがとうございますと。